
神様の噓 10「晴れと雨」
4月。
4年目が始まった。
審査部から連絡が来たのは、4月に入って間もなくのことだった。
「丸山建設の稟議の件ですが、理事長決裁が下りませんでした」
橋本は、受話器を持ったまま固まった。
「……理由は何ですか?」
「詳細はお伝えできません。ただ、今回は見送りという判断です」
それだけだった。
電話を切った橋本は、片桐を見た。
「片桐」
「はい」
「丸山建設の稟議、理事長決裁が下りなかった」
片桐は、一瞬頭が真っ白になった。
「……なぜですか?」
「理由は教えてもらえなかった」
——なぜだ。
返済計画は問題なかった。担保評価も保守的に見積もった。藤原にも確認してもらった。数字の上では、通らない理由がない。
「支店長、何か心当たりはありますか?」
橋本はしばらく間を置いてから言った。
「ない」
だがその目が、どこか遠くを見ていた。
「お前が悪いわけじゃない。丸山さんに謝りに行こう。俺も一緒に行く」
「はい・・・お願いします」
——なぜ通らなかったのか。
その問いを抱えたまま、片桐は丸山建設へ向かった。
「いつもお世話になっております。」
「どうしたんですか、支店長まで」
丸山社長は、片桐と橋本の顔を見た瞬間、すべてを察したようだった。
「……そうですか。まあ、中へどうぞ」
事務所へ案内されると、橋本が深く頭を下げた。
「丸山さん、このたびは大変申し訳ありませんでした」
「橋本さんが謝ることじゃないでしょう」
丸山社長は静かに言った。怒りはなかった。むしろ、どこか諦めたような表情だった。
「片桐君も、よくやってくれた。お前のせいじゃない」
「納得できなくて。返済計画も問題なかったのに」
丸山社長はしばらく黙っていた。窓の外を見ながら、何かを考えているようだった。
事務所の中は静かだった。壁に掛かった時計の音だけが、やけに大きく聞こえた。
しばらくして、丸山社長は努めて明るい表情を作ろうとした。だがその目は、笑っていなかった。
「まあ、こういうこともある。うちも別の方法を考えるよ」
「丸山さん……」
「片桐君、お前は本当によくやってくれた。稟議書も丁寧に作ってくれたのはわかってる。ありがとうな」
片桐は、何も言えなかった。
「また相談させてもらうこともあるかもしれない。その時はまたよろしく頼む」
丸山社長は立ち上がりながら、そう言った。
何かを言いかけて、止めたように見えた。口を開きかけて、また閉じる。その繰り返しが、2度、3度続いた。
結局、丸山社長は何も言わなかった。
「今日はありがとう。また来てくれ」
橋本は丸山社長の背中を見ながら、小さく目を閉じた。
その表情を、片桐は見ていた。
——橋本支店長は、何かを知っているのか。
支店に戻る道、二人は無言だった。
片桐は橋本を乗せた支店の車を走らせながら、ハンドルを握る手に力が入るのを感じた。
信号で止まるたびに、丸山社長の顔が頭をよぎった。
諦めたような目。何かを言いかけて止めた口。努めて明るく振る舞おうとした、あの表情。
——丸山さんは、何を言いたかったんだろう。
助手席の橋本は、窓の外をずっと見ていた。何も言わない。
片桐は、聞こうとした。
——橋本支店長、何か知っていますか。
だが、言葉が出なかった。
——理事長が不承認にした理由は何だ。
——丸山さんは何かを知っているのか。
——橋本支店長のあの表情は、何を意味するのか。
信号が青に変わった。片桐はアクセルを踏みながら、答えの出ない問いを頭の中で転がし続けた。
支店に着いたとき、橋本がドアを開けながら小さく言った。
「片桐、お疲れ」
「……はい」
「お前は正しいことをした。それだけは間違いない」
それだけ言って、橋本は支店の中へ入っていった。
片桐はしばらく車の中に残ったまま、動けなかった。
やがて席に戻った片桐の机の上には、理事長の印鑑が押されていない稟議書が置かれていた。
丁寧に作った返済計画。藤原に確認してもらった担保評価。何度も修正した事業の収益性。
そのすべてが、一行の「不承認」という言葉の前に、静かに沈んでいた。
——これが、組織というものか。
片桐は稟議書を手に取り、しばらく見つめた。
そして、静かにファイルの中にしまった。
翌日。春らしく雲一つない快晴だ。
個人表彰式と年間表彰式が、本店の大会議室で行われた。
個人優績者と全店の支店長が一堂に集まる、年に一度の場だ。
片桐は会場に入りながら、まだ丸山建設の不承認が頭から離れなかった。
——今日くらいは、気持ちを切り替えよう。
そう言い聞かせながら、席についた。
