私小説「微熱を帯びた」第25回
この連載は
1990年代の東京を舞台にした
私小説です
もうひとつの日常
夏休み明け、とはいえもう十月だった。
専門学校は文化祭の季節に入る。
文化祭といっても、校庭も広い敷地もない。
非日常はすべて校舎の中で完結する。
模擬店も、出し物も、全部、校舎の中。
こじんまりとしているけれど、
それでも、少しだけ日常がズレる感じが楽しかった。
この日、僕は高校時代の盟友、松田を呼んでいた。
サユリの話は、もうしてある。
「どれどれ」そんな調子で彼はやってきた。
サユリと松田の、初対面。
「いつもコイツから聞いてます」
「あはは、私も聞いてます」
無難で、ちょうどいい距離感の挨拶。
サユリは、松田のフルネームを聞いて、
少し考えてから言った。
「じゃあ、やっくんですね」
……俺は「ミヤウチくん」なのに?
ほんの一瞬、軽く嫉妬した。
僕も、彼女だけの呼び方で呼ばれたかった。
松田が、神奈川に住んでいるという話になる。
「湘南、近い?」
とサユリ。
「うん、近いよ」
と松田。
「ほんと?近いって!今度行こうよ!」
即決。
どうやら僕らの予定が一つ決まったらしい。
一方、サユリは高校時代の友人たちを招いていた。
「サニー・キッズ」の共作者と、
その作品を知っている人たち。
僕とは、間接的に知っている関係。
緊張がないわけじゃない。
あの楽曲を聴いた人たちだ。
サユリの相方、メグさんがいた。
「どうも、いつもサユリがお世話になってます」
飄々とした口調。
背は小さい。
サユリとは、見た目だけなら凸凹コンビ。
でも、その小さな体に収まりきらない何かを感じた。
同じ匂いも、どこかに。
サユリが、別の友人に声をかける。
「それ、なに?」
ショートカットの女子が、
大きめの紙コップを手に、もぐもぐしている。
その子が答えた。
「いも」
模擬店のフライドポテトを、
「いも」と言い切る人を、僕は初めて見た。
シンプルなのに意外性がある。
完全に食らった感があった。
この集団、ただ者じゃない。
そしてサユリは、もともとこの中にいる人なのだ。
誇らしさと尊敬。
やっぱりサユリもまた、ただ者ではないのだ。
永遠の大人
僕の学生生活は、サユリ一色だったわけではない。
たまには、他の生徒に誘われることもあった。
同じクラスの男子たちと、駅前の居酒屋に飲みに行く。
メンバーを正確に覚えているわけではないが、
その中に、
久坂さんがいたことだけは確かだ。
久坂さんは社会人経験者で、
見た目も、おじさんの一歩手前といった雰囲気。
大人だった。
だから、「さん」が付く。
よく僕らみたいなガキと飲みに行こうと思ったものだ。
店は、騒がしい学生居酒屋。
久坂さんは、偉ぶることもなく、
説教することもなく、僕らに合わせてくれた。
中ジョッキ一杯。
枝豆ひと皿。
それだけで二時間、一緒に粘ってくれた。
そのときは気づかなかった。
あとから思えば、あれも立派な大人の振る舞いだった。
映画や音楽の話をしたのだと思う。
僕らは、三人寄れば、そんな話ばかりだ。
趣味が合うというよりも、文化を愛している感覚が近い。
映画や音楽を、人生の中で重要な位置に置いていて、
それについて、いくらでも話せる。
地元にいたら、きっと味わえなかった空気。
根っこを共有する仲間と過ごす時間。
それが、どうしようもなく心地よかった。
久坂さんが言った。
「原宿、行かないか」
理由も流れも覚えていない。
でも、気楽な一人暮らしの男どもは、その提案に乗った。
終電にさえ乗れればいい。
乗れなくても、その時はその時だ。
久坂さんは、僕らを地下に下りた場所にある、
喫茶店に連れて行ってくれた。
いわゆる喫茶店とは、まるで違う佇まい。
石造りの、異国情緒のある店内。
テーブルごとに、ほどよく区切られた空間。
端的に言えば、とても良いムードだった。
二十歳前の僕らは、
目を白黒させながら、コーヒーをすすった。
大人って、すげえな。
こんな店、知ってるんだな。
久坂さんが、さらっと言った。
「良い雰囲気でしょ。女性と一緒だと喜ばれるんだよ」
僕はその言葉から、
