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カーニヴァルの夢

    ブラジルのカーニヴァルに憧れて来た日本人青年タカシは、祭りの熱狂の中に人生を変えるような輝きを求めていた。しかし現実は期待外れで、失意のまま祭りの夜をさまよう。そんな彼は不思議なギターの音に導かれ、謎めいた紳士ルイスと美しい女性マルウに出会う。だが二人の正体は、人間の生気を糧に永遠を生きるヴァンパイアだった。若返りの儀式の生贄として選ばれたタカシは、知らぬ間に死の運命へ引き寄せられていく。一方、マルウは彼への愛情に目覚め、種族の掟との間で揺れ動く。華やかなカーニヴァルの裏側で、人間とヴァンパイアの愛と運命が交錯する幻想長編。


       カーニヴァルの夢


     カーニヴァルは知っている。

     お前が泣いた夜の事を。

     カーニヴァルは知っている。

     報いられない哀しみを。

     そして両手を大きく広げて、

     お前を待っている。


     カーニヴァルは一瞬の光の中で

     人生の本当の意味を

     教えてくれるだろう……。


     ラヤ、ラヤ、ラヤー

     熱狂の向こう側に……。

     ラヤ、ラヤ、ラヤー

     真実が見える……。


     カーニヴァルは…… 




     老人は暗闇の中で目を覚ました。

     恐怖に身体中を震わせていた。

     身体の中のほんの小さな軋みの音。

     ピシッ、ピシッ、と何かが裂ける音を聞いたのだ。

     夢の中の出来事ではなかった。

     あまりにもはっきりとした現実。

     かつて自分が目にした現実が自分の身に起ろうとしている。

     死の前兆。

     ついに死が自分に追いつこうとしている。

     しかし、手はある。

     またこれまでのように生き延びることは出来るはずだ。

     老人は痩せ細った指で乱れた髪をかき上げ、小さくため息をついた。

     今日はカーニヴァルの前夜だ。

     このカーニヴァル中に手を打たなければ。

     老人は焦りを覚えた。

     そして暗闇の中でじっとしていられないほど震えていた。



        プロローグ


     コパカバーナ、イパネマ、レブロン、フラメンゴ……。

    空に突き刺さるビルとカフェ・テラスの並ぶ海岸。遠くに見えるラグビー・ボールを立てたような岩山。大きく羽根を広げた鳥を形どった凧が、強い風を受け時の隙間を泳いでいる。

    溢れる光に遠い記憶のように白く霞んだ砂浜。そこにはほんの申し訳程度の水着を着た女達が、強烈な太陽にその肌を晒している。そしてそのまわりには縮れた髪をした男達が群がる。海に入る者の姿は少ない。あまりに波が荒いからだ。

     サッカーに興じる若者達。敵も味方もなくそれぞれが勝手にゴールと思い込んでいる方にボールを蹴りあっている。砂の上ではボールが思うように転がらない。でもそんな事は構わない……。

     紐にサンオイルやローションを括り付け、首飾りのように巻きつけた男や、銀色に輝くマテ茶のタンクを両脇に抱えた男が、その砂浜を物憂く行き来する。腹ばいになった女が呼び止めると、マテ茶売りは紙コップを女に渡し、お辞儀をするようにタンクを傾ける。

     また一人素晴らしいプロポーションの女がバスタオルを抱えて現れた。小さな黒い水着が、隠し切れない膨らみの上に乗っかっている。大きなハート型のヒップは殆ど剥き出しだ。男の露骨な視線が集まり、口笛が聞こえた。卑猥な野次が飛び、同時に男達の笑い声が上がる。サッカー・ボールが忘れ去られ、海に向かって転がっていく。

     女はただサングラスに手をやっただけで、表情も変えない。タオルを広げるとその上に腹ばいに横たわる。そして背中の細い紐をはずす。

     似合わないアロハシャツを着た観光客がカメラを構えようとバッグを足元に置いた。その途端泥棒がそれをつかんで走った。


     すぐ後ろの道路をバスが凄い勢いで走っていく。窓という窓から黒い手が出て、車体を叩いている。バスそのものがサンバを踊っているように見える。

     ダガシカ、ダガシカ、ダガシカ……。

     運転手もアクセルを踏み込みながらハンドルを叩いている…。

     そのあとを五人の死神を乗せたオープンカーがついて行く。どくろの仮面が手を振ると海岸の女達がそれに応える。

     カフェ・テラスには女装した男達がたむろしてショッピ(生ビール)を美味そうに飲んでいる。ジプシーの女のようなぞろぞろとした恰好にどぎつい化粧。でも髭は伸ばしたままだ。黒々と胸毛の生えた胸には丸いボールのような膨らみがある。その姿は滑稽というよりは何か不気味さを感じさせる。そして道を行く男達にわざとらしい猫撫で声で呼び掛ける。呼びかけられた男は苦笑いしているが少し怯えたように腰が引けている。

     何処からともなくバトゥカーダ(打楽器演奏)が聞こえてくる。

     カルメンを気取っているのか、黒い扇を持ち薔薇をくわえた男が立ち上がりスカートの裾を振りながら踊り始めた。そして波を型どったモザイク模様の歩道を歩き始めた。すでに酔いが廻っているらしくフラフラと揺れながら大声で笑っている。

     道の反対側にもたった一人で陶酔したように女が踊っている……。

     街中を狂気が満たし始めた。カーニヴァルが始まったのだ。

     遥かなコルコヴァードの山の上から、両手を大きく広げたキリスト像が下界の馬鹿騒ぎを見下ろしている……。


     太いばちがスルド(大太鼓)を叩く。

     山津波のような低く大きなうねりが、圧倒し始める。

     一、二、一、二……。

     二拍目がより重く地面を揺るがす。それがサンバの基本だ。

     エスコーラ・ジ・サンバ(サンバ・チーム、1チーム数千人にも及ぶ)の巨大な心臓が動き始めたのだ。

     タンボリン(小太鼓)の音がその隙間を埋める。まるで巨大なトタン板に叩きつけられる嵐のような音。何百本もの細いスティックは巨大なはた織機のように揃ってしなう。その音がエスコーラの血液だ。

     巨人は今や魂と力を得た。そしてゆっくりと前進しはじめる。この日のためにエスコーラはモロ(リオの裏山)を下りたのだ。

     ファベイラ(山の貧民窟)や街の片隅の貧乏人達が華やかな衣装に身を包んで踊る。彼らはその一年を、いや一生さえも賭ける。

     カーニヴァルはすべてだ。今年こそ、自分達のエスコーラが優勝するのだ。

     エスコーラのバンデイラ(旗)を持ってクルクルと廻る女。フランス人形のような大きく開いたスカートが鮮やかに廻る。光の粉を撒き散らす小さなメリーゴーランド。女をエスコートして男がまわりを飛び跳ねる。派手な礼服の尻尾が踊っている。バンデイラはエスコーラの誇りだ。何があっても守り抜かなければいけない……。

     真っ白な歯を剥き出しにした黒人がパンデイロ(タンバリン)を空高く放り投げる。幸運の星のようにパンデイロがゆっくりと弧を描いて落ちてくる。男は人差し指一本でそれを受け止める。笑顔は絶やさないが心の中では真剣だ。指の上で易々と廻るパンデイロの鈴がちりちりと鳴っている。男は得意そうにそれを頭上高く差し上げる。

     褐色の肌を剥き出しにしたモレーナ(混血の女)達のまわりには、おどけた動物のような音を出すクイーカが集まっている。女の胸や腰が別の生き物のように激しく揺れると男達は賞賛の声を上げる。

     巨大な山車の前で踊る何百もの人々。通りを埋めつくし、サンバのリズムの波に揉まれて揺れている。そこでは、山車の上に乗せられた巨人の方が現実で、その下で踊る人々が夢の小人のようにさえ見える。歌声も歓声もただ一つのうねりに飲み込まれる。きらきらと光を反射するスパンコール、女達の露な肌の汗さえ宝石のようだ。


     その男が、スタンドに姿を現したのはカーニヴァルの二日目の夜だった。

     それは夏とは思えない肌寒い夜だった。おまけに猫の毛のように細かい雨が降り続いていた。カーニヴァルは低調だった。スタンドを埋め尽くすはずの観光客の姿はまばらだった。男はがらがらのスタンドの一番前の席に陣取り、食い入るようにエスコーラの行進を見つめていた。

     男は一人だった。手すりに体をもたせかけている姿が、カーニヴァルには似合わない孤独な雰囲気を漂わせていた。幾つかのエスコーラが過ぎて行った。それぞれが嵐のようなリズムと、おとぎの国の魔法のような光を撒き散らして行く。数千人の人々の乱舞は正に華やかな夢の絵巻物だった。しかし男はつまらなそうだった。そして夜が更けるに従って出てくるエスコーラも二流、三流に落ちていった。規模も趣向も何段か落ちるエスコーラが続くと男はさすがに帰りかけようとした。

     しかし急に男の目は輝き始めた。男は立ちかけた席に座り直すと、また熱心に行進を見つめ始めた。

     巨大な裸の女の山車の前に、安っぽい白い衣装を着た男が踊っていた。その男の動きだけが他の踊り手達と違って、サンバのうねりをより大きく捉えている。まわりの小刻みなビートに乗った動きに比べると、ゆっくりに見える跳躍と回転、それを見ているだけで不思議な感覚に囚われた。彼の周りだけが時間も空間も歪んでいる気がするのだ。静謐さと激動。相反する要素を当たり前のことのようにその身体が表現していた。そして、何よりもその男の目の色が一段と輝いているのが印象的だった。そう、数千の人込みの中に混じっていてさえ、その男の瞳は一段と強く輝いていた。

     砂に混じった唯一本物の宝石。

     偽りの熱の中に燃え立つ、本物の炎。

     崇高な狂気……。

     何万という人々の乱舞、熱狂を見慣れた男の目にさえ、その輝きは失せる事がない。

     そして、孤独。

     スタンドの男はその孤独という事が、自分と踊っている男を結びつける共通の要素であることには気づいていなかった。

     「凄い……」

     スタンドの男は日本語で呟いていた。立ち上がった男は、かなりの長身だった。そして手を口にあて、踊り手に向かって声援を送りはじめた。下の男に聞こえた様子は見えなかった。それでもスタンドの男は憑かれたような目でその男を追いながら、声援を送り続けた。



             1


     ジョゼにとっては何もかもが面白くなかった。まず自分の名前だ。まったくありふれた名前。何処の街角でも大声で「ジョゼ!」と叫んだら、多分十人以上の男が振り返るだろう。女はマリア、男はジョゼ。名前と同様、見た目にもジョゼは目立たなかった。中肉中背、少し褐色がかった肌も目鼻立ちのはっきりした顔もブラジルではまったくありふれている。髪は明るい褐色で小さな渦のように巻いているが、別に特に変っているというほどの事はなかった。微笑んだ時の口許がセクシーだと自分では思ってみたりするのだが、他人でそう言ってくれたのは母親と、十五の時友人たちに無理矢理連れて行かれて初めて買った女だけだった。

     蟻の群れの中で特別の一匹を見つけるのと同じぐらい、ブラジルのどの街でも俺を見つけるのは難しいだろう。それほど俺は当たり前なんだ。

     蟻んこ。あのせこせこ働きまわるだけ働いてごみみたいに死ぬ蟻んこ。

     俺もあのけちなバール(軽食堂)でコーヒーやサンドイッチを作り続けて、そのうち馬鹿みたいに死ぬんだ。

     くそ!

     ジョゼは吐き捨てるように言った。ジョゼの声に反応して道の反対側を歩いていた野良犬が吠えた。

     うるさい!

     ジョゼは道端に落ちていた空きかんを犬に向かって蹴飛ばした。


     でも、今年こそはすべてが変わるはずだった。俺が今年のカーニヴァルのハイライトになり、俺のサンバのステップが憧れの的になるはずだった。そしてジョゼという名前が誰よりもまず俺のことを差し示すようになるはずだった。

     あのステップを編み出したジョゼ!

     サンバの天才ジョゼ!

     カーニヴァルの革命児ジョゼ……!


     それは二週間ばかり前の夜だった。カーニヴァルを目前にしてエスコーラの練習も一段と熱が入っていた。何十人ものバトゥカーダの連中が、スルドやタンボリンでサンバを叩き始めると、バラックの体育館のような建物全体がワンワンと鳴って揺れた。汗だくの男や女がそのリズムに合わせて動き回っていたが、天井から幾つかぶら下がっている裸電球の頼りない光の下では、それが一匹の巨大な生き物の蠢く姿に見えた。片隅のグループの人達はもう本番の衣装を着ていて、よく見ると安っぽい衣装もそこでは夢の雫のように妖しい光りを撒き散らしていた。人々の汗と熱気がこもって、靄になって漂っていた。窓や扉は全部大きく開けてあり夜の涼しい風が入っているはずなのだが、それがなんの役にも立っていなかった。

     ジョゼは片隅で自分の組の番が来るのを待っていた。エスコーラ全体の人数が千人以上にもなるので一度に練習することが出来ないのだ。彼の組の番までにはまだ大分時間があった。しかし彼は待ちきれずバトゥカーダに合わせて体を動かしていた。

     その時ちょっと思いついたステップが気に入って、ジョゼは夢中になっていた。何の気なしにやったステップなのだが、サンバのリズムと微妙なズレを作って心地良かったのだ。

     返すリズムに合わせて戻す足をほんの少しひねってやるだけで、一瞬リズムの波に乗り遅れ気味になり、その後今度はバネ仕掛けで翔ぶようにリズムの波の前に飛び出る事ができる。それは今までに知っているステップでは経験したことのない感触だった。サンバの波を完全に捕えて自由自在に操れた。何度も何度もそれを繰り返していると、体全体が空中に浮かんでいる気分がした。

     「オーパ!」

     その時すぐ後ろで叫び声がした。ジョゼは急に我に帰り振り返った。

     「止めないで!そのまま踊ってて!」

     ルシアーナが大きな目を輝かせ、もどかしそうに両手をばたばたと振った。

     「ええ?」

     「そのステップよ、

     そんなの見たことないわ!」

     彼女はありったけの声を上げて叫んだ。

     ジョゼには一瞬ルシアーナが何を言っているのか分からなかった。バトゥカーダの音が鼓膜をつんざき響いているせいもあったが、それより自分のやっているステップが人の注意を引くなどと思いもよらなかったからだ。ルシアーナがじれったそうにステップを踏む真似をしてジョゼの足を指さした。

     「ああ、これ?」

     ジョゼはぼんやりと答えると、また踊りはじめた。ルシアーナが目を大きく開いて、唸るような声を上げた。

     「オーパー!」

     その時急にバツカーダの音が止んだ。


     あの時のルシアーナの驚いた顔はなかったぜ。大きな黒い目がこぼれおちそうだった。

     あのルシアーナがだぜ!

     ルシアーナはバンデイラを持つ女だ。それは一番美しく一番踊りのうまい女の特権だ。ルシアーナと口をきいたのは初めてだった。あいつが俺をじっと見ているのが信じられなかった。汗が顔や首にいっぱい流れていたけど、あいつの褐色の肌の上でそれは真珠のようだった……。


     ジョゼは酔っぱらった危なげな足取りでステップを踏んでみた。

     見ろよ、これが世紀のステップだ。

     誰も居ない裏通りにジョゼの足音だけが虚しく響いた。石畳の凹みに足を捕られてジョゼはバランスを崩した。

     ちぇ、こん畜生!


     それからジョゼは仲間に取り囲まれ延々とそのステップを披露させらることになった。彼を中心に人の輪が何重にもできた。皆もジョゼを真似て踊ってみたりしたが、彼のように上手にはできなかった。それほどの人の注目を集めるのは初めてだったが、段々と得意になり、そうするとステップもより鮮やかにきまるのだった。

     「すごいぜ!ジョゼ!」

     「なんてこった!」

     「もっと見せて!ジョゼ!」

     「素晴らしい!」

     皆が他の誰でもない自分の名を叫び賞賛しているのが夢のようだった。すぐ傍でルシアーナが美しい瞳でじっと見守っていた。そして時々優しい微笑みを投げ掛けてくれた。心が通い合っている気がして嬉しかった。


     ルシアーナは俺のものだったんだ。すぐにじゃなくても、俺がカーニヴァルの本番で派手に決めて見せれば間違いなくそうなっていただろう。俺は踊りながらじっとルシアーナを見つめた。投げキッスを送ったらあいつは嬉しそうな顔をして受け取ってくれた。

    だらしなく微笑むとジョゼは誰もいない空中に向かって投げキッスをした。


     そのあと皆に引っ張られゴルドンの所に連れて行かれた。ゴルドンはエスコーラのリーダーの一人で踊りの指揮をしている男だ。昔は痩せていて彼が踊ると女達が群がって来たと言う噂も聞いた事があるが、今は見る陰もなく太っていて、ランニングシャツが突き出た腹を支え切れないように伸びきっていた。部屋の中でもパナマ帽を被っていて、顔の汗を拭く時一緒にその帽子を持ち上げ、禿げた頭もなでまわした。

     「若いの…」

     しばらくジョゼのステップを見たあとゴルドンは言った。その声は酒で焼けていて聞き取りにくかった。

     「ジョゼです」

     「ジョゼか、あんたの踊りは確かに変わっているな……」

     でも声の調子にはそれほど興味を引かれた様子はなかった。

     「まあいい。ちょうどエリオが出れなくなったから、その代わりに出てもらおうか」

     ゴルドンはそう言いながらまた顔と頭を拭った。

     「エリオの代わりだって?」

     ジョゼは信じられないという風に聞き返した。エリオはこのエスコーラでは一番のダンサーで、勿論いつもメインの山車の回りで踊っていたのだ。彼が街で喧嘩して怪我をしたという噂は聞いていたが、カーニヴァルに出られない程だとは知らなかった。

     「俺がエリオの代わりだって…。

     イャッホー、ほんとかい?」

     ジョゼは両手を広げて飛び上がり一回転してみせた。そして拳を強く握りしめながらルシアーナを見た。嬉しそうに微笑みながらルシアーナが頷いていた。

     「やります。

     必ずいいところを見せますよ!」

     仲間達がジョゼの肩を叩いて祝福した。

     「皆がお前に注目するぜ!」

     「今年のカーニヴァルはお前のおかげでいいところまで行くかも知れないぜ。

     いや、Aクラスだって夢じゃない!」

     最初は半信半疑だったが、そのうち彼もその気になり始めた。もしかしたら、という気持ちが、きっとそうなる、絶対そうなるはずだ、という風に高まっていった。


     あの雨がケチのつき始めだった。確かにその時雨が降っていた。それもこの季節に降るざっと降って、からっと上がるような雨ではなく、珍しくじめじめと鬱陶しくまとわりつく雨だった。夏の終わりだというのに少し肌寒いぐらいだった。

     それにエスコーラの出た時間も悪かった。弱小グループの悲しさで、いい時間が取れないのは仕方ないとしても、夜半を過ぎてジョゼ達がスタートした時には寒さと眠気のせいで大半の客は帰ってしまっていた。

     それでもジョゼは精一杯踊った。幸いエリオの為に作ってあった衣装は彼の体にぴったり合って動きやすかった。前を行くパーカッション隊の出す大きなリズムの波に合わせてジョゼは激しくステップを踏んだ。両手を大きく空に向かって広げ飛んだ。雨なんか全然気にならなかった。激しく動くたびに衣装の安っぽいスパンコールが落ちた。

     嵐のように凶悪な音と光の渦。激しく揺さぶり、かき乱し魂を奪い去ろうとする熱狂の中、ジョゼは超然とした静けさの中にいた。サンバを踊ることで陶酔の境地に導かれ陶酔する事でよりステップは鮮やかに決まる。肉体を忘れ、まわりの状況のすべてを忘れた。ただ自分の規則正しい呼吸の音だけが穏やかに響いている。スー、ハー、スー、ハー、と繰り返すゆるやかな音だけが自分の存在を確かなものにしてくれている。独りでに微笑みが沸き上がってきた。

    そして何千という仲間の中にいながら自分は独りぼっちのような気がした。独りぼっちの孤独。しかしその孤独は何にも増して快い孤独だった。崇高な境地。誰も自分には追いつけないのだ。それはジョゼにとって正に天国だった。

     しかしやがてそのジョゼの天国の隅っこに何か不快なものが入り込んでいるのに気がついた。清潔に磨き上げた真っ白な部屋に入り込んだたった一匹の虫。その虫に気づいた瞬間陶酔の天国は急に遠のいた。肉体が砂を詰めた袋のように重くなり、呼吸が激しく乱れ喘いだ。そしてあれ程心地よく中空を踏んでいたステップが乱れ、ジョゼはよろめいた。

     ふっと我に帰った時、数少ないスタンドの客達が自分の方を指差して笑っているのが見えた。その声は楽しくて笑っているのではなく馬鹿にした調子を含んでいた。それが激しいサンバの音を越えてジョゼの耳に届き、ジョゼを天国から引きずり下ろしたのだった。後ろを振り返った時、客が何を笑っているのか分かった。

     そこには口も目も大きく開け、申し訳程度の小さな貝殻をそのてっぺんに乗せた乳房を、両手で抱えて突き出している巨大な女の山車があった。


     あんな馬鹿なもの誰が考えたんだろう。

     酔っぱらった頭でも、はっきりとその巨大な女の胸と表情を思い出す事が出来た。

     カーニヴァルの山車でも色々変なのが出るけど、あそこまで馬鹿げたのはないぜ…。


     奇妙にリアルで歪んだ女を載せた山車はゆっくりと進む度にゆさゆさと揺れて、まるで巨大な気違い女がいやいやをしているように見えた。止まっている時は気にならなかったが、山車が動きだし微妙に揺れるとそれが生きているように見えた。そして細かい雨が肌に輝きを与え馬鹿げた大女をより現実的にしていた。人の注意を引くという意味では山車は成功していたわけだ。


     その女の飛び出した胸の前で俺は馬鹿みたいに一生懸命踊っていたのさ。新しいステップに夢中で後ろに何があるかなんて気にしていなかったけれど、あれには俺だって呆れるさ。


     それでも審査員席の前に来た時にはジョゼはまた気を取り直して一生懸命踊り始めた。

     とにかく、エスコーラを審査するのは連中だ。中には俺のステップに気が付く奴がいるかも知れない。ちょっと俺を見ればこのステップがどんなに素晴らしいか分かるだろう。こんなくそみたいなエスコーラなんかどうでもいい。とにかく、俺だけでも誰かに注目されれば…。


     ジョゼは焦った。

     リズムをより大きく捉えなければ……。

     次の拍子に移るぎりぎりまでステップをキープしなければ……。

     そしてより高く空中を飛ばなければ……。


     しかし思いとは逆に身体はまったく言うことを聞いてくれなかった。ジョゼを虜にしていた陶酔の天国は遥か彼方に去ったまま二度と戻って来なかった。そして現実の世界が重くのしかかりジョゼの身体を押さえつけた。肌寒い雨の中で先刻までは気づきもしなかった粘りつく汗が流れた。身体の表面だけが熱く、芯は冷えきっていて不快だった。疲労が全身を覆い両手を大空に向かって上げようとしても、その手は重く肩より上に上げる事ができなかった。そして足が痙攣を起こしそうに痛んでいた。ジョゼは自分が涙をながしている事に気づいた。自分の姿が馬鹿馬鹿しい道化に見えるだろうと思った。

     ジョゼにとって幸か不幸か審査員席には幾つか空席が目立ち、残っている連中の目も後ろの山車から下りてきた本物の女達の露わな胸や尻ばかり追っていて、彼の新しいステップに注目する人間はいなかった。

     エスコーラの行進が終わった時、ジョゼは濡れた道に座り込んで喘いだ。何人かがよくやったと言いながら肩を叩いたりしてくれたが、ジョゼは不機嫌にその手を払いのけた。新しいステップが何にも役に立たなかったのは明らかだった。

     せめてルシアーナと言葉でも交わせれば、少しは楽しい気分で一日を終わに出来るかもしれない。彼女の美しい顔を見れば気分も晴れるだろう。ジョゼは鉛のような足を引きずってルシアーナを探した。しかし、ルシアーナはパンデイロのジョアンと一緒に帰ってしまったあとだった。

     「ジョアンの奴、

     今頃いい目を見ているぜ……」

     ルシアーナとジョアンを見送ったという男はジョゼの耳元にそう囁きながら、イヒヒ…と下卑た笑い声を上げた。


     ちきしょう!

