メインコンテンツへスキップ
見出し画像

芸事を辞めた私が、映画『国宝』から帰ってこられなくなった理由

    序章:なぜ私は、この映画から帰ってこられないのか

    以前、YouTubeで幸福について語られている講義のような動画を見ていたとき、ひとつの話がずっと心に残りました。

    正確な動画のタイトルも、登場されていた方のお名前も、今となっては思い出せません。ただ、その中で紹介されていた国文学の先生の言葉だけは、不思議とはっきり覚えています。

    「幸せになると太宰治を楽しめなくなるから、幸せになりたくない」

    その言葉を聞いたとき、私は妙に腑に落ちてしまいました。

    人は、明るく健やかなものだけに救われるわけではない。痛みがあるから読めるものがある。影を知っているから、美しいと感じられるものがある。幸福だけでは触れられない、心の奥の部屋がある。

    映画『国宝』を観たあと、私は何度もその言葉を思い出していました。

    この映画は、ただ美しい作品ではありませんでした。むしろ、あまりにも痛く、苦しく、業が深い。それなのに私は何度も映画館へ足を運んでしまいました。公開直後から数え始めたものの、気づけば何度観たかもわからなくなっていました。Amazonプライムで配信が始まり、さらに一週間だけの再上映まで観に行き、また見事に"国宝病"をぶり返してしまったのです。

    なぜ私は、この映画から帰ってこられないのでしょうか。

    私は三年前、日本の芸事から離れました。30年近く身を捧げてきた世界から、心が限界を迎えて、一度降りたのです。そのはずでした。それなのに、この映画を観てしまった。

    だから帰ってこられなくなったのだと思います。

    『国宝』がただ映画の感想を書かせたのではなく、私自身の中にある影と余白を、静かに照らしてしまったからなのだと。

    任侠の家に生まれた喜久雄と、歌舞伎の御曹司・俊介。芸という業を背負ったふたりが、互いを鏡のように映し合いながら生きていく物語です。名声の陰に潜む孤独、舞台を降りたときの空虚さ。これはただの歌舞伎映画ではありません。芸、孤独、愛、魂の引力。生きることそのものが丸ごと込められた作品でした。

    ※この先の文章には、映画『国宝』の内容に深く触れる箇所があります。未視聴の方はご注意ください。

    第一章:回想シーンのない映画に、私の人生が入り込んだ

    映画『国宝』には、回想シーンが一切ありません。

    3時間という長さにもかかわらず、過去を映像で補足する場面がない。説明的な台詞もほとんどない。そのかわりに、演者たちの「間」と「表情」と、圧倒的な映像の力だけで語っていく作品です。

    最初にそれに気づいたとき、私は少し驚きました。でも観るうちに、その"説明のなさ"こそがこの映画の核心なのだとわかってきました。

    説明がない分、観ている側は自分で感じるしかない。自分で補完するしかない。そしてその「補完」をするとき、人は無意識に自分の人生を使う。スクリーンの余白に、自分の記憶が静かに入り込んでいくのです。

    だからこの映画は、観る人によってまったく違う物語になる。

    一緒に観ていた友人は、「春江はなぜ俊介を選んだのか」というところがずっと気になっていたそうです。友人の考察によると、春江は喜久雄のために俊介を選んだのではないかと。喜久雄が歌舞伎にしか興味を持てない人間だと誰よりも理解していたからこそ、自分が妻になることは彼の足かせになると判断した。どんな形であれ彼を支えていたいという、静かな執念のようなものを感じたと言うのです。

    私にはなかった視点でした。でも、その話を聞いたとき、改めてこの映画の深さを思い知りました。

    答えを語らず、余白を持たせることで、どう受け取るかをこちら側に委ねてくれている。その"信頼されている感じ"が、ものすごく上質で、静かに胸を打ちました。

    私の場合、その余白に入り込んできたのは、30年近く続けてきた日本の芸事の記憶でした。

    芸の道には、目を奪われるような華があります。でもその裏には、それを支えるだけの"影"の深さが必ずある。どれだけ自分という存在の深くまで潜って、そこにある影を引き上げられるか。それが、芸に深みをもたらすのだと私は感じてきました。

