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歩けないはずの足跡

    【あらすじ】
    那覇市内のリハビリ専門病院。脳出血で左半身麻痺となった元刑事・桐島渉は、車椅子でリハビリに励む日々を送っていた。ある朝、同じ病棟の患者が密室で死亡した。死因は心不全——しかし病室の床に、濡れた裸足の足跡が残されていた。この病棟には、自力で歩ける患者は一人もいない。誰が、どうやって歩いたのか。捜査に加わった桐島は、足跡の歩幅に奇妙な違和感を覚える。それはリハビリ初期特有の、かかと重心の歩き方だった。やがて彼は、病棟に仕掛けられた「動けない者たちの嘘」と、その奥に隠された静かな殺意に迫っていく。

    歩けないはずの足跡

    第一章 足跡

     三月の朝、リハビリ室には潮の匂いがする。

     那覇湾からの風が病院の換気口を通り抜け、消毒液の匂いに混じって届く。海の近くにいることを、ここではそうやって知る。窓の外を見る余裕は、まだない。

     桐島渉は平行棒の間に立ち、左足を前に出そうとしていた。

     出ない。

     正確には、出る。しかし「出す」という意志と、実際に足が動くまでの間に、誰かが割り込んでくる感じがある。その誰かは桐島の意図を半分だけ聞いて、残りを無視する。結果、左足はわずかに前へ、しかし右足の位置まで届かずに、中途半端な場所に着地する。

     十七ヶ月、これをやっている。

    「桐島さん、重心が右に寄ってます」

     担当の理学療法士、安里聡子が言った。三十代前半、短い髪、声に無駄がない。彼女はいつも正確で、いつも正しく、そのことが時々腹立たしい。

    「わかってる」

    「わかってるなら直してください」

     直せるならとっくに直している、と思ったが口には出さなかった。元刑事が理学療法士に言い負かされる姿を、隣の平行棒で訓練中の田中老人に見せたくなかった。プライドの置き場所が、入院してから随分と狭くなった。

     桐島が那覇署の刑事だったのは、もう二年前の話だ。四十八歳の誕生日の三週間後、自宅の風呂場で倒れた。脳出血。左半身麻痺。診断書の文字は、ひどく事務的だった。

     現場に戻れる見込みは、限りなく低い。

     それでも桐島は毎朝ここに来る。安里に怒られながら平行棒を歩く。午後は作業療法室で左手の訓練をする。夜は病室で、かつて自分が扱った事件のファイルを読む。刑事の勘というものが、使わないと鈍るのかどうか、まだわからない。ただ何もしないよりはましだと思って、続けている。

     その朝、訓練が終わって病室に戻ろうとしたとき、廊下の奥が騒がしくなった。

     看護師が二人、小走りで六号室へ向かっていく。それだけなら珍しくない。しかしその後に続いた准看護師の顔が、桐島には引っかかった。青ざめているのではなく、強ばっている。怖いのではなく、何かを見てしまった顔だった。

     桐島は車椅子を六号室の方向へ向けた。

     廊下の突き当たり、六号室のドアは内側から施錠されていた。非常解錠で開けられた室内に、患者の宮城健三——六十四歳——が、ベッドの上で冷たくなっていた。

     死因は心不全、と後に記録される。

     しかし桐島の目は、床に残された二つの足跡に釘付けになっていた。裸足の、濡れた足跡。ベッドの傍から、窓の下まで続く、はっきりとした足跡。

     この病棟で、自力で歩ける患者は一人もいない。

        *

     那覇リハビリテーション病院の四階は、回復期病棟と呼ばれている。

     脳卒中、脊髄損傷、骨折後の機能再建。理由はそれぞれ違うが、ここに入院している十二名の患者に共通することが一つある。誰も、一人では歩けない。

     桐島もその一人だ。左半身の麻痺は発症直後より改善しているが、杖なしでの歩行はまだ危険とされている。訓練中は理学療法士が必ず横につく。夜間の廊下歩行は禁止されている。それがこの病棟のルールだ。

     だから足跡が問題なのだ。

     宮城健三の病室に残された足跡は、ベッドの右側から始まり、六歩ほどで窓の下に到達していた。湿っていた。夜間に誰かが水を踏んだか、あるいは濡れた足で歩いたかだ。宮城の病状は脳梗塞による右半身麻痺で、自力での起立すら困難とされていた。

     主治医の島田は心不全による自然死と判断した。発見が朝だったこと、宮城の心疾患の既往歴があったこと、外傷がなかったこと。条件は揃っていた。

     警察は呼ばれなかった。

     桐島は自分の病室に戻り、窓の外の那覇湾を眺めながら、足跡のことを考えた。

     六歩。

     足跡の間隔は、三十センチほどだった。健常者の歩幅ではない。かといって、重度の麻痺患者が装具をつけて訓練するときの、引きずるような不規則な間隔でもない。その中間——リハビリを始めてしばらく経った患者が、ようやく「歩いている」と言えるようになった頃の、あの不安定だが懸命な歩幅に、どこか似ていた。

     桐島自身が、三ヶ月前まではそういう歩き方をしていた。

    (この足跡は、患者のものだ)

     そう直感した。だが、誰の?

        *

     事件の翌日、桐島は理学療法士の安里聡子に声をかけた。

     訓練後、他の患者が引き上げた後のリハビリ室で、桐島は車椅子を彼女の正面に向けた。

    「宮城さんの足跡のこと、聞いていいか」

     安里は手元のリハビリ記録から顔を上げた。表情が、わずかに動いた。

    「先生は自然死って言ってますよ」

    「俺は足跡の話をしている」

     安里は少し間を置いてから、椅子を引いて桐島の向かいに座った。窓から差し込む午後の光が、彼女の白衣の袖に落ちた。

    「あれを見たんですね」

    「病室に入る前に、廊下から見えた。六歩分、ベッドから窓まで」

    「警察は来ていません」

    「わかってる。だから聞いてる」

     安里はしばらく黙っていた。リハビリ室の奥で、作業療法士が器具を片づける音がしていた。

    「宮城さんは」と彼女はゆっくり言った。「入院して八ヶ月になります。脳梗塞による右半身麻痺、それから高次脳機能障害の一部。自力での起立は補助なしでは難しい状態でした」

    「でした、と過去形か」

    「亡くなったので」

     桐島は頷いた。「彼が歩けた可能性はあるか」

    「ありません」と安里は言った。即答だった。「少なくとも、私の記録上は」

     その「記録上は」という言い方が、桐島には引っかかった。

    「安里さん」

    「はい」

    「さっき一瞬、何かを言いかけた。言いかけてやめた」

     安里の視線が、桐島の顔から外れた。窓の外、那覇の空を見る目だった。

    「気のせいじゃないですか」

    「刑事を十八年やった。気のせいの顔と、言えない顔は区別できる」

     長い沈黙だった。廊下を車椅子が通る音。誰かの低い咳。

    「三週間前」と安里は言った。「深夜の見回りで、宮城さんが病室の窓の前に立っているのを見た職員がいます」

    「立っていた?」

    「ええ。でも翌朝、本人に確認したら覚えていないと。夢遊病の一種かと思って、記録にはあげなかった。高次脳機能障害の患者には、稀にそういうことがある」

     桐島は黙って聞いた。

    「その後、同じようなことは起きていません。だから、深夜の出来事と今回の足跡は関係ないと思います」桐島の顔を見ずに、安里は続けた。「そう思いたいんです」

     最後の一言が、本音だった。

        *

     その夜、桐島は病室でリハビリ記録の書式を頭の中に思い浮かべた。

     那覇署にいた頃、病院がらみの事件を扱ったことが二度ある。一度は薬剤の横領、一度は患者の転落死。どちらも、記録と現実の間に小さなずれがあった。そのずれを辿ることで、真実が見えた。

     安里の言葉が引っかかっていた。

     記録上は、歩けない。

     記録の外では、何があったのか。

     桐島は右手でタブレットを操作し、脳梗塞後の回復過程について調べ始めた。高次脳機能障害の夜間行動。夢遊状態での歩行。それが事実なら、宮城は「記録の上では歩けない」が「実際には深夜に歩いていた」可能性がある。