     ちきしょう!

     ちきしょう!

     あれほど優しく見つめてくれたルシアーナが、最後には自分を無視して帰ったのが信じられなかった。

     俺はやっぱり蟻んこのジョゼってわけだ。

     ほんの少し気のきいたステップを踏めたって、蟻んこは蟻んこなんだ! 路地裏にその声が虚しくはねかえった。


     街灯の裸電球が弱々しく光を投げ掛けていた。薄汚い建物の間から見上げると白み始めた空が見えた。さっきまでの雨は完全に上がり、空は紺色にぼんやりと輝いていた。もうすぐカーニヴァルの最後の日が始まる。でももうジョゼにとってはカーニヴァルは終わったも同然だった。早く部屋に帰って眠りたかった。体中に疲れが溜まって足が痛んだ。

     路地を抜け、大通りに出て少し坂を上がれば、ちっぽけで汚れたアパートに着く。そして、とにかくそこには横になれるベッドが待っている。

     重い足をすこしでも急がせようと思った時急に冷たい風が追い越すように吹いた。それと同時に誰かに見られているような気配がしてジョゼは振り返った。

     さっきから誰にも会わなかったし、今の時間にこんな所を歩いている奴なんかいるわけないだろう。

     気のせいだ、と彼はまた歩き始めた。

     しかしまた冷たい風が吹き、今度はそれに混じって微かにギターをつま弾く音が聞こえてきた。もう一度ジョゼは振り返ってみた。空は白み始めていたが、街灯の光りの届かない路地の奥はまだ真っ暗だった。でもその暗がりに誰かがいるようだった。ギターの音ははっきりとそこから聞こえていた。

     「誰だい?」暗がりに向かって呼び掛けてみた。

     冷たい風が色褪せたスパンコールの衣装をそよがせた。ギターのメロディーはとても甘美に響いた。それは打ちひしがれたジョゼの心に優しく滲み渡った。すべてを理解し、孤独な心を慰めてくれるようだった。誰がそれを弾いているのか知りたくなった……。

     ジョゼは暗がりへ歩き始めた。

     一歩、二歩。

     向こうにぼんやりと人影が見えて来た。

     少し嫌な臭いが漂っていた。それは腐った魚を連想させた。ジョゼは魚が嫌いだった。それに何か不吉な気配がした。ジョゼは一瞬奥に行くのをためらった。しかしギターの音はしっかりと心を捕えていた。どうしても誰が弾いているのか知りたかった。

     その人影に近づくに従って、ギターの音はより大きく響いた。と同時に不快な臭いも強くなった。

     男の輪郭がようやく見えてきた。男は建物の裏口の階段に腰かけギターを弾いていた。そこは路地から少し凹んでいて、影が一層濃くなっていた。ジョゼに気がついた男はギターを弾いていた手を止めて、ゆっくりと彼の方を見上げた。昆虫のように無表情な目が彼を見つめた。

     その瞬間恐怖が重い鉛の杭のように体を貫いた。

     根源的な恐怖だった。人間の理性を越えて本能を直接揺さぶる恐怖……。

     それはカーニヴァルの度に現れるこけおどしのつくりものではなかった。

     神様!

     ジョゼは言語障害にかかったようにゆっくりと呟いた。

     今まで彼にとって、神は遠い存在だった。教会には何年も行った事がなかった。日曜のミサでさえ行ったのはほんの子供の頃だけだった。土曜の夜はいつも明け方まで遊び廻り日曜の朝は大抵眠っていた。前の晩に知り合ったばかりの女のベッドで日曜の朝を迎えた事も何度もあった。

     今に思い知るよ…信心深い母親はそう言って叱った。

     今こそ思い知る時だった。

     今ほど神にいて欲しい事はなかった。今生きて帰れれば日曜だけでなく毎日教会に通ってもいいと思った。そして自分の目の当たりにしているものがこうやって存在するなら、神もここに姿を現すべきだと思った。

     そして恐怖に立ちすくんでいるジョゼの前でそれはゆっくりと立ち上がった。

     ジョゼは弾かれたように振り返ると必死に走り始めた。叫ぼうとしたが叫べなかった。胸の中でふくれあがった恐怖は、出口を失い体中をかけめぐるばかりだった。ジョゼにはもう何も見えなかった。ただ逃げる事しか頭にはなかった。足がもつれひっくり返りそうになったが、何とか持ちこたえた……。


     パウロはカーニヴァルの最中に働いたりしている自分が信じられなかった。

     何時ものカーニヴァルならもう今頃までに十人以上の女をものにしているところだ。自分の笑顔には自信があった。普段でも苦みばしった男らしい顔をしているのだが笑うと一瞬子供のように無邪気な表情が浮かぶのだ。それとブロンズ色の、ギリシャ彫刻を少し痩せさせたような肉体。無駄な肉は全然付いていなかった。それが女を虜にする。きわどいビキニ型のパンツをはいて海岸を歩くと女達の視線が集まった。特にカーニヴァルにアバンチュールを求めて来る外国人の女はいいカモだった。奴等と楽しい時間を過ごしたあとせしめる金だけでも、しばらくはいい思いができた。

     それが今年はこうやって下らないマテ茶なんかを運んでいるだけで、まだ海岸にも行っていない。

     俺がマテ茶をたっぷり積んだトラックを転がしているなんて知ったら、ダチ公どもはなんて言うだろう。

     あんな馬鹿な賭をやるんじゃなかった。パウロは後悔していた。


     『ヘイ、ヘイ…、

     俺にこれが出来ると思うか?

     なあ、どうだ?』

     ジョルジーニョが上機嫌でダイスを玩びながらそう言った時、無視してればよかったんだ…。

     『このカップの中に全部1を上にして重ねんだ。

     女の唇みたいな赤い点々を見せてやるぜ。失敗したら、なんでもあんたの言う事をきいてやるよ…』

     そしてジョルジーニョは両手を広げてみせた。酔ったパウロの頭ではそれはどう考えても不可能に思えた。

     『そんな事言って構わないのか…?』

     『ああ、何でもやってやるぜ』

     パウロは出来るだけつまらない事をジョルジーニョにやらせようと思った。そして思いついたのがカーニヴァルの間、中マテ茶の会社でアルバイトをさせるということだった。どうしてそんな事を思いついたのか自分でもよく分からなかったが、多分自分が初めてリオに出てきた時やっていた仕事がそれで、くそみたいな仕事だと思っていたからだろう。

     ジョルジーニョはパウロの提案を聞いて面白そうに笑った。

     『じゃあ、俺が成功したらあんたがマテ茶の工場に行く事にしよう…

     いいかい…』

     パウロはだらし無く笑った。ジョルジーニョが成功するはずなんかなかった。奴も自分と同様かなり酔っていて手元も怪しいはずだった。いくらダイスの名人だと言ったって、素面の時でも難しいことが……。

     しかしジョルジーニョがカップを構えた時一瞬、これはまずいかな、という不安がよぎった。カップを持ったジョルジーニョの目は急に精悍に輝き同時に背筋が真っ直ぐに立ったのだ。そして素早い手付きでカップを振ると、あっという間にカップの中でダイスが五つ綺麗に赤い目を並べて立っていた。ジョルジーニョがげらげら笑いながらパウロの背中を叩いた。

     『あんた、

     本当に俺が失敗すると思ったのか…?

     本当に……?

     アハハ…、おめでたい奴だぜ…』


     ちくしょう!

     あんな下らない賭の負けなんて普通なら反故にするところだったが、今回はちょっとまずかった。ジョルジーニョはこのあたりのやくざの顔役なのだ。

     しかし夜明けにすっ飛ばすのは気分が良かった。倉庫を出た時はまだ真っ暗だったが海岸沿いに走っているうちに空が白んできた。邪魔な車もほとんどいなかった。

     海岸沿いの道を折れたあと、坂道を一気に登ろうとパウロはシフトダウンしてアクセルを思い切り踏み込んだ。

     トラックは重い積み荷をむずかるようにしばらくゆっくりと登った。きつい坂は短く、やがて平坦な道になった。そして、その先には微かな下り坂が続いていた。それでも彼はアクセルを思い切り踏み込んだままにしていた。その先にもうひとつ急な上り坂があるのだ。

     平坦な道から付き始めたスピードは下り坂になって急速に増した。あっという間にスピードメーターは上がっていった。百キロを越えさらに上がるのが痛快だった。シャッターを閉ざした商店街が帯のように繋がって見えた。こんな街の真ん中をすっとばせるのは、今の時間ぐらいだろう。パウロはハンドルを叩いてやけくその歓声を上げた。

     そして道はまた上りに坂にさしかかった。

     その時前の路地から銀色に輝く物がトラックめがけて飛び込んできた。パウロは訳も分からず、慌ててブレーキを踏んだ。重いトラックが凄まじい音を上げて軋んだ。タイヤが悲鳴を上げ、ゴムの焦げる臭いがした。

     どん、という音と共に銀色の物が空中に舞い上がった…。

     何十メートルも引きずるようにして、トラックがやっと止まった。車体は斜めになって半分道を塞いでいた。

     くそ!、吐き捨てるように呟くとパウロはトラックからおりた。

    信じられないぐらい遠くに銀色の塊が落ちていた。それは奇妙に歪んでいたが、人の形をしている事は分かった。

     そして石畳の坂道にゆっくりと一筋赤いものが流れ始めた。


     空中にはね飛ばされた時ジョゼにはまだ意識があった。しかしジョゼにとっては幸いな事にそれはもう正常さを失っていた。彼は一瞬の夢の中でルシアーナを抱いていた。ルシアーナの褐色の胸に顔を埋め幸せそうに笑っている自分。

     そしてすべてが消えた。

     ルシアーナの褐色の肌も、自分の幸せな笑顔も……。

     一瞬ほんの小さな光の点が残り、次の瞬間にはすべてが闇になった。


     カーニヴァル中の死者の数が一つ増えた。毎年発表される死者の数を見て人々はその年の盛り上がりを想像するが、そこにジョゼが一を加えることになったのだ。



             2


     エドゥは車をその通りに止めた。カーニヴァルの二日目、一日中降り続いた細かい雨はいつの間にかあがり靄が立ち込めていた。煉瓦作りのうす汚れた街角。街灯の明かりが弱々しくあたりを照らしていた。そのあたりには毎晩街娼が立つ。けばけばしい化粧のホット・パンツとハイヒールの女たち。しかし今夜は商売をしている女はいなかった。

     カーニヴァルの喧騒は遥か彼方のことで、いつも変わらない場末の風景があるだけなのだが、それでもどこから流れてきたのか五人ほどの若者たちが打楽器を持ちサンバを演奏していた。そして通りを歩く男達にあからさまな視線を送るはずの女たちは嬌声を上げ、輪になって踊っていた。普段の物憂げな身のこなしからは考えられないほど、女たちは軽々とサンバのステップを踏んでいた。

     こんな掃き溜めのような所にもカーニヴァルはやって来る、というわけだ。

     エドゥはカーニヴァルが嫌いだった。というより自分の生活を乱されるのが嫌なのだ。カーニヴァルが近づくと急に街に観光客が溢れ出し、つまらない物でもいちいち珍しそうに見て歩いたりする。エドゥが勤めている洋服店にも外国人の女たちが集まり、散々わけの分からない言葉で質問したりしたあと、何も買わずに帰っていったりする。金持ち連中のように出来ればカーニヴァルの時期だけでもどこか外国か避暑地にでも逃れたいと思ったが、エドゥにはそんな余裕などあるはずがなかった。

     エドゥの勤める店はカーニヴァルが始まると同時に休業になっていた。昨日も今日もほとんど自分のアパートでカーニヴァルの馬鹿騒ぎばかり映しているテレビを見て過ごし、近くのバールで軽い食事をした。しかし、その後はすることがなかった。アパートに帰ってもまた馬鹿々々しいテレビを見るぐらいしかなかった。気分がむしゃくしゃした。こんなに何もすることがないのなら、仕事でもしていた方がましだった。エドゥは女を抱きたいと思った。

     エドゥはボロボロのワーゲン・カブトムシに乗り込むと街娼を求めて街を彷徨った。助手席の床には穴が空いて危なっかしいが、そこに誰かを乗せることもあまりない。エンジンはまだまだしっかりと動いてくれるている。

     しかしいつもなら簡単に見つけられる女たちは姿を消していた。観光客が現れ娼婦たちは姿を消すわけだ。カーニヴァルの時期には街の中心だけが賑やかになるが、街外れに行くとかえって普段より静かだ。街外れの娼婦たちの大半はどこかのエスコーラやクラブに行って、年に一度の脚光を浴びている。それになにも娼婦を相手にしなくても、欲望をギラつかせた女たちは街に溢れかえっている。娼婦たちにはやりにくい時期なのだ。エドゥはそれでも素人の女を相手にする気にはなれない。いくら行きずりの相手であろうと、後でどんな面倒が待っているか知れたものじゃないと思う。とにかく女とわずかにしろ心を通わせる事は嫌なのだ。言葉を交わす事さえエドゥには面倒だ。すべて金で済ませてしまう方がよほどいい。

     もしかしたら、と思いここまで来たのだが女たちにはもう仕事をする気はなさそうだった。それでもエドゥは車の中からしばらく女たちの踊る姿を見つめていた。

     大半はエドゥの知っている女たちだった。名前ではなく肌の感触だけでしか覚えていない女たち。金を受け取る時以外まったく投げやりな女たちが喜々として踊っている。時々水溜まりに足を突っ込み嬌声を上げている。普段絶対に見られない子供のように無垢な笑顔を浮かべながら……。

     その中に見知らぬ女が混じっているのにエドゥは気づいた。そしてエドゥの目はその女に釘付けになった。

     黒いドレスに身を包んだ女は、豹のようにしなやかに身を躍らせた。あらゆる曲線が描きだされ栗色の長い髪が波うった。女は黒い蝶の形をした仮面で目のあたりを覆い、その仮面の奥で薄い灰色の瞳が輝いていた。顎から大きく開いた豊かな胸にかけての線は気高く気品を漂わせ、そしていくら激しくステップを踏んでもその優雅さは揺らぎもしなかった。その女の肌は磁器のように白く鮮やかに輝いていた。

     エドゥは信じられない思いで女を見つめていた。鞭のようにしなう腕、薄い絹の下で見え隠れする素晴らしい脚線。まわりを取り巻くうす汚れたゴミのような女たちの中でその姿はまるでスポット・ライトを浴びたように浮き出ていた。

     その時、女が自分を見つめているエドゥの姿に気づいた。

     女と視線があった途端、エドゥの背筋を電気のような衝撃が駆け抜けた。そして胸苦しいほどの劣情がわき起こった。

     女にはエドゥの身体の中に疼くものが分かったようだった。薄い唇の端を少しだけ上げた。 冷やかな微笑み……。 

     踊りやめると、うす汚れた女たちをかき分けエドゥの車の方に歩いてきた。仮面の奥の灰色の視線は決してエドゥの瞳から逸らさなかった。エドゥもまた金縛りにあったように女から視線を逸らすことができなかった。

     女は車のドアを開け、ゆっくりと車に乗り込んできた。助手席の床の穴を見ても彼女はなにも言わなかった。

     魅入られたようにエドゥは車を発進させた。

     コルコヴァードに登る道から少しそれた林の中でエドゥは女を抱いた。自分でも抑えきれないほど果てし無く沸き上がってくる欲情を女の冷たい肌は受け止め翻弄した。あまりに激しい快感に、エドゥは涙さえ浮かべうめき声をあげた。女はエドゥをもてあそぶばかりで、ため息すらもらさなかった。二人は一言も言葉を交わさなかった。

     身も心も震える衝撃の中で果てた後、エドゥは初めて女の名を聞いた。

     「マルウ……」

     と女が応えた。そして愛しそうにエドゥの首筋を見つめた。女はその冷たい唇をエドゥの首筋にゆっくりと近づけた。女の真っ赤な舌がうわ唇をなめ、異様に長い歯が銀色に輝いた。

     その時女の灰色の瞳には、真っ赤な憎悪の炎が燃え上がっていた事をエドゥは知らなかった。

     翌日、林の中に放置されたエドゥの車だけが発見された。そして二度とエドゥの姿を見た者はなかった。


     絡み合いおたがいの汗を溶け合わせるようにして踊っている半裸の男と女。安っぽい増幅器がサンバのリズムを叩きつけ、けばけばしい照明が深海魚のように体を揺する男と女を掻き混ぜる。何年も前からそうしていたように、唇と唇を重ねたまま揺れている二人。女の胸をまさぐる男の手。ぎらぎらと男を誘う女の瞳…。熱い吐息と狂気…。重い霧のように立ち込める人々の汗と体臭…。

     場末のクラブの片隅でフランシスは踊っている女たちを物色しながら首筋に手をあててみた。そこには虫に喰われたような傷が二つあり、それが痛痒かった。その上をちょっと掻き、いつの間にか十字架のペンダントをなくしてしまっているのに気づいた。

     そうだ、あの女が、そんな野暮ったいものは似合わないからはずしなさいよ……、と言ったので俺は自分ではずしたんだ。しかしあの女はどこに消えてしまったんだろう。

     あいつは素晴らしかった。このクラブで出会ったあと、ホテルに行くのももどかしく、俺たちは裏通りの路地で抱き合った。細かい寒々とした雨に濡れながら、でもそんな事はまったく気にならなかった。

     レダ…、といったけ?

     すこし歳はくっていたけどあいつの身体は今まで出会ったどの女よりも柔らかかった。まるでサーカスの女のように柔らかく、そして貪欲だった。あんな狭い路地で、どんな恰好でも可能だった。

     フランシスは好色な笑みを浮かべた。

     あんな凄いのは初めてだったな。最後には俺が失神してしまったようだ。女を失神させた事はあったけど、女に失神させられたのは初めてだ……。

     レダが戻っているかもしれないと思って、クラブに来てみたが、赤いドレスを着た彼女の姿はなかった。

     まあいい、別の女を探そう。

     ただ身体がすごく疲れていて重かった。まるで身体中に鉛でも流されたようだ。

     あの女のお蔭かもしれない。

     大した事じゃない……。

     一杯引っかければ、元気になるさ……。

     フランシスは重い足取りでバー・カウンターに向かった。

     「カイピリーニャ(ピンガのカクテル)をくれ……」

     バーテンはグラスにレモンを入れその上に砂糖をかけそれを短いスリコギのような棒で押しつぶしかき混ぜた。そしてその上に氷をいれるとピンガをなみなみとつぎ、フランシスの前に置いた。

     ピンガの強いアルコールが身体をシャキッとさせてくれるだろう。

     フランシスはグラスをつかんで飲もうとした。しかし手に力が入らなかった。それに急に全身の力が抜けてきて、膝がガクガクと震えた。

     「どうしたんだよ、あんた。具合でもわるいのか…?」

     バーテンがそう聞いた時、なんでもないさ、ちょっとアレが過ぎただけさ…、と応えようとした。自分ながら無様な姿がおかしくて、自嘲的な笑みさえ浮かべていた。しかし次の瞬間、フランシスはその場に崩れ落ちるように倒れていた。

     キャーッ

     女達が悲鳴を上げ、まわりの人間が飛びのいた。カウンターにあったグラスがなぎ倒され酒が飛び散った。ゴツン、という大きな音を立ててフランシスの頭が床にあたった。

     その時にはもう彼は死んでいた。彼の死に顔は蒼白を通り越して青く見えた。

             


            3


     カーニヴァルも二日間が過ぎ、三日目の夜も更けた。夜明けが来ると同時にカーニヴァルは終わる。町中に三日間の狂乱の余韻がただよっていたが、もう人影はまばらになり始めていた。夜更けだというのに熱い風が吹いた。取り残されたように通りを晄々と照らしていたイルミネーションが揺れた。町を彩った飾りが破れ落ち街角に散乱していた。

     カーニヴァルの最後の夜には町中の汚れを洗い流すように強い雨が降るものだが、今年は降りそうになかった。昨日の肌寒さとはうって変わり、気温も湿気も高くじっとしていても汗ばむようだった。

     酔いと踊り疲れでふらふらの人達が、それでも体を揺すってリズムをとりながら家路に向かっていた。女王や海賊を気取った衣装は破れて、半裸の体に汗でへばりついていた。遠くからバトゥカーダの響きが延々と物憂く聞こえていた。何処かで酔っぱらいが調子はずれな唄を歌い、女の甲高い笑い声がその唄に重なった…。


     ミルトンはダイアンの肩に手を廻してうす笑いを浮かべた。カーニヴァルの間何人の女と寝たかもう覚えていなかったが、このダイアンが今年のカーニヴァルの最後の締め括りになるだろう。

     ダイアンはアメリカから来た観光客だ。タンクトップから覗く胸はすこし日焼けしすぎたらしく赤くなっていた。そして深い谷間の辺りにはそばかすが一杯散っていた。

     ストロベリーのアイスクリームの山にチョコ・チップをばらまいたみたいだ。

     その谷間を覗き込みながらミルトンは思った。

     ショートパンツの恰好いい腰からすらっと長い足が伸びていた。彼女のプロポーションは素晴らしかった。二十四、五才ぐらいだろうか。あと何年かすればそのプロポーションも崩れてくるかもしれないが、とにかく今は『プレイ・ボーイ』のピンナップみたいだ。

     カーニヴァルを楽しみに来た美しくて金持ちのアメリカ人というわけだ。旦那は多分腹が出て頭の禿げた医者か弁護士なのだろう。

     でも、おたのしみはカーニヴァルだけじゃないぜ……。

     ヂアーナ、とミルトンがブラジル読みの名前で呼ぶと彼女は嬉しそうに微笑んだ。彼女にはその呼び方がエキゾチックに聞こえるようだった。

     二人は寄り添ったまま、まるで雲の中を歩くようにゆっくりと歩いた。何人もの男や女が追い越して行ったが気付きもしなかった。

     ダイアンが顔を上げ何か言った。ミルトンには彼女の言った事が分からなかった。彼はほんの片言の英語しか話せなかった。しかしその期待に満ちた笑顔だけで、何を言いたかったのかは分かった。ミルトンは彼女のとうもろこしの穂のように明るく細い金髪を撫でながらうなずいた。そして何度も鏡を見ながら練習したやり方(口髭の片方だけを少し上げる)で微笑んだ。

     「今夜は楽しくなりそうだぜ」

     今度はダイアンがその言葉を理解出来ないようだった。

     微笑みながら見上げる瞳は、珊瑚礁の海のように薄青かった。ミルトンは不思議な気分がした。その宝石のような瞳が、何かを見る事が出来るとはどうしても思えないのだ。

     『私の主人、仕事忙しい、どうしても一緒にブラジル来れなかった……

     彼とても楽しみにしてたのに…』

     クラブに独りぼっちでいたダイアンを見つけた時、あたり障りのない話のあと彼女はそう言った。片言のスパニッシュで聞き取るのに苦労させられた。

     『じゃあ、一人できたのかい?』

     と聞くと、

     『私のお友達、キャサリンの夫婦と一緒。でも、今夜、別々に歩きます……』

     ミルトンが得意の表情を作って、

     『じゃあ、今夜は俺が案内してやろうか?』

     と言った時、ダイアンはニヤリと笑って頷いた。とても期待に満ちた微笑みだった…。

     大いに 結構!