    この映画はその"影"を、一切美化せずに映していました。そのことが、私の中の何かを呼び覚まし、揺れ続けさせたのだと思います。

    第二章:芸は、影を食べて美しくなる

    私は昔から、人の感情の機微や場の空気に敏感なところがあります。いわゆるエンパスと呼ばれる気質に近いのかもしれません。

    そのせいか、この映画の演者たちが放つ"気配"が、痛いほど伝わってきました。演じているというよりも、その役を生きている。そう感じさせる瞬間が、何度もありました。

    竹野を演じた三浦貴大さんが、喜久雄に投げかけた台詞。

    「ただの世襲だろう」

    一見すれば単なる皮肉に聞こえるこの言葉が、私には違って聞こえました。三浦貴大さん自身が、俳優・三浦友和さんと伝説的な歌手・山口百恵さんという大きな名前を持つ"血"を背負った人物だと私は知っていました。その背景を知った上であの台詞を聞いたとき、言葉がまったく違う重さで響いてきたのです。脚本上の台詞というより、彼自身の人生から滲み出た言葉のように、私には感じられました。

    血を背負って生きるということの重さを、私もまた芸事の中で、違う形で感じてきた気がするからかもしれません。

    寺島しのぶさんが演じた女将もまた、そうでした。

    喜久雄が半次郎の代役に抜擢されたとき、彼女が口にした言葉。

    「俊ぼんが筋やろ」

    ただの怒りではない、複雑な葛藤と哀しみがにじんでいました。梨園の出身である彼女自身が、そうした現実を味わってきた人だからこそ滲み出たリアリティではないかと、私には感じられました。彼女の演技には言葉にしない感情が火種のように静かに燃えていて、沈黙の中にすべてを込める力がありました。

    そして横浜流星さんの踊りには、揺るぎない"軸"がありました。

    舞踊をやってきた人間なら、すぐにわかります。あの軸は、ただ身体の中心が通っているという話ではありません。身体を動かすことを本気でやってきた人間にしか持てないもの。むしろ多くの舞踊家たちが、何年かけても掴めずにいる、喉から手が出るほど欲しいものです。

    彼は空手を通して「軸」「体幹」「型」を文字通り身体で理解してきた人です。だから振りひとつひとつに迷いがなく、大きく美しい。見得の切り方も堂に入っていて、本職ではないのにここまで、と正直舌を巻きました。

    印象的だったのは、演舞の最中にふと見せたあの笑顔でした。あれは俊介の芝居というよりも、横浜流星という人間の身体の記憶。武道で培った「型」への理解があったからこそ、その枠を超えて"今この瞬間"に生きた表情だったように感じます。

    昔、芸事の稽古中に師匠からよく言われていた言葉があります。

    「形がしっかりできているからこその形破り。形ができていないまま踊るのは形なし」

    横浜流星さんの踊りは、形なしではありませんでした。「形がある者だけが破れる形」の凄みが、確かにそこにありました。

    師匠のその言葉が、スクリーンの向こうから戻ってきたような気がしました。

    そして吉沢亮さんが演じた喜久雄。私が震えたのは、ふたつの場面でした。ひとつは、曽根崎心中の場面です。半次郎が病室で喜久雄にこう言います。

    「お初として生きてないから、お初として死ねへんねん」

    その言葉を受けた喜久雄が、本番の舞台でお初として足先で覚悟を問うあの瞬間。私の中で何かが震えたのを覚えています。演技の技術でできる目線じゃなかった。魂そのものが、そこにいたような気がしました。

    喜久雄を通して本当にお初という魂を一度受け入れ、生きて、そして死んだのだと思います。

    もうひとつは、すべてを失った夜、喜久雄が屋上でひとり踊り始める場面でした。

    涙で化粧が崩れ、衣装もはだけたまま、酒をあおりながら踊るあの場面。あの場面がアドリブだったという話をどこかで目にしました。真偽を確かめる以前に、そう聞いてしまうと納得してしまうほど、あの踊りには予定調和ではない生々しさがありました。