     しかし、それは足跡の説明になるが、死の説明にはならない。

     心不全。

     自然死。

     桐島はタブレットを置き、天井を見た。病室の蛍光灯が、白く冷たく光っていた。

     宮城健三は、なぜ死んだのか。

     足跡は、誰が残したのか。

     二つの問いは、別の問いのようでいて、どこかで繋がっている気がした。その繋がりの場所が、まだ見えない。

     廊下から、夜勤の看護師が見回りに来る足音がした。桐島は目を閉じた。

     眠れる気はしなかった。

     左手が、重かった。

     いつものように、他人のように、重かった。

        *

     翌朝、桐島は廊下で同じ病棟の患者、糸数光雄と行き合った。

     糸数は六十二歳。腰椎圧迫骨折と、軽度の脳梗塞の既往がある。車椅子ではなく歩行器を使っている。この病棟では最も「歩ける」患者だ。背が高く、寡黙で、食堂でも他の患者とほとんど話さない。

    「宮城さん、死んだな」と糸数は桐島に言った。廊下の窓を見ながら、前置きなしに。

    「ああ」

    「昨日から、あの部屋に人が来ている」

    「片付けだろう」

    「夜中も来てた」

     桐島は車椅子を止めた。「夜中?」

    「二時頃。廊下に人の気配がした。俺は眠りが浅いから、わかる」糸数は振り返らずに言った。「あんた、刑事だったんだろ。この病棟、みんな知ってる」

    「元刑事だ」

    「元でも、そういう目をしてる人間は変わらんよ」

     糸数は歩行器をゆっくり押して、食堂の方へ向かった。背中が、少し揺れていた。

     夜中の二時。

     宮城が死んだのは、発見された朝の何時間前か。桐島は記憶を辿った。看護師が騒いでいたのは朝の六時過ぎだった。死後硬直の状態から、主治医は深夜から未明にかけての死亡と判断していた。

     つまり、誰かが死亡前後の時間帯に、あの病室の前にいた。

     桐島は窓の外を見た。三月の空は薄曇りで、那覇湾が灰色に光っていた。

     足跡の問いが、また戻ってきた。

     歩けないはずの患者が、なぜ歩いたのか。

     あるいは——歩いたのは、本当に患者だったのか。

    第二章 動けない容疑者たち

     宮城健三が死んで三日が経った。

     六号室には新しいシーツが張られ、午後には別の患者が入ってくるという話だった。病院とはそういう場所だ。人が死んでも、ベッドは空にしておけない。

     桐島は食堂の窓際の席に陣取り、病棟の動きを観察していた。車椅子のブレーキをかけ、右手にコーヒーカップを持ち、左手は膝の上に置いたまま。左手はいつもそこにある。熱さも冷たさも、三割ほどしか感じない。

     朝食後の食堂には、四人の患者が残っていた。

     窓際でテレビを見ている七十代の男。補聴器をつけているが、音量はかなり上がっている。名前は知らない。入院して間もない様子で、まだ病棟の空気に慣れていない目をしている。

     その斜め向かいで新聞を読んでいるのが、糸数光雄だ。歩行器が椅子の横に置かれている。ページをめくる手が、ゆっくりと正確に動く。

     奥のテーブルには、田原誠一がいた。

     三十代後半に見えるが、四十一歳だという。交通事故による脊髄損傷。電動車椅子を使っている。黒いジャージ、短く刈った髪、目の下にうっすらと疲労の色がある。食べかけのトーストを前に、窓の外を見ていた。

     視線の先には何もない。那覇の曇り空があるだけだ。

     それでも田原は、そこを見ていた。

     桐島がコーヒーを一口飲んでいると、食堂の入口から理学療法士の玉城修が入ってきた。四十五歳、中肉中背、白衣に名札。田原のテーブルに近づき、何かを言った。田原は視線を窓から戻して、短く頷いた。玉城は記録用のタブレットに何かを入力して、また出ていった。

     やりとりは三十秒もなかった。

     桐島は二人を見ていた。

     何かが引っかかった。会話の内容ではなく、距離感だ。玉城は田原のテーブルに近づいたが、椅子を引いて座りはしなかった。立ったまま、必要な言葉だけ交わして去った。それは業務として正しい接し方かもしれない。だが安里聡子が患者と話すときの距離感とは、何かが違った。

     安里は必ず、患者と目の高さを合わせた。

        *

     午前のリハビリが始まる前に、桐島は訓練室の前の廊下を通った。

     今日の担当は玉城だという。安里が担当していた患者を、暫定的に引き継いでいる。入口のドアは開いていて、中から平行棒を使う患者の息遣いが聞こえた。

     桐島は立ち止まらず、通り過ぎるふりをして、室内を一瞬だけ見た。

     訓練室は縦長の空間だ。手前に平行棒が二列、奥に各種の訓練器具が並んでいる。一番奥には、免荷式トレッドミルが設置されている。天井から吊り下げられたハーネスで体重の一部を支えながら、歩行訓練ができる機器だ。桐島自身も、入院初期の頃に使った。

     その機器の前に、桐島は目を止めた。

     ハーネスの固定フック——天井のレールに沿ってスライドする金属製の部品——の一つに、細かい傷がついていた。傷は新しく見えた。金属の光沢が剥がれ、その下の素地が薄く露出している。

     通常の使用でつく傷とは、少し違う。

     通常の傷は摩耗によるもので、方向が一定しない。だがあの傷は、特定の方向に引っ張られたような線を描いていた。

     桐島は廊下を歩き続けた。立ち止まると、見ていたことがわかる。

    (何かを引っ張った。あるいは、吊り下げた)

     頭の中に、仮説の種が落ちた。まだ形にはなっていない。

        *

     昼食後、桐島は共用スペースのソファに糸数を見つけた。窓の外を眺めながら、缶コーヒーを飲んでいた。

    「隣、いいか」

     糸数は桐島を見て、顎で隣を示した。

     桐島は車椅子を横付けにした。二人でしばらく、窓の外の那覇の空を見た。三月の午後、薄い雲が低く流れていた。

    「宮城さんのこと、聞いてもいいか」

    「何を」

    「あの夜、何かほかに気づいたことはなかったか。夜中の気配のほかに」

     糸数は缶コーヒーを一口飲んだ。「廊下を誰かが歩いた音は聞こえた。患者の歩き方じゃなかった」

    「どういう意味だ」

    「足音が均等だった。杖も歩行器もなく、引きずりもなく。スタスタ歩く音だ」桐島の顔は見ずに、糸数は続けた。「夜勤の看護師かと思った。でも時間が少しおかしかった。深夜の二時は、見回りの時間じゃない」

    「何時の見回りを知ってるんだ」

    「眠れない夜が多いからな。耳だけは達者になった」

     桐島は頷いた。深夜二時。安里の話では、三週間前にも宮城が深夜に立っていたところを目撃した職員がいたという。同じ時間帯だ。

    「廊下を歩いた人間は、どこから来てどこへ消えたか、わかるか」

    「廊下の奥から来て、宮城さんの部屋の前で止まり、少ししてまた奥へ戻っていった」

    「奥というのは、訓練室の方向か」

     糸数がようやく桐島の方を見た。「あんた、刑事みたいな聞き方をするな」

    「元刑事だ」

    「そうだったな」糸数はまた窓の外を見た。「訓練室の方向だ。そこで止まって、また廊下に出てきた感じだった」

     訓練室は、夜間は施錠されている。職員はマスターキーを持っている。患者は持っていない。

    (職員だ)

     桐島は口の中でそう確認した。声には出さなかった。

     消灯後、桐島はしばらく天井を見ていた。

     安里が何を話そうとしているのか、見当はついていた。宮城の記録のことだろう。あるいは、ログのことかもしれない。いずれにしても、彼女はすでに何かを知っている。知っていて、一人で抱えている。