久坂さんが以前に
誰か女性とここに来たことがあるのだろうと想像した。
でもそれは恋人とかではなく、取引先の誰かと打ち合わせ、
そんな感じのほうが、しっくりきた。
そういう感じの人だった。
「ミヤウチ君も、今度サユリさんと来なよ」
その言葉からは、
冷やかしも押しつけがましさも感じられない。
ちょっとした提案。
この距離感が大人。
絶対にサユリを連れて来ようと思った。
久坂さんは、僕の中の永遠の大人だ。
憧れるほど、自分がああなれるとは思っていない。
今でも、なれていないと思う。
でも、若者の中にいる大人として、
あの距離感と空気感は、本当に美しかった。
いつか、ああなれるだろうか。
なれるかどうかは分からない。
でも、知ってしまった以上、目指す基準にはなっている。
少し外に出た日
学内コンペの日。
学内とはいっても、グループの専門学校全体が対象だ。
副賞にはMacや様々な機材が並ぶ。
学生にとっては、なかなか夢のあるイベントだ。
僕ら――
早瀬さん、麻里ちゃん、サユリ、そして僕の四人は、
(チーム名くらい決めておけばよかった)
意欲作『DRYAD』で挑んだ。
僕の故郷の山の中でロケしたあの作品だ。
タイトルの「DRYAD(ドライアド)」は、
ギリシャ神話に登場する木の精霊。
これもサユリの発案だ。
そのあたりは、もう完全にサユリに任せていた。
この分野、彼女はめっぽう強い。
フェスティバル当日。
大きな会場が貸し切られ、
ステージングも思った以上に本格的だった。
来場者は出品者だけではないはずだが、
会場全体が、やけにギラギラしている。
ああ、やっぱりこの学校は梁山泊なんだな、と思う。
僕はこの空気が嫌いじゃなかった。
むしろ、こういう場所に身を置きたかった。
自分が「一番」じゃない場所。
高校時代は、
受賞を逃しても負けている気がしなかった。
でも、ここは違う。
そして僕もその一部だ。
腕が鳴る、という感覚があった。
式典が始まり、参加作品がダイジェストで紹介されていく。
僕らの『DRYAD』も流れた。
大きな会場でとにかく目立つよう、
僕は低音に工夫を凝らしていた。
その意図は、ばっちりハマった。
会場を揺らすような重低音。
正直、ほかの作品と比べても、音圧は段違いだったと思う。
そういう意味での「勝ち」。
でももちろん、作品としての評価とは、まったく別の話だ。
結果発表。
落選。
箸にも棒にもかからなかった。
期待しない訓練は、ちゃんと役に立った。
とはいえ、
「もしかしたら」という気持ちがなかったわけじゃない。
コンペって、そういうものだ。
人並みに、がっかりはする。
出した以上は、勝ちたかった。
その日の夜、サユリと二人でコーラとレモンスカッシュで乾杯。
どちらかがひどく落ち込んでいる、
という感じではなかった。
前向きな、静かな打ち上げ。
「まあ、次だよね」
そんな空気。
それで解散した。
その日の夜、電話が鳴った。
開口一番、サユリが言う。
「バレてるかも!」
なにが?
誰に?
話を聞く。
サユリは帰宅して、
自分たちの作品が受賞を逃したことを家族に話したらしい。
すると、お母さんがこう言ったという。
「ミヤウチくん、悔しがってたでしょう?」
メンバーは他にもいる。
なのに、ミヤウチくん名指し。
サユリは、家族に僕とのことを話していない。
ボーカル録音のときも、
麻里ちゃんと一緒に、ただの同級生としてお邪魔した。
あの状況なら、
僕と麻里ちゃんがペアとして認識されていてもおかしくない。
なのに、サユリのお母さんは、
サユリと僕をペアとして見ている?
なぜ?
サユリの話し方なのか。
名前の出し方なのか。
頻度なのか。
今でも謎だ。
ただ一つ言えるのは、
この日、僕らの関係はほんの少し、
外に漏れた、ということだ。
勝てなかった。
でも、
悪くない一日だった。
ちょっとミステリアスで、ちょっと甘酸っぱい記憶。
学内コンペは、そんな形で、
僕の中に残っている。
今週も読んでいただきありがとうございます。
次回、湘南デート、
そして、伝説の番組でのアルバイト……
9月25日(金)18時公開予定です。