    泣きながら、笑いながら踊る喜久雄は、もはや芸を見せる役者ではありませんでした。芸と生きることしかできなかった人間の、静かで凄まじい断末魔。

    でも私は、あの場面を見ながら「壊れていく」とは感じませんでした。

    芸事をやってきた人間には、わかってしまうのです。あの崩壊の中にある、どうしようもない美しさが。

    芸に取り憑かれた人間が、すべてを失ってもなお踊ることをやめられない。その姿は狂気であり、同時に純粋さの極点でもある。正気と狂気のはざまで揺れながら、それでも芸だけが自分の証明だと言わんばかりに踊り続ける喜久雄の姿に、私は胸が引き裂かれるような痛みと、言葉にできない美しさを同時に感じていました。

    その崩壊の姿ですら、この映画の中ではただの悲劇としてではなく「美」として昇華されていきました。

    狂っていて、哀しくて、どうしようもなく、美しい。

    芸事をやってきた端くれとして、あの痛みを他人事にはできませんでした。

    寺島しのぶさんはインタビューでこう語っていました。「喜久雄と俊介はにこいち」と。その言葉を聞いたとき、私は深く確信しました。ふたりは単なるライバルではなく、お互いの影や痛みまでも引き受けながら共に歩む、魂の片割れのような存在だったのだと。

    ふたりの間にあったものが、芸事の世界で仲間と過ごした日々と重なって、静かに胸に沁みてきました。

    第三章:師匠の言葉が、映画のあとで戻ってきた

    映画を観終えたあと、私の中に何度も戻ってきたのは、師匠の言葉でした。

    「今まで入れてきたもの、一回全部捨てろ」

    その言葉の意味を、私はずっと分かったようで分かっていなかったのだと思います。技術を磨けば磨くほど、評価を求めれば求めるほど、本当に大切なものから遠ざかっていたのかもしれない。この映画を観ながら、そのことをまた深く思い知らされました。

    李相日監督がどこまで意図していたのかは分かりません。それでも私は、この役を生きられるのは吉沢亮さんしかいないという確信が、この作品の全体に宿っているように感じました。

    三浦貴大さんに「ただの世襲だろう」と言わせ、寺島しのぶさんに「俊ぼんが筋やろ」と言わせる。役者自身が背負ってきた人生まで作品の中に引き込み、その言葉を奥行きとして映し出してしまう。この監督は、どこまでも欲深い人なのだと思います。

    その台詞をその人に言わせることで、言葉が二重の意味を持つ。舞台の上の物語としての言葉と、その役者が生きてきた人生から滲み出る言葉が、ひとつの台詞の中に重なり合う。観客がただ物語を見ているだけなのに、どこか自分の人生まで照らされるような感覚を覚えるのは、そのためなのだと思います。

    李監督の演出には、人間の醜さ、弱さ、嫉妬、孤独といった"目を背けたくなる部分"を真正面から切り取り、取り繕わない生のまま映すところがあります。そして役者が"魂を宿す瞬間"を絶対に見逃さない。そんな李監督だから生まれた作品だと、強く感じています。

    歌舞伎という世界は、一見すれば絢爛豪華で華やかです。でも実際には、嫉妬や執着、血筋、伝統と革新のはざまで揺れる人間の泥臭い葛藤が渦巻いている。映画の中に登場する「鷺娘」「道成寺」「曽根崎心中」といった演目もまた、すべてが死や執着、叶わぬ想いといった影を孕んでいる演目ばかりです。

    日本の芸事の多くには、光と影が常に隣り合わせで存在しています。そのことを、芸事をやってきた端くれとして、私は自分の身をもって知っています。喜久雄や俊介のような境地には遠く及ばないけれど。

    舞台で鳴るお囃子の音、生の演奏に触れると、なぜか涙が出る。坂東玉三郎さんが語っていた「鳴り物の音合わせは魂を呼ぶ儀式」という言葉を、私は確かに体感していました。

    芸事の世界では「覚醒剤よりたちが悪い」と冗談めかして言われるほど、芸に没頭して人生を捧げてしまう人がいる。それほどまでに人を狂わせる魔物のようなものが、芸の世界には潜んでいる。それでも観客はその舞台に心を奪われ、涙を流す。その矛盾と狂気こそが芸事の恐ろしさであり、同時に人間の生の証明のようにも思えます。