     それが、どこか危うく見えた。

     白衣の後ろ姿が、廊下の暗がりに消えた。あの背中が、引っかかって離れない。

     眠れなかった。左手が重かった。

     しかし翌朝、安里聡子は訓練室で死んでいた。

        *

     午後の作業療法が終わって、病室に戻る途中、桐島は山内里奈に呼び止められた。

     夜勤担当の山内は、この時間はナースステーションの事務作業をしている。二十八歳、声が小さく、廊下では必ず周囲を確認してから話す。

    「桐島さん、少しよろしいですか」

     桐島は車椅子を彼女の方へ向けた。

    「先生が亡くなったこと」と山内は言った。先生、というのは安里のことだ。「私、気になっていることがあって」

    「言えることを言えばいい」

     山内はナースステーションの窓口から身を乗り出すようにして、声を落とした。「安里先生、最近、残業が増えていたんです。以前はほとんど定時に帰る人だったのに、ここ一ヶ月くらい、夜遅くまでいることが多くて」

    「何をしていたか、わかるか」

    「ステーションから見ると、先生の席でパソコンを見ていることが多かったです。でも私が近づくと、すぐ画面を変えて。なんか、調べていた感じがして」

    「何を調べていたか、心当たりはあるか」

     山内は少し考えてから、首を振った。「わからないです。でも一度だけ、先生が操作していた画面をちらっと見てしまって。患者さんの機器使用ログの画面でした。リハビリに使った機器の、使用記録です」

     機器使用ログ。

     桐島の頭の中で、午前中のフックの傷と、今の情報が引き合った。

    「ありがとう。もし何か思い出したら、また教えてくれ」

     山内は頷いて、またステーションの奥に戻っていった。

     桐島は廊下でしばらく動かなかった。左手を膝の上に置いたまま、考えた。

     安里は機器使用ログを調べていた。そして死んだ。

     ログに、何があったのか。

        *

     その日の夕方、桐島は島田浩二に呼ばれた。

     主治医の島田は、四階の端にある小さな診察室で、デスクを挟んで桐島の向かいに座った。五十二歳、白髪交じりの髪、丸いメガネ。声は穏やかで、常に患者の側にいるような話し方をする医師だった。

    「桐島さん、少し先のことをお話ししたくて」

    「先のこと」

    「ええ」島田はデスクの上のファイルをめくった。「入院から十七ヶ月が経ちました。回復の経過は、一定の改善が見られています。ただ、ここ二ヶ月の数値を見ると、改善のペースが少し——」

    「言ってください」

     島田は一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。「基準を下回っています。回復期リハビリ病棟には、入院の目的と期間について、一定の基準があります。その基準から見ると、そろそろ次のステップを考える時期かもしれない」

    「転院、ということか」

    「療養型の施設への移行を、検討していただきたいと思っています。患者さんのためを思うと、そちらの環境の方が——」

    「俺が回復しないと言いたいのか」

     声が少し硬くなった。桐島は自分でわかった。感情が出た。刑事時代なら絶対にしなかった顔を、今している。

     島田は否定しなかった。「可能性を排除しているわけではありません。ただ、現状の数値では、継続的な入院の判断が難しくなってきています」

    「いつまでに決めればいい」

    「来週中に、方向性を教えていただけると助かります」

     桐島は頷いた。それ以上は何も言わなかった。

     島田が診察室を出た後、桐島は一人でしばらく椅子に座っていた。窓の外では那覇湾が夕陽に赤く染まっていた。

     転院。療養型施設。次のステップ。

     つまり、回復の見込みが低いと判断された人間が行く場所だ。

     宮城健三も、そう言われていた。田原誠一も、そう言われていたはずだ。

    (俺も、その側か)

     初めて、事件が他人事ではなくなった気がした。歩けない人間が歩けるかどうか、記録がどう書かれるか、誰がどこに「いていい」と判断するか——それは桐島自身の問題でもあった。

     左手が、重かった。

        *

     その夜の消灯前、安里が病室のドアをノックした。

    「桐島さん、少しよろしいですか」

     白衣姿の安里は、いつもと変わらない表情だった。ただ、声がわずかに低かった。

    「どうぞ」

     安里は病室に入り、桐島のベッドの横に立った。椅子を引いて座るでもなく、立ったままだった。

    「明日、少し話せますか。訓練の後で」

    「何の話だ」

     安里はドアの方を一瞬見てから、桐島に視線を戻した。「病棟のことで、聞いてほしいことがあって。桐島さんが刑事だったということを、知っていたので」

    「元刑事だ」

    「元でも」と安里は言った。「信頼できる人に話したかった」

     桐島は頷いた。「明日の訓練の後で」

    「ありがとうございます」

     安里は軽く頭を下げて、病室を出ていった。廊下に白衣の後ろ姿が消えた。

     桐島はその背中を見ながら、フックの傷と、ログの画面と、深夜の足音のことを考えた。

     明日、安里が話すことで、何かが繋がるかもしれない。

     眠れなかった。左手が重かった。それでも、明日になれば何かがわかる。

    安里が話す。あの声で、正確に、無駄なく。

     しかし翌朝、安里聡子は訓練室で死んでいた。

    第三章 密室の朝

     翌朝六時十分、桐島は廊下の騒ぎで目を覚ました。

     最初は夢の中の音だと思った。しかし目を開けると、廊下から複数の足音と、押し殺したような声が聞こえていた。桐島は上半身を起こし、右手でベッドの柵を掴んだ。左半身が重い。朝はいつもそうだ。夜の間に体が固まる。

     廊下に出た。

     ナースステーションの前に、夜勤明けの山内里奈と、もう一人の看護師が立っていた。二人とも訓練室の方向を見ていた。山内の顔が白かった。

    「何があった」

     山内が振り返った。「桐島さん、あの——」

    「訓練室か」

     山内は頷いた。

     桐島は車椅子を訓練室へ向けた。廊下の突き当たり、訓練室のドアの前に、別の看護師と玉城修が立っていた。ドアは開いていた。非常解錠で開けた直後の様子だった。

     桐島はドアの前で止まった。

     室内の床に、安里聡子が倒れていた。

     うつ伏せ、両腕が前に伸びている。白衣の袖が床に広がっていた。頭の近くに、スチール製の器具台が倒れている。床には器具が散らばっていた。

     外傷は頭部だけに見えた。

     転倒して、器具台に頭を打った。

     それが最初の印象だった。

        *

     島田浩二が来たのは、それから二十分後だった。

     白衣に聴診器を持ったまま、島田は安里の傍にしゃがみ込み、脈を確認した。立ち上がったとき、その顔には悲しみと、もう一つ別の何かがあった。

    「救急に連絡を」と島田は看護師に言った。「警察への連絡は、病院の判断を待ってください」

     桐島はドアの外から聞いていた。玉城が島田の横に立っていた。二人は何かを小声で話した。

    「警察を呼ばないのか」

     桐島の声に、島田が振り返った。

    「桐島さん、ここは——」

    「不審死だ。呼ぶべきだ」

     島田は少し間を置いた。「状況を確認してからです。転倒事故の可能性が高い。安里さんは残業していたようで、一人で訓練室にいたのかもしれない。夜間の一人作業は禁止しているんですが」

    「施錠されていたんだろう」

    「はい」

    「なぜ施錠して一人でいたんだ」

     島田は答えなかった。

     玉城が口を開いた。「夜遅くまで残業することが最近多かったので、施錠して作業していたのかもしれません。安里さんはそういうところがありましたから」

     声に感情がなかった。

     桐島は玉城の顔を見た。玉城は桐島の視線を受け止め、そのまま外さなかった。普通の反応だ。しかし何かが引っかかった。

    (焦っていない)

     同僚が死んでいる。それなのに、玉城の表情には動揺より整理された何かがあった。

        *

     救急が来て、安里の遺体が搬送された。

     午前の訓練は、予定通り行われた。それがかえって異様だった。

     桐島はその間、廊下で動かなかった。訓練室の中を、可能な限り記憶に焼き付けた。

     倒れた器具台の位置。散らばった器具の種類と距離。安里の倒れていた向き。そして——天井。

     訓練室の天井は、他の病室より高い。大型機器を収めるため、二層分の高さがある。天井に沿って、ダクトが走っている。空調と換気のためのものだ。ダクトには点検用の小さなハッチが、等間隔についている。

