
第十話 超人 ── SUPER RANDONNEUR
二度目の朝が、来た。
風に、秋の匂いが、混じり始めていた。
仮眠所を出て、東の空が白む頃には、睡魔は、いったん引いていた。
代わりに、別のものが、待っていた。
五百キロを越えた、脚。
もう、踏むという感覚が、ない。
ペダルが、やけに遠い。回しているのか、回されているのか、自分でも分からない。
平坦でも、十五キロしか出ない。向かい風が吹けば、八キロ。歩くのと、たいして変わらない。
それでも、進む。亀の速さで。──ああ、これか。店長の、あの速さは。
五百三十キロ地点。
道端に、リカが、しゃがみ込んでいた。
めずらしく、あの悪い口が、閉じていた。膝に、力が入らないらしい。
「乗れるか」
俺が声をかけると、リカは、じろりと、こっちを睨んだ。
「……あんたに、心配される筋合いはないわよ」
「だろうな」
俺は、自分の補給食を、半分、放ってよこした。あいつが昔、俺にしたように。
リカは、それを、黙って受け取った。
何か言いかけて、やめた。代わりに、ふん、と鼻を鳴らして、立ち上がった。
結局、こいつが何を考えているのか、俺には、分からないままだ。
分からないまま、二人で、また走り出す。
それで、いいような気もした。
颯太は、ずっと、俺の前を引いていた。
若い背中が、五百キロ走ってもなお、風を切る。あの峠で、数字を誇っていた小僧が。
「森さん」と、前を向いたまま、あいつが言った。
「俺、PBP、行きたいっす。森さんと」
風が、その声を、半分さらっていった。
俺は、何も返さなかった。
だが、その「森さんと」を、ちゃんと、聞いた。
最後のPC。残り四十キロ。制限時間まで、二時間半。ふつうなら、楽勝の数字だ。だが、この脚には、ぎりぎりだった。
店長が、ぼそりと言った。
「男には、逃げちゃいかんもんが、二つだけある」
「……なんすか」と、颯太が、息も絶え絶えに、乗ってくる。
「納税と、自分との勝負だ」
店長は、前を見たまま、続けた。
「ここからの四十キロは、勝負だ。脚は、もう貸しちゃくれん。意地と、惰性で、回せ」
意地と、惰性。
五百六十キロを越えた体に、残っているのは、もう、それくらいのものだった。
誰も、しゃべらなくなった。
ただ、四つの赤い尾灯が、一列になって、最後の闇を、削っていく。
ゴールの、海沿いの公園。俺たちが転がり込んだのは、制限時間の、十八分前だった。
六百キロ。三十九時間四十二分。
受付の人が、ブルベカードに、最後の判子を押す。
それで、終わりだった。
順位もない。記録も、誰とも比べない。ただ──「完走」。
スーパーランドヌール。
そんな大層な称号には、似合わない四人が、駐車場のアスファルトに、ぼろ雑巾みたいに、転がっていた。
店長が、笑っている。リカが、空を見ている。颯太が、もう寝ている。
俺は、潮の匂いのする空を、見上げた。
二百キロで、死にかけた。
四百キロで、娘に、缶コーヒーをもらった。
そして、六百キロを、走り切った。
──次は、パリだ。
口に出すと、馬鹿みたいだった。
くたびれたおっさんが。タイヤ二つで、海を越えて、パリまで。
馬鹿みたいで。
そして、たぶん、本気だった。
夜明け前の海が、ゆっくりと、白んでいく。
まだ、走り足りなかった。