     カーニヴァルの最後の夜は、忘れられない夜になるぜ。これこそ本物のブラジル男というものを教えてやるさ。

     最高の夜だ……。

     まったく出来すぎなぐらいに……。

     ミルトンは前々から欲しいと思っていた時計を思い浮かべた。ダイアンならあいつが買えるくらいの金は持っているだろう。

     今夜俺と一緒に過ごせば、喜んでそれぐらいの金をくれる気になるさ。嫌だと言ったところで、脅して取るだけの事だ……。

     それにしてもパウロはどこに消えてしまったのだろう。今の俺の姿を見せてやりたかった。やつの教えてくれた仕種は結構効果があったみたいだ。去年に比べると確かに簡単に女達は付いてきた。まあ、俺の魅力のせいだろうけど。パウロは何度も口髭を剃れと言ったけど、剃らなくて良かった。

     急にミルトンはダイアンを力一杯抱き締めた。彼女は驚いたようだったが、嬉しそうに微笑んだ。そしてミルトンは彼女の顔に被かぶさりキスしようとした……。

     その時だれかが背中に激しくぶつかった。ミルトンは彼女を抱いたままよろけた。危うく壁に手を付いて振り返ると、「馬鹿野郎!」と怒鳴った。

     背の高い東洋人の男が立ち止まって振り返った。

     「何処見てほっつき歩いてんだ!」

     しかし男は何も答えなかった。

     言葉がわからないのだろうか。カーニヴァルの時期になると世界中から集まって、リオの街を我が物顔に歩き回るうるさい観光客の一人なのかも知れない。しかし言葉が分ろうが分るまいが奴のやった事は道徳に反している。そうだ、公衆道徳というものがあることぐらい言葉が分からなくても誰だって知っているはずだ。

     「人にぶつかっといて何にも言わないなんてないだろう……」

     ミルトンは大きな身振りをしながらゆっくりと喋った。そして同意を求めるようにダイアンの方を見た。彼女はその意味が分ったらしく、目を大きく見ひらいてうなずいた。しかし、男はそれでもなにも応えなかった。肌けたシャツの裾がだらしなくズボンからはみ出し、髪の毛がくしゃくしゃに乱れていた。そしてただ無表情にミルトンを見つめ返すだけだった。

     阿呆かこいつは、と思ったが、男の目を見た時少し恐ろしい気分になった。その目は虚ろで焦点を失っていた。酔っぱらっているだけかも知れないが、それ以上に何かに憑かれた感じがしていた。

     カーニヴァルは麻薬のようなものだ…。

     ミルトンはダイアンの方を振り返って肩を竦めてみせた。こんな奴とはあまり関わらない方が得策だ。でもダイアンの手前もある、もうひとこと言って恰好をつけたかった。

     おい、気を付けろよ!

     と言おうと振り返った時には、男は黙ったまま歩き去っていた。


     タカシは自分ではそれほど酔っているとは思わなかった。試しに下を向いて歩道の石畳の線に沿って歩いてみた。多少足がもつれてバランスを失いそうになったが、とにかく歩道の線に沿って真っ直ぐ歩けた。

     ほら見ろ、俺はそんなに酔ってないぜ。

     奴の方でぶつかってきたんじゃないか。だいたい二人で前も見ないでいちゃいちゃ歩いているからいけないんだ。 

     さっきの二人がとても嫌な顔をして自分を見ていたのを思い出して、少し腹が立った。それにしても二人の雰囲気は余りにちぐはぐだった。シャツをはだけてわざとらしく胸毛を見せている男。太い金の鎖をジャラジャラと見せびらかせている姿は田舎臭くて下品だった。なのに女の方はいかにもセンスが良さそうだった。ちょっと露出過多な恰好なのだが、なんとなく育ちが違うという雰囲気だ。浮気な金持ち女といかれた男、と言ったところだろう。それに女の方は素晴らしいプロポーションをしていたが、男はずんぐりとして足が短かった。女の腰が男の腹の辺りにまで来ていた。それでも色男を気取っているのが滑稽だった。

     何処を見てほっつき歩いているだって。俺は真っ直ぐ歩いていただけだぜ。

     黙ってないで何か言い返せば良かった。

     もう少し歩道の線に沿って歩いてみた。全然線を踏み外さずに歩けた。タカシは少し得意になった。微妙に歪んでいる所も、まったくその線のとおりに歩けた。

     あははっ、あの野郎、俺の事を気違いみたいな目で見てやがったけど、見ろよ、俺はまともだぜ。

     そんな馬鹿な事にこだわっている自分が、酔っぱらっているタカシには見えないのだ。タカシは少し小走りに走り始めた。それでも歩道の線を踏み外す事は無かった。歩道がごみの川みたいに、次々と流れていった。

     そして、タカシは思い切り街灯にぶつかった。文字通り目から火がとびでた。勢い余って、道路の脇に積んであったごみのバケツの方に倒れこんだ。

     ビールの空きかんがけたたましい音を立て踊るように撥ねながら転がっていった。まるで小さなサンバ隊のようだった。

     ツーッ、という微かな音が消え静寂が戻った。息がつまるほど胸が痛かったが、それより余りにも馬鹿げた事をしたようで惨めだった。誰かが笑っているような気がしたが、まわりを見回しても誰もいなかった。笑い声が響いたのは自分の胸の中だったのかも知れない。

     タカシは片手を胸にあて、もう一方の手をついて上半身を起こした。石畳の肌触りがひんやりとして気持ち良かった。そして大きな溜め息をついた。

     そのまま空を見上げると、星が一つ明るく光っているのが見えた。あの星から今の自分の姿を見たら、素晴らしくぶざまに見えるだろうと思った。

     タカシはゆっくりと立ち上がるとズボンの埃を払った。だらし無く出ていたシャツの裾をズボンの中にたくし込んでベルトを締め直すと、少し気分がしゃっきりした。ぶつかった胸の辺りを押さえてみるとずきずきと痛んだ。夜明け前の風が湿気を含んでひんやりとしていた。目の前に『歯を抜け通り(ルア・チラ・デンチス)』という表示板があった。タカシのぶつかった街灯がそれをぼんやりと照らしていた。

     ちぇ、ふざけた名前だ。

     表示板をはりつけてあるのは、今はもう使われていない工場の壁だった。ぼろぼろになった煉瓦の上には所構わず落書がしてあった。金網をはった窓のガラスはほとんど割れていた。そしてその後ろに果てしない暗さを秘めていた。

     建物も通りの名前も覚えがなかった。酔って歩いているうちに、知らない所に来てしまったようだった。迷子になったかな、と思った。でも別に気にはならなかった。約束の時間があるわけではないし、これといってしないといけない事もなかった。

     とにかく今の自分はほとんど天涯孤独といっていいほど、何も束縛するものがないのだから。

     適当に歩いていればいいさ。そのうち知っている場所に出るだろう……。

     ゆっくりと彼は歩き出した。足元が少しふらついた。でも酔いは少しづつ覚めてきていた。

     歩きながらタカシは口笛を吹きはじめた。でたらめなメロディーがいつの間にか『カーニヴァルの夢』に落ち着いた。それはブラジルの老詩人と若いギタリストのレコードに入っていた一曲だ。そしてタカシを決定的にブラジルの虜にした曲だった。

     『…カーニヴァルは一瞬の光りの中で、人生の本当の意味を教えてくれるだろう…』

     サビのところに来ると声を出して歌った。

     そんな光なんて何処にもなかったぜ!

     どっちにしろカーニヴァルも終わりさ。

     そして、また口笛を吹き始める。

     その時、口笛に合わせるように何処からかギターの音が聞こえてきた。最初空耳だと思ったのだが、口笛を止めて耳を澄ませてみると、その微かなギターの音はメロディーの続きを奏でていた。

     細い路地が、煉瓦の建物に沿って続いている。街灯の光は届かず深い闇がその路地を包んでいた。ギターの音はその闇の向こうから聞こえて来た。

     素晴らしく上手な演奏だった。主旋律は簡単で覚えやすいが、そこにいくつも副旋律を重ね、複雑で美しい世界を織りなしていた。そして何よりもそこには今のタカシの気持ちを理解し慰めてくれる包容力があった。

     彼はしばらく立ち止まりその音に耳を傾けた。誰が弾いているのだろう?

     ちょっと路地の奥をのぞきこんでみた。厚い闇がその先にあるものを隠していたが、ギターの音は確かにその向こうから聞こえていた。

     タカシは路地に足を踏み入れようとして、一瞬足を止めた。何か躊躇させるものがあった。恐怖が恋人のようにさりげなく背中に寄り添った。

     馬鹿みたいだ。

     何処かの酔っぱらいがギターを弾いてるだけさ、と思ってみたが足は前に出なかった。そして、躊躇している時間が長くなるにつれ恐怖感は具体性を増して来た。

     大きな身体をして意味も無く闇を恐れている自分が可笑しくなった。

     ふ−っと溜め息をつくと少し気分が落ち着いた。

     「こんばんわ……!」

     闇に向かって呼び掛けてみた。答えはなかった。ただ相変わらずギターの音は素晴らしい旋律を奏でていた。

     タカシは闇の中に一歩踏み出した。街灯の光はあっという間に力を失い、闇の空間にぽっかりと一人で浮かんでいる気がした。ひどく不安だった。盲のように両手を前に突き出すと、ゆっくりと音のする方に歩いた。目は開いていても閉じていても同じだった。闇が重くのしかかり、圧迫した。

     少し嫌な臭いがした。魚の腐ったような臭いだ。ひんやりと冷たい風が吹いた。その風に吹き飛ばされるように微かに闇が薄れた。

     建物の横に小さな階段があり、そこに座ってギターを弾いている人影がぼんやりと見えた。タカシは、ほっ溜め息をついた。

     「やあ、こんばんわ」とその人影に向かって呼び掛けた。

     俯いてギターを弾いていた男が手を止めてゆっくりと顔を上げた。

     又冷たい風が吹いた。ますます闇は薄れ、男の姿がはっきりと見えてきた。

     男はひどく年老いているようだった。痩せた体をぴったりとした真っ黒い衣装で覆っていたが、顔や手には深い皺がはっきりと刻みこまれていた。異常に高い鼻が垂れ下がるように曲がっていた。そしてその鼻の脇の皺の中に真っ赤な目が無表情に輝いていた。老人の顔は醜い鳥のように不吉だった。

     ギターを弾く老人の指は枯れ木の枝のように節くれ、長い爪が伸びていた。爪の先は針のように尖っている。その手がゆっくりと上がってタカシを指差した。

     「口笛を吹いていたのはあんたかね?」

    低く嗄れた声で老人が聞いた。彼が弾く楽器の音の美しさとは違い不快な声だった。その時、さっきの魚の腐ったような臭いは老人の吐く息の臭いだと気が付いた。

     老人の声を聞いた途端、理由は分からないがひどく気分が悪くなった。同時に顔から血の気が引き、まわりの視界がスーッと暗くなった。老人の姿が水に映った景色のように揺れそして見えなくなった。口の中で鉛をなめたような味がした。身体に廻っていたアルコールが全部胃に戻って来たみたいに、吐き気がした。はやくそこから立ち去りたかった。

     「そう…、いいや…」

     口ごもりながら行こうとしたが、気分の悪さが爆発し体中を駆け巡った。そして激しい眩暈が襲った。

     チクショウ!

     タカシは胸を押さえて立ち止まった。しかし、意外とすぐに吐き気も眩暈も消えた。

     「大丈夫かね?」

     後ろで男の声がした。老人の不快な声ではなく中年の男の落ち着いた響きの声だった。

    振り返ると、不思議な事にさっき老人が座っていた所に中年のハンサムな男がいた。同じように黒ずくめの恰好をしていたが、精気溢れる顔でタカシに微笑みかけていた。そして彼の膝の上には美しい細工を凝らしたギターがあった。

     「老人は……?」とタカシは訝しそうに聞いた。

     「老人?

     ここにはずっと私しかいなかったが」

     「今赤い目をした老人がいたけど?」

     「あははっ……」

     男は可笑しそうに笑った

     「相当安い酒を飲んだんじゃないのか?」

     「確かに、だいぶ飲んでるけど……」

     男と話すと急激に体の緊張がほぐれていった。闇を恐れたりした事が嘘のようだった。どうしてこの路地に入るのが、怖かったのか分らなかった。

     タカシは背筋を伸ばし、深呼吸をした。

     「ギターが上手だね」

     「私の唯一の趣味だ、

     あんたも口笛がうまいじゃないか」

     不思議なぐらい楽に男と話が出来た。ブラジルに来て三年経っているので、ある程度の会話には困らなくなっていたが、それでもいつもは母国語ではないもどかしさを感じたものだ。しかし、今はそれがまったくない。もっと直接、心と心で語り合っているような親密感を感じた。

     「ルイスだ…」と言って男は手を差し出した。その手を握りながら「タカシ…」と応えた。

     「二世かね?」

     ルイスは珍しそうに聞いた。

     「いや、三年前ブラジルに来たんだ」

     そう答えるとさらに意外そうな顔をした。

     「もう少し何か聞かせて貰えるかな?」

     「いいだろう」

     ルイスは和音をかき鳴らした。美しい宝石がいくつも転がっていくような音だった。

     「カーニヴァルはつまらなかったかね?」

     ギターを弾きながらルイスは聞いた。

     一瞬おやっ、と思った。

     普通だったらつまらなかったか?、なんて聞くかな?

     でもルイスはそう聞いた。いかにも自然でタカシの心の中を知っているような口振りだった。確かにタカシにとってカーニヴァルは不満だらけだったが、どうして自分の気持ちが分ったのか不思議だった。

     「まぁ、そうだね。

     期待したほどじゃなかったね」

     ルイスが隣に座るように勧めた。その階段は路地裏の割にきれいに掃除が行き届いていた。タカシは彼の指さばきを真横から見る事になった。そうやって見ていると、彼の指はまるで蜘蛛が這うように複雑に動き廻っていた。

     曲の名前は分からないが、何処かで耳にしたような懐かしい響きだった。ギターの音はますますタカシの心を強く捕えた。何曲かメドレーにして弾いた後、ルイスはゆっくりと右の掌で弦を押さえ、響きを止めた。

     「いゃ、素晴らしい……」

     タカシは一人で手を叩いた。ルイスは大仰にお辞儀した。そして自分の後ろに置いてあった真鍮のフラスコを差し出して勧めた。「これは滅多に手に入らない酒だから、よく味わって飲んでくれよ」

     使い込んだ真鍮の鈍い輝きがタカシの手にしっくりと馴染んだ。刻みを入れて滑りを止めてあるキャップを取るともう芳醇な香りが溢れて来た。初めて経験する素晴らしい香りだった。飲む前にフラスコを鼻の傍に持ってきて香りを楽しんだ。仄かに甘く香ばしい香りが鼻啌を刺激し、不思議な快感が体中を駆け抜けた。体の芯が熱く震えた。

     少し口に含んでみると、その快感はさらに熱く、さらに甘く揺さぶった。小さな太陽を飲み込んだように、暖かいものが体の奥から拡がった。

     「ふーっ、美味い!」

     タカシは目を見はった。

     「こんな旨い酒、今まで飲んだこと無い。

     これは何ていう酒かな?」

     彼はフラスコを返しながら聞いてみた。ルイスは何も応えなかった。ただ微笑みながらもっと飲むよう勧めるだけだった。そして、再びギターを弾き始めた。

     その酒を飲んだ瞬間からタカシの全身の神経が緩んだ。さらに緊張感がなくなり、なにもかもすべてを受け入れられるような豊かな気分がした。そして時間が非常に遅く緩やかに流れる感じがした。今までの孤独だった日々が嘘のように遠い昔のことに思えた。タカシは陽気になりルイスのギターに合わせて歌った。ギターの音も自分の声も一つ一つ拡大鏡で見るようにハッキリと聞こえたが、そのどれもが頭の中には何も残さず通り越していった。フラスコの酒は不思議なことにいくら飲んでも尽きなかった。酔いがまた戻って来た。それはさっきまでの苦い酔いではなく、甘美な快い酔いだった。タカシは自分の過去や夢を喋った。酒のせいで舌はもつれたが、思いは堰を切ったように溢れた。

     「……俺は日本のつまらない暮らしが嫌だったんだ。ブラジル人のあんたには絶対分からないだろうな、あんな暮らし方。

     毎日決まった時間に会社に行って、決まった時間に帰る。

     毎日同じドッグフードを食わされて同じ道を散歩に連れてかれる犬みたいだ。

     まったく下らない。

     そんなものが人生だなんて思えないよ」

     ルイスは時々相槌を打つぐらいで殆ど黙ってタカシの話を聞いていた。相変わらずにこにこと微笑み、ギターで何かのメロディーを弾いていた。

     「日本では波風の立たないのが良い人生だと思われている。派手な事が起こらない、平和な暮らしが一番だというわけさ。でもその平和な生活を維持するためにやってることは、それとは気づかないような小さな裏切りや、人の足を引っ張ることばかりだ。

     だれもまともに熱意を込めて働いたりしていない。ただまわりの顔色を窺って、すこしでも先を行く奴の足をすくい、後ろにいる奴には軽蔑をなげかけるだけだ。ほとんど皆が一線に並んでいる中で自分だけがほんの少し前に出てればいい。

     あんたにはだれもがそんな風な付き合いをしてるなんて信じられないだろうね」

     「ああ、そうだね。

     ブラジルの人は君たちより単純に生きているかも知れない」

     「俺はそんな退屈で嫌らしい人生なんて御免だった!

     俺は日本では広告会社にいたんだ。

     日本の社会の中ではそういった会社は自由にやれる方だと思ったんだ。それに少なくとも俺にはやる気と、少しばかりの才能があった。俺はちょっとばかり目立つ仕事をして注目を浴びたけど、すぐに足をすくわれた。 

     もっとも仲がいいと思っていた先輩に裏切られたんだ。奴は俺の仕事を横取りし、代わりに泥を置いていった。その事自体は大したことじゃない。その時は凄く腹が立ったけど、そんな事はいつでも起こることなんだ。それでも日本でやっててもよかったんだけど、もうそんな奴らと付き合っている気がしなくなったんだ。

     何かきっと凄い事があるはずなんだよ、人生にはね。信じられないぐらい素晴らしい事がね……。

     あんな奴らと付き合って、あんな狭い社会にいたら、大事な時間が無駄になるだけだと思ったんだ……」

     タカシは自分の物のようにフラスコを握りしめ酒を煽った。

     「それに比べるとブラジルが魅力的に見えたよ。ピラミッドの頂上みたいにカーニヴァルがあって、その三日間に誰もが人生のすべてを賭けるんだろ……。

     ほら、あの歌みたいにさ…」

     タカシは『カーニヴァルの夢』のメロディーを歌い始めた。

     『…カーニヴァルは一瞬の光りの中で、人生の本当の意味を教えてくれるだろう…』

     酔いのせいでかなり音程が怪しかったが、ルイスはそれでも笑いながら伴奏をつけた。両手を拡げるとタカシは立ち上がって踊る真似をした。

     「こうやって我を忘れて踊っていると、そんな光みたいなものが来るんだろうな。

     きっとそれはとても熱くて、エロチックなんだよ。そしてその瞬間のためならすべてを賭けてもいい、死んでもいいと思うぐらい素晴らしいものなんだよ!

     いや、その瞬間本当に死ねれば最高なのかも知れない……」

     ルイスがギターを弾く手を止めた事にタカシは気付かなかった。

     「でも、そんな光なんか、どこにもなかったよ……。

     悪いけど、カーニヴァルなんか、ただのでっかいショーに過ぎなかったね。確かに凄い事は凄いけど、その瞬間に命を賭けている奴なんかいなかった……。

     ああ、でも一人だけいたな、

     そんな感じで踊っていた奴。

     昨日の夜中……。

     一人だけだったけどね」

     踊る真似を止めると、ルイスの隣に座り直した。体中がだるく朦朧としていたが、それが素晴らしく心地よかった。

     ルイスがじっと自分を見つめていた。その目が妙に赤く光っているような気がした。それに何かが腐ったような臭いがした。

     まったく俺はどういう酔い方をするんだろう?