     その一つのハッチが、わずかに開いていた。

     ほんの数センチ。普通に見ていれば気づかない。しかし桐島は、昨日のフックの傷を見ていたから、天井に目がいった。

    (ハッチが開いている)

     ダクトの点検路は、天井裏を水平に移動できる構造のはずだ。病院の設備図面を見たことはないが、空調設備のある建物ならそういう構造が多い。

     その点検路は、どこに繋がっているのか。

     桐島は天井を見たまま、それを考えた。

        *

     昼前に、島田が桐島の病室を訪ねてきた。

    「警察は呼ばないのか」と桐島は開口一番に言った。

     島田は椅子を引いて座った。「桐島さんの気持ちはわかります。ただ、現時点では転倒による事故死として処理する方向で、病院としての判断をしています」

    「根拠は」

    「外傷が頭部のみ。器具台の角と一致する打撲痕。抵抗の痕跡がない。夜間の残業は禁止していますが、安里さんが自分でここに入ったと考えるのが自然です」

    「施錠されていた部屋に、一人でいたのか」

    「職員はマスターキーを持っています」

    「夜中に一人で訓練室に入って、器具台で頭を打って死んだ」

    「そういう事故は、医療現場では稀ではありません」

     桐島は島田の目を見た。島田は目を逸らさなかった。嘘をついている顔ではない。信じているのか、信じようとしているのか、どちらかだ。

    「昨日の夕方、安里さんが俺に言いに来た。明日、話したいことがあると」

     島田の表情が、わずかに動いた。「何を話す予定だったか、聞いていますか」

    「聞いていない。今日の訓練の後で話す約束だった」

    「そうですか」島田は膝の上で手を組んだ。「それが何であれ、今は確認する方法がありません」

    「機器使用ログを見せてもらえるか」

     間があった。

    「それは、患者さんのリハビリ記録に関わるものです。外部への開示は——」

    「俺は患者だ。自分の記録を見る権利はある」

    「桐島さんの記録は、もちろん」島田は少し間を置いた。「他の患者さんや職員の記録は、また別の話です」

     桐島は何も言わなかった。

     島田が立ち上がる前に、桐島は言った。「転院の話は、来週まで待ってくれると言っていたな」

    「はい」

    「その間は、ここにいられる」

    「もちろんです」

     島田は頭を下げて、病室を出ていった。

     桐島は天井を見た。ダクトが走っているとすれば、この病室の天井裏にも、同じ構造があるはずだ。点検路は、訓練室とどこで繋がっているのか。

     建物の構造を、調べなければならない。

        *

     午後、山内里奈が桐島の病室に来た。

     昼休みの時間だった。山内は夜勤明けで本来は帰れる時間だったが、まだ病院にいた。目の下に疲労の色がある。

    「先生のこと」と山内は言った。声が震えていた。「事故じゃないと思っています」

    「なぜ」

    「昨夜の十一時過ぎ、私はステーションにいました。安里先生が訓練室の方向に歩いていくのを見ました。一人じゃなかった」

     桐島は身を乗り出した。「誰と一緒だったか」

    「暗くて、顔まではわからなかったです。でも白衣を着た人と、一緒に歩いていた」

    「白衣。職員か」

    「だと思います。患者さんじゃなかった。歩き方が」山内は言葉を選ぶように少し止まった。「普通でした」

     普通の歩き方。麻痺も、補助器具もない。健常者の歩き方。

    「その職員が誰か、見当はつくか」

     山内は首を振った。「わからないです。でも、私が見た直後に、訓練室の灯りがついた。しばらくして消えた。消えた時刻が、十一時四十分頃でした」

     安里の推定死亡時刻は、搬送した救急医が「深夜零時前後」と言っていた。灯りが消えた後に、何かが起きた。

    「山内さん、機器使用ログに、昨夜の記録があるはずだ」

    「はい」

    「それを見ることはできるか」

     山内は少し考えた。「私のIDでは、全体の記録は見られないです。でも——」山内は声をさらに落とした。「安里先生が調べていた画面、一度だけ見てしまったと話しましたよね。あのとき先生のパソコンに、ログ管理のURLが表示されていて。それ、私も開けるはずです」

    「リスクがある」

    「わかっています」山内は顔を上げた。「でも先生が——」

     声が詰まった。

     桐島は山内が言葉を取り戻すのを待った。

    「先生が、何かを伝えようとしていたことは確かです。それが何だったか、知りたいんです」

     桐島は頷いた。「わかった。急がなくていい。ただ、もし見ることができたら、昨夜の日付の記録だけ、俺に教えてくれ。どの機器が、何時に、誰のIDで使われたか」

    「やってみます」

     山内が病室を出た後、桐島はタブレットを取り出した。右手で検索した。病院建築の設備図面の一般的な構造。空調ダクトの点検路の規格。人が移動できる最小断面の基準。

     数字が出てきた。

     多くの病院建築では、点検路の断面は六十センチ四方以上が標準とされている。成人男性が這って移動することを想定した規格だ。

     這って移動できる。

     天井裏を、訓練室から別の出口まで。

     桐島はタブレットを置いて、天井を見た。

     訓練室のハッチが開いていた理由が、少しずつ輪郭を持ち始めていた。

        *

     夕方、桐島は再び廊下に出た。

     訓練室のドアには、「使用停止」の張り紙がされていた。鍵もかかっている。桐島は立ち止まらずに通り過ぎ、廊下の端まで歩いた。

     廊下の端には、非常階段への扉がある。その手前の天井に、点検用のハッチがある。

     小さなハッチだ。二十センチ四方ほどの金属板。留め具が一つ。

     桐島は車椅子を止めて、そのハッチを見上げた。

     留め具が、わずかにずれていた。

     きちんと締められていない。最後に誰かが、急いでここを閉めた。

    (訓練室から廊下端まで、天井裏を移動した)

     仮説が固まった。

     訓練室に入り、安里と口論になり、事故に見せかけて死なせた。そして訓練室の施錠を確認し、免荷ハーネスで天井のハッチまで上がり、ダクト内を這って廊下端まで移動し、このハッチから降りた。その後は普通に歩いて姿を消した。

     監視カメラは廊下を映しているが、天井裏は映さない。

     完璧に見えた。ただし——ハッチの留め具の締め方を、急いで雑にやったことを除けば。

     桐島は廊下を戻りながら、誰がそれをできたかを考えた。

     訓練室の構造を熟知している人間。免荷ハーネスの操作ができる人間。夜間に訓練室に入れるマスターキーを持つ人間。そして安里を、訓練室に呼び出せる立場にある人間。

     条件を全部満たす人間は、そう多くない。

     桐島の頭に、玉城修の顔が浮かんだ。

     あの朝の、整理された表情とともに。

        *

     消灯前、桐島はタブレットで機器使用ログの管理システムについて、可能な範囲で調べた。

     山内が言っていたURLから辿れるシステムなら、院内のネットワークに接続されているはずだ。患者用のWi-Fiでそこにアクセスできるかどうか、確認が必要だった。

     試してみると、アクセスできなかった。職員用のネットワーク限定のシステムだった。

     つまり、山内がやるしかない。

     桐島はタブレットを置いた。窓の外は完全な夜になっていた。那覇の夜は、本土より暗い。市街地の灯りが海に滲んでいる。

     安里が「話したかったこと」は何だったのか。

     機器使用ログに、何が記録されていたのか。

     そしてあのハッチから降りた人間は、誰だったのか。

     桐島は左手を持ち上げた。右手で持ち上げた。重い。ぶら下げると、引力に従うだけの腕だ。それでも、確かに自分の腕だった。

     宮城健三は、この腕と似たような腕で、夜中に立ち上がっていた。誰にも言わずに。

     足跡は、まだ答えを持っていない。

     明日、山内からの連絡を待つ。

    第四章 ログの声

     翌朝、山内里奈からメモが届いた。

     朝食のトレーの下に、折りたたんだ紙が挟まれていた。夜勤明けに帰る前に、山内が置いていったものだ。

     桐島は食堂で一人、その紙を開いた。

     走り書きで、数字と文字が並んでいた。

     日付は昨夜。時刻は二十三時十七分。機器名は「免荷式トレッドミル №2」。操作者IDは「T-0045」。

     桐島はタブレットを出した。病院のスタッフ紹介ページを開く。IDの体系は公開されていないが、名前の頭文字と番号の組み合わせなら推測できる。「T」で始まる理学療法士。