宮川が隣に座った。
「おい、なんか顔色悪いぞ」
「少し、あってな」
「何かあったか?」
「後で話す」
宮川は少し心配そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
表彰式が始まった。
まず年間の支店成績表彰が行われた。
「東港支店、橋本剛支店長」
名前が呼ばれた。
橋本は照れくさそうに立ち上がり、壇上へ向かった。表彰状を受け取りながら、どこかいつもと変わらない飄々とした様子だった。
席に戻ってきた橋本が、片桐の肩をぽんと叩いた。
「お前のおかげだよ」
「いえ、橋本支店長がやらせてくれたからです」
「二人でもらった賞だ」
橋本はそう言って笑った。その笑顔が、コーヒーカップを5つ並べる人のそれと同じだった。
——この人の下で働けてよかった。
片桐は、心からそう思った。
続いて、個人表彰が始まった。
住宅ローン部門、個人定期預金獲得部門、新規融資先開拓部門——それぞれの上位入賞者の名前が読み上げられていく。
「住宅ローン部門、第5位、東港支店、片桐直人」
名前が呼ばれた瞬間、宮川が隣でほほ笑んだ。
片桐は壇上へ向かった。
表彰状を手渡すのは——上田昭だった。
近づくにつれて、その存在感が増してくる。入社式で感じたあの感覚と、同じだった。
上田が表彰状を差し出しながら、片桐をじっと見た。
「片桐直人。住宅ローン部門第5位。おめでとう」
「ありがとうございます」
上田はわずかに間を置いた。その目が、片桐の顔をしっかりと捉えていた。
「東港支店か」
「はい」
「私もあの支店にいたことがある。OBとしても嬉しいよ」
「ありがとうございます」
「ああ。いい支店だろう」
それだけ言って、上田は次の表彰者へ視線を移した。
片桐は席に戻りながら、その言葉を頭の中で繰り返した。
——私もあの支店にいたことがある。
東港支店のOB。
理事長が、東港支店にいた。
丸山建設の古いファイルで見た名前が、頭をよぎった。
鬼塚。そして——上田。
——まさか。
片桐は、その考えを打ち消そうとした。だが、打ち消せなかった。
続いて宮川の名前が呼ばれた。
「新規融資先開拓部門、第8位、南原支店、宮川尚志」
「はい!」
大きな返事とともに前へ出る宮川を、片桐は目で追った。いつも自信満々な宮川の後ろ姿が、なぜか少し緊張しているように見える。肩がわずかに上がっていた。
——あいつも緊張するんだな。
片桐は思わず笑いそうになった。
表彰状を受け取った宮川が席に戻ってきた。
「緊張してたか?」片桐が小声で言った。
「してない」宮川が即答した。
「肩が上がってたぞ」
「うるさい」
宮川は小声で言いながら、照れくさそうに前を向いた。
表彰はさらに続いた。
「個人定期預金獲得部門、第2位、南原支店、宮川尚志」
「はい」
今度は落ち着いた返事だった。さっきより堂々としている。
「個人定期預金獲得部門、第3位、東港支店、片桐直人」
「はい」
片桐も壇上へ向かった。
宮川と並んで表彰状を受け取る。上田から手渡されるとき、上田はもう片桐を見ていなかった。ただ、機械的に表彰状を差し出すだけだった。
席に戻りながら、宮川と目が合った。
二人は、にやりと笑った。
言葉はいらなかった。
表彰式の最後に、上田が壇上に立った。
「本日は、皆さんの素晴らしい成果を称えることができ、大変嬉しく思います」
よく通る声が、大会議室に響いた。
「今年の表彰を見て、私が感じたことがあります。若い力が、確実に伸びてきている」
会場がざわめいた。
「これまでは、経験を積んだベテランの職員が数字を引っ張ってきた。それは今も変わりません。しかし今年の結果を見ると、3年目、4年目の若手職員が各部門で頭角を現してきています。これは、上林信用金庫の未来にとって、非常に頼もしいことです」
片桐は、その言葉を聞きながら背筋が伸びる思いがした。
「若い力は、組織の血液です。諸君には、これからも切磋琢磨し、上林信用金庫をさらに高みへ導いてほしい。期待しています」
上田はそう言って、会場を見渡した。
その目が、一瞬だけ片桐のところで止まった気がした。
——気のせいか。
拍手が会場に響く中、片桐は手を叩きながら考えていた。
若い力が伸びてきている。期待している。
その言葉は、素直に嬉しかった。
拍手が収まり、表彰式が終わった。
会場を出ると、宮川が片桐の隣に並んだ。
「理事長の挨拶、よかったな」
「ああ」
「若い力が伸びてきてるって言葉、お前と俺のことだろ」
「どうだろうな」