    李相日監督のカメラは、その矛盾をどこまでも冷静に、でもどこか祈るように見つめていた気がします。

    人間の影をも逃げずに見つめ、同時にそこに宿る光まで捉えようとする。そんな李監督だから生まれた作品だと、強く感じています。

    終章:影を知っている人間だけが、届く場所がある

    私は30年近く、日本の芸事を続けてきました。芸というものが持つ言葉にならない引力と魔性に、気づけば人生の大半を捧げていました。

    少年時代の喜久雄が万菊の鷺娘を見つめるあの目を、私はスクリーンの中に見たとき、自分の若い頃を重ねていました。私が初めて坂東玉三郎さんの八百屋お七を観たとき、ただ美しいと感じたのではなく、心の奥で何かが静かに動き出したのを覚えています。

    「ああ、また踊りをやりたい」

    気づけばそんな思いが芽生えていて、大人になってから再び芸の世界に戻っていきました。仲間と共に練習を重ね、寝ても覚めても踊りのことばかりを考えていた日々。いつしか空耳でお囃子の音が聞こえてくるようになっていたほどです。

    でも、心が限界を迎えてしまったのです。

    その三年前のことを、私は映画を観ながら何度も思い出していました。技術や評価、誰かの期待、形あるものばかりを追いかけてきた自分に気づいたのです。

    そんなとき、師匠にかつて言われた言葉を思い出しました。

    「今まで入れてきたもの、一回全部捨てろ」

    その言葉の本当の意味が、ようやくわかった気がしました。
    そしてもうひとつ。師匠はこうも言っていました。

    「たまきも早くこっちの世界にこい。全てがわかるから。全部が繋がっていることが」

    あのとき私には、何のことだかまったくわかりませんでした。芸事の神様に忠誠を誓った人にしか見えない景色なのだと思っていたからです。でも今の私は、違う形でその言葉の意味に触れています。

    芸を辞めてはじめて、何も握りしめていなかったときこそすべてがうまくいっていたことに気づきました。外ではなく、内側を見ること。それが、師匠が言い続けていたことだったのだと思います。

    映画の終盤、喜久雄が国宝に認定されてインタビューを受ける場面があります。記者に「異例の速さで受賞され、順風満帆だったと思われますが」と問われた喜久雄は、ただこう答えます。「ありがとうございます。皆様のおかげです」

    その場面を観たあと、一緒にいた友人がぽつりと言いました。

    「…他人から見たら、喜久雄の人生もそんなふうに見えるのか…」

    その一言に、喉がきゅっと閉まる感覚がありました。もしかしたら友人自身も、「順風満帆」と周りから見られてきた人なのかもしれない。その裏にある、他人には見えない孤独や、何度も折れそうになった心を、スクリーンの中の喜久雄に重ねていたのかもしれない。

    この映画は、観る人それぞれの"視点"や"生き方"によって、まったく違った物語が立ち上がります。明確な答えや考察なんていらない。むしろそういうものを求めてしまうと、この映画の本当の深さには届かないのかもしれない。

    李相日監督はすべてを語らず、余白をこちら側に委ねてくれています。どう感じるか、どう受け取るか。その信頼が、ものすごく上質で、静かに胸を打ちます。

    その余白に触れるたびに、人は自分の人生と感情を確かめ直していく。この映画が何度観ても帰ってこられない理由は、きっとそこにあるのだと思います。

    芸は、ただ技術で成立するものではありません。生きてきた軌跡、乗り越えてきた痛み、そのすべてが重なって、初めて人の心に届く"美"となる。

    光だけを求めても、本当の輝きには届かない。

    影を見つめ、影に触れ、影をも愛でるようなまなざしが生まれたとき、人はようやく"深さ"という宝物を手に入れるのだと思います。

    だから私はまだ、この映画から帰ってこられないのだと思います。 たぶん、帰ってこられないままでいいのだとも、今は少し思っています。

     
     
    エンパスでHSS型HSPの花音セラピスト。 フラワーエッセンスと心理学を用いて、 “今の自分と仲直りする”自己受容と メンタル・睡眠ケアをサポートしています。 心が静かに整う気づきや、植物の物語をnoteで綴ります。

    あなたへのおすすめ