     玉城修。

     桐島はメモを四つ折りにして、ジャージのポケットに入れた。コーヒーを一口飲んだ。熱かった。

     証拠になるかどうかは、まだわからない。ログへのアクセスが正規の手続きではない以上、これを直接警察に持ち込むことはできない。しかし方向は確認できた。

     玉城が昨夜の二十三時十七分に、免荷式トレッドミルを起動した。

     安里の推定死亡時刻は深夜零時前後。山内が訓練室の灯りが消えたのを見たのが二十三時四十分頃。時系列は一致する。

     玉城は訓練室に入り、安里と何かがあり、灯りを消して天井に上がった。ハーネスで体重を支えながらトレッドミルを起動した記録が残った。そのまま天井裏を移動して、廊下端のハッチから降りた。

     問題は、なぜ安里を訓練室に呼んだのか。そして玉城が何を恐れていたのか、だ。

        *

     午前のリハビリは、玉城が担当だった。

     安里の担当患者を引き継いでいる関係で、桐島の訓練も玉城が見ることになった。平行棒の前で、玉城は記録タブレットを持ち、桐島の動きを観察した。

    「重心、右に寄ってますね」

     安里と同じことを言った。声の質が違った。安里の言葉には、どこかに期待が混じっていた。玉城の言葉は記録だった。

    「わかってる」と桐島は言った。

     平行棒を三往復した。左足が言うことを聞かないのは今日も変わらなかった。玉城は何も言わずに記録した。

     訓練の終わり際、桐島は言った。「ハーネス、最近使ったか」

     玉城の手が、タブレットの上で一瞬止まった。「どういう意味ですか」

    「免荷式トレッドミルのハーネスだ。俺は入院初期に使った。最近また使えるか確認しようと思って」

    「担当医の判断次第です。私が決めることではありません」

    「そうか」

     それだけの会話だった。

     だが桐島は確認した。タブレットが止まった、あの一瞬を。

        *

     午後、桐島は田原誠一を探した。

     田原は共用スペースにいた。電動車椅子で窓際に陣取り、窓の外を見ていた。昨日と同じ席、同じ姿勢だった。

    「少し話せるか」と桐島は言った。

     田原は桐島を見た。目に警戒の色があった。「何の話ですか」

    「宮城さんのことだ」

     田原の表情が変わった。警戒ではなく、別の何かが出てきた。桐島にはそれが何かわかった。後ろめたさではない。悲しみだ。

    「座ってもいいか」

     田原は頷いた。

     桐島は車椅子を田原の横に並べた。二人で窓の外を見た。三月の午後、那覇湾に白い雲が映っていた。

    「宮城さんの足跡のことを知っているか」と桐島は言った。

     田原はすぐには答えなかった。窓の外を見たまま、少し間を置いた。

    「知ってます」

    「話せるか」

     また間があった。田原の電動車椅子のモーターが、低く唸った。

    「宮城さんは、夜中に立っていました」と田原は言った。「最初に見たのは、入院して三ヶ月目の頃です。深夜に目が覚めて、廊下に出たら、宮城さんの部屋の前に明かりが漏れていた。ドアが少し開いていて、見てしまったんです」

    「何が見えた」

    「宮城さんが、ベッドの横で立っていました。壁に手をついて、少しだけ。でも立っていた」

     桐島は黙って聞いた。

    「声をかけようとしたんですが、できなかった。なんか、声をかけたら壊れる気がして。そのまま、自分の部屋に戻りました」

    「それからも続いていたのか」

    「何度かありました。月に二、三回。宮城さんは俺が見ていることに気づいていたと思います。でも何も言わなかった。俺も何も言わなかった」

    「安里さんは知っていたか」

     田原はここで初めて、桐島の方を見た。「安里先生は、知っていたと思います。先生は記録に書かなかったけど、知っていた。宮城さんが夜中に一人で立っていたことを」

    「なぜそう思う」

    「ある朝のリハビリで、先生が宮城さんに言ったんです。夜の訓練、無理しないでくださいね、って。小さい声で。宮城さんは何も答えなかった。でも先生は、それ以上何も言わなかった」

     桐島は窓の外を見た。

     安里は知っていた。そして黙っていた。

    「田原さん、あんた自身は?」

     田原の顔が、わずかに動いた。

    「俺も、夜中に訓練してました」田原は低い声で言った。「記録には残っていないやつを。自分の部屋で、できる範囲で。体を動かさないと、気が狂いそうで」

    「安里さんはそれも知っていたか」

    「知っていました。一度、夜中に部屋に来て。何も言わずに、一時間だけ横にいてくれました。翌日のリハビリで、少しだけ訓練の負荷を上げてくれた。記録には書かずに」

     桐島は田原の横顔を見た。四十一歳、回復の見込みが低いと言われた男。夜中に一人で体を動かし続けた男。

    「宮城さんが死んで、足跡が残っていた。あんたはあの足跡を見たとき、何を思った」

     田原は少し黙ってから言った。「宮城さんが立てたんだ、と思いました。最後まで、立てていたんだと」

     声が、わずかに震えていた。

    「それは誰かに見せるためじゃなかった」

    「違います」田原は首を振った。「宮城さんは、自分のためにやっていた。俺も見ていたけど、あれは自分のためだった。誰かに証明するためじゃない」

     桐島は頷いた。

     足跡の意味が、そこで変わった。

     謎ではなかった。宮城健三が「立てた」という事実を、自分のために刻んでいた痕跡だった。床の上の、誰にも渡さない証拠だった。

     桐島は自分の左手を見た。膝の上に置かれたまま、重い左手。

     十七ヶ月、この手と付き合ってきた。この手が少しでも動くたびに、誰かに報告したくなる気持ちがあった。それが回復の証拠になると思っていた。

     だが宮城は、誰にも言わなかった。

    (それでよかったのかもしれない)

     そう思った。

        *

     夕方、山内が再び桐島の病室に来た。

     今度は昼勤のシフトで来ていた。表情が昨日より硬かった。

    「もう一つ、わかりました」と山内は言った。「昨夜だけじゃなくて、一ヶ月前のログにも、同じIDで深夜の記録があって」

    「玉城さんのIDか」

    「はい。一ヶ月前は、別の機器です。パワーアシスト型の歩行補助器。それが深夜二時に、玉城さんのIDで起動した記録が残っていました」

    「一ヶ月前」

     桐島は考えた。一ヶ月前。宮城が死んだのは四日前。安里が「最近残業が増えた」のはここ一ヶ月だと山内は言っていた。

    「安里さんが機器ログを調べ始めたのも、一ヶ月前頃か」

    「そうだと思います」

    「つまり安里さんは、一ヶ月前の記録を見て、何かに気づいた」

     山内は頷いた。「それで調べていたんだと思います。そして昨夜——」

     声が止まった。

     桐島は続きを言わなかった。山内もわかっている。

    「もう一つ聞いていいか。玉城さんは、リハビリの記録について、何か特別なことをしていると聞いたことはあるか」

     山内は少し考えた。「患者さんの記録が、実際より良く書かれているって、噂で聞いたことはあります。でも確認したことはないし、誰がやっているかも」

    「その噂は、いつ頃から」

    「私が来たときには、もうそういう話がありました。二年くらい前から、かな」

     二年。玉城の在職期間と重なるかどうか、桐島には確認する手段がなかった。しかしその方向は見えた。

    「ありがとう。あとは俺がやる」

     山内が出ていった後、桐島はタブレットを取り出した。

     リハビリの診療報酬。回復期病棟の入院基準。保険適用の条件。

     調べていくと、見えてきた。

     回復期リハビリ病棟は、患者の回復度が一定の基準を下回ると、診療報酬が下がる仕組みになっている。入院を継続するためには、定期的に「回復している」という数値が必要だ。