     そう思ってみたが、どこか変な感じはぬぐい去れなかった。

     「本当に死んでもいいと思うかね?」

     その声が急に重く頭に響いた。

     夢の中のように直接心に……。

     ギターをかきならす爪が、奇妙に長く見えた。ルイスの声にはさっきまでの落ちつきはなくどこか切迫したものがあった。

     「本当に?」

     苛立たしそうにルイスがもう一度聞いた。そしてルイスは時々路地の向こうを気にしていた。タカシもちらっとそっちを見てみたが野良犬がこっちを覗いていただけだった。

     「本当に?」

     ルイスはタカシの答えをうながすように、さらに力を込めてきいた。なぜかその問いに答えるのが不安だった。心地良かった酔いが一瞬遠のいた。

     ばかばかしい、何でもないさ、ただ冗談に聞いているだけさ。

     そう自分にいいきかせても不安の霧は晴れなかった。

     「あぁ……」

     何気なく言おうとしたが、タカシの声は喉の奥に引っ掛かり上擦ってしまった。



             4


     誰もがドッグの事を違った名前で呼んだ。彼には特定の飼い主はいなかったが、顔を出すと必ず餌をくれる家が何軒かあった。その家ごとに呼び名が違っているのだ。しかし彼はドッグと呼ばれるのが一番好きだった。それは昔、警察官をしていた老人の呼び方だった。

     大きな家の庭で優雅そうに遊んでいる犬を見たり、朝早く海岸通りを得意気に飼い主と走っている犬と擦れ違ったりしても、そんな生活をしたいとは一度も思わなかった。ドッグは自立心の旺盛な犬だ。人間には生きていく必要上いつも愛想よく振る舞ったが服従する気はなかった。

     野犬の中にはすぐに群れを組みたがる奴等がいるが、ドッグは一匹でいる事を好んだ。もし群れに入ったとしても彼はそのリーダーになれただろう。典型的な雑種で体もそれほど大きいほうではない。しかし彼にはどんな事にでも向かって行く勇気と犬としては高い知能があった。

     ドッグは夜明け前に散歩をするのが好きだった。夜明け前は嫌いな車の通りも少ない。たまに野犬狩りが現れる事もあったが、そんなものに捕まるほどドジな犬ではなかった。野犬狩りの臭いは一キロ先からでも嗅ぎ分ける自信がある。

     特に夏の夜明けは好きだった。太陽が出てしまうと、夏の暑さは褐色の毛皮を着たドッグには耐えられなかったが、夜明けの涼しさは解放感をもたらすのだ。夏の夜明けはいつも町中を駆け巡りたくなった。

     遠くの町でやっている人間達の馬鹿騒ぎのお陰で町外れの方はいつもより静かだった。少し前迄はふらふらと歩く人間達と何度も擦れ違った。その何人かが呼び掛けてきたり、口笛を吹いたりしたが無視した。彼はふらふらになって歩く人間達の臭いが嫌いだった。それにあんな奴らに愛想を振りまいても得るものは何もない。

     町はずれに来ると人影はますますまばらになった。いつもの散歩道よりも少し遠くまで行ってみようと思った。知らない道を行くのは楽しい。とにかく太陽が出る前にねぐらに帰り着きさえすればいいのだから……。

     歩いて行くに従って町は暗くなってきた。しかしドッグは気にしなかった。彼の目には世界がモノトーンにしか写らないが、暗さは妨げにはならなかった。それに鋭敏な鼻と耳で周囲の状況を正確につかむ事ができる。

     知らない道には知らない臭いが満ち溢れている。彼は道端の塵の一つ一つに鼻先を近づけた。そして街角毎に他の犬が残した小便の臭いを嗅いだ。彼を恐れさせるような犬の臭いはなかった。ドッグは先の犬の臭いを無視して上から小便をかけた。そうやって自分の存在を知せるのは気分が良かった。

     石畳の道の角、街灯の下に塵が一杯散らかっていた。早速彼は塵の山に鼻先を突っ込んだ。空腹ではないが知らない物が落ちているかもしれない。

     しかしそのほとんどは空きカンだった。そのカンは彼の嫌いな臭いがした。ドッグは知っていた。そのカンの中の水を飲むと人間はふらふらになるのだ。

     人の声がした。

     まず片方の耳だけがそちらを向き、それから彼は顔を上げた。路地の奥に誰かいるようだ。二、三歩近寄ると路地を覗き込んだ。

     不思議なことにその路地の闇は他の所よりも濃かった。真っ黒い霧が立ち込めているみたいだった。彼の目でもその先を見通すのは容易ではなかった。それでも重い闇に目が慣れると向こうに背の高い男が見えた。聞こえて来たのはその男の声だった。

     男は一人で立ち上がったり、踊る真似をしたりしていた。その口からはやはり嫌いな水の臭いがした。

     ドッグは立ち去ろうとしたが、その嫌いな水の臭いの中に、今まで嗅いだ事のない臭いが混じっているのに気が付いた。それはとても素敵な臭いだった。彼は神経を集中して、その臭いだけを嗅ぎとろうとした。

     胸の中が熱くなった。年に何度か訪れるあの狂おしいほど雌犬と交わりたくなる日と同じ気分だった。男の手の中に小さく光る瓶が見えた。臭いはそこから強く漂っていた。もっとその臭いを嗅ぎたくなった。

     しかし彼の神経はもう一人の人間がいる気配を感じ取った。ドッグは神経を切り換え、そっちの人間の方に集中した。その臭いは彼を苛立たせた。それは平気で石を投げてきたり足蹴をくれたりする人間の臭いだった。或いは自分を平気で殺そうとするかも知れない奴だ。野犬狩りのように邪悪な臭い。いや、それ以上だ。すぐに路地に入って行くのは危険だと思った。もう一度目を凝らしその人間の姿を探した。

     しかし、そこにはどうしても一人の人間の姿しか見えなかった。

     ドッグは首をかしげた。犬が首をかしげる時、それが物事を考える仕種とは限らないのだが、今彼は正に人間と同じ意味で首をかしげていた。

     空中に浮かぶ二つの小さな光を見つけた時低い唸り声が口から漏れはじめた。背中の毛が逆立った。ドッグは耳を寝かせ、鼻の周りに荒々しく皺をよせた。唸り声は次第に大きくなり、体を低く構えたが、どうしても飛び出して行く事は出来なかった。

     二つの赤い光りは正確に彼の方を向いていた。ドッグの怒りが次第に恐れと変わり始めた。彼はじりじりと後退していった。爪が石畳の上で滑りバランスを崩しそうになった。

     しかし目だけはその光から絶対にそらさなかった。

     そして遂に尾っぽを後ろ足の間に挟み込むとドッグは逃げ出した……。

     彼にとってそれは生涯で初めて経験した敗北だった。



             5


     冷たい風に身振いするとタカシは大きなクシャミをした。そしてゆっくりと目覚めた。いつの間にか居眠りをしてしまったらしい。煉瓦の壁にもたれ掛かり両足を投げ出していたので、階段からずり落ちそうだった。続けざまにクシャミがでた。そのせいで意識が少しづつはっきりとしてきた。

     いや、ごめん。

     眠ってしまったことをあやまろうとしたがルイスの姿はそこにはなかった。タカシは間の抜けた顔をして辺りを見回した。砂漠の真ん中にいるみたいに一人ぼっちだった。

     さっきぶつかった街灯が見えた。急に明るさを取り戻していた。お陰で路地がはっきりと見えた。階段の所まで届かなかった光が、今は汚れた靴を照らし出していた。

     俺が眠ってしまったのでルイスは帰ってしまったのだろうか。案外長い間眠っていたのかも知れない。きっとルイスは退屈してしまったのだろう。夜明けも近い事だし……、と思ったが、路地から細長い空を見上げると無数の星が瞬いているのが見えた。それにまん丸い月がタカシの真上に掛かっていた。それは安物のガラス玉のように赤く見えた。

     それにしても夜が長かった。ルイスに会った時ですら、もう夜明けが近かったと言うのに。それからだって大分経っているはずだ。まるでカーニヴァルが終わるのを拒否して時間を止めてしまったみたいだった。

     突然すべてが夢で、自分はただ酔っぱらってここで眠っていただけのような気がしてきた。ルイスと会った事も、ギターを聞いたり話したりした事も全部夢の中の出来事だったのかも知れない。そう考えると余りに長い夜も納得出来た。

     変な夢を見たものだ、と思った。

     ふふっ、タカシは孤独な含み笑いをした。

     馬鹿げた一日だったと思いながら、彼はゆっくりと立ち上がった。あとはホテルのベッドで寝るだけだった。安ホテルの寝心地の悪いベッドの事を考えると、あまり楽しい気分にはなれなかった。でもカーニヴァルは終わってしまった。

     これからどうやって暮らすか、考えないといけないけど、もう明日にしよう……。

     ズボンの尻をはたくとタカシは歩き出そうとした。しかし、その時、階段の上に銀色に輝く物が落ちているのに気が付いた。呆然と手を伸ばすと真鍮のフラスコを取った。振ってみると相変わらずたっぷりと酒が揺れた。

     「夢じゃなかったんだ」

     タカシはぼんやりと呟いた。

     刻みの付いた蓋を捩じって開けると一口飲んでみた。さっきと同じ素晴らしい味が広がった。

    指先が微かに痛んだ。

     フラスコを握ったまま、街灯の光がよくあたるように向きを変えて見た。右手の人指し指の先に小さな切り傷があった。そして傷のまわりにほんの少し血が固まってこびり付いていた。何処で切ったのか全然覚えがなかったが、もう傷口は塞がっていた。

     どうせ街灯にぶつかった時にでも切ったのだろう、タカシは傷口を唇に当てた。

     その時さっきルイスと何かを約束した事を思い出した。しかし具体的にそれが何だったかは、どうしても思い出せなかった。クシャミをし損なったみたいな妙な気分だった。何か込み上げて来るものがあるのだが、形になる前に消えてしまうのだ。

    どうせまた何処かで会うように約束したぐらいの事だろう。もし待ち合わせなんかしてたら、すっぽかしてしまう事になるけど、まあ仕方がないか。

     日本人に待ち惚けを食らうブラジル人というイメージは何となく滑稽だった。タカシは微笑んだが、どうも約束したことがそんな些細な事ではなく、もっと大事な事だったような気がして仕方なかった…。

     それにしてもいいものを忘れて行ってくれた。こいつは俺が預かっておいて、そのうち何処かで出会ったら返せばいいだろう。

     タカシが揺するとフラスコの酒はいつまでもたっぷりと重く波打っていた。

     もう一口。

     不思議と素晴らしくいい気分だった。酔いの疲れは全く消えていた。ほんの少し眠っただけなのに、まるで生まれ変わったように身体が軽く力が満ち溢れていた。相変わらず一人ぼっちだったけれど、孤独とは感じなかった。どうしてか誰かが自分を待ってくれているような気がして心が弾んだ。


     石畳の歩道にタカシの足音だけがはね返った。彼は鼻唄を歌いながら歩いていた。相変わらず誰にも出会わなかった。それに何処を歩いているのか見当もつかなかった。しかし彼は気にしなかった。時々建物の上を見上げた。とにかくリオの街ではコルコヴァードのキリスト像を探せば大体自分が何処にいるか分かる。建物の影になって今は見えないようだが、そのうちきっと見えてくるだろう。今のタカシには少しぐらい迷っても散歩しているようなものだった。

     後ろで微かな音が聞こえてきた。

     石畳を規則的に叩く音だった。彼は立ち止まると振り返った。その音は段々と近づいて来る。馬の蹄の音のようだった。そしてその音のリズムと合わせるように鈴のしゃんしゃんという音や、がちゃがちゃと馬具が鳴る音が加わって来た…。

     馬を囃す馭者の声と、鞭の音が一つ……、

     そしてまるで霧の中から飛び出してきたように突然真っ黒い馬車が現れた。屋根の無い小さな馬車を黒い馬が牽いている。馭者が手綱を引き締めると馬車はタカシの目の前に止まった。前のランタンが大きく揺れ、馬車全体が軋んだ。馬が首を振って鼻を鳴らした。

     黒ずくめの服を着た馭者が軽く帽子を取り一礼した。そして黙ったまま乗るように勧めた。男の顔は影になってよく見えなかったがすべてを知り尽くしているようだった。

     タカシは驚いて馭者を見上げた。馭者がまた小さく頷き促した。その時馭者と目が合った。

     急にタカシの目から力が失せた。何かが抜け落ちたような表情で彼は頷いた。そして黙ったまま、ゆっくりと馬車に乗り込んだ。

     馭者は手綱をゆるめると馬に一鞭くれた。馬が首をのけ反らせひときわ大きく鼻を鳴らした。たて髪が鮮やかに波打った。一瞬ガクッと後ろに揺れた後馬車は動き始めた。

     風が心地良かった。馭者の肩が規則正しく揺れていた。馬車の揺れに身を任せながらフラスコを取り出すと一口飲んだ。ひとりでに微笑みが込上げて来た。

     最高の気分だった。何か素晴らしい事が待っている……。

     あっ、と言う間に馬車は霧の中に入り、周りの景色は見えなくなった。馭者の横で揺れているランタンだけが頼りなく輝いていた。



             6


     ルイスが呼んだ時、マルウは一人テラスで風にあたりながら広大な庭園を眺めていた。

     「ここよ!」

     彼女は振り返りもしないで答えた。他の男達には返事もしなかったが、ルイスにだけは応えないわけにいかなかった。 

     パーティは低調だった。例年同じような事が繰り返されるだけで、めぼしい事はなにもなかった。最初はこのカーニヴァルのパーティに出られるだけで心が浮き立ったものだが今ではそれが苦痛にさえ感じられた。実際このパーティさえなければ、今夜も街に出て行く事ができたのだ。その方がどれだけ楽しいか……。

     退屈な男たち。

     パーティの会話には嫌気がさしていた。気取った言葉を口にしていても、その心の中は分かりきっている。男たちは自分を若いだけが取り柄の無知な娘のように扱った。そして下らない話で歓心を買おうとする。一夜だけのお楽しみ。撃墜した敵機の数を自慢するパイロットのように女の数をかぞえる男達。そんな相手に口をきいたり愛想を振りまいたりするのも面倒で、マルウは一人テラスに出てきたのだ。

     テラスにいると中の喧騒が嘘のように静かで風が心地よかった。

     「マルウ……」 

     ルイスが音も立てずに、うしろに立っていた。その嗄れた声にはいつになく疲れの色が見えた。マルウは仕方なく不機嫌そうに振り返った。彼女は黒い蝶の形をした仮面で目の辺りだけを覆っていたが、その奥で灰色の瞳が鋭いナイフのような光を帯びていた。黒いドレスの裾が風を孕んで揺れた。大きく開いた胸元から覗く肌は青白い雪のように妖しく輝いていた。

     ルイスは深い皺が刻み込まれた手を黒い上着のポケットに突っ込むと、丁寧に畳んだ一枚の羊皮紙を取り出した。ルイスはゆっくりと厳かにそれを広げた。興奮を示すかのように長い爪の先で羊皮紙が震えた。

     マルウの顔に驚きの表情が浮かんだ。

     獣の脂じみた肌の感触をのこした羊皮紙の上には青いインクで細かい字が並べられていたが、それは地球上のどの国の言語にもないものだった。まるで皮膚に浮きでた静脈、青い文字。その中央にはやはり紺色の線で描かれた六茫星があり、星の中心には真っ赤なしみがあった。重く粘りつく鮮血の色。それが誰かの指紋をかたどっていた。

     「ルイス……!」

     マルウの声はただならぬ興奮に震えた。

     その噂は何度も聞かされていたが、まだ一度も経験した事はなかった。かつてのカーニヴァルでは恒例になっていたが、マルウがパーティに出るようになってからは一度もなかった。それがパーティを低調にしている原因でもあった。そのせいでルイスは信任を失いかけていた。

     「ああ、契約は成立している」

     ルイスは低く感情を押し殺した声で言った。

     そして羊皮紙を大事そうにしまい、「プリズムはお前だ…」とマルウを指さした。マルウには信じられなかった。

     自分が『プリズム』になるなんて……。

     それがどんなに素晴らしいかは何度も耳にしていた。マルウはパーティの中では最も新しいメンバーの内の一人だったが、昔を知っている連中からパーティの度にその話を聞かされてきていたのだ。

     特に『プリズム』になる者の歓びは想像を絶する…。

     『プリズム』は一番美しい者の特権でありそして最高の名誉でもあった。

     「分ったわ」

     マルウは茫然と答えた。自分の果たすべき責任の重さを感じたがそれより、何度も耳にしてきていた『プリズム』というものの素晴らしさに期待が湧き心が弾んだ。マルウはほんの少し口の端を上げて微笑みを浮かべた。彼女の心の動きとは裏腹に氷のように冷たい笑みだった。

     ルイスは彼女の仮面に手を掛けゆっくりと外した。そして自分の黒いマントで小柄なマルウの身体を包み込んだ。マルウの身体は期待と不安で小刻みに震えていた。ルイスは両手でマルウの頭を挟み込むとその額を自分の胸に押しつけた。そこから低い振動が伝わってきた。それはルイスがなにかを唱えている声だった。ルイスの両手はマルウの頭を万力のように締めつけ、身動きする事ができなかった。

     マルウの額に、じんっ、という感覚が伝わった。そして急に熱さを感じ始めた。その熱が額から全身に駆け抜けていった。同時に身体中に痛みが走った。ピシピシと小さな針を打ち込まれるような痛み。まるで身体中がひび割れて行くようだった。そしてそれは容赦なく激しさを増してきた。マルウは耐えきれずルイスの身体を押し退けようとした。しかしそうすればするほどルイスの身体は重く伸しかかってきた。

     アアアァァァァ………。

     マルウは悲鳴を上げた。その声はルイスの胸に押しつけられ、くぐもった音が漏れただけだった。

     そしてマルウは気を失った。

     ルイスがぜいぜいと病人のように息を弾ませマルウの身体を放した。マルウの身体がテラスの床に崩れ落ちた。モザイク模様の床に投げ出された黒い花。倒れたマルウの身体に変化が見えた。雪のように白かった頬に赤みがさし、血の気が無く乾いていた唇が赤く濡れて輝いた。そして春の雪解けが訪れたように冷たく白い肌が柔らかく色づき始めた。そしてその瞬間から心にも雪解けが訪れた事にマルウは気づいていなかった。


     レダは窓際に陰に隠れて二人の姿を見ていた。

    見られていることにルイスは気づいていないだろう。気づいていたとしても大した問題ではない。かつては素晴らしい能力と統率力を持っていたかも知れないが、今はただの老いぼれ。彼だけが握っている秘密、それだけで今もリーダーとして存在しているが…それも時間の問題だ。

     話し声は聞こえなかったが、その内容は分かった。ルイスが今年は成功したらしい。それはとても喜ばしい。誰もが長年待っていた事だ。しかし問題は彼が『プリズム』にマルウを選んだ事だ。

     レダの肌はかつて褐色だったが、今は血の気が失せてほの白い肌にほんの少し名残を留めるだけだった。その顔に怒りの為きつい線が走り美しさのバランスを狂わせていた。しかし、それは別の妖しい魅力を加えるだけだった。若々しいという時は過ぎていたが、それがレダの美しさを損なうは事はなかった。

     もう随分昔の事になってしまったが、最後に『プリズム』をやったのはシルヴィーニャだった。そしてその次はレダの番だと、誰もが思っていた。美しさにおいても若さにおいても彼女は適任だった。しかしそれから今夜までルイスは契約を成功させる事ができずに待つことになってしまったのだ。その間ずっと彼女はパーティの華ではあったがそれだけの事だった。『プリズム』はもっと遥かな名誉だ。

     ルイスがマルウを特に可愛がっている事は前々から知っている。マルウをこの社会に引き入れたアントニオからルイスは彼女を奪い取った。アントニオはリオの社交界から追放され、マナウスあたりに行ってしまったはずだ。それ以後ルイスはなにかにつけマルウを贔屓にしてきている。

     マルウは確かに美しい。それに素晴らしく若い。しかしそういった美しさだけで言うなら他にも幾らでもいる。自分だって彼女に負ける気はしない。レダはルイスの依怙贔屓を憎んだ。そしてマルウを憎んだ。

     契約を成功させた今『プリズム』には自分が選ばれるべきだった。レダはマルウのように若くはないが美しさの点では今でも誰もが認めている。それにマルウには分からない男と女の機微も知っている。カーテンの陰でレダの瞳が鮮やかに輝いた。

     私は待った事を無駄にはしない……。

     憎々しげな薄笑いを浮かべた時、異様に長い歯が覗いた。

     『赤い月の儀式』の秘密を知っているのはルイスだけではない。今ルイスに代わってリーダーになろうとしているロベルトも知っているはずだ。そしてロベルトはルイスに気に入られているマルウより、自分の事を『プリズム』に望んでくれるだろう。そしてこれをきっかけに一気にルイスの時代を終わらせ、ロベルトと自分の時代を始める事が出来る。もちろんその時にはマルウを追放する事も、自分の傘下に置いて思う存分いたぶる事も可能になる……。

     レダは赤いスカートを翻すと、ロベルトの姿を求めて広間に戻っていった。


     馬車の微かな揺れは心地良かった。ただ霧は延々と続き、夜景を楽しむ事は出来なかった。時間の経つのさえ分からない。馭者に話し掛けようとしたが止めた。どうせ何も答えないだろう。ゆっくりと左右に揺れる馭者の背中を見ているうちに、またうとうとしてしまった…。

     ガタッ。

     馬車が大きく揺れタカシは目を覚ました。道の状態が変って、砂利道を走る細かな振動が、タカシの体にも伝わった。

     急に強い風が吹き、シャツの袖がはためいた。馬の立て髪が心地よさそうになびいた。横風を受けた馬車はかすかに軋んだ。タカシは目にかかった前髪を払った。

     風のせいで霧が晴れ視界が開けた。大木の枝が覆い被さって並ぶ道をゆっくりと走っていた。夜の森の香りが胸を満たした。見上げると、木々の梢を通して赤い月が見えた。それは小川に流れる月の光のように朧に揺れていた。さっきより赤みを増し、大きくなったように見えた。

     前方に恍々と輝く明かりが見え始めた。何度か曲がりくねる間に見え隠れしながら近づいて来る。そして姿を現す毎により大きく迫ってきた。重厚な石で出来た城。苔むした壁は甲冑をまとった戦士のように厳めしく、静かに夜の中に佇んでいた。柔らかな明かりがもれる窓からは微かに人々のざわめきが聞こえ、その声が徐々に大きくなってきた。

     大きな噴水の前を回り込むと馬車は車寄せに止まった。

     馭者が飛び下りて来て扉を開けてくれた。タカシは茫然と城を見上げながら馬車を降りた。

     一瞬強い風が彼を押し戻すように吹いた。まるで何かが彼の到着を拒むように。木々の梢がさわさわと音を立て、噴水の水が吹き飛ばされて、歪んだカーヴを描いた。タカシは砂ぼこりに目を細め顔を背けた。

     後ろで馭者の掛け声がして馬車が走り去った。

     タカシはゆっくりと風に逆らって玄関の方へ歩き出した。


     「着いたね…」

     ルイスが玄関で出迎えた。待ち兼ねていたように満面に笑みを湛えていた。ルイスは右手を差し出した。

     そこに彼が待っていた事が意外でもあり、同時にその事を前から知っていたような気もした。路地で彼と逢った事は覚えていたが、何を話したかほとんど思い出せなかった。まるで記憶に大きな穴が開いたように抜けているのだ。あの時に誘ってくれたのだろう。とりあえずブラジル人をすっぽかす日本人という滑稽な場面は演じなくて済んだ。

     タカシは嬉しかった。ルイスの事が親友のように思え、心の中に温かい安らぎと嬉しさが満ちてきた。


     君は……を賭けられるかね…?

     その時、突然耳の奥でルイスの囁く声がした。そして白日夢のようにさっきの路地の光景が浮かんだ。ルイスはそう聞きながらタカシの目を覗き込んだのだ。その目が赤く輝いていた…。

     何を賭ける……?

     しかし、何も思い出せなかった。そして幻は急速に消えていった…。


     「これが君に話したパーティの会場だ。

     私の宮殿だよ」

     タカシはルイスの差し出した手を握った。指先の傷がまた少し痛んだ。

     彼がそんなに素晴らしい宮殿を持っていることに驚いた。

     タカシはポケットから真鍮のフラスコを取り出して返そうとしたが、彼は受け取らなかった。

     「気に入ったのだったら、ずっと持ってて構わないよ」ルイスは開けっぴろげな笑みを浮かべていた。中身の酒は勿論、その真鍮のフラスコも気に入っていたので嬉しかった。

     「ありがとう」 タカシは礼を言い、大事そうにズボンのポケットにしまった。

     「さあ、紹介しよう……」

     ルイスが振り返った。厚い木で出来た玄関の扉、黒々とした鋲で武装した扉の前に、真っ白なドレスを着た女がいた。女は一歩前に進み明かりの輪の中に立った。裾の大きく広がったスカートが優雅に揺れた。ルイスは彼女の背中に手を廻すともう一歩前に出るようにうながした。

     「マルウだ……」

     「こんばんわ」

     マルウの声が柔らかく響いた。 彼女が右手を差し出した。ドレスの絹がさらさらと音を立てた。タカシはこういった場合ブラジルではどういう挨拶をするのか知らなかった。その手にキスするのか?ただ握手をするだけなのか?ぎこちなく彼女の手を軽く握った、その手はタカシの手の中にすっぽりと入ってしまうぐらい小さくか細かった。マルウは別に気を悪くした風もなくタカシの手を握り返した。

     タカシは彼女の美しさに心を奪われた。

     微笑みながら見上げる灰色の瞳が生き生きとしていた。その色は湖のように静かでやさしかった。わずかにルージュをひいた唇の微笑みが自然だった。長い栗色の髪を蝶の形をした髪飾りで束ねていたが、その質素な雰囲気がタカシには好ましかった。

     タカシは彼女がだれかに似ていると思ったが、実際だれに似ているのかは思い浮かばなかった。知り合いにこれほどの美人がいるはずもなかった。

     映画スターの誰かに似てるのだろうか?

