
賽の河原
冥途の旅の途中、三途の川に到着します。その手前に賽の河原があります。そこでは親より先に亡くなった子どもたちが石を積み成仏を願うとされています。そんな子どもたちを供養する場所が各地に存在するらしい。
「一つ積んでは父の為、二つ積んでは母の為」と石を積んで塔を作る。そこに地獄の鬼がやってきて、子どもたちが積んだ石を金棒で壊す。何度壊されても子どもたちは石を積み上げる。一体なぜなのか?
「僕は病気でお母さんに心配ばかりさせちゃった、今も泣いていると思う。優しかったお母さん、もう悲しまないで。お母さんのところに戻りたいよ」
…子どもに罪があるのです。
子どもに罪などあるものか、小さな体で子どもは苦しんだ、生きたかった。それなのになぜ?
親にとって、子どもが自分より先に死ぬことほど悲しいものはない。親を悲しませ、亡くなったことそれ自体が、その子の罪であると…これは当時の日本文化をあらわした民間信仰です。昔は出産で命を落とすことも、子どもがすぐに亡くなることも少なくありませんでした。子どもの死が今よりも身近だったのかもしれません。
『賽の河原和讃』に、手足は石に擦れただれ 指より出づる血の滴、という描写があります。冷たい風が吹く賽の河原で、子どもの石にすれた手がただれ、真っ赤になってそれでも石を積みます。残酷な描写です。
そこに救いの手をさしのべてくれるのが、地蔵菩薩、お地蔵さんです。地蔵菩薩が現れて、「私を親だと思いなさい」と抱きしめてくれる。お地蔵さんがその子たちの面倒を見てくれる。
これはお地蔵さん自身が心から望んだ仏道修行なのです。お地蔵さん同様、観音様も修行の身です。ここをご理解ください。仕事としではありません。お地蔵さんが「では今回救済のお支払いはいくらです」と請求されると思いますか?そんなことをすると「修行がビジネス」になってしまいます。お金のために子どもたちを助けてはいないのです。
俺ちゃんたちも修行をしました、不純な動機で修行に来た人もいます。でも、ビジネスとして修行の日々を過ごしたことは一日たりともありません。修行僧がお金を受け取ることは到底あり得ないです。存在を否定されたと同じだからです。ごめんなさい、今日は強い口調になってしまいました。
大切なお子さんを亡くされた方、その子のために、優しそうな仮面を被った他人の言葉に乗らないで。
この子が生きてた時の姿、この子の言葉を、思い出ぜんぶといっしょに過ごせばいい。あちらでは、お地蔵さま、観音さまが見ていてくださる。
もし道端でお地蔵さんを見かけることがあったら、心の中で、その子への思いを伝えてください。それで十分なご供養、ご利益があります。