     記録を「少しだけ良く」書けば、患者は入院を続けられる。保険も適用され続ける。転院を迫られない。

     玉城が記録を改ざんしていたとすれば——それは金のためではなく、患者を病棟に留めておくためだった。

     田原誠一も、宮城健三も、その恩恵を受けていた可能性がある。

     そして安里がそれを発見した。告発しようとした。玉城にとってそれは、患者たちを転院させることを意味した。

    (どちらも、患者を守ろうとしていた)

     そこに着いたとき、桐島は少しだけ手が止まった。

     安里の「正しさ」と、玉城の「正しさ」は、同じ場所から来ていた。ただ、方向が違った。

     どちらが間違っていたのか。

     桐島にはまだ、答えが出なかった。

        *

     夜、桐島は訓練室の前に行った。

     「使用停止」の張り紙は外されていなかった。しかしドアの前に立って、室内の構造を頭の中で確認した。

     平行棒の位置。免荷トレッドミルの場所。天井のハーネスレール。ハッチの位置。

     安里の倒れていた場所は、トレッドミルの手前だった。器具台が倒れていた。

     もし安里がトレッドミルの前に立っていたとして、そこから器具台のある場所まで、距離がある。転倒だけで届くか。

     桐島は車椅子を室内に入れた。「使用停止」の張り紙は外から見た人間が気づかなければ、入ること自体は止められない。鍵はかかっていなかった。

     室内は薄暗かった。窓からの光だけで見えた。

     桐島はゆっくりと、安里が倒れていた場所まで車椅子を進めた。そこから立ち上がるように、上半身だけ起こした。

     トレッドミルが、正面にある。

     その前に立てば、背後に器具台がある。後ろに倒れれば、器具台に頭が当たる。

     押されれば、そうなる。

     桐島は室内を見渡した。ハーネスの固定フックが、天井のレールに沿って並んでいる。昨日見た傷のあるフックは、ここから見ると出口のハッチに一番近い位置にあった。

     そのフックの近くに、ハーネスが畳まれて置かれていた。

     桐島は車椅子を近づけた。

     ハーネスのベルトの裏側——体に接する面とは逆の、外側の面——に、白い繊維が数本ついていた。綿の繊維のように見えた。白衣の素材は綿混紡が多い。

     桐島はタブレットを出して、そのベルトの部分を写真に撮った。

     証拠として使えるかどうかは、まだわからない。しかし記録は残す。刑事時代からの習慣だった。

     車椅子を出口に向けた。

     訓練室を出る前に、もう一度天井のハッチを見た。

     玉城修は、このハッチから出た。安里を死なせた後で、このハッチに上がり、ダクトを這い、廊下端まで移動した。

     そのために、免荷ハーネスを使った。体重を支えながら、天井まで上がれる機器として。

     四十五歳の男が、天井まで上がれるか。

     できる、と桐島は思った。健常者なら、上がれる。玉城は毎日この機器を患者に使っている。構造を熟知している。どこを掴めば体重を預けられるか、わかっている。

     そしてハーネスの使用記録が残ることも、知っていたはずだ。

     なぜ残したのか。

     答えは一つだ。記録が残ることに気づいていなかったか、あるいは——残っても問題ないと思っていたか。

     安里が死んだ後、記録を調べる人間はいないと思っていたのかもしれない。

     その計算が、崩れた。

     桐島は廊下に出た。

     玉城に、話をしにいく時間が来ていた。

        *

     その夜遅く、桐島は玉城が帰り支度をしているのをステーション前で見かけた。

     他の職員はすでに帰っていた。玉城一人が、上着を羽織ってロッカーを閉めるところだった。

    「玉城さん」

     玉城が振り返った。桐島と目が合った。

    「少し話せるか」

     玉城は少しの間、桐島を見た。それから、「何の話ですか」と言った。声は平静だった。

    「安里さんの話だ」

     また間があった。今度は少し長かった。

    「明日でいいですか。今日は疲れているので」

    「明日の朝、訓練の後で」

    「わかりました」

     玉城は頭を下げて、廊下を歩いていった。

     桐島はその背中を見た。

     足音が均等だった。杖も、補助器具もない。スタスタ歩く音だった。

     糸数が聞いた、あの夜の足音と同じ歩き方だった。

    第五章 ハーネスの夜

     翌朝のリハビリが終わったのは、十時過ぎだった。

     玉城は訓練の間、何も変わらなかった。記録タブレットを持ち、桐島の動きを観察し、必要なことだけ言った。重心が右に寄っている。左膝の角度が足りない。声は事務的で、感情がなかった。

     それが普通なのか、意図してそうしているのか、桐島には判断できなかった。

     訓練が終わり、他の患者が引き上げると、リハビリ室には桐島と玉城だけになった。

     玉城はタブレットに記録を入力していた。桐島は平行棒の前で車椅子を止め、玉城が入力を終えるのを待った。

     窓の外に、三月の空があった。昨日より雲が少ない。那覇湾の水面が、光を返していた。

    「終わりました」と玉城が言った。

    「座ってもらえるか」

     玉城は少し間を置いてから、椅子を引いた。桐島の正面に座った。タブレットを膝の上に置き、桐島を見た。

    「安里さんの話、と言っていましたね」

    「ああ」

    「何が聞きたいですか」

     桐島は玉城の目を見た。静かな目だった。覚悟を決めた人間の目か、あるいは何も知らない人間の目か、表面だけでは区別がつかない。

    「あの夜、訓練室で何があったか、話してほしい」

     玉城の顔が、わずかに動いた。それだけだった。

    「私が何かを知っていると、思っているんですか」

    「思っている」

    「根拠は」

    「機器使用ログに、あなたのIDで深夜の記録が残っている。免荷式トレッドミル。時刻は二十三時十七分。安里さんの推定死亡時刻と一致する」

     玉城はタブレットを膝の上に置いたまま、動かなかった。

    「そのログを、あなたはどうやって見たんですか」

    「そこは関係ない」

    「関係あります。不正アクセスであれば——」

    「安里さんが死んだ夜、山内さんが廊下で二人を見ている。白衣を着た人間と一緒に、訓練室の方向に歩く安里さんを。それから訓練室の灯りがついて、消えた」

     玉城は答えなかった。

    「訓練室のハーネスベルトに、白衣の繊維がついていた。天井のハッチの留め具が、急いで閉めた跡がある。廊下端のハッチも、同じだ」

     玉城はまだ黙っていた。

    「糸数さんが、あの夜の深夜に訓練室の方向から機械音を聞いている。免荷トレッドミルの起動音だ」

     長い沈黙だった。

     窓の外で、鳥が鳴いた。那覇では珍しく、小さく高い声だった。

     玉城が口を開いた。

    「全部、知っているんですね」

    「全部かどうかはわからない。だから聞いている」

     玉城はタブレットを椅子の横に置いた。膝の上で手を組んだ。その手が、わずかに白くなった。

    「安里さんを呼んだのは、私です」

     声は平静だった。告白というより、報告に近かった。

    「なぜ呼んだ」

    「話し合いたかった。説得したかった」

    「何を」

    「告発を、やめてもらいたかった」

     桐島は何も言わずに聞いた。

    「安里さんは一ヶ月前から、私の記録を調べていました。最初は気づかなかった。でも先週、彼女が私に言いに来た。病院の上に報告すると」玉城は窓の外を見た。「私は止めようとしました。なぜ止めてほしいか、説明しようとした」

