
消す男[第7話]『記録』——少しだけ、ずれている。
休日の朝だった。
部屋を片付けていると、小さな段ボール箱が出てきた。
昔のスマートフォンが何台か入っていた。
機種変更するたびに、そのまましまっていたものだった。
充電器を探し、一台だけ電源が入った。
写真を見る。
旅行。
食事。
空。
猫。
どれも見覚えがあった。
画面を送っているうちに、一枚の写真で指が止まった。
駅前の本屋だった。
入口が写っている。
看板もある。
私は思わず拡大した。
店名を読む。
知っている名前だった。
見覚えもある。
それなのに。
その名前を見た瞬間、何も感じなかった。
懐かしい。
そう思うはずだった。
好きだった。
そう思うはずだった。
ただの店だった。
写真を閉じる。
もう一度開く。
やはり何も変わらない。
画面の中には、確かに私が好きだった店がある。
なのに、その写真を撮った人間が、自分ではないような気がした。
昼過ぎ。
妻と買い物へ出かけた。
ショッピングモールの中を歩く。
新しくできたパン屋の前で妻が立ち止まった。
「おいしそう。」
私は頷いた。
店へ入る。
焼きたての匂いがした。
一つだけ買った。
帰宅して食べる。
確かにおいしかった。
私は少し安心した。
これくらいなら大丈夫だろう。
夜。
メモを開く。
何も書かなかった。
書きたくなかった。
パン屋のことを書けば、何かが始まる気がした。
スマホを閉じる。
翌日の帰り道。
妻からメッセージが届いた。
『パン屋さん、今日も寄ったよ。』
写真が添付されていた。
昨日と同じパンだった。
私は返信を打つ。
『あそこ、おいしかったね。』
送ろうとして、止まる。
本当においしかっただろうか。
思い出せない。
昨日食べたばかりだった。
味が浮かばない。
私は写真を開いた。
焼き色。
形。
値札。
全部見えている。
味だけがない。
結局、
『また買おう。』
とだけ返した。
その夜。
古いスマートフォンをもう一度開いた。
本屋の写真を見る。
今度は写真の情報を表示した。
撮影日時。
場所。
どれも残っている。
私は画面を閉じようとして、ふと気づいた。
写真には店の入口しか写っていない。
店内の写真が一枚もなかった。
何十回も通ったはずなのに。
本棚も。
レジも。
買った本も。
一枚も残っていない。
私は別のフォルダも探した。
なかった。
好きだった店なのに。
好きだった証拠は、入口だけだった。
私はスマホを置いた。
しばらく天井を見ていた。
そして、初めて思った。
消えているのは、
店ではないのかもしれない。
そう考えた理由だけが、
思い出せなかった。
〈つづく〉