     それとも夢で見たのだろうか…?

     ルイスがマルウの顔を見つめているタカシの背中を押した。

     「私はこのパーティのホスト役が忙しくて余り相手が出来ないけど、私の代わりにマルウが相手を努めてくれる。

     君だって私なんかよりマルウが相手してくれた方が嬉しいだろう。

     あまり時間もないけど、

     私のカーニヴァルを最後までゆっくり楽しんでくれ」

     そう言うとルイスは謎めいた微笑みを浮かべた。

     「君は、

     皆が待ちこがれていた客なんだから…」

     ルイスは赤い月を見やった。時は迫った、と彼は呟いたが二人には聞こえなかった。

     そしてルイスは先に立つと二人を宮殿に招き入れた。


     マルウは平静を装っていたが心の中は驚きと興奮が渦巻いていた。初めてタカシの前に立った時彼女はいつものように冷徹な目で観察しようとした。しかし心の中のどこかに神経の通わない感触があった。そして鋭い視線を蘇らせる事はどうしてもできなかった。タカシは彼女が今までに知った人間とは全然違う雰囲気を持っていた。その雰囲気の違いに戸惑いを覚え、そして不思議な事に魅力を感じた。彼女は日本人を見たことがなかった。日本人はおろか東洋人の男を見るのは初めてだったのだ。

     少し歩みを遅らせるとマルウは背が高く肩幅の広い男の後ろ姿を見つめた。パーティにたった一人でやって来た不思議な雰囲気を持つ男。しかし男にはどこか自分と共通のものが感じられた。それがマルウには好ましく思えた。


     玄関を入ってすぐにタカシは立ち止まってしまった。宮殿の豪華さに目を奪われた。吹き抜けの天井にはクリスタルのシャンデリアが、何十本もの蝋燭の光を撒き散らしていた。その淡く温かい光を受けて大理石の幅の広い階段が緩やかなカーヴを描いていた。窓には重い光沢のビロードのカーテンが掛かっていた。

     呆気にとられて部屋を見回しているタカシの背中を軽く押してルイスが案内した。ルイスは得意そうな顔をすると、手品師のように冗談めかした身振りで次の部屋に通じる扉を開けた。

     一瞬堰をきったように、音楽と人のざわめきの混じった騒音が押し寄せた。と同時にそれは止んだ。流砂に沈み込むように音という音が消えた。

     広間には凍りついたように立ちつくしている沢山の人の姿があった。踊っていたカップルは頬をすり寄せ合い握り合った手を差し出したまま、酒を飲んでいた男は胸の前にグラスを掲げたまま、給仕の途中のウエイターはテーブルにかがみ込んだまま止まっていた。

     人々は様々な仮装に身を包んでいたが、その衣装はタカシが他で見た見せかけだけのまがいものとは違っていた。甲冑の男も、原色の衣装を着た道化師も、片足の無い海賊も、華やかなドレスの女達も、すべてがまがいものにはない重い光沢を放っていた。その誰もが、青白い顔に黒い蝶の形の仮面を付けていた。そして野性の鹿の群れのように、全く同じ表情でタカシを見つめていた。

     タカシはその異様な光景にたじろいだ。そして知らず知らず二、三歩後ずさりした。

     ルイスが険しい表情を浮かべると慌てて激しく手を叩いた。静まり返った広間にその音が響いた。取り繕うように音楽が始まり、すべてが動き始めた。

     人々は何事もなかったように踊り、酒を飲み、雑談を再開した。絹ずれの音が踊り手達の隙間を埋め、グラスを重ね合う音が天井にはねかえった。自分の冗談に自分で笑いころげる男、男の甘い嘘に酔う女。カウンターの中ではバーテンが得意気にシェーカーを振っている。

     ルイスはタカシに向かって何事もなかったように微笑みかけた。冷汗が伝ったような気がしたがそれは幻だ。彼は汗をかく事がない。

     それでもタカシは固い表情をしたまま広間を見つめていた。広間は平静を取り戻したように見えたが不安な気分は去らなかった。誰もが本当に自分に関心を失ったわけではない事が彼には分かった。しばしば密やかに盗み見るように、仮面の視線が向けられるのを感じた。

     「私のマティーニをお召し上がりになると大抵の方はよそでマティーニを飲みたいとは思わなくなられますよ…」

     バーテンが自分の腕を自慢しながらピールを絞って最後の仕上げをする。そしてその時入口に立っている初めての客を盗み見る…。

     「…いいですか、必ず僕の部屋に来てください…」

     道化師の衣装を着た小男は自分の二倍もありそうな背の高い女を口説き落とすのに成功した。そして満足気に椅子に寄り掛かると、背の高い仮面をしていない男を窺う…。

     「…私にはどうしても真珠が似合うのよ。それも養殖じゃなくて天然のね。それにミンクのコートが要るわ。そうじゃないとジョアーナのパーティには恥ずかしくて行けませんもの…」

     顎が二重になった女房の下らない喋りに男はうんざりしていた。そして生返事を繰り返しながら扉の人影を見つめる…。 

     一つ一つの視線がタカシには、はっきりと感じられた。その冷たさ、よそよそしさに不安を感じた。その視線には何か特別の意味がありそうだったが、それが何かは分らず余計に苛々した。そして広間の入口に立ち尽くした…。


     「さあ…」

     マルウがタカシの腕を取った。タカシは不安な表情を浮かべたまま振り返った。マルウは何事もないように微笑んでいた。

     「いや、だけど……」

     タカシはマルウの手を振り払いそのまま立ち去ろうとしたが、彼女の顔を見たとたん、体中から緊張が解けた。そしてまた広間を振り返った時、そこには当たり前のパーティの情景があるだけでもう不安な雰囲気は消えていた。夢でも見たような気分だった。

     「さあ、好きなだけ楽しんでくれ」

     ルイスが両手を大きく開いてタカシを招き入れた。

     「君の知らない本当のカーニヴァルはこれからだ…」

     ほんの一瞬またタカシは広間に入る事に躊躇した。しかしマルウと腕を組んだままタカシは広間に足を踏み入れた。

     「今はここで失礼するけど、

     また後で逢おう」

     ルイスが後ろで扉を締めた。その時彼が安堵の表情でマルウに頷いた事をタカシは知らなかった。扉を閉めた途端大きな溜め息を洩らした事も……。


     広間は玄関の部屋よりさらに天井が高く豪華だった。シャンデリアが幾つも下がっていた。広間のシャンデリアの光源もすべて蝋燭だった。その優しい光が温かく包み込むように人々を照らしていた。奥には一段高くなったステージがあり、その上でタキシードに身を包んだミュージシャンが上品にサンバを演奏していた。その前では様々な衣装を着た人々が楽しそうに踊っている。右隅には大理石のバー・カウンターがあり、そこでも海賊や死神や着飾った女達が陣取り雑談に余念がなかった。両側に背の高い窓が並び、そしてその向こうには広大な庭園を見下ろすテラスが続いていた。

     「何かお飲みになる?

     それとも召し上がる?」マルウが聞いた。

     「そうだね…」

     タカシはまわりの光景に気を取られながら生返事をした。

     「ここでは超一流の料理と酩酒が幾らでも楽しめるわ。なんでも好きな物を召し上がっていいのよ」

     タカシは急に空腹を感じた。考えるてみると、今日は何も食べないで酒ばかり飲んでいたのだ。

     「腹ぺこなんだ…」とタカシが応えると、

     「私もよ…」とマルウが微笑んだ。


     マルウはタカシの腕を取ると、人々の間をすり抜け颯爽と歩いた。何人かの男が嫉妬のこもった目で二人を見送った事をタカシは知らなかった。声を掛けようとした男達をマルウは無視した。そしてマルウは広間の奥の別の部屋にタカシを案内した。

     そこには真っ白なクロスを掛け、燭台と銀の食器を並べたテーブルがあった。二人が部屋に入ると真っ白な上着を着たウェイターが現れ、椅子を引いてくれた。

     「何がいいかしら?」

     マルウがテーブル越しに乗り出すようにして聞いた。

     「俺は余りこういう食事をしたことないから、おまかせするよ」 

     タカシは少し居心地悪そうだった。タカシはあまり格式ばった所が好きでなく、ブラジルにきてからもテーブル・マナーなどとは無縁の所でばかり食事していたので、どういう風にしていいのか分からなかった。それに美しいマルウと二人きりということでちょっと固くなっていた。

     「じゃあ、任せて頂いていいのね」

     マルウは仮面をしたウェイターに小さな声で幾つか注文した。

     「そこの扉を締めていいかしら?」

     開け放した扉からは広間の様子が覗けてそれなりに面白い情景だったが、「別に構わないよ」と答えた。

     「私、もうこの馬鹿騒ぎにうんざりしているの。いつもカーニヴァルが始まるまでは、楽しみなんだけど、始まってしばらくすると飽きてしまうの……」

     ウェイターが扉を締めると、思いがけないぐらいの静けさが部屋を覆った。そして部屋には二人だけになった。彼が少しきまり悪そうに微笑むとマルウも微笑み返した。

     オードブルが運ばれてきた。グラスにつがれたワインは、ほとんど知識のないタカシにも素晴らしい物だと分かった。料理が運ばれて来るたびにウェーターがその名を慇懃な声で告げた。タカシにはどれひとつ知っている物はなかった。そしてただ満足そうに頷くだけだった。実際それが何であれ素晴らしかった。

     「どう、私が選んだ料理は?」マルウが聞いた時、彼はブラジル人達の真似をして口元で指を花開かせる仕種をしてみせた。

     食事が進むにつれ二人の間のぎこちない雰囲気は消えた。ワインの酔いも手伝って、タカシはとても気楽な気分になれた。どうしてルイスがこのパーティに呼んでくれたのかは分らなかったが、彼と知り合った事がとても幸運な気がした。マルウと二人で食事していると今までの孤独だった日々が嘘のようだった。とにかく今は友人が出来たのだ。

     また、以前どこかでマルウを知っていたような気がした。

     ずっと昔から、彼女と親しかったような気が……。

     「あなたは何処から来たの?」

     マルウが聞いた。

     日本からさ」

     タカシは何気なく答えた。彼女が不思議そうな顔をした。

     「日本てどこの街?」

     「日本は日本だよ。国の名前さ」

     「バスで何時間ぐらい掛かるの?」

     タカシはこらえ切れずに大きな声を上げて笑った。

     「バスで行くわけには行かないよ」

     「どうして?」それでも彼女はきょとんとした顔で聞いた。その表情が思いがけないぐらいあどけなかった。

     「日本は地球の裏側だし、地続きじゃないからね。飛行機か船で行くんだけど、今はほとんど飛行機を使うよ」

     「私はブラジルしか知らないけど、とっても遠そうね」

     「遠いさ…。

     君は本当に日本のことを知らないの?

     ほら、フジヤマ、ゲイシャ、カミカゼ、なんて聞いた事ない?」

     マルウが目を輝かせた。

     「ええ、そのフジヤマという山の事は聞いたことがあるわ。皆その山の下をキモノとかいうドレスを着て歩いているんでしょ?そのドレス、とっても素敵なんですってね」

     タカシは可笑しそうだった。

     「そうだよ、その国だよ。

     もっとも富士山の下を着物着て歩いている奴なんていないけどね…」

     マルウは一瞬、ぼんやりと遥かな国から来た男を見つめた。男は楽しそうにグラスを傾けていた。男の生まれた国の事は想像も出来なかったが、彼と一緒にそこを訪れてみたいと思った。しかし、すぐにそれは不可能だと自分に言いきかせた。自分と彼とは余りにも違い過ぎている。

     男が子供のように無邪気に微笑みかけマルウは慌てて取り繕うように微笑み返した。

    マルウは自分の知っている世界の狭い事を痛感して哀しくなった。ミナス・ジェライスの遥か田舎でバレリーナを夢見ていた少女の頃はもちろんリオに家出してきてすぐにアントニオにこの世界に引き入れられた後も、限られた世界しか知らないできている。

     マルウは男から視線を逸らすと黙ってワイン・グラスを見つめた。自分の中にある哀しい部分を男には知られたくなかった。

     退屈な赤土の大地と、金鉱を堀りあてて一躍大金持ちになった男の噂しかない田舎町、それがマルウが生まれ育った町だった。そこは一番近い海岸からでも千キロ離れていた。大陸の奥、果てし無く続く大地。その事が、空気感の中に独特の重苦しさをもたらしていた。新聞や雑誌は一週間遅れ、と言って秘境というわけではなくただ世界から置き去りにされていただけだ。いつも華々しい金脈を探り当てた男の噂話がまことしやかに囁かれ、誰もが次に訪れる自分の幸運を夢見ていた。派手な外国車と、上流社会の女達に囲まれる暮らし。しかし実際には汚れた服を着て髪や爪の間まで泥で埋まる生活から抜け出した者はいなかった。荒々しく粗野な男たち。

     ガリンペイロ(金鉱堀り)だった父親。マルウの父親はそんな男達の一人だった。母親は死んだのか逃げだしたのか、とにかくマルウが物心ついた時にはもういなかった。いつも大きな金鉱脈を掘り出す夢を見ていた父親は金鉱を探しに出るより博打と酒に明け暮れていた。そして借金が嵩んで身動きがとれなくなった時自分を売ろうとしたのだ。父親の手を逃れ家出し、マルウはリオの街にやってきた。マルウはリオでバレリーナになるつもりだった。いつも優しいカルロス叔父が踊りを褒めてくれたからだ。

     『僕のプリマドンナ……』叔父は自分をそう呼んでくれた。

     『お前は世界一のバレリーナだ…』それが口癖だった。誰に習ったわけでもないが、マルウには天性のセンスがあった。爪先で立つことも、そのまま両手で大きく輪を描くことも、ほんの少し練習しただけで直ぐにできた。そして自分で考えた振付でマルウは一人踊った。大抵観客はカルロス叔父一人だった。叔父と過ごす時間は殺伐とした少女時代の唯一の慰めだった。カルロス叔父。マルウは叔父の持っていたラジオの音楽に合わせて踊るのが好きだった。叔父だけでなく時折マルウの踊りを目にした町中の誰もが自分の踊りの素晴らしさを褒めてくれたものだ。そしてその言葉を信じていた。自分は誰よりも上手に踊れると思っていた。

     愚かな私……。

     リオでの楽しい時間は一瞬だった。気がついた時には、自分には何もなく、街に立って男を誘うほかなくなっていた。そして震えながら街角に立った時、最初に自分を買ったのがアントニオだった。アントニオは私をもてあそびはしたが、殺さなかった。そして私を闇の世界に引き入れた。 

     マルウにとって幸いだったのはルイスがすぐに自分をアントニオ達から引き離し、親代わりのようになってくれたことだった。学校も満足に行ってなかった自分にルイスは懇切丁寧にいろんな事を教えてくれた。そして自分を淑女として扱ってくれた。マルウは貪欲にルイスの教えを吸収し今やこの社交界にいても恥をかく事はなかった。

     ルイスはアントニオ達のように何かを要求するという事もなかった。ルイスはカルロス叔父のようにいつも優しかった。

     それでも、自分が実際に世界を知っていると言い難い。自分の実感として知っている世界が少なすぎる。自分の知っているものは知識の上だけのものだ。そしてそれはすべてルイスに与えられたものでしかない。実際今マルウはタカシの生まれた国の事を何も知らなかった。ルイスに聞けばその国についてもいろんな事を彼は教えてくれるだろう。しかし本当にその国を知ったことにはならない。タカシを目の前にしてそんなもどかしさを彼女は感じた。

     「どうしてブラジルに来たの?」

     マルウはゆっくり顔を上げそう聞いた。

     「飛行機で来たさ」

     冗談めかして言うとマルウが少し膨れてみせ、二人に微笑みが浮かんだ。

     「いや、御免」

     タカシは真顔に戻った。そして考え込むように何も無いテーブルクロスを見つめた。

     「ブラジルは俺の夢だったんだ。

     写真なんか見ると海岸は綺麗そうだし、女の娘達もね…。それにとても広いしね……」

     そこまで言ったところで言葉が止まった。

     どうして自分はブラジルに来たのだろう?タカシはその問いを心の中で繰り返した。彼は自分の人生を思い返してみた。それは一言で言えば孤独な人生だった。下手な生き方だと思いながら、考えてみるといつもその時期その時期それまで大切にしていた物を捨て去るという事を繰り返してきていた。いま自分の手に残っている物は何もないのじゃないかという気がする。

     タカシは十八の時に両親を亡くしている。五十代の若さで特に劇的な事もなく、自然に死んでいった両親。最初に父親、そして父親に呼ばれるように一月後に母親も死んでいった。その余りの何気なさにタカシは哀しさより憤りを感じたものだ。親戚はいるがそのほとんどは遠くに暮らしていて付き合いもなかった。少年時代はともかく、高校生頃からは友達も少なかった。大学を出てしばらくの間広告の仕事をしていた時にはそれなりに脚光を浴びそうになった事もあったが、自分の一番信頼していた先輩に裏切られた。そしてそんな人間関係が嫌でタカシは日本を捨てた。放浪するという夢や広大さに憧れてタカシはブラジルにやって来た。しかしブラジルで経験した農場の生活も、景色だけは広々としていたが、人間関係は日本にいた時よりも狭いものだった。そしてその農場も辞め、これから先の事は何も決まっていなかった。ただ昔からの憧れのカーニヴァルが見たくてタカシはリオに来たのだ。

     しかしカーニヴァルも……。

     でも……、タカシは考えた。まだカーニヴァルは完全には終わっていない。それにいまルイスやマルウという友達ができた。先の事は分からないが、彼らとはこれからずっと付き合っていけるかも知れない。

     そう思うと少し気分がよくなった。それからタカシはいたずらっぽい表情を浮かべながら言った。

     「俺は、

     君に逢うためにブラジルに来たのさ」

     それは、ある意味では真実だった。

     マルウにはタカシのその言い方が切なかった。そしてその気持ちを自分で抑える事が出来なかった。マルウは自分の心の中に別の何かが住み着いているような気がした。その何かが自分を変えはじめている。

     「ありがとう」

     マルウは俯き加減にワイン・グラスを軽くかざした。ワインが蝋燭の光を受けて、白いテーブル・クロスに微妙な模様を描いた。

     タカシと一緒に過ごしている事がとても心地よかった。ずっとそうしていたいという気がした。

     「なにか書くものを貸して貰えるかな?」

     タカシが聞いた。

     「ええ、いいわよ」

     マルウはボーイに言って紙と鉛筆を持って来させた。タカシはちょっと微笑みながらマルウを見た。ほんの短い間タカシは紙の上に何かを描いていた。そして完成したものをマルウに手渡した。

     そこにはマルウのポートレートが簡単な線画で描かれていた。少し俯いて微笑んでいるマルウ。それは温かく優しい微笑みだった。マルウはそこに失われたはずの自分の姿を見た。マルウはその絵を胸に押し当てた。

     「この絵、頂いていい?」

     「もちろんだよ……」

     マルウは温かな哀しみを感じた。

     マルウは戸惑った。

     しかし、時は迫っていた。



             7


     ルイスは自分の部屋に帰ると、鍵を掛けベッドに腰を下ろした。体中に疲れが溜まっていた。そのまま横になって永遠に眠ってしまいたかった。少なくとも『儀式』が始まるまではもう部屋を出ないつもりだった。

     彼は自分のありのままの姿を晒していた。そこではもう人を欺く必要はないのだ。もう疎らにしか残っていない脂っ気のない真っ白な髪をかき上げながら、ルイスは窓に映った自分の姿を見た。深い皺が容赦なく精気のない乾ききった肌を侵していた。そこにはかつての優雅さは微塵もなかった。ただ生きる屍が映っているだけだ。死が自分に追いつき、追い越そうとしている。その事に恐怖を覚えた。

     青年に実際とは違った姿の自分を見せる事は、非常な緊張を強いられた。ルイスは自分の力が衰えている事を感じた。それは彼にとって基本的魔力の一つであり、かつては苦も無く出来た事だったのだ。人間と目が合った瞬間、意識を集中させるだけで、彼らに思い通りの姿を見せる事が出来るのだ。沢山の人間に、同時に違った姿の自分を見せる事さえ可能だった。かつてはその事を楽しみさえした。

     昔まだルイスがヨーロッパにいる頃、彼はパリの街が好きでよく滞在した。その頃からモンマルトルの丘には貧乏な絵描き達が集まるカフェが何軒もあった。彼はその雑多な雰囲気や若い芸術家達の気取った様子が好きで、よく一晩中過ごした。

     時々その絵描き達に自分の絵を描かせたのだが、出来上がってきた絵の一枚一枚にはそれぞれ似ても似つかぬ人物が描かれていた。あるものは彼を金髪の繊細な感じの青年に描き、あるものは黒髪の太って脂切った中年男に描いた。そのどれもが自分で見せようとした姿そのままだった。ルイスは自分の悪戯に満足すると、法外な金を支払ってやったものだ…。

     しかし昨夜は人間にまったく在りのままの姿を晒してしまうという失態を演じてしまった。その獲物は自分の目の前でトラックにはねられて死んだ。自分は手を下す事もなくただ呆然と見ていただけだった。路上に真っ赤な鮮血が流れた時、その血を飲みたいと思ったが目撃者のいる所で自分の姿を晒す事は出来なかった。惨めな姿のままルイスは路地に隠れていた。そして今夜もたった一人を相手にしていてさえ、何度も破綻の危機を迎えそうになった。それにあの犬のおかげで、もう少しですべてが台無しになるところだった。一番肝心な所で注意力を削がれたのだ。もう少しで昨夜のように、またありのままの姿を晒してしまうところだった。多分あの犬が自分に向かって来ていたら、そうなってしまっていただろう。ルイスは自分の力が落ちている事を痛感した。

     ヴァンパイアが永遠の生命を持つという伝説は真実ではない。ヴァンパイアにも寿命はある。ただその生命は普通の人間からすれば永遠に見える程長い。そして努力すればその生命をより長く保つ事ができる。ルイス自身もすでに数世紀を生き延びて来ている。ヴァンパイアの一生としては長い方だ。その為に努力を怠った事は無いが幸運にも恵まれてきた。最終的にブラジルを安住の地に選んだ事も、幸運だったと言えるだろう。

     ブラジルでは数々の不審な死や失踪は、黒人達の宗教(マクンバやカンドンブレ)の黒魔術の仕業と考えられ、ヴァンパイアの存在を追求される事はほとんどなかった。それに未開の地であったブラジルでは人の命の価値は低く、そういった死を執拗にあばきたてる者さえいなかった。彼は夜毎殺戮の快感を楽しみそのうちの何人かを新しいヴァンパイアの仲間に仕立ててきた。

     そしてカーニヴァルが彼の幸運をさらに大きくしていた。そこでは人々は刹那的な快楽に身を任せる事に熱中する。彼らは死を恐れない、むしろその最中に死ぬ事を願っているかのようにさえ見える。その狂乱に乗じてヴァンパイア達も仮装に身を包み、思う存分殺戮を楽しむ事ができた。