「絶対そうだよ。来年はもっと上を取ろう。理事長をうならせてやろう」
宮川は前を向きながら、力強く言った。
片桐は頷きながら、「ああ」と答えた。
——来年はもっと上を取ろう。
その言葉は、本当にそう思っていた。
だが、胸の奥にはまだ、丸山建設の稟議書が静かに沈んでいた。
理事長の挨拶の言葉と、丸山建設への不承認。
その二つが、片桐の中でどうしても重ならなかった。
——この人は、何者なんだろう。
答えのない問いを抱えたまま、片桐は宮川と並んで歩いた。
5月。
丸山建設への訪問を続けた。
だが、丸山社長はいなかった。
「社長は外出中です」
「社長は本日不在です」
何度訪問しても、会えなかった。
電話をかけても、折り返しはない。
——どうしたんだろう。
片桐は不安を感じながらも、訪問を続けた。
宮川に電話で話すと、宮川は言った。
「それ、避けられてるんじゃないか?」
「なぜ丸山さんが俺を避けるんだ」
「わからないけど……稟議が通らなかったこととか、関係あるのか?」
「かもしれない。でも丸山さんは怒ってる様子じゃなかったし」
「何か他に理由があるのかもな」
電話を切ってから、片桐はしばらく考えた。
——丸山さんは何かを言いかけて、止めた。
——あの目に宿っていた重いものは、何だったんだろう。
答えは出なかった。
6月の初め。
片桐の携帯に、着信があった。
丸山建設の事務の女性からだった。
「片桐様、社長が……先日亡くなりました」
片桐は、言葉を失った。
「……え」
「先週のことです。ご連絡が遅くなり、申し訳ありません」
電話を切ってから、片桐はしばらく動けなかった。
——丸山さんが、亡くなった。
ニュースを確認すると、小さな記事があった。地元の建設会社社長が死亡。自殺とみられる。
——自殺。
片桐の頭の中で、様々なことが渦を巻いた。
——もしかして、稟議が承認にならなかったから……?
——俺が稟議を上げなければよかったのか。
——丸山さんが融資の相談をしてきたのは、本当に設備投資のためだけだったのか。
——あの日、何かを言いかけて止めた。あのとき、ちゃんと聞いていれば。
——俺のせいじゃないのか。
気づけば、片桐は自分のデスクに突っ伏していた。
営業室の喧騒が、遠くに聞こえる。
——丸山さん、俺は何もできなかった。
どれだけ時間が経ったのかわからなかった。
「片桐」
橋本の声がした。
顔を上げると、橋本が片桐のデスクの前に立っていた。
「支店長室に来い」
促されるまま、片桐は立ち上がった。
支店長室に入ると、橋本は椅子に座らず、窓の外を見ていた。
「丸山さんのこと、聞いた」
「……はい」
「自分のせいだと思ってるか?」
片桐は、何も言えなかった。
「正直に言え」
「……思っています」
片桐は涙がこぼれた。
橋本は、しばらく黙っていた。
窓の外で、6月の雨が静かに降っていた。
「片桐、お前は正しい仕事をした」
「でも、稟議が通っていれば——」
「違う」
橋本は静かに、しかしはっきりと言った。
「稟議が通らなかったのは、お前のせいじゃない。お前の稟議書は正しかった。数字も、計画も、何も問題なかった」
「じゃあなぜ——」
「それは……俺にもわからない」
橋本はそこで言葉を切った。
その目が、また遠くを見ていた。
「ただ一つだけ言えることがある」片桐、お前が丸山さんに誠実に向き合ったのは本当のことだ。あの人もそれをわかっていた。だから最後に『いい仕事をしてる』と言ったんじゃないか」
片桐は、あの日の丸山社長の言葉を思い出した。
「お前は……いい仕事をしてる」
諦めたような目で、しかし確かにそう言った。
「丸山さんは……何かを言いたそうでした。でも、言えなかった」
橋本はゆっくりと頷いた。
「ああ、そうだな」
「支店長は、何か知っているんですか?」
橋本は少し間を置いてから言った。
「……今は言えない」
「支店長——」
「ただ」橋本は片桐を真っ直ぐ見た。「お前がこれから正直に仕事を続けることが、丸山さんへの一番の弔いだと俺は思う」
片桐は、その言葉を噛み締めた。
「……はい」
「落ち込むのは今日だけにしろ。明日からまた動け」
橋本はそう言って、コーヒーカップを手に取った。一口飲んで「冷めてる」と言いながらまた置いた。
片桐は支店長室を出ながら、窓の外の雨を見た。
6月の雨が、静かに降り続けていた。
——丸山さん、俺はこれからも正直に仕事をします。
——いつか、あなたが言えなかったことを、俺が代わりに明らかにします。
その誓いが、片桐の中で静かに灯った。
第二部、完。