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蒼く沈む街の自由



遠ざかるテールランプに、「行かないで」と言えなかった夜。

霧雨に濡れた街角で、一人の女性は恋の終わりを見送る。
 泣けないほど静かな別れ。

追いかけることも、引き留めることもできなかった自分。

それでも彼を愛していた記憶だけは、夕暮れの街に消えずに残り続ける。

失われた恋の痛みと、別れのあとに訪れる自由。

その自由は心細く、頼りない。 けれど新しい未来へ歩き出すための、最初の友達でもあった。

バーミリオンの夕闇、蒼く沈むビルの街、路地裏に響く詩人たちの歌。

愛した人を見送ったすべての人へ贈る、 切なくも美しい再生の恋愛小説。



彼の車のテールランプが、夕暮れの交差点を曲がって消えていく。

その赤は、まるで傷口のようだった。

私は歩道に立ち尽くしたまま、その光が完全に見えなくなるまで見送っていた。

追いかけようと思えば追いかけられた。

名前を呼ぶこともできた。

「行かないで」

たったそれだけの言葉を口にできたなら、何かが変わったかもしれない。

そう信じていた。

けれど、信じていたのは私だけだったのかもしれない。

彼は振り返らなかった。

私は泣かなかった。

泣けなかった。

別れというものは、もっと激しいものだと思っていた。

涙が止まらなくなったり、胸が裂けそうになったり、世界が終わったような気持ちになるのだと。

けれど本当の別れは違う。

あまりにも静かで。

あまりにも現実的で。

まるで長い夢から目覚めた朝のように、何もかもが終わってしまう。

爪の先ほどの希望さえ残さずに。

空から霧雨が降り始めた。

ロマンチックという言葉が似合うほど細く、柔らかな雨だった。

傘を差すほどではない。

けれど肩を少しずつ濡らしていく。

私はその雨に打たれながら、彼の車が走り去った道を見つめていた。

もし今からでも追いかけたら。

信号を無視して走って。

子供みたいに泣きながら名前を呼んだら。

彼は車を止めてくれるだろうか。

そんな想像をしてみる。

そして、すぐに笑ってしまった。

止めてくれたとして、その先に何があるのだろう。

傷つけ合った日々が元に戻るわけじゃない。

愛していた事実は消えなくても、愛し続けられるとは限らない。

恋には終わりがある。

それを認めることも、大人になることなのだろう。

私は顔を上げた。

バーミリオン色の夕闇が街を染めていた。

高層ビルの窓ガラスに反射した光が、最後の輝きを放っている。

その色の中へ、彼の影は溶けていった。

二度と戻らない季節のように。

ふいに路地裏から音楽が聞こえた。

古びたバーだった。

半開きの扉から流れてくるサックスの旋律。

誰かが笑い、誰かがグラスを鳴らしている。

人生に敗れた人たち。

夢を諦めきれない人たち。

愛を失った人たち。

そんな人々が夜ごと集まり、自分だけの物語を抱えながら酒を飲む場所。

私は少しだけ耳を傾けた。

昔、彼と歩いた夜を思い出した。

将来のことなんて何も決まっていなかった。

お金もなかった。

でも、ふたりでいるだけで幸せだった。

詩人みたいなことを語り合い、世界のすべてが自分たちの味方だと信じていた。

若かったのだ。

愚かなくらいに。

けれど、その愚かさを私は嫌いじゃない。

愛とはきっと、そういうものだから。

朽ちていくことを知りながら咲く花のようなものだから。

雨はいつの間にか止んでいた。

街には青い夜が降り始めている。

私はひとりで歩き出した。

不思議と足取りは軽かった。

悲しくないわけじゃない。

寂しくないわけでもない。

胸の奥には、まだ彼の笑顔が住んでいる。

それでも前へ進める気がした。

誰かを失ったあとに残るもの。

それは絶望ではなく、自由なのかもしれない。

心細くて。

頼りなくて。

抱きしめようとすると指の隙間からこぼれてしまうような自由。

だけど、その自由だけは嘘をつかない。

私を裏切らない。

だから私は少し背筋を伸ばした。

ショーウィンドウに映る自分を見て、口元だけ微笑んでみる。

彼のためではなく。

もう戻らない恋のためでもなく。

これから出会う未来のために。

蒼く沈むビルの街が、夜の海のように広がっている。

その中へ私は歩いていく。

少しだけ気取って。

少しだけ強がって。

そして少しだけ、美しく。

さよなら。

愛していた人。

ありがとう。

私の恋。

心細い自由を、せめて友達にしながら。

私は新しい夜の中へ消えていった。

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