     そして何よりも、カーニヴァルは暗黒世界の『赤い月の日』なのだ。

     それを発見した事はルイスの最大の幸運だった。生き血だけでは死を遠ざけることができても、押し戻す事は出来ない。しかし『赤い月の儀式』は、死を押し戻し肉体を若返らせる事が出来る。

     それは数多い蔵書の中で偶然見つけた方法だった。彼はヴァンパイアとしての自分の存在理由を知るために、悪魔やヴァンパイアや神秘的な伝説等について書かれている書物は目に付く限り集めていた。

     それは北欧のバイキングの悪魔達の儀式だった。長い夜の続く冬。寒さと闇の中に延々と閉じ込められてきた巨人達が、春の光や匂いを嗅ぐと同時に自分の中に鬱屈して溜まったエネルギーを爆発させる。それが『赤い月の儀式』だ。それはカーニヴァルと共通した意味を持っている。カーニヴァルでは貧乏人達がどうしようもなく貧しい生活の中で鬱屈したものを爆発させるのだ。そして不思議な事に『赤い月の儀式』の日とカーニヴァルの日は一致している。

     神と悪魔はある意味では同じものだとルイスは思っている。どちらも神聖なものである事は変わりない。ただ神は光を象徴していて悪魔は陰を象徴しているだけだ。『赤い月の儀式』もカーニヴァルも神に捧げられるものだが、実際には自分達の身体の中にある陰の部分を解き放つ為にあり、そこには同時に裏腹な悪魔性を帯びる事になる。それに陰には光より複雑で神秘的な魅力がある…。

     結局自分がヴァンパイアになったのも、音楽家であった時から光よりも陰に魅せられていたからだ…。

     『赤い月の儀式』は自分達ヴァンパイアにも有効だった。彼は踊り上がって喜んだ。遂に本当に不死の方法を見つけ出したのだ。

     しかし文明の発達は彼らの仕事を徐々にやりにくくした。電気の発明は夜から闇を払拭しヴァンパイアの行動を制約した。その為彼は住居を転々と替えたり人里離れた場所に移ったりせざるを得なかった。ヨーロッパを逃げ出したのもそのせいだったが、文明の波はほどなくブラジルにも押し寄せた。

     文明はまたカーニヴァルをも堕落させた。かつて人々は純粋に自分の肉体を神に捧げる為に踊ったが、今はそれが世界中から集まってくる観光客の為の華やかなショーと化し、だれも神の為に踊る事はなくなった。本当の意味でのカーニヴァルを求める者はほとんどいなくなってしまったのだ。文明が発達する事で人間同士はどんどん平等になり、そしてカーニヴァルや様々な儀式からは神聖さが消え平板になっていく。

     理想のカーニヴァルを求める人間がいなければ『儀式』の契約を交わす事は出来ない。理想のカーニヴァルを求める人間にとって現実のカーニヴァルは常に何かしらの不満を含んだものになる。その心の不満が彼らにとっては隙になり、その隙をついて『契約』を交わすからだ……。

     しかし『儀式』の内容に関しては悪くはないと思っている。彼らは現実では味わう事の出来ない快楽を得る事が出来るのだから。

     それはその代償に充分見合う。

     カーニヴァルがより華やかになるにつれて『儀式』が成功する回数は少なくなっていった。そして遂にここ数十年はまったく成功させる事ができなかった。その事で仲間のヴァンパイア達の信任を失いかけていた。

     しかし、より重要なのは自分自身が死に向かいつつあるという事だった。今年こそ成功させなければ、自分の命が来年まで持つかどうか自信はなかった。いや、来年までに確実に死は自分を捕えるだろう。

     ヴァンパイアの死が如何に苦しいものであるかルイスは知っている。その死には容赦ない地獄の鞭のように果てしない苦痛が伴う。そして、そう易々とは訪れてくれない。何日も、ときには何ヵ月にも及ぶ時間をただ死ぬために苦しみ抜かなければいけない。そして死んだ後には無残な砂ぼこりのような屍を残すだけだ。今までに何度か仲間の死に立ち会ったが、その度に彼は目を覆い直視する事が出来なかった。


     ルイスにとってエリザベスの死は、いまだに生々しい思い出として、心に刻みこまれている。数百年経った今でもその事を夢に見、幾度となく苦しい目覚めを経験した。そしてその度にエリザベスの愛を裏切った自分を責め苛んだ。

     彼女はルイスをヴァンパイアにした女だ。彼が今まで愛という感情を抱いたのは、唯一彼女だけだった。

     エリザベスはルイスが出会った時点ですでに大変な年だった。しかし彼女の美しさはそんな事を微塵も感じさせなかった。

     二人で殺戮を楽しむために、よく裏街の宿屋に部屋をとったが、その窓から蝋燭の淡い光を浴びて夜の街を見下ろす時など、エリザベスの気高く胸を逸らした姿は崇高なほどに美しかった。二人は街で拾った男や女をそういった宿に連れこみ、生き血を吸った。ルイスが女を連れてきた時は、エリザベスがそれを覗き見し、エリザベスが男を連れてきた時は、ルイスが覗いた。それは二人だけの秘められたゲームだった。

     若い男がエリザベスの美しさに魅せられ、エリザベスの胸に抱かれる時ルイスは軽い嫉妬を覚えた。しかし、エリザベスが最後の接吻を男の首筋に与える時、その完成された仕種の優雅さ気高さにルイスはいつも感動を覚えた。そしてエリザベスの唇からしたたる血の色。唇から何にも増して美しい顎の線を伝っていく一筋の赤い色。その情景は深くルイスの心に刻み込まれている。

     彼女はまた美しい声の持ち主でもあった。まだルイスが血の通った人間だった頃から、二人は夜毎ささやかな音楽会を催した。彼の伴奏するリュートやクラヴィコードで歌うエリザベスの声は夜の天使のようだった。そして夜明けと共に二人は同じベッドに眠った。

     しかし、死は容赦なく彼女に近づいた。やがて激しい苦痛が彼女の体を襲い始めた。そのために彼女の美しい顔が微妙に歪んだ。気位の高い彼女はそんな自分の姿を見せる事が耐えられなかった。彼女はルイスを遠ざけ一人で部屋に引きこもった。

     「開けてくれ!どんな姿になっていようと私にはあなたが必要なのだ」

     それでも毎晩ルイスは彼女の部屋の前に立ち哀願した。この世の物とも思えない呻き声や絶叫がその扉から漏れてきた。そして二度と彼女は鍵を開けなかった。ルイスはなすすべもなくただその扉の前に立ちつくした。

     しかし、或る晩エリザベスの部屋にしずけさが蘇った。ルイスは彼女が息を引き取ってしまったかと思い、激しく扉を叩いた。彼女のか細い声がそれに応えた。

     「鍵は開いているわ。入ってきて」

     彼が入ると部屋には物の腐ったような臭いが充満していた。それは死臭だった。急いで窓を開け臭いを消した。そして枕元に駆け寄った。見慣れたベッド、そこでエリザベスと愛を交わし、手をつないだまま同じ夢を見たベッドには、見慣れぬ醜悪な塊が横たわっていた。

     「こっちを見ないで」

     力のない声がその塊から出た。そこには、しかし、まぎれもなく愛しい響きがあった。ルイスの目から流れる筈のない涙が溢れた。

     「ああ、風が気持ちいいわ」

     そう言って彼女は体を起こそうとした。ルイスは彼女に手をかしてやった。

     「ありがとう」

     彼女は夜の風の臭いを、もう一度愛しそうに嗅いだ。

     「一つお願いがあるの」

     ルイスは薄い紙のように軽い彼女の手を取った。

     「何でも言ってくれ、出来ることなら何でも叶えて上げよう」

     彼女は小さく笑った。

     「そんなに難しい事じゃないわ。

     この部屋のカーテンを全部はずして燃やしてしまって欲しいの」

     ルイスはたじろいだ。日光を遮るカーテンを取ってしまえば、ヴァンパイアは朝日と共に……。

     「だめだ……!」

     思いもかけないほど強い声で言った。

     「それだけはだめだ!」

     エリザベスは優しく微笑むと力のない手で彼の髪を撫でた。

     「そう言うと思っていたわ。

     でも、もうこの苦しさに耐えられないの。

     まだ力が残っている時は自分でそうしようと思ったわ。何度かカーテンを開けたまま寝ようとしたのよ。

     でもいざ太陽が上りだすと、耐えられなくて慌てて自分で閉めてしまったの。 

     私はもう死ぬのよ。

     どう足掻いても無駄だわ。

     だからお願い、せめてその苦しみを短くして欲しいの。

     私にはもう立ち上がる力も残ってない…」

     ルイスにはなぜかそのエリザベスの言葉に反抗する勇気が湧かなかった。目を背けていただけで、その日が来ることを知っていたのだ。

     「分った」彼は震える声で応えた。

     乱暴にカーテンを剥ぎ取ると中庭に積み上げ火を付けた。窓から見下ろすエリザベスの表情には安らぎが満ちていた。カーテンの燃える炎を受けて彼女の顔に一瞬精気が戻ったように見えた。

     真っ黒なカーテンはあっという間に灰になった。燻る残り火を二人はいつまでも見つめていた。

     ルイスはエリザベスの部屋に戻った。一緒に死ぬつもりだった。彼女のいない世界など想像も出来なかった。

     「もう、自分の部屋に帰って」

     彼女はルイスにそう言った。

     ルイスは拒んだ。

     「いや、あなたが死ぬなら、私も死のう。一緒に最後の朝日を見るのだ」

     彼女はそれでも何度か帰るよう促したが、ルイスは聞かなかった。

     そして彼女は案外簡単に引き下がった。

     「でも、あなたには耐えられないわよ」

     その言葉にはなぜかルイスを傷つける響きが込められていた。それでもルイスはエリザベスの枕元に座り彼女の手を握った。二人で楽しかった日々の思い出を語り合った。やがて夜は白々と明け始めた。雲一つない空が明るいブルーに輝き始めた。二人の思い出は、それでも尽きる事はなかった。

     窓から見下ろす森の向こうに一筋強い光が差し始めた。太陽がそこから顔を出すのはもう間もなくだった。ルイスは恐れていなかった。むしろ久し振りに見る光を懐かしく思った。

     そして最初の日差しが差し込み始めた。

     その途端、二人の体を何万本もの熱く熱した針で突き刺されるような痛みが襲った。二人は目をきつく閉じて呻いた。太陽が登るにつれてその容赦のない攻撃はますます激しさを加えていった。

     ルイスはエリザベスの言葉が偽りでなかったことを思い知った。彼は全身から蒸気のような物を出し、のたうち苦しんでいるエリザベスの手を振りほどきよろよろと立ち上がった。その時エリザベスの真っ赤な視線がルイスを捉えた。銀色の牙を剥き出しにし、涎を垂らしつづけるエリザベス。その姿はルイスにとっては初めて見る浅ましい姿だった。しかしその赤い視線にだけはまだ力が残っていた。その瞳がルイスに投げかけたのは、軽蔑だった。ルイスにはエリザベスが浅ましい姿を晒し断末魔の苦痛に喘ぎながらもも、自分の弱さをあざ笑っているのがハッキリと分かった。

     「本当だ……!私はあなたを愛している……!

     愛している……!」

     ルイスは醜悪な姿のエリザベスに向かって叫んだ。しかしエリザベスの視線は変わらなかった。その姿にルイスは恐怖を感じた。ルイスは悲鳴を上げ、エリザベスの部屋を飛び出た。自分の部屋にかえり、やっとの思いで扉を閉めた瞬間光の攻撃は消えた。ズタズタになった身体をベッドに横たえ、ルイスは喘いだ。エリザベスの部屋からは野獣の咆哮のような声が聞こえた。あの屍のような身体のどこにそれだけの生命力があったのか、その声はいつまでも延々と続いた。ルイスは自分のベッドに顔を埋め、枕で耳を塞いだ。体中が震えて止まらなかった。彼女の声はいつまでも止まなかった。そしてひときわ大きな叫び声が聞こえたあと、静寂が戻った……。

     ようやく切り裂かれた身体を引きずり、その夜彼女の部屋に戻った。かさかさに乾いた骨だけがエリザベスの夜着に包まれて横たわっていた。


     今ルイスは真剣に死の恐怖に脅えていた。自分があの地獄の苦しみに逢う事を考えるとじっとしていられないぐらい体が震えた。

     これまで幾度も『儀式』を経験して来たのに、今目前に迫った時を迎えて彼は興奮と恐れの入り混じった気分を抑える事が出来なかった。『契約』が成立している以上それが成功する事は間違いなかった。しかしそれでも安心出来なかった。万が一失敗することがあれば……。

     しかし青年の事を考えると、一抹の後悔の念を覚えた。ヴァンパイアには良心と呼べるものは無いが、卑怯な魔術を使った事で自分自身の誇りに恥じたのだ。

     青年に飲ませた酒は媚薬の一つだったが、ルイスの瞳と同じように催眠作用があった。彼は自分の力に自信がなく、薬にたよって自分の姿を欺き会話を誘導したのだ。

     そして『契約』のあとその記憶を消した。

     『儀式』に来る人間達は大抵、薄々自分の身にこれから何が起こるか知っているものだが、青年は何も知らない。

     青年は異教徒だ。

     彼の中にすでにカーニヴァルに対する不満が渦巻いてはいたが、契約を結ぶまでには到らなかっただろう。ルイスが魔術に頼ったのはそのせいだった。

     仲間達は青年が広間に姿を見せた途端、その事に気付いたのだ。それであの瞬間、動きが止まってしまったのだ。

     力の衰えを晒してしまったかも知れない。自分の力に不審を抱く者達が新しいリーダーにとって変わるよう要求するかも知れない。その気配は前々からあった。特にロベルトを中心にしたグループは何かにつけ自分の退陣を要求してきている。そしてすべての秘密の公開を迫ってくる。仕方なく幾つかの秘密は教えてやって来たが、すべてを渡したわけではない。彼らをヴァンパイアに仕立ててきたのは自分なのだ。自分はブラジルのヴァンパイアの長老であり、指導者なのだ。とにかく今は『儀式』を成功させる事が第一だ。幾ばくかでも若返る事さえ出来れば、打つ手はある。

     そして今回の『儀式』ではマルウが『プリズム』を勤める。

     ルイスは初めてマルウを目の前にした時の衝撃を今でも忘れる事が出来ない。アトニオが初めて連れてきた時、マルウは化粧気もなく見すぼらしい服をまとっていた。そして疲れた表情で俯いたまま、ルイスの方を見ようともしなかった。しかしその姿を見た時ルイスの心には数百年の時間が消し飛ぶように感じられた。そこにはまぎれもないエリザベスが立っていたのだ。 その髪、額、瞳、唇、耳、顎からうなじにかける線、豊かな胸、細くくびれた腰、しなやかな脚、腕、すべてがエリザベスの面影を正確に写し取っていた。マルウはエリザベスよりは見すぼらしく若い。そしてマルウにはエリザベスにあった瞳の輝き、知性の輝きや優雅さ気高さといったものが欠けていた。しかし欠けているものは自分が与える事が出来る。そうすればマルウは本当にエリザベスの生まれ変わりそのものになるだろう。そうする事でルイスはエリザベスの許しを得られる気がした。

     ルイスはマルウを手に入れる為にアントニオを殺した。アントニオの事はだれもがただ遠くに追放されただけと思っているし、実際それだけで事は足りたのだ。何も殺すまでの事はなかったはずだ。アントニオはただ好色な馬鹿な男だ。しかし余りにエリザベスに似たマルウを抱き、愛撫してきたアントニオをどうしても許すことができなかった。ルイスは一撃のもとにアントニオを引き裂いた。

     ルイスはマルウを大事に育て上げた。自分の持てるすべてを注いで、さらにエリザベスに近い姿に仕上げた。マルウは従順で同時に貪欲な生徒だった。ルイスは陰や闇の持つ美しさを教え、自然な優雅さを保つための知性を与えた。マルウの瞳にはいつの間にかハッキリとした知性の輝きが宿っていた。ただマルウはエリザベスのように歌う事だけは出来なかったが、かわりに踊る事が素晴らしく上手だった。今のマルウは容姿もそしてすべての優雅さにおいてもエリザベスそのものとなっている。いや、エリザベスにはなかった若ささえ持っている。

     エリザベスが生きている時に『赤い月の儀式』を知っていたら…、と何度思ったことだろうか?

     今エリザベスの生まれ変わりのマルウが、『プリズム』を勤める事になるのだ。そして『儀式』が成功して自分に若さが戻った時、エリザベスを愛したようにマルウを愛する事が出来るだろう。

     ルイスはゆっくりと立ち上がると、部屋の隅に置いてあるクラヴィコード向かった。そして久し振りに蓋を開けると鍵盤を叩き始めた。彼の演奏には情感という物が乏しかったが長年の練習のせいで見事に手慣れていた。

     そうやって楽器に向かっていると心に平静が戻ってきた。

     儀式の準備を始めなければ…



             8


     「一息ついたら一緒に踊りましょうか」

     「俺踊った事なんか無いから……」

     タカシは少し身を引いて首を振った。

     「だめよ、今日はカーニヴァルなのよ。それにこんなに食べて運動しなかったら太っちゃうわ……!

     私が教えてあげるから、

     私はこれでも最高のダンサーなのよ……」

     彼女はテーブル越しに彼の手を取った。

     サンバのリズムが徐々に激しさを増して来ていた。シャンデリアの蝋燭の淡い光が踊る人々の姿を美しく照らしだしていた。パーティが始まってから大分経っているらしく、ほとんどの蝋燭があとわずかの長さになっていた。

     この広間の光景はタカシが行った事のある場末のクラブとはまったく違う雰囲気があった。すべてが内には激しさを秘めてはいても表面上はあくまでも慎み深かった。仮面のせいもあったが、人々は無表情な上品さを纏っていた。そして不思議な事に誰も汗をかいていなかった。かえって涼しい風が開け放した窓から流れてきていた。その汗の臭いの欠如が他のパーティと決定的に違う雰囲気をつくっていた。取り澄ました雰囲気が少し馴染めない気はしたが、タカシは上機嫌だった。

     「さあ、手を取って!

     私が動く通りついてくるのよ!」

     マルウは広間の真ん中にタカシを連れ出した。そして右手を彼の背中に廻し、左手を重ね合わせた。 最初はバックのリズムを無視して、ゆっくりとステップを踏んだ。思ったより簡単にマルウの動きについていけた。

     「そう、その調子よ!」

     二人はゆっくりと広間の中で輪を描いた。

     「少し早くしてみましょうか」

     徐々に彼女がステップの早さを増していった。タカシは彼女の動きにだけ集中した。段々とバックのリズムに合って来た。 

     一瞬動きが逆になってしまい、二人の身体がぶつかった。

     「あはは、ごめん…。

     やっぱり、難しいね!」

     「あら、そんな事ないわ。とても上手よ。さあもう一度やってみましょう!」

    しばらくするとタカシはリズムに乗るこつをつかみ始めた。ぎこちなさがなくなるとより身体が自由に動かせるようになってきた。足元に注意していなくても間違わずに動けるのだ……。

     「その調子よ!

     サンビスタ(サンバの専門家)みたい!」

     まるで人形を抱いて踊るコメディアンのように、二人の体はぴったりとくっついたまま輪を描いた。タカシは自分の足を珍しそうに見つめた。

     マルウが灰色の瞳で見上げていた。素晴らしい食事の後、こうして踊っているのが夢のような気がした。

     また、自分が幸運だという思いが込み上がって来た。ルイスと知り合った事でこんなに楽しい思いが出来たのだから。

     これからはブラジルの生活も楽しいものになるのかも知れない…。

     ルイスがどういう人間かは分らないが、そんな事は気にならなかった。ブラジルには信じられないぐらいの金持ちが居るらしいけど彼もそのうちの一人なのだろう。そういえばルイスにはヨーロッパの貴族のような雰囲気がある。ここの調度も集まっている人々もブラジルというよりは、古いヨーロッパの貴族のパーティの趣だ。

     「楽しい?」マルウが聞いた。「ああ」タカシが答えた。


     タカシの腕の中で揺れながら、マルウは自分が酔っている事を感じた。それは食事の時に飲んだワインのせいばかりではなかった。『儀式』で『プリズム』をやるために、マルウの肉体は一時的に人間の肉体に戻されていた。テラスでルイスに抱きしめられた時、魔術がかけられたのだ。彼女の肌や唇には人間の血を吸ったばかりの時のように赤みが差していた。一時的に戻った身体の温かさや、人間としての感触が彼女を酔わせていた。

     マルウの手にタカシの肌の温もりが伝わった。広い胸にそっとに頬を押しつけると、穏やかに打つ心臓の鼓動が聞こえた。そしてゆるやかなサンバに合わせて踊っているうちにいつの間にか二人の鼓動が重なりあい、一つになった。そんな些細な事が嬉しくて小さく笑い声を上げた。

     「どうしたの?」

     「なんでもないわ…」

     胸の中に温かいものが込み上げて来た。それは温かいと同時に切なかった。マルウはヴァンパイアになって以来永遠に失ってしまった朝日の事を思い出した。

     穏やかな春の明け方。騒がしい小鳥達の囀りと共に部屋はぼんやりと白み、やがて窓から一筋の光が差し込み始める。光は最初窓の近くの床を照らすだけだが、ゆっくりとその足を伸ばし彼女のベッドの上掛けに届く。朝日の温かさが上掛けを通して伝わる。いつまでもベッドを離れたくない気持ちがする。でもやがて日差しは彼女の顔を輝かせ、容赦なく降り注ぎ始める。そして、彼女はゆっくりと心地よい眠りから覚める。眩しい日差しのなかに漂っている細かな埃の一つ一つさえ温かく輝いている…。

     それはマルウがヴァンパイアになってからよく見る夢の一つだった。しかし夢と同時に目覚める時、そこは穏やかな朝のベッドの上ではなく、光を完全に遮断した暗室のベッドの上だった。マルウは伝説のヴァンパイアのように柩の中には眠っていなかったが、寝室は完全に日光を遮断してあった。そして彼女がベッドを後にすると、外には闇の世界が待ち受けているのだ…。

     しかし今なら朝日の中に駆け出していけるような気がした。そうやって光に溢れる海岸や森を歩いてみたいと思った……。

     『出来ればタカシと二人で……』


     「君は綺麗だね」

     物思いに耽っていたマルウは、彼が何と言ったのか一瞬分からなかった。しかし気付くと同時に頬が赤く染まった。タカシの言い方は余りに素直だった。彼女は彼の視線を避けて俯いてしまった。

     急にタカシに男を感じた。ヴァンパイアになって以来人間にそんな気持ちを抱いたのは初めてだった。ヴァンパイアにとっては人間は渇きを癒すもの、その生命を維持する糧だった。男と交わる事はそれなりに楽しいことだが、それはオードブルのようなものだ。愛や恋といった感情とはまったく無関係だ。しかし今タカシと相対しているだけで、胸が切なくそして温かくなった。何度もその気持ちを押さえ込もうとするのだが、マルウにはどうしてもできなかった……。

