
夏の橋【短編小説】
その橋を渡り始めるとき、いつもシュウゴは一瞬だけ息を止めた。橋のこちら側からあちら側まで、ずっと止めていられるわけじゃない。最初の二、三歩だけ、こっそり止めて、それからいつもの呼吸に戻す。
欄干のペンキは剥げていて、下を流れる川は、夏になるとほとんど干上がってしまう。子どもの足なら十分に渡れる、ただそれだけの橋だ。なのにシュウゴは、いつも渡り始めに、その一瞬だけ息を止める。理由は自分でもよくわからなかった。
学校が終わると、二人はいったん別れて、それぞれ家に寄ってから、橋で落ち合うのがいつもの決まりだった。理由なんてなかった。ただ、そうすることに決めたのが四年生のころで、それからずっと変えていないだけだ。
その橋のまんなかで、ショウタが待っていた。
「遅い」
「悪い。ランドセル置いてくるの忘れて、戻ったから」
「なにやってんだよ」
「うるせえな」
そんなやりとりを、もう三年近く続けている。小学校四年生からの付き合いだから、もう六年生の夏になっても、たいして変わらない。変わったのは、二人の背丈と、ショウタの家の事情だけだった。
ショウタの父親が、去年の冬に工場をクビになった。町でいちばん大きい、鉄工所だった。シュウゴの父親も同じ工場に勤めていたけれど、シュウゴの父親は残った。ショウタの父親は残らなかった。それだけの違いだ。でも、その「それだけ」が、子どもにとってはとても大きな違いだということを、シュウゴは今年の夏、はじめて知った。
ショウタは九月から、地方の親戚のところに引っ越すことになっていた。
「なあ、シュウゴ」
橋の上で、ショウタが言った。夕方の光が、ショウタの横顔を赤く染めていた。
「なんだよ」
「おれがいなくなっても、忘れんなよ」
シュウゴは何も言わなかった。言わなかったのは、言葉が見つからなかったからだ。忘れるとか忘れないとか、そんな簡単な話じゃない気がした。でも、その「気がした」を、うまく言葉にすることができなかった。十二歳の夏には、まだそれだけの言葉を持っていなかった。
「別に、忘れるとか忘れないとか、そういうんじゃなくてさ」
ようやくシュウゴが言うと、ショウタは笑った。
「なんだよ、それ」
「だから、そういうんじゃなくて」
「わかんねえよ、おまえの言ってること」
「おれもわかんねえよ」
二人は同時に笑った。橋の下では、干上がりかけた川が、それでも細く水を流していた。
ショウタが引っ越す前の日、シュウゴはショウタの家に行った。段ボール箱がいくつも積まれていて、部屋はもうほとんど空っぽだった。畳の色が変わっているところに、タンスがあったんだろうとシュウゴは思った。
「これ、やるよ」
ショウタが差し出したのは、色あせた野球のグローブだった。二人でよく、河原でキャッチボールをした、そのグローブだ。
「いいのかよ」
「新しいとこじゃ、野球やらないと思うし」
「なんでだよ」
「なんとなく」
ショウタはそう言うと、窓の外を見た。工場の煙突が見える窓だった。もうすぐ、この景色も見納めになる。
「シュウゴ」
「なんだよ」
「おれ、あの橋、好きだったんだ」
それだけ言って、ショウタは黙った。シュウゴも黙った。夏の終わりの、蝉の声だけがやけに大きく聞こえた。
ショウタが引っ越した日、シュウゴは一人で橋に行った。
欄干に手をかけて、下を見た。水はもう、ほとんど流れていなかった。石と石の間を、かろうじて糸のように水が伝っているだけだった。
シュウゴはグローブを持ってきていた。ショウタにもらったグローブだ。それをはめて、何度もパンパンと拳で叩いた。誰もいない橋の上で、その音だけが響いた。
――おれがいなくなっても、忘れんなよ。
忘れるとか忘れないとか、そういうことじゃないんだ。シュウゴは、ようやくそのとき、言葉が見つかった気がした。
忘れるとか忘れないとかじゃなくて、ただ、ここにいたということだ。ショウタがここにいて、シュウゴがここにいて、二人でこの橋を渡ったということ。それはもう、変えようのない、ずっと前からそこにあった事実として、シュウゴの中に残り続ける。忘れるとか忘れないとかは、たぶん、そのあとの話でしかないのだ。
シュウゴは橋を渡りきった。渡りきってから、ふりかえった。
誰もいない橋が、夕方の光の中に、ただ静かに架かっていた。
中学、高校と進んで、シュウゴは何度も引っ越しの噂を聞いた。同級生の誰かの父親が工場をやめたとか、母親が病気になったとか。そのたびに、あの夏のショウタのことを思い出した。
ショウタとは、それから会っていない。年賀状も、いつからか来なくなった。それでも、シュウゴは時々、あの橋を渡る。今はもうペンキも塗り替えられて、欄干は真新しい白になっている。川もダムができて、夏でも涸れることはなくなった。
変わらないのは、渡り始めに、一瞬だけ息を止める、その癖だけだ。
なぜそうするのか、シュウゴはもう聞かれても答えられる気がする。
それは、ここに、確かに誰かがいたということを、忘れないための、ただそれだけの儀式なのだ。
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あとがき
今回はいつもとはガラッと変えて、初めての小説を書いてみました。
少年時代の友情と別れを描いた、短いお話です。
思うように言葉にできない部分もありましたが、誰かの心に少しでも残ればいいなと思っています。
こういった小説も、これからちょくちょく出していこうと思うので、よろしくお願いします。
PS.昔から重松清さんの本が好きだったのでリスペクトしてみました。