
『神のいない街』第二話「忘れられた依頼」
※本作は、現代の東京を舞台に“人智を超えた事件”と対峙する探偵の物語です。
このページは第2話となります。第1話はこちら→https://note.com/fkdragon/n/nf4a1ddccf1a3
第二話 忘れられた依頼
午前十時。
書類棚の奥に、見覚えのない封筒が挟まっていた。
茶封筒に黒インクで「処理中」と走り書きされている。文字は、確かに俺の字だ。
だが、記憶がない。
依頼を受けた覚えも、その封筒を見た覚えもまったく思い出せない。
中には、便箋が一枚だけ。
淡い灰色の紙に、タイプされたような整った文字で、こう記されていた。
──「ここに来た人が、帰ってこない」
それだけだ。日付も差出人もない。
だが、書かれていた住所を見た瞬間、背中にひやりとした感覚が走った。
新宿区のとある裏通り。
歌舞伎町の外れ、職安通りを少し外れた小さな路地の一角。
歓楽街の喧騒から数歩離れるだけで、妙に静まり返る場所がある。
以前から、何となく気にかかっていたエリアだ。
理由はない。ただ、通るたびに何かが引っかかっていた。
空気の密度、足音の響き方、数秒だけ街の音が遠のくような感覚。
──この依頼は、その“違和感”の記憶に触れたものかもしれない。
現地に向かうと、昼の歌舞伎町は妙に人が少なかった。
観光客もいない。パチンコ店の音も小さい。
異常というほどではないが、肌で感じる空白があった。
路地に入ると、急に音が消えた。
人の声も、車の走行音も、まるで膜を通したように鈍くなる。
そこだけ、都市の中に“沈んで”いるような空間だった。
一軒の古びた店舗跡に、黄ばんだ貼り紙があった。
──「視える者へ。沈黙を守れ。祈るな。」
誰が書いたのかはわからない。だが、誰にでも見えるように貼られたものではなかった。
紙の周囲には落書きもなければ、広告の上張りもない。
まるで街全体が、その紙の存在を“見落とす”ようになっているかのようだった。
事務所に戻り、記録を洗い直す。
だが、この依頼の記録はどこにも残っていなかった。
メールも通話も履歴はゼロ。
それどころか、あの住所を調べた記録すら存在しない。
──では、俺はいつから、何を調べていた?
自分の記憶と行動が一致しないとき、人は“何かに入られた”と感じる。
そのとき、ふと視界の端に違和感が走った。
机の上に置いたはずの封筒が、わずかにずれていた。
10センチ。誰かが触れたかのような位置に。
封筒の下には、見覚えのない紙が一枚、差し込まれていた。
銀がかった薄紙に、たった一行。整った筆跡で、こう書かれていた。
──「あなたは選ばれました。視えるまでは、沈黙を守ってください」
筆跡は、削り出されたように浮かび上がっている。
人の手で書かれたものとは思えない。
紙の表面には指紋も、押された痕もない。
ただそこに、“意味”だけが置かれていたようだった。
探偵としての経験則で言えば、これは──
「差し出された」のではなく、「許可された者だけに現れる」類のものだ。
それは、“命令”のようでもあり──
警告のようでもあった。