     「下を向かなくたっていいのに」タカシは微笑んだ。

     「別に、お世辞とかで言ってる訳じゃないよ。本当にそう思うんだ」

     「ありがとう」マルウは囁くように答えた。

     「ブラジルの女の娘達を見てるとね、とても魅力的だとは思うけど……、どうも馴染めないんだ。俺が日本人のせいかも知れないけどね。ブラジルの女の娘達の綺麗さは絵に例えれば油絵かな…。それに比べると東洋人は水彩画だよ。だけど君はその……、ブラジルの人なのに水彩画のようだ。勿論油絵の良さも持っているけどね。それに…、君はとても優しい…」

     彼は少し恥ずかしそうに言った。 自分でも思いがけなくマルウは彼にキスしていた。タカシが優しくそれに応えた。二人の心が一つに繋がった。

     タカシがもっと狡猾な男や厭味な男だったら、もっと仕事がやりやすかったかも知れない。しかし彼は今まで『儀式』に現れた男とはまるで違っていた。何度も噂で聞かされた男達はもっと自分勝手な人間だったはずだ。

     『プリズム』に指名された時彼女はその責任の大きさは感じたが、いつものように冷静に事を運ぶ自信はあった。人間はあくまでもヴァンパイア達の糧なのだから。しかし、今は彼を『儀式』に連れていく事が心苦しく思えた。マルウには自分の心の変化を抑える事は出来なかった。

     彼女は戸惑った。マルウはタカシにひかれていた。

     シャンデリアの蝋燭の灯が幾つか大きく揺れた。そしてその一つが糸のような煙を残して消えた。人々の間から「おお!」と言う歓声が上がった。それが合図のようにサンバのリズムが急に激しくなった。

     また一つ消えた。さらに歓声が上がる。それまでの緩やかなサンバに合わせて優雅に踊っていた人達が、気取りや上品さをかなぐり捨てて、激しくステップを踏み始めた。

     タカシは少し驚いたように立ち止まってまわりを見ていたが、すぐにマルウから離れて一人でそのリズムに合わせ始めた。

     「どう?俺のダンス?」

     「とても素晴らしいわ……」

     そしてマルウも自由にステップを踏みはじめた。タカシは一瞬立ち止まって呆然とマルウの動きに見とれてしまった。そのしなやかさ優雅さは他では見たこともない。すばらしすぎるほどだ。マルウの言葉通り彼女は最高のダンサーだった。マルウがいたずらっぽくウインクして見せた。

     タカシもダンスの波に飛び込むようにさらに激しくステップを踏み始めた。


     その時目の前が急に真っ暗になった。まわりの音が消えた。そして耳なりのようにルイスの声が響いた。

     『自分でやるのだ。

     自分の意志でないと契約は成立しない』

     ルイスがタカシの人指し指に唇を当てた。痛みは殆ど感じなかったのに小さな傷が出来て、赤い血が真珠のような玉を作った。ルイスはその血をいとおしそうに見つめながらそう言ったのだ……。

     タカシの体は竦んだように自由が効かなかった。そしてルイスの命じるまま勝手に手が動いて、羊皮紙の上に描かれた星の中心にその指を押しつけた……。

     星の中心が自分の血で汚れた。赤い指紋がくっきりと見えていた。

     ルイスが喜びに震える手でタカシの手をつかむと、唇を指先に当て残った血を吸った。


     「タカシ!どうしたの?」

     マルウが心配そうに肩を揺すった。気がつくとタカシは体を震わせながら立ち止まっていた。急速に幻は遠ざかって行った。

     「いや、何でもない」


     しかし、マルウは気がついた。

     彼女の肉体は人間に戻り精神状態もヴァンパイアの冷徹さを失いかけていたが、独特の能力はまだ残っていた。その能力でタカシが見た幻を知ったのだ。

     ルイスは催眠術を使ったのだ…。

     『儀式』には正式な『契約』が必要だ。ルイスが見せた『契約書』は正式な形を取っていたが、実は騙して奪ったものだったのだ。 

     彼女の心の中で当惑が激しい勢いで広がっていった。騙して連れてきた人間を『儀式』に出すなんて……。

     今まで、そんな事は聞いた事がなかった。『儀式』は悪魔に捧げられるものだが、神聖であることに変わりはなかった。そこに嘘が混じる事は許されなかったはずだ……。

     時は迫っていた。また一つ蝋燭の灯が消えた。

     どうすればいいのかしら…?

     タカシ、

     ここにいてはいけないわ!

     その言葉が何度も胸の中で渦巻いた。でもそれを口に出してしまうと、『儀式』は完全に破綻してしまう。

     ここからすぐに出なくては…!

     彼女の心臓は激しく高鳴った。掌にじっとりと汗が滲んだ。

     『赤い月』の時は迫っていた。

     気づかわしそうに見上げると、彼はまだ虚ろな目をして自分の見た幻の意味を考えているようだった。言葉がついにマルウの唇から飛び出した…。

     「タカシ、ここにいては……」


     アルマンドは先刻から何度も首の蝶ネクタイに手をやったり、仮面のずれを気にしたりしていた。平静を保っていようと思っても出来なかった。また彼はレダに頼まれた事を小さな声で繰り返してみた。簡単な事だと思った。失敗のしようもない。しかし問題はタイミングだ。レダに言われた通りのタイミングを守る事が大事なのだ。早すぎても遅すぎてもいけない。

     アルマンドにも『赤い月』の時が迫っている事は充分に感じられた。体の中で熱い物がしきりと湧き起こるのが感じられた。彼は緊張して体を小刻みに揺すった。そしてまた部屋の鍵の入っているポケットを確かめた。

     彼はまだヴァンパイアになって日が浅かった。独特の冷徹さが、まだ身に付いていなかった。カーニヴァルのパーティに出るのも初めてでボーイをやらされていた。つまらない仕事だったが、我慢していた。

     そのうち、這い上がって行けばパーティのメンバーになれるだろう。

     人々の間を縫ってグラスをかたずけている時だった。急にレダが彼の名を呼んだのだ。今まで何度も逢っていながらずっと無視してきたのに「久し振りね」と突然出会った事をさも喜んでいるように微笑んだ。彼は冷たくされた事を少し怨みに思っていたが、薄い絹のドレスに身を包んだ彼女の姿を見た途端そんな気持ちは消し飛んだ。

     レダは、

     「頼みがあるんだけど…。

     簡単な事よ」

     と言いながら彼の耳元に近づいた。そして段取りを教え鍵を渡すと、

     「後で部屋に来てね……」

     と付け加えた。その目が意味あり気に光った。

     何のためにそんな事を頼むのか分からなかったが、断れなかった。彼はレダの身体が欲しかった。彼女の豹のようなしなやかな身体を思い浮かべると身体中が疼いた。ベッドでの彼女は信じられないぐらい激しい。

     アルマンドはヴァンパイアになって初めて本当のセックスの喜びを知ったと思った。ヴァンパイア同士のセックスは、人間とは違ってその先に何の意味もない。ただひたすら快感を追い求めるだけだ。人間のセックスが他の動物と比べてより複雑なように、そしてそれ以上に、ヴァンパイア同士のセックスは多彩だった。

     その喜びを教えたのも、彼をヴァンパイアにしたのもレダだった。しかし彼がヴァンパイアになってからしばらくするとレダは冷たくなり、ここ何か月かは口をきいてもくれなかった。

     人間としての最後の夜のことをアルマンドは思い返した。

     その夜レダは初めて自分の秘密を明した。そして、自分についてくるか、と聞いた。ヴァンパイアとして生まれ変わるか、死を迎えるかどちらかしかなかった。彼はレダのことを薄々感じてはいたが、その魅力の虜になってしまっていた。彼女はその危険さ故に何にも増して魅力的だったのだ。彼はためらうことなく闇に生きることを選んだ。

     その夜の二人はいつになく激しく長時間にわたって快感を追求し通した。人間として最後という事が、彼をより刹那的に燃え上がらせた。そして彼が絶頂を迎えた瞬間、レダが首筋に牙を当てて一気に血を吸った。目の前に赤茶けた幕が降り暗くなった。その瞬間レダは自分の手首の動脈を自分の長い爪で引き裂き、その傷口をアルマンドの口に押しつけた。甘く鉄錆の匂いのするドロドロとした血がアルマンドの口に溢れ、むせかえった。呼吸する事ができずに、気管支や肺にまでその血が入っていった。アルマンドは喘ぎまるで全身が溶けてしまうような激しい快感と苦痛の中で気を失った。

     そして、次に目覚めた時、もう闇に生きる存在となっていた。

     しかしその夜の事さえヴァンパイアになってからの日々に比べると色褪せる……。

     『儀式』にはまだ参加させて貰えないが、レダの頼みを果たせば久し振りに素晴らしい夜が過ごせそうだ…。

     幾つか蝋燭の消えた広間は騒然となってきていた。

     時を待つのは苦痛だった。早く仕事を済ませてしまいたかった。アルマンドは又ネクタイに手をやり気ぜわしそうに咳払いした。

     「よし!」

     しばらくしてから彼は呟いた。そしてもう一度ポケットを押さえて鍵を確かめると歩き始めた。人々の踊りの波の中に二人の姿が見え隠れしていた。まわりのヴァンパイア達の青白い肌の中で、二人だけが赤みのさした肌をしていた。それに二人だけが仮面をしていない。アルマンドは軽い嫉妬を覚えた。彼らの身体の中にだけ赤い血が脈打っているのだ。人間の生活に未練はなかったが、血や肌の温もりには郷愁を感じた。

     「マルウ様!」

     アルマンドは声を掛けた。彼女は男に何か話しかけている所だった。話を中断して彼女が振り返った。その顔に困惑の表情が浮かんでいた。一瞬レダの頼み事を見破られたか、と思ったが、彼女は何も知らない様子で、

     「なに……?」と聞いた。

     「ルイス様がお呼びです…」


     「ここで待っていて!」と言うと、マルウは急ぎ足でアルマンドの後に付いて行った。ドレスの裾がまとわり付いた。それに激しく踊り狂う人々が邪魔になって、それ以上早く走れないのがもどかしかった。しかし、とにかく一刻も早くルイスと逢わなければいけなかった。

     ルイスはきっと何か解決方法を見つけたのよ。それを言いたくて私を呼んだのだわ。

     偽りの契約のまま『儀式』が行われるはずがないもの…。

     広間をでるとすぐにアルマンドは階段を上り始めた。人々のざわめきは遠のき、二人の靴音だけが響いた。先に二階に上がった所でアルマンドは少し待った。

     「ありがとう」

     すぐにマルウが追いついた。

     ルイスの部屋はそのすぐ右だった。マルウはそっちへ行きかけたが、「こっちです!」とアルマンドが呼びとめた。一瞬彼女は訝し気な顔をしたが、すぐに彼の案内する後について反対の廊下を歩き始めた。

     絨毯を敷いた廊下を、くぐもった二人の足音が慌ただしく過ぎていった。幾つもの部屋の扉が重々しく並んで二人を見送った。皆広間に出払っていて、客室の方には人影はなかった。

     アルマンドが廊下の一番端までくると扉の前に立ち止まった。そして振り返ると、「こちらです」と差し示した。彼は息を弾ませていたが、それがただ急いで来た為だけではないことをマルウは見抜けなかった。 

     彼女は飛び込むようにその部屋に入った。部屋に人の気配が無いことにすぐに気がついた。しかしその瞬間アルマンドが扉を締め、素早く鍵を掛けていた。

     「開けて!」

     どんどんと扉を叩く音に彼は耳を塞いだ。強く耳を押さえてもマルウの声は心に直接響いてきた。彼は後ずさりしてその扉から離れた。

     とにかく約束は果たした。今度はレダが約束を果たす番だ…。

     彼は後も振り返らず走りだした。


     レダは広間の隅でずっとアルマンドの様子を見ていた。何人かの男が踊りの誘いに来たが断った。(喉が渇いたのよ。すこし休ませて…)彼の緊張した様子が可笑しかった。他のボーイ達が忙しく動き廻っているのに彼だけが立ち止まってしまっていた。そして何度も舌嘗めずりをし、ポケットに手をやっていた。

     幾つかの蝋燭が揺れて消えて行くのを彼女は黙って見ていた。

     そう、そう、この調子よ。もうすぐあの男は私の物になるのよ……。

     また何人かの男が踊りの輪に誘い込もうとしたが、やはり断った。

     アルマンドは自分がヴァンパイアに仕立てた男だ。あまりに未熟な若さが疎ましく、彼をヴァンパイアにしてからは放っておいたのだが、今こうやって眺めているとその未熟さが愛しく思えた。

     馬鹿な男ほど可愛いものよ。またしばらくは可愛がってやってもいいわね。

     彼女はもう一つ飲み物を取った。

     その時だった。アルマンドがマルウ達の方に向かって歩きだしたのだ。レダは驚いてグラスの酒をこぼしそうになった。

     まだ早すぎる!

     レダは思わず大声で彼を呼び止めそうになった。

     彼がパーティに出るのは初めてだということを忘れていた。『赤い月』の経験が彼にはないのだ。彼は強引に人の波をかきわけるとマルウに近づいて行った。そして彼が声をかけると、マルウは急ぎ足で彼について行ってしまった。タイミングはともかく、彼女を連れ出すことには成功したようだ。それにしてもマルウがあまりにもあっさりついていったのが不思議だった。まったく何の疑いも持たなかったように見えた。まるで人が呼びに来るのを待っていたようだった。

     でもいいわ、とにかく成功したのだから。

     広間の真ん中に、男が一人取り残されていた。ためらってはいられなかった。レダはロベルトの姿を求めて広間を見渡した。ロベルトは広間の真ん中で名もない娘と踊っていたが、アルマンドの動きには気づいたらしく、レダの方にウインクしてみせた。レダは注意深く仮面を外すと、額を覆うように前髪を垂らした。そして男に近づいて行った。


     マルウがいなくなってしまうと、タカシは急に孤独な気がした。まわりには沢山の人がいるのに、誰もがよそよそしかった。ルイスが特別な客として招いてくれたはずなのに、考えてみると相手をしてくれたのはマルウとボーイ達だけで他の人達とは口をきいていなかった。そして今はルイスの姿も見えない。 

     何かがおかしかった。彼は何度も首をひねった。すべてに何かしっくりとしない感じがあった。

     初めて広間の扉の前に立った時の一瞬の静寂……。

     仮面の下の人々の視線……。

     それに度々現れるルイスの幻……。

     あの路地でルイスと逢った事は覚えていたが、その時どんな話をしたか思い出せなかった。

     ルイスのギター……。

     フラスコの酒。

     一緒に歌った歌……。

     カーニヴァルはどうだったかね?

     と聞いた声……。

     しかし…、

     しかしその先は何も思い出せないのだ。

     何かが引っ掛かった。その覚えてない時間がとても大事な気がするのだ。

     タカシは指先の傷を見つめた。するとまたあの路地の情景が浮かんできそうになった。そのイメージをつかむように両手を虚空で大きく開いた。しかし、それははっきりとした形になる前に霧のように消えてしまった。

     ここにいてはいけない、

     という声が聞こえた。タカシは誰かが耳打ちしたのかと思い、慌てて顔を上げ辺りを見回した。しかしそれは自分の胸の中の声だとすぐに気がついた。

     どうしてそんなことを考えるのだろう?

     自分で自分の気持ちが計りかねた。

     今すぐ出ていかなければ……!

     でもどうして……?

     マルウは優しく素敵だった。彼女と一緒に居るととても楽しかった。彼女はブラジルに来て初めて逢った友達、そしてもっと大切なものかも知れない。

     彼女はすぐに戻ると言っていた。

     今はマルウと離れたくない。

     もっと一緒にいたい。

     彼女の事をもっと知りたい。

     一緒に町や海岸を歩きたい……。

     一緒にふざけあっていたい……。

     彼女を抱きしめたい……。

     キスしたい……。

     他の奴なんかどうでもいい、

     彼女がいるのだから……

     俺は彼女に恋しているのかもしれない…。

     でも!!

     今すぐ出ていかなければ…!

     どうして!

     どうしてなんだ?!

     タカシは強い衝動に駆られて自分でも気づかないうちに扉の方に向かっていた。

     しかしなぜか踊っている人間が邪魔になって容易に扉に近づけなかった。まるで雲の壁のように一歩扉に近づくたびに柔らかく押し戻された。



             9


      「彼女はすぐに戻るわ。安心して」

     タカシは呼び止められて立ち止まった。女はゆっくりとタカシの方に近づいた。自分の魅力を充分知り尽くしている自信に満ちた歩き方だった。そして女は息がかかるほど近くに立ち止まった。甘い香水の香りがタカシを包んだ。長く真っ直ぐな髪の間に散りばめた飾りが星屑のようにきらめいていた。

     「マルウの代わりに、

     しばらく私がお相手するわ……」

     その声は艶めかしく掠れていた。

     「私はレダ」

     女は豹のように滑らかな仕種で右手を出した。

     「あなたの事は知っている…。

     とってもよくね…」

     そしてレダは謎めいた微笑みを浮かべた。

     彼女もマルウと同じように仮面をしていなかった。ただ、前髪が不自然に額を覆っていた。そのせいで少しぎこちなく、俯き加減にタカシを見上げていた。真っ赤なドレスの胸元は大きく開き、そこから豊かな膨らみが覗いていた。その肌は長い間波と太陽に晒されて摩耗した貝殻のように白かった。薄い絹のドレスは彼女の体の線をよりはっきりと浮き上がらせていた。絵のようにくびれた腰から長い足が伸びていた。一瞬その姿にタカシは見惚れてしまった。タカシは彼女の差し出した手を握った。氷のように冷たい手だった。

     マルウがすぐ戻ると聞くとタカシは少し安心できた。

     マルウが戻るまで少し待とう……。

     レダはタカシの手を取ると踊りの輪の中に引き込んだ。二人のまわりの人の輪が急に広がった。レダもダンスのパートナーとして素晴らしかった。マルウのようにアカデミックではないが官能的な雰囲気があった。柔らかく波打つ体に合わせてドレスが鮮やかに翻った。タカシはレダの動きに引き込まれた。二人がサンバの演奏に合わせて踊るのではなく二人の動きがサンバを指揮していた。

     まわりの人達が踊りを止めて二人を大きく取り囲み始めた。いつの間にか踊っているのはタカシとレダだけで、他の人々は二人の踊りに見惚れていた。ボーイやバーテン達までが手を止めその輪の中に混じっていた。そして二人のステップが決まる度に大きな拍手が起こった。

     メリーゴーランドに乗っているようにまわりの人間が流れて見えた。ますますサンバのリズムがうまく捉えられてきた。それがタカシは少し得意だった。今の自分の姿をマルウに見せたかった。そして時々扉の方に目をやったが、彼女はまだ現れなかった。

     レダにはタカシが何を思っているかすぐに分かった。別に心を読むまでもなく、顔色を見ているだけで充分だった。そのことに少し腹が立った。

     いいわ、

     今マルウの事を忘れさせてあげるから…!

     レダが情熱的な目でタカシを見つめ、しなやかな体をすり寄せた。彼女の体が柔らかく押しつけられる度にタカシの体の中に熱いものが込み上げてきた。サンバのリズムがその熱いものをより燃え立たせ激しく煽った。

     リズムの波に身を任せると奇妙に頭の中が空っぽになってきた。見えるのは目の前にいるレダと激しく動く自分の足先だけだった。それ以外は何もかもどうでもいい気がしてきた。

     足が、体が、自由自在に動かせた。タカシはサンバの熱狂に再び酔い始めていた。

     シャンデリアの蝋燭が今はもう半分ぐらいは消えてしまっていた。広間はビロードのような闇に包まれていた。宝石や貴金属のきらめきが星屑のように飛び散っていた。

     レダはほくそ笑んだ。あともう少し彼を引きつけておけば、そのまま『儀式』の時間に突入出来る。そして私がこの男を抑え、ロベルト達がルイスを抑える。

     もう少し。

     もう少しだ…。

     彼女の妖しい微笑みの意味をタカシは知らなかった。

     「レダ!」

     部屋の隅から囃し立てる大きな声が聞こえた。それがロベルトの声であることはレダにはすぐ分かった。しかしそれをきっかけに広間中の人々が、「レーダ!レーダ!」と歌うように声を上げ始めた。そしてロベルトの姿は人の輪の中から消えていった。彼が行動を起こした事をレダは知った。サンバのリズムとその声が重なり広間全体が大きくうねって揺れた。周囲の男達に手を振って彼女は応えた。他の男達も私が『プリズム』になる事を望んでいる……!

     二人の踊りに引き込まれるように、まわりの輪の中から男達が飛び出し、二人を取りかこんでステップを踏み始めた。そしてレダとタカシを中心に惑星のようにまわった。

     レダはタカシの傍を離れると次々とまわりの男達に体をすり寄せた。男達は代るがわる踊りながらその胸に彼女を抱き止めた。男の腕の中に抱かれながら、レダはじっとタカシを刺すような視線で見つめた。薄暗い広間の中でその瞳が妖しくタカシを挑発した。その度に彼の胸の中で何かが疼いた。

     闘牛士の仮装をした男がレダの腰に手を当てると、一気にスカートを剥ぎとった。そして、赤いスカートを空中で大きく翻して見せた。薄暗い広間に赤い絹の花が咲いた。

     「オーレー!」

     大きな歓声が上がった。 

     レダは露になった足を誇示するように爪先をゆっくり上げて見せた。そしてまた豹のように男の腕から腕へと身を任せていった。目だけは決してタカシから逸らさないまま…。

     タカシの胸の中の疼きが大きくなった。その意味に気付いた時彼は戸惑った。それは嫉妬だった。思いも掛けなかった事に彼は嫉妬していたのだ。レダをもう一度自分の腕に抱きたかった。

     タカシは彼女を取り返そうと駆け寄った。しかしそんなタカシをあざ笑うように、レダは別の男の腕へと逃れた。また捕まえようとすると別の男へ。レダは瀕死の獲物をもてあそぶ猫のようにタカシの心をもてあそぶことを楽しんでいた。

     下手な鬼ごっこだ。

     さあ、捕まえてやるぞ!

     これは子供騙しの遊びなんだ。タカシはそう自分に言い聞かせようとした。馬鹿みたいに本気になることはないんだ。

     タカシは扉の方をちらっと見た。今マルウが現れてくれれば、この馬鹿げたゲームを終わらせることが出来ると思った。しかし相変わらず扉は閉まったままだった。

     鬼さんこちら……、か…?

     さあ、手間を取らせるなよ!