    「記録の改ざんについて、か」

    「改ざんと呼ぶかどうかは、見方によります」

     その言い方が、桐島には引っかかった。「どういう意味だ」

     玉城は桐島に視線を戻した。「田原さんを知っていますよね」

    「ああ」

    「田原さんは半年前に、回復の見込みが低いという評価を受けました。このままでは診療報酬の基準を下回り、転院になる可能性があった。脊髄損傷の患者が、一般の療養施設に移ると、リハビリの機会が大幅に減ります。回復の可能性が、物理的に閉じる」

    「それで記録を——」

    「数値を、実際より少し良く書きました。基準の範囲内に収まるように」

     桐島は黙って聞いた。

    「田原さんだけじゃない。宮城さんも、他に二人います。みんな、本当は数値が基準を下回っている。でも転院すれば、リハビリの機会を失う。私は、それを防ぎたかった」

    「患者のために、記録を偽った」

    「偽ったとは思っていない」玉城の声が、初めてわずかに感情を帯びた。「実際に、田原さんは夜中に自分で訓練していた。その努力が記録に反映されないのは、システムの問題です。私は、現実に近い数値を書いただけだと思っています」

    「しかし事実と違う数値を書いた」

    「はい」

     玉城は一言でそれを認めた。

    「安里さんはそれを知って、告発しようとした」

    「彼女は正しかった」

     その言葉が、桐島には意外だった。「正しかった、と思っているのか」

    「思っています」玉城は再び窓の外を見た。「安里さんは、記録は事実でなければならないと言いました。それは正しい。私がやっていたことは、医療記録の改ざんです。正式に言えば、不正です」

    「だが、やめなかった」

    「患者を守るためにやっていることを、やめられなかった」

     桐島は玉城の顔を見た。四十五歳、白衣、膝の上で組んだ手。その手が、今も白い。

    「あの夜、訓練室で何があったか。正確に話せ」

     玉城は少しの間、口を閉じていた。それから、ゆっくりと話し始めた。

    「安里さんに、訓練室で話そうと声をかけました。人に聞かれたくなかったので。彼女は来てくれました。私は説明しました。なぜ記録を修正していたか。患者たちの状況を。田原さんが夜中に訓練していることも」

    「安里さんの反応は」

    「聞いてくれました。でも、考えは変わらないと言いました。医療記録の信頼性は、個別の事情より優先されると。病院全体の問題になると。それは正しいと、私も思った」

    「それで」

    「私は、もう一度だけ待ってくれと頼みました。田原さんの数値が本当に改善すれば、記録の修正は必要なくなる。あと三ヶ月だけと」

    「安里さんはどう答えた」

    「答える前に——」

     玉城が止まった。

     桐島は待った。

    「私が、安里さんの腕を掴んだんです。やめてくれと、もう一度言おうとして。彼女が振り払おうとして、バランスを崩した。後ろに倒れた。器具台があった」

     声が、平静のまま、続いた。

    「頭を打つ音がしました。私は、安里さんの側に行きました。呼びかけました。返事がなかった。呼吸を確認しました。していなかった」

     室内が静かだった。リハビリ器具の金属が、朝の光を反射していた。

    「なぜ、その場で助けを呼ばなかった」

    「呼ぼうとしました。でも、呼べなかった」玉城の声がわずかに低くなった。「呼べば、全部が出る。記録の話も、今夜のことも。患者たちが転院になる。田原さんも、宮城さんも——宮城さんはもう亡くなっていましたが——全員が、施設に移ることになる」

    「だから逃げたのか」

    「逃げようと思ったわけじゃない」玉城は首を振った。「ただ、動けなかった。長い時間、安里さんの側にいました。それから、ハーネスを使って出た」

     桐島は玉城を見た。

    「玉城さん、あんたは安里さんを殺したんじゃない。事故だった。でも死なせた後で、逃げた。その間に、助けを呼べば助かったかもしれない」

     玉城の顔が、初めて崩れた。

     目の端が、わずかに動いた。感情を押さえているのか、諦めているのか、桐島には判断できなかった。

    「わかっています」と玉城は言った。「それが、私がやったことです」

    「記録の話は、俺には関係ない。でも安里さんが死んで、あんたが逃げた事実は変わらない」

    「はい」

    「警察に連絡する」

    「わかりました」

     玉城は膝の上の手を解いた。椅子の背に、ゆっくりともたれた。

    「桐島さん」

    「何だ」

    「田原さんに、一つだけ伝えてもらえますか」玉城は窓の外を見た。「夜中の訓練、続けてくださいと。記録がなくても、体は覚えているので」

     桐島は何も言わなかった。

     返事をしなかったことが、返事だった。

        *

     桐島は病室に戻り、タブレットで那覇署の代表番号を調べた。

     かつての同僚に、直接かけた。刑事課の山城だ。同期で、今は係長をしている。

    「桐島か。生きてるか」

    「生きてる。少し聞いてほしいことがある」

     山城はすぐに話を切り替えた。それが、刑事という仕事の体に染みた反応だった。

     桐島は簡潔に話した。安里の死。ログの記録。ハーネスの痕跡。玉城の話した内容。証拠になるかどうか不確かなものも含めて、全部を話した。

     山城は途中で何度か質問した。桐島は答えた。

    「お前が患者として入院中に調べたのか」

    「そうだ」

    「証拠の取り方がいくつか問題になる」

    「わかってる。でも方向は出た。あとはそっちの仕事だ」

     少しの間があった。

    「わかった。今日中に動く」

    「頼む」

    「お前、無理するなよ。リハビリ中なんだろ」

    「してる」

    「ちゃんとやれ。現場には戻れないかもしれないが、生きてれば他のことができる」

     桐島は電話を切った。

     山城らしい言葉だった。励ましでも慰めでもなく、ただ事実を言う。刑事はそういう話し方をする。

     午後、那覇署の刑事が二人、病院に来た。山城ではなく、若い刑事だった。島田に話を通した後、玉城と面談した。桐島が直接関わることはなかった。

     夕方、玉城は警察と一緒に病院を出た。廊下から、その後ろ姿を桐島は見た。

     白衣ではなく、私服だった。スラックスと、地味な色のジャケット。刑事の一人と並んで歩く姿は、患者の家族にも見えた。

     廊下の端で、玉城が振り返った。

     桐島と目が合った。

     玉城は何も言わなかった。桐島も何も言わなかった。

     玉城はまた前を向いて、歩いていった。

     均等な足音が、廊下の端まで続いて、消えた。

        *

     その夜、島田浩二が病室に来た。

     島田は椅子を引かずに、ドアの前に立ったまま話した。

    「桐島さん、今日のことは——警察の方に、全て話しました」

    「そうか」

    「玉城は、明日から出勤しないことになります。患者さんへの説明は、病院として行います」

    「田原さんや、他の患者の転院問題は、どうなる」

     島田は少し間を置いた。「現時点では、記録の内容を精査する必要があります。ただ、すぐに転院という話にはならないと思っています」

    「思っている、か」

    「私の権限でできることは、します」

     桐島は島田の顔を見た。穏やかな顔だった。善意の人間の顔だった。同時に、昨日の「転院を検討してほしい」という言葉を思い出した。

    「俺の転院の話は」

     島田は少しだけ視線を落とした。そして、デスクの引き出しから紙を出すような仕草を、そこに引き出しがないのに、手でした。

    「保留にします。しばらくの間」

     その「しばらくの間」が何を意味するか、二人ともわかっていた。明示しなかったことが、むしろ正直だった。

    「わかった」

     島田は頭を下げて、病室を出ていった。

     桐島は窓の外を見た。

     那覇の夜が、静かに広がっていた。

     玉城は間違っていたのか。安里は正しかったのか。記録の正確さと、患者の生活と、どちらが優先されるのか。

     桐島には、答えが出なかった。

     ただ、安里が死んで、玉城がそれを隠したことは変わらない。その事実だけを、動かした。

     左手が重かった。

     いつものように、他人のように、重かった。

     だが今夜は、その重さが少しだけ違って感じた。

     宮城が、この手と似たような手で、夜中に立ち上がっていた。誰にも言わずに、自分のために。

     その足跡は、床の上に残って、朝に誰かに見つかった。

     見つかったことに、意味があったかどうか。

     宮城はもういない。聞けない。

     でも足跡は確かにあった。桐島が見た。田原が知っていた。安里が黙って守っていた。

     誰にも渡さない証拠が、それでも誰かに届いた。

     桐島は左手を右手で持ち上げた。膝の上に、置き直した。

     明日もリハビリがある。

     玉城のいない、リハビリが。

    第六章 もう一歩

     玉城修が病院を去った翌日、病棟は静かだった。

     朝食の食堂に、いつもより言葉が少なかった。補聴器の老人はテレビを見ていた。糸数光雄は新聞を開いていたが、ページをめくらなかった。田原誠一は、いつもの窓際の席にいた。トーストに手をつけていなかった。

