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Photo bykachin808

キャリアコンサル-心音のノート 第8話

    相談者 佐藤美咲のコンサル
    ラストノート

     店を出る頃には空は少しだけ明るくなっていた。

    「今日は、ここまでにしましょうか」
     心音がそう言うと、佐藤は少しだけ驚いた顔をした。

    「…もう少し、考えたいですか?」
     その問いに佐藤は小さく頷く。

    「また来週、お会いしましょうか」
     心音は自然にそう言った。結論を急がない。それが、この時間のルールのようだった。

     店を出る前に心音がふと口を開く。
    「さっきの企画の話なんですけど」

    「はい」

    「美咲さん、ペルソナを設定していましたよね」

    「…はい、」

    「ペルソナって、わかりやすい人物像を作ることですけど」

     少しだけ間を置く。

    「その人の反応が、ちゃんと見えると、企画って、修正しやすくなるんです」

     佐藤は静かに聞いている。

    「だから」

     心音は続けた。

    「できるだけ“遠くの誰か”じゃなくて“反応が返ってくる距離の人”を想定するといいんです」

    「…反応が返ってくる距離」

    「はい。身近な人でもいいですし、実際に意見を聞ける人でもいい」

    「その人がどう感じるかを想像できると、企画の輪郭が、少しずつはっきりしてきます」

     佐藤は何かを掴みかけているような顔をした。けれど、まだ言葉にはならない。

    「時間はたっぷりあります。じっくり妄想してみてください」
     心音はやわらかく微笑んだ。

     外に出ると、空気は少しひんやりしていた。

     その夜、佐藤はひとりで車を走らせていた。あてもなくただ流れるように。こういう時間が嫌いじゃない。誰にも話さなくていいし答えを出さなくてもいい。それは、ただ考えるだけでいい時間。ハンドルを握りながら、心音の言葉を思い出す。

     “反応が返ってくる距離の人”

    「…誰だろう」

     仕事のことを考える。企画。ターゲット、ペルソナ、“身近な人に当てはめてみる”友達の顔が浮かぶ。

    「あの子かな…、」

     でも、少し違う気がする。昔の同級生。

    「久しぶりに聞いてみるのもいいかも」

     そんな考えが浮かんでは消える。車は信号で止まり、赤い光がフロントガラスににじむ。そのときだった。

    「……あ」

     ふいに別の顔が浮かぶ。

     母だった。

     小さいころからずっと。褒められたくて、喜んでもらいたくて、頑張ってきたんだった。運動会、ピアノ、スイミングに、進路も。

    「……なんで、忘れてたんだろう」

     不思議と目頭が熱くなってきた。

    「お母さんが、喜ぶこと……」

     ぽつりと言葉に出してみる。

    「それを、仕事にするってこと?」

     答えはまだわからない。けれど、さっきまでよりもずっとはっきりとした“誰か”がそこにいた。


     翌週。

     同じカフェで二人は向かい合っていた。

    「…あの、この前の話なんですけど」
     佐藤が少しだけ迷いながら口を開く。

    「はい」

    「“誰に喜んでほしいか”って考えていたら……母のことを思い出したんです」

     心音は何も言わずに聞いている。

     佐藤は少しだけ眉を寄せた。
    「でも、母のためって考えると……なんか、自分がない気がして」

     その言葉に心音は小さく頷いた。
    「そう感じるの、自然だと思います」

     少しだけ間を置く。

     心音の声が少しだけやわらかくなる。
    「でも、“たった一人”を思い浮かべることと、“その人のためだけに生きること”は、同じではないと思うんです」

     佐藤は顔を上げる。

    「お母さんが喜ぶことって、きっと、他の人も嬉しいはずなんです」

    「……そうなんですか?」

    「はい」
     心音は静かに続ける。

    「だって、“喜んでもらえているかどうか”って、本当は、とても曖昧なものだから」

    「……」

     少しだけ微笑む。

    「でも、お母さんなら、美咲さんが何をしたときに、本当に喜んでいるか、ちゃんと感じ取れるはずです」

     その言葉は静かに、まっすぐに届いた。

    「たった一人でいいんです」

     心音は言った。

    「その人の顔が浮かんで、その人が喜ぶかどうかがわかるなら」

    「それはもう、“誰かのため”じゃなくて“自分の感覚で選んでいること”になります」

     佐藤の目がわずかに揺れる。

    「……自分の感覚」

    「はい」

    「そして」

     ほんの少しだけ間を置いて。

    「美咲さんのお母さんが喜ぶことは、きっと、私も嬉しいと思います」

     その一言で何かがほどけた。胸の奥にあった言葉にならなかった違和感が、静かに消えていく。“たった一人でいい” その意味が初めてわかった気がした。

     窓の外の空はもう灰色ではなかった。

    第9話

    #創作大賞2026#お仕事小説部門

     
     
     
    人の心の揺れや、誰かに寄り添う時間をテーマに小説を書いています。 『キャリアコンサル 心音のノート』 『心音前夜』(心音のノートの前のお話) 『風の便り心音の栞』(心音のエッセイ) 香りや季節の空気を大切に、やさしい再生の物語を描いています。

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