     彼は笑い飛ばそうとした。しかしその笑いはぎこちなく強張ってしまった。いつの間にか彼は本気になってレダを追っていた。もてあそばれることの怒りと嫉妬で胸が暑苦しかった。

     彼は乱暴に男達をつき飛ばし、レダに迫った。しかし次々と新しい男達が加わり、迷路のようにレダを遠ざけた。中世の貴族から葉巻をくわえたギャングへ、ギャングから仮面のチャップリンへ。チャップリンから……。

     その時急にぽっかりと開いたように隙が出来た。その瞬間だけタカシをさえぎる者がなくなった。レダは目の前で無防備に立ち尽くしていた。その顔に唖然とした表情が浮かんでいた。タカシは飛びつくように手を伸ばした。もう少しでレダに届きそうだった……。

     突然横から飛び出した道化師がその手を取った。レダがまたあざけるような笑い声を残して別の男の胸に逃れた。道化師は彼の手をうやうやしく握ると、大仰にキスする真似をした。大きくはみ出して描かれた唇から長い舌が飛び出した。仮面の奥で小さな目がタカシを笑っていた。

     「邪魔だよ!」

     タカシは荒々しくその手を振りほどいた。道化師の男がわざとらしく怖がって見せた。

     「馬鹿野郎!」

     罵声を上げて、尚も執拗にレダを追いかけた。

     誰かが急に足を出した。簡単な悪戯に引っ掛かり、彼は大きな音を立ててひっくり返った。ポケットからルイスに貰ったフラスコが飛び出し床をころがって行った。一斉にヒステリックな笑い声があがった。薄暗くなった広間の中で、黒い仮面が幾つもタカシを見下ろして生き物のように小刻みに震えていた。彼の胸の中でどす黒い怒りが頭をもたげた。指さして笑っている奴らの鼻をへし折ってやりたかった。倒れたまま誰彼構わずひっつかもうと腕をまわした。まるで醜い怪物でも迫って来たかのように大袈裟な悲鳴が上がり、人の壁が後退した。

     レダは背の高い海賊の衣装を着た男の腕に抱かれながら、タカシを見下ろしていた。そして男の胸に頭をもたせかけながら、髯を愛撫するように撫ぜた。男が鍵爪になった手をレダの胸元に引っ掛けた。そして、にやっ!と笑いながらその胸を覗き込んだ。小さな赤い花のような乳首がこぼれた。男が舌嘗めずりをした。レダが大きく口を開けて下卑た笑い声を上げながら、その手を払い退けた。彼女の歯がまるで金属で出来ているように銀色に輝いた。

     その瞬間タカシは飛び上がって起きると、レダの腕に飛びついた。今度は逃がさなかった。タカシは力一杯その手を引っ張った。海賊の男は指のある方の手で彼女を捕まえようとしたが空をつかんだ。

     レダが甲高い悲鳴を上げた。思いも寄らないぐらい彼女の体は軽かった。グキッ、とハイヒールの踵が折れる音がした。レダがバランスを崩してタカシの腕に倒れ込んだ。タカシはレダを両手で抱き止めたが勢い余って床に倒れ込んだ。すぐにレダが上体を起こしてタカシを見おろした。その目には激しい憎悪がみなぎっていた。その時彼女の額にはぼんやりともう一つの赤い瞳が浮かび上がってきた。

     背筋に冷水を浴びせられたように一瞬体がすくんだ。鉛を飲み込んだように恐怖で胸が苦しくなった。息を吸うばかりで吐くことが出来なかった。

     ここに来てはいけなかったのだ……。

     レダの額のもう一つの目がタカシを見つめていた。ルビーのように赤い目、それは第三の目、チャクラとか慧中と呼ばれる超能力を発揮させる器官の発達したものだ。それが獲物を狙う蛇のように冷たくタカシを見つめていた。そしてそこから容赦ない念射が届いた。

     敵意。

     獲物を前にした猛獣の敵意。

     突然このパーティに集まった人間達の正体が分かった。そして彼らの仮面の意味が…。

     タカシは乱暴にレダを投げ出すと、渾身の力で扉に向かって走り出した。何故か心の奥底で、無駄な抵抗だと自分で自分をあざ笑う声が聞こえた。

     仮面の男達が彼を捕まえようとしたが、その手を殴りつけ振りほどいた。誰かの長い爪が当たって、血が流れた。それでも人の海をかきわけて泳ぐように扉に向かった……。扉の把手に手が掛かった。真鍮の冷たい感触にすがりたい気分だった。

     そして扉を思いきり開いた。

     「タカシ!」

     目の前にルイスが立っていた。

     先刻までの優しさは微塵も無く、厳しい表情の中には怒りさえ見えた。ルイスの目が急に赤く輝き、二つの光線がタカシの目を刺し貫いた。黒い幕が降りるように目の前が暗くなった。身体がぐらっと傾き、意識が遠のいていった……。

     そしてタカシはルイスを押し退けようと手を伸ばしたまま、材木を切り倒したように真っ直ぐ倒れていった。



             10


     ムウゥゥゥ…ン!

    低い音が澱みなく続く中でタカシは目を覚ました。うす暗い場所で一瞬自分がどこに居るのか分からなかった。タカシはゆっくりと首を振り意識をはっきりとさせた。

     ムウゥゥゥ…ン!

     タカシはゆっくりとあたりを見回した。うす惚けていた焦点が合うと、彼のまわりには黒いマントに身を包んだウァンパイア達の立っている姿があった。

     ムウゥゥゥ…ン!

     その音は彼を取り囲んだヴァンパイア達が低く歌うように何かを唱える声だった。そこには選ばれた六十六人のヴァンパイアが立っていた。誰もが同じ黒いマントに身を包み、俯き加減に呪文を唱えていた。仮面とマントのせいで、彼らの姿は大きな蝙蝠のように見えた。

     正面の祭壇の上にルイスがいた。彼ははもう魅力的な中年男では無かった。渇き切った大地のようにその顔には無数の深い皺が刻みこまれていた。しかしいくら顔形が変わっていても、それが彼であることはすぐに分かった。

     反対の壁には大きな丸い窓が切ってあり、そこから月の光りが赤く差し込んでいた。窓ガラスは、大きなボールのように湾曲していた。今や月はその窓の中にすっぽりと入り込みそうだった。

     さっきまでヴァンパイア達が踊っていた広間の真ん中に、タカシは横たえられていた。明かりは全部消えていたが、窓から入る赤い月の光で広間全体が充分に明るかった。

     タカシは両腕で自分の肩を抱いた。寒かった。何時の間にか服を剥ぎ取られて裸にされていたのだ。自分の身に何が起ころうとしているのか見当も付かなかった。ただ死が待ち構えているという確信だけはあった。それでも怖くはなかった。今の状況から逃れようとか、抵抗して足掻こうという気持ちは、もうまったくなかった。タカシ自身は今不思議と平安な気持ちで、自分の運命の最後を見つめていた。

     広間を目に見えない何かが満たし始めていた。空気自体がブーンという唸りに似た音を上げ重苦しく人々の間を埋めつくしていた。


     クトゥルドゥ、

     デラメーア、

     ドゥジェルサレドゥ、

     アドニオー…。

     ルイスは久しぶりの呪文をゆっくりと唱えた。そのルイスの声を追うように、他のヴァンパイア達の声が続いた。それは太古の昔から存在した宇宙の暗黒世界のエネルギーとの交信をはかるための言葉だ。それが、今時間を越えて蘇ろうとしているのだ。

     グレアー、

     ダナー、

     リオース、

     ドゥフリジオー…。

     ルイスの声はひときわ低くよどみなく響いた。『儀式』が始まるまでの不安は後形もなく消え失せていた。実際に呪文を唱え始めた時、自分の声が昔と変わっていない事に、心地良さを感じた。ルイスは今力強い指導者に戻っていた。

     レダやロベルトの企みも完全に制圧した。この儀式の後には彼らを追放してしまうことが出来る。そしてこの『儀式』を成功に導いた事で、又自分の信任はあつくなる。

     自分はついていると思う。レダの失敗がなければ、追放されるのは彼らではなく自分であったかも知れない。レダはことを急ぎすぎたのだ。そしてロベルトは……。馬鹿な男だ。愚かな自信が自分の身を滅ぼす事になった。すべてを知っている気になっていたかも知れないが、本当にすべてを明け渡すほど私は愚か者ではない……。

     ただ一つ気になる事はこの『儀式』の後にマルウを失う事になるかも知れないという事だ。マルウを救い出した時彼女は『儀式』の無効を強行に主張した。どんな形にしろマルウが自分にあれほど激しく抵抗したのは初めての事だった。そして、これを最後にマルウは我々のグループから去る、と宣言した。

     しかし、それも自分が若さを取り戻す事によって解決の道を見つけられるだろう…。

     こんなことでマルウを失うわけにはいかない。

     呪文が進むに従って体中に力が漲ってくるのを感じた。広間を満たす重い空気が自分自身の肉体に溶け込み、そして自分自身の存在が肉体を越え広間全体を覆い尽くしていた。今や暗黒の宇宙は彼の中にあり、彼の存在は暗黒の宇宙全体に広がっている。個としての自分と全体としての宇宙が一体になっているその感覚が心地よかった。そこには旧友との再会に似た懐かしさがあった。

     アングゥー、

     ムウー、

     レグザーダァー…。

     ルイスは十字を逆に切り、そして誓いを立てるように右手を上げ天井を仰いだ。ヴァンパイア達が皆それにならい、青白い顔を天井に向けた。

     祭壇の上に置かれた羊皮紙を取り上げるとルイスはそれを頭上高く差し上げた。青い文字とタカシの鮮血で押した血判が鮮やかに見えた。その瞬間閃光が広間全体を真っ白にした。祭壇の横に置かれた石版の上にその羊皮紙を置くとそれが石版自体の皮膚のように張りついた。

     今や儀式に必要なものはすべてそろった。

     ザルト、

     デハータム……、

     蝋燭の消えてしまったシャンデリアが虚しく揺れていた。天井には幾何学的な大きな星の模様が描かれていた。その星がルイスの声に呼応して青白い燐光を放った。ルイスが満足気に頷いた。

     エリザベス、

     すべては整った……。

     あなたのために……。


     タカシを取り囲む輪の中から、女が一人近づいて来た。女は真っ白な薄い絹を身に纏っていたが、赤い月の光りが絹越しに彼女の体を容赦なく露わにしていた。その下に何も身に付けていなかった。冷たい床を踏む素足の音がタカシの耳に届いた。タカシは立ち上がって彼女を迎えた。女はすぐ前で立ち止まった。

     「マルウ……」

     タカシは女の名を呟いた。マルウは黙ったまま頷き、タカシを見上げた。その表情には限り無く優しさが溢れていた。結局タカシを『儀式』から救い出すことは出来なかった。今はただ『プリズム』としての自分の役目を精一杯果たすだけだ。

     タカシのために……。

     『儀式』の無効を主張した時、ルイスは絶対に認めようとしなかった。マルウが『プリズム』を降りても、新しい『プリズム』を仕立てるだけの事だ、と笑っていた。その時のルイスの表情には初めて見る卑しさが浮かんでいた。マルウは初めて激しくルイスを憎んだ。そしてヴァンパイアである自分を……。

     しかし、新しい『プリズム』と共に無残な『儀式』にタカシを供する事は出来ない。せめて自分が『儀式』を素晴らしいものにするしかない……。

     タカシは手を伸ばすと彼女の額に下がった髪に触れた。そこにはレダのような赤い目は無かった。彼は微笑みかけた。

     「さっき、

     とっても君にいて欲しかったんだよ」

     彼女は何も答えなかった。ただ黙って微笑み返すだけだった。その一瞬マルウはまたタカシと光に溢れた海岸を歩いている自分の姿を夢見た。その頬に一筋涙が伝って落ちた。マルウは彼の肩に手を置くと少し背伸びするようにキスした。タカシはその細い身体を抱き締めた。涙の味がした。

     マルウは彼の腕を振りほどくと白いベールを脱ぎ捨てた。さえぎる物の無くなった白い裸身が、月の光りを受けてほの赤く輝いた。それからマルウは髪を束ねていた銀の飾りを取った。栗色の髪が柔らかく肩に落ちた時タカシはいつかその情景を夢で見た事を確信した。

     「綺麗だよ!

     マルウ。

     ずっと君を待っていたんだ」

     マルウは黙ってうなずいた。長いまつげに涙の雫が光っていた。

     「俺はもう……」

     (生きて帰れないんだろう?)と聞こうとすると、彼女が人指し指でタカシの唇を塞いだ。

     (もう、何も聞かないで)マルウが首を振ると髪がさらさらと鳴った。

     もう一度唇を重ねた。

     そしてもう一度…、

     もう一度……。

     彼女の熱く濡れた唇が貪るようにタカシの唇を吸いはじめた。

     愛している、と言う言葉が同時に二人の胸をよぎった。その実感が二人を満足させた。タカシとマルウの間を遮るものは何もなかった。二人は初めて、お互いの心深く根づいていた孤独を慰めてくれるものに出会ったのだった。

     マルウの手が絹のような肌触りで上へ下へと移動した。タカシの指がマルウの背筋をさまようと、時々彼女がびくっと痙攣するように身体を震わせた。

     彼女の肌は滑らかだった、そして炎のように熱かった。

     ヴァンパイア達の低い呪文の声は続いていた。広間の重い空気がさらに密度を増し、中央の二人に集中した。低い呪文の声と二人の熱い吐息が重なり、空中に小さな稲妻のように電光が走った。

     ルイスの神経は赤い月の動きを微妙に捕えていた。そして今や広間中に見えないエネルギーが充満している事を感じていた。準備が整ったと思った。

     今こそすべてを燃え上がらせる時だ……。

     デナーダ、

     デヤナーター…!

     ヤー、レー、ドゥーッ!

     ルイスがひときわ大きな声を上げ、黒いマントを脱ぎ捨てた。その瞬間ヴァンパイア達は呪文を止めた。静寂が広間を覆った。そして他のヴァンパイア達も、マントを脱ぎ捨てた。ヴァンパイア達の青白い墓石のような裸身が二人を取り囲んだ。

     一斉にヴァンパイア達が掌を上に向け、両手をつきだした。そして伸ばした腕を徐々に持ち上げていくと、広間の中央でタカシとマルウの体が絡みあったまま、空中に浮かび始めた……。

     空中に浮かんだ二人にはあらゆる姿態が可能だった。タカシの唇がマルウの首筋を這い乳房を這った。マルウの指がタカシを燃え立たせた。二人は重なり合い、絡み合い、お互いを確かめ合った。二人の波動はしっかりと重なり、高まって行った。二人の動きに呼応して空中に電光が走る。空気の密度が更に増し、今や息苦しいほどになっていた。

     マルウの熱い肌のさらに熱い部分にタカシが沈み込んだ瞬間、二人の身体が青白い閃光を放った。マルウの口から大きな呻き声が漏れると、それがオーロラのような光を空中に撒き散らした。そしてマルウの栗色の髪は燃え立つ炎のように逆立った。一体になった二人の身体を熱いエネルギーが激しく駆けめぐった。マルウが大きく体をそらせると、顎から胸の線が柔らかくしなった。

     素晴しかった。快感が熱く、甘く、押し寄せた。そして何よりも素晴らしいのは、その快感を二人が共有していると自覚出来る事だった。二人は熱いマグマのように溶け合っていた。二人は一つであり、一つは二人のすべてだ。

     月は完全に窓に重なろうとしていた。窓自体がその光りを受けて赤く輝き出していた。そして空中で回転する二人の姿をより赤く照らした。

     その時、ヴァンパイア達が一斉に仮面を剥ぎ取った。それぞれの額には赤い目があり、それが二人を見上げた。そしてそこから真っ直ぐ細い光線が飛んだ。二人の体はその六十六本の光線で出来たピラミッドの上で踊るようにまわり続けた。

     突然の衝撃にタカシは目が眩んだ。その瞬間タカシとマルウの存在は単に二つの肉体という意味を越えていた。二人は赤い光線からまわりに集まっているヴァンパイア達のすべての感覚を受け取っていた。それは六十六人の人間と同時に愛を交わす事だった。

     嵐のような快感。大津波のようにタカシとマルウを巻き込むエネルギーの渦に二人は翻弄された。すべてのエネルギーが二人に集中し同時に二人の身体を通して放射するという事を激しく繰り返した。そしてさらにそのエネルギーの渦の中で二人の波動は重なりあったまま爆発するように高みを目指して昇りつめていった。二人の律動は急速に早まり、マルウの口から喘ぐような声が漏れた。

     「オオォォゥッ、

     タカァァーシィィィ!」

     マルウの体は堪え難い程熱くなっていた。その背筋や胸の谷間には間断なく汗が流れ、彼女の爪がタカシの肩に食い込んだ。

     そして爪先から頭の先まで激しい快感が貫き、タカシはマルウの中に情熱のすべてをほとばしらせた……。

     「マルゥゥゥー!」

     「ウオォォーッ!」

     同時に広間中を歓喜の声が満たした。

     マルウが大きく体をのけぞらした。

     その瞬間、赤い月は丸い窓とぴったり重なり合った。湾曲したガラスが、レンズのようにその光を一点に集中し、マルウの額に向かって鋭い光りが飛んだ。

     バキッ、と音がしてマルウの額が割れた。そこには他のヴァンパイア達よりもひとまわり大きな赤い目があった。そしてその目が月の光を反射した。その光がタカシの額に突き刺さった。

    タカシはその眩しさに固く目を閉じた。焼きごてを当てられたように額が熱かった。そこにはレダの目にあったような敵意はなかった。ただひたすらに大きなエネルギーがあるだけだ。そしてその中にマルウは渾身の力を振り絞って愛を送り込んでいた。その愛が最後の瞬間の苦痛を和らげ、素晴らしいものに変えていた。

     ゴオーッ、という音がその額の辺りから聞こえた。そしてタカシの体の奥で何かが凄い勢いで揺すぶられた。

     ゴオーッ、体の奥で何かヌルッとしたものが強引に剥ぎ取られ、ゆっくりと額に向かって動き始めた。

     ゴオーッ、タカシの身体は小刻みに震え続けた。額の熱さは凄まじい苦痛であると同時に快感でもあった。

     ゴオーッ、身体の中の何かは今やその額の所まで来ていた。それはしばらく抵抗をするように動く事を拒んでいたが、やがてゆっくりとタカシの身体を離れた……。

    更に強力な快感と苦痛がタカシを襲った。一瞬、走馬灯のように今までの人生の情景が浮かんだ。そして最後にマルウの姿の残像だけが残った。

     「マ、ル、ウゥゥゥゥ……」

     その瞬間タカシの存在は宇宙誕生の爆発のように後形も無く霧散していた。

     マルウの身体は『プリズム』として凄まじい白熱光を放った。タカシという一個の肉体に秘められていたすべてのエネルギー、六十兆の細胞のエネルギーが、今マルウの身体を通して一瞬にして解き放たれたのだ。

     「オオォォォォーッ」

     叫び声が広間を満たした……。



           エピローグ


     季節の移り変わりは目に見える事はないがたまにその日から季節が変わったと、はっきり分かる時がある。カーニヴァルの終わった朝がそうだった。昨日に比べて風が微かに乾いて涼しくなっていた。太陽の光が力を失ったのが感じられた。夏は秋に道を譲ろうとしていた。


     ワン!

     扉が開く音がした時ドッグはすぐに軒下から出てきて老人に向かって挨拶をした。

     「おお、今日は早いな!

     なんかいい事でもあったのかい?」

     老人はそう言いながらドッグの頭をくしゃくしゃに撫でた。ドッグは嬉しかった。昨夜の心細さが薄らいだ。

     「ちょっと待て。いいものをやるから」

     老人はいったん家に引っ込むと大きな肉の固まりを持って出てきた。

     「こいつは、貰いものだけど、わしはもう歳だからこんなには食えん。良かったらお前が食べてしまってくれ」

    老人はいつもドッグに餌をやる時に使うアルミの皿の上にその肉を置いた。ドッグはちぎれんばかりに尻尾を振りながらその肉にむしゃぶりついた。

     「こんな御馳走があるのは今日だけだからな、今度来た時またそいつが食べたいなんて言ったってないからな…。

     オーオッ、本当に美味そうに食うな……」

     老人は肉に夢中になっているドッグの頭を優しく撫でた。

     「ところでドッグ、まだわしと一緒に暮らす気にはなれないかね?」

     ドッグは老人の言っている事を理解していた。今までは分からない振りをしていただけだった。ドッグは顔を上げて一瞬首をひねった。老人と一緒に暮らすのは悪くないかも知れないと思った。少なくとも昨夜のような心細い夜を過ごさなくて済む。

     ウワン、と一言ドッグは応えた。

     それは同意のしるしだった。


     ミルトンは自分の目の前で起こっていることが信じられなかった。昨夜はダイアンに誘われるまま、彼女のホテルについて行った。

     まったく、笑わせるぜ!

     お楽しみの最中に、だれもいないはずのホテルのベッドに現れたのは、ニューヨークで仕事をしているはずのご亭主だった。そしてそのご亭主は今ベッドの端に腰掛けて三十八口径を突きつけている。こんな事をされて怒っている、と口では言っているが、顔は馬鹿にしたように笑っていた。おまけにダイアンはポルトガル語をまったく自分と同じように自由に喋っていた。ブラジャーとパンティだけの身軽な恰好でご亭主と何事か相談している最中だ。

     全く最低だ!

     要するに、金の問題だった。俺が受け取るのではなくて払う番だ。でも三十八口径のご亭主とダイアンが満足する程の持ち合わせはなかった。あとはどういう妥協点を見出すかだ。

     鉛の玉を眉間に頂くのだけは、勘弁だ。

     まあ、やつらもそんな気はないだろうが。


     ルシアーナはベッドの男を疎ましく思っていた。昨夜は最悪だった。男の長い舌が身体を這いまわった時思わず鳥肌が立ってしまった。そしてしつこく何回も迫るのだ。

     どうしてこんな男と寝ることになってしまったのだろう?

     ルシアーナはジョゼの事を思い出した。あの夜一緒に帰っていれば、今ここにいるのは彼だったはずだ。ジョゼはそれなりに感じが良かった。少なくとも、この男よりはましだっただろう。

    バラックの小屋の窓を開けると、眩しい光が差し込んだ。男がうるさそうに寝返りを打った。彼女はベッドを抜け出すと、素肌にタンクトップとショートパンツを付けて表に出た。ファベイラ(リオの裏山の貧民窟)の丘の上からリオの町が見下ろせた。海がきらきらと輝いていた。

    ジョゼは街にちゃんとしたアパートを借りていると言っていた。この丘のふもとあたりの何処かでまだ眠っているだろうと思った。

     彼がもうこの世の人ではないことを彼女は知らなかった。


     かつてのナンバー・ワン・ダンサー、そして今は丸々と太ったダンスの指揮者、ゴルドンは自宅の台所で死んでいた。心臓マヒだった。昨日の夜たった一人でピンガを飲んでいる時、急に発作に襲われたのだ。まるで自分の死んだ事を驚いているように大きく目を見開いていた。その姿が発見されるまでには、後半日ぐらいの時間が必要だった。


     パウロは一人で海岸を歩いていた。すぐ後ろの道路をもの凄いスピードでバスが走って行った。昨日までは裸の黒人達がバスの車体を叩いてサンバをやっていたところだが今日はもう静かに走っていた。太って禿げた金持ちが大きな犬を連れてジョギングしていた。もう砂浜でサッカーをやっている子供達がいた。近くのバールからコーヒーの匂いが流れてきた。

     パウロは塞ぎ込んでいた。不精髯が伸びて甘い顔が台無しだった。朝だと言うのにもう酒臭かった。事故ではあったが、とにかく人を殺したのは初めてだった。警察の連中も余り気にするな、と言っていたがそうはいかなかった。何にもしたくなかった。

     マテ茶なんか、くそくらえだ!


     疲れた顔をした人々がそれぞれ仕事に向かう支度をしていた。

     観光客達はホテルのベッドでまだ夢の続きを見ていた。

     街は何事もなかったように伸びをし、歩きはじめた。

     カーニヴァルは終わった。
    #創作大賞2026 #ホラー小説部門

     
     
    ボサ・ノヴァ・アーティスト 70年代の終わり年南米諸国遊学中偶然見つけたサンパウロのバールでギターを学ぶ。リオNY.フランス録音を含めて20以上のリーダー・アルバムをリリース。 ライターとして雑誌や新聞などに記事を書いてきたが、9月に初めての小説集「異界・サウダージ」を出版

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