     桐島はコーヒーを飲みながら、その静けさの中にいた。

     嵐の後の静けさではない。もともとここは静かな場所だった。歩けない人間たちが、それぞれの朝を過ごす場所だった。玉城がいなくなっても、朝は来る。食事が運ばれる。リハビリの時間になる。

     それだけのことだ。

     それだけのことが、続いていく。

        *

     午前中、田原が桐島に話しかけてきた。

     共用スペースで、田原の電動車椅子が桐島の横に並んだ。窓の外に、那覇湾が光っていた。

    「玉城先生のこと、聞きました」と田原は言った。「島田先生から」

    「そうか」

    「俺のことも、話したんですか。夜中の訓練のこと」

    「関係ある範囲で話した。警察には話していない」

     田原は少し黙った。「俺のせいで、玉城先生は——」

    「違う」

     桐島は即座に言った。田原が顔を上げた。

    「あんたは何もしていない。夜中に自分で体を動かしていただけだ。それは誰かの罪じゃない」

    「でも、玉城先生は俺を転院させないために——」

    「玉城さんがやったことは、あんたのためだったかもしれない。でも、あんたが頼んだわけじゃない。あんたには関係ない」

     田原は窓の外を見た。しばらく黙っていた。

    「玉城先生が守ろうとしたこと、無駄だったんですかね」

     桐島は答えなかった。

     すぐには、答えが出なかった。

     玉城が守ろうとしたものは、田原がここにいられることだった。リハビリを続けられることだった。回復の可能性が閉じないことだった。それは実現した。田原はまだここにいる。

     しかし安里が死んだ。

     その二つを並べて、どちらかを選ぶことは、桐島にはできなかった。できないまま、そのままにしておくしかなかった。

    「わからない」と桐島は言った。「俺には、わからない」

     田原は頷いた。その頷き方が、納得ではなく、受け取った、という感じだった。

    「桐島さんは、なぜ調べたんですか。刑事でもないのに」

     桐島は少し考えた。

    「安里さんが、話したいことがあると言いに来た。俺を、信頼できる人間だと思って。だから」

    「それだけですか」

     窓の外の光が、田原の電動車椅子のアームに反射していた。

    「それだけじゃない」と桐島は言った。「宮城さんの足跡を見たとき、誰かが歩いたと思った。誰かが、歩けたと思った。それが誰で、なぜかを、知りたかった」

    「なぜ知りたかったんですか」

     桐島は自分の左手を見た。

    「俺も、歩けるかどうか、わからない人間だから」

     田原は何も言わなかった。

     二人で、しばらく窓の外を見た。那覇湾に、白い船が一隻、ゆっくりと動いていた。

        *

     昼前、糸数光雄が桐島を呼んだ。

     廊下で、歩行器を押しながら立っていた。珍しく、桐島の方から声をかけてくるのではなく、糸数の方から手招きした。

    「荷物、まとめた」と糸数は言った。

    「退院か」

    「今日の午後だ。息子が迎えに来る」

     桐島は糸数の顔を見た。特別な表情はなかった。淡々としていた。入院したときと同じ顔で、退院していくのだろう。

    「世話になった」と桐島は言った。

    「俺は何もしていない。見ていただけだ」

    「それで十分だった」

     糸数は歩行器を少し前に押した。廊下を一歩、歩いた。それから振り返った。

    「桐島さん」

    「何だ」

    「あんた、まだ刑事だよ」

     桐島は何も言わなかった。

    「刑事ってのは、肩書じゃなくて、見方のことだ。見てしまう人間は、どこにいても見てしまう。それは変わらない」

     糸数はまた前を向いた。歩行器を押して、廊下を歩いていった。

     背中が、ゆっくりと、しかし確実に遠ざかっていった。

        *

     午後、桐島は宮城健三の病室の前に立った。

     六号室。新しいシーツが張られ、今は別の患者が入っていた。ドアは閉まっている。

     桐島はドアの前で、少し立っていた。

     床は廊下のリノリウムだった。宮城が死んだ朝、足跡があった場所は、今はきれいに拭かれている。どこにも、何も残っていない。

     田原が言っていた。宮城は自分のためにやっていた、と。誰かに見せるためじゃない、と。

     それでも足跡は残った。宮城が最後に立ち上がった夜、床に残した水濡れの痕は、翌朝に桐島が見た。田原が知っていた。安里が黙って守っていた。

     誰にも渡さない証拠が、それでも誰かに届いた。

     届いたことに意味があったのかどうか、桐島にはわからない。宮城に聞けない。

     ただ、あの足跡が今でも桐島の目の中にある。

     六歩分、ベッドの傍から窓の下まで続く、裸足の濡れた足跡。歩幅は三十センチほど。かかと重心の、リハビリを始めてしばらく経った患者の歩き方。

     それは宮城が「立てた」という、自分だけの事実だった。

     桐島は左手を見た。

     膝の上で、重い。他人のように重い。

     しかし宮城は、この手と似たような手で、夜中に立ち上がった。記録に残らなくても。誰にも証明できなくても。

    (それでよかったんだろう)

     ドアの前を離れた。車椅子を廊下の端まで進めた。

     窓から那覇湾が見えた。午後の光が海に落ちて、水面が白く輝いていた。三月の光は、まだ柔らかい。

        *

     翌朝。

     新しい担当療法士が来た。

     二十代後半、女性、眼鏡をかけている。名前は新垣と言った。沖縄の名前だ。安里より少し若く、まだ患者との距離感を測っている感じがあった。

    「桐島さん、よろしくお願いします」

    「よろしく」

     リハビリ室に入った。平行棒の前に立った。新垣が横に立った。

     安里の立ち方とは少し違う。腕の組み方が違う。立つ位置が違う。仕方ない。別の人間だ。

    「では、始めましょう」と新垣が言った。

     桐島は平行棒を握った。右手でしっかりと、左手でかろうじて。

     左足を、前に出そうとした。

     体の中で、誰かが割り込んでくる感じがある。いつもそうだ。意志と動作の間に、誰かがいる。

     しかし今日は、その誰かの抵抗が、昨日より少し小さかった。

     左足が、前に出た。

     右足の位置まで、届かなかった。しかし昨日より、数センチ、前だった。

    「今日は調子がいいですね」と新垣が言った。

     桐島は答えなかった。

     調子の問題ではない、と思った。何かが変わったとも、変わっていないとも言えない。ただ今日は、左足が少し前に出た。それだけのことだ。

     平行棒を、また一歩進んだ。

     窓の外に、那覇湾が見えた。三月の朝、潮の匂いがする。海の近くにいることを、今日はそうやって知る。

     もう一歩、進んだ。

     回復は、誰かの絶望の上に成り立っているわけじゃない。ただ、同じ場所にあるだけだ。

     宮城が夜中に立ち上がった場所と、桐島が今日一歩を踏み出す場所は、同じ病棟の、同じ空気の中にある。

     それだけのことだ。

     それだけのことが、今日も続いていく。

     左足を、もう一歩、前に出した。

     今日は昨日より、少しだけ、前だった。

              (了)

     
     
     
    Kindle作家|AIクリエイター 40代で脳梗塞を経験。 小説、音楽・動画制作、Kindle出版、eBay海外販売など、「人生をもう一度作り直す挑戦」を発信しています。

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