僕らは革命家 「創作大賞」
あらすじ
小学生の酒井君はある夏の日、転校生の中島君と出会う。孤独で、どこか大人びたところのある少年・中島君は、ある夢を抱いていた。それは笑いの力により大人たちの世界を変革させるという革命の夢であった。酒井君は中島君と手を組み二人で革命を成し遂げようと決意する。そして彼なりの方法で笑いを追求していく中で宮沢賢治に出会い、文章表現に目覚めていくのだった。授業中にふざけ続ける二人に手を焼く教師たちをも巻き込んで、小学校最後の学習発表会を二人が脚本を手掛けた演劇で締めくくることになった。彼らの革命は果たして成就するのか。
本編
{新しい先生に自己紹介をしよう}
僕は酒井義人です。12才です。以上。
自己紹介なんてとつぜん言われても、正直これ以上はできません。なぜかというと身長がヒミツであることは別として、僕は僕の正体を隠しながら生きている、ある意味で不幸な子供だからです。こうして隠されるとなおさら知りたくなるのが人という生き物だと思います。少しだけヒントをあげましょう。僕は…、お尻です。
先生の言いたいことはわかります。割れ目を見せろということですよね。それセクハラですよ。ではチラッとだけ。
満足いただけたみたいなので、とりあえず僕たちお尻の言い分を聞いてください。毎日毎日パンツをはかされて、そのうえズボンまでかぶらされ、基本的に体の後ろ側にあるせいで必要なケアもしてもらえず、ただウンチのためだけに使われているのです。どんなにプリプリしていてもお尻はドレイです。僕の望みは全てのお尻たちを解放し、お尻の、お尻による、お尻のための楽園を造ることです。
想像してみてください。人が皆お尻を前にして歩き、交流し、お尻を突き合わせて話し合い、愛し合う世界を。平和とはそういうことを言うのではありませんか?先生、本当は墓場まで持っていこうと決めていた言葉があります。だけどこのきかいにはっきりと言っておこうと思います。
僕はこのプーッ、プップップップーッ…、プッ、プッ、プーッ。
「あのね…、酒井君」
小学六年生の酒井君は、担任の森本芳子先生に職員室へ呼び出されていました。職員室では見慣れた先生たちが、見たこともないくらいに忙しなく動いています。酒井君はその光景を見ることが楽しくて仕方ありませんでした。
「酒井君、聞いてる?この間の自己紹介…、先生がみんなのことを知りたいってお願いしたの、わかってるわよね」
そう聞かれて漸く森本先生のほうを見た酒井君は「うん。わかってるよ」と嬉々とした表情で返事をしました。
「だったらこれは何?」
森本先生の机の上には、酒井君が自己紹介文を書いた原稿用紙が広げられていました。酒井君は叱られることはわかっていましたが、それよりも自分の“作品”を先生が読んだという事実に望外な喜びを感じていたのでした。
「あのね、酒井君。自己紹介というのは例えば好きなものだとか夢だとか、自分の性格だとか座右の銘だとか、そういうものを書くものなの。わかる?あなたのことを知りたいっていう先生の気持ちが、どれくらい伝わってる?」
「それよりどうだった?面白かった?」
「それよりって、あのねぇ…。面白くなくていいんです」
「じゃあ面白かったんだ。そういうことだよね、ね?」
森本先生はこの時、酒井君の瞳の濁りのない無邪気さに怯えに近いものを感じていました。これまでも正直なところ、子供の持つ奔放さが鼻につくことはありましたが、酒井君の眼に対しては、ある種の危うさを垣間見ていたのでした。
森本先生の不安をよそに、酒井君は終始にこにことして、彼女の顔を覗き込んでいました。
「もういいわ…、教室に戻りなさい」
酒井君が「はーい」とこの上ない程の元気な返事をして職員室を飛び出すと、壁にもたれた中島裕二君と鉢合わせました。中島君は酒井君の健闘を讃えるように微笑みを浮かべています。
「中島君、早く入りなさい」
職員室から森本先生の声が聞こえると、中島君は手を額辺りに掲げて小さく敬礼し、開け放たれた引き戸の奥へと消えていきました。酒井君が気になって中を覗き込むと、またあの森本先生のあきれ顔が見えます。
「あのね…、中島君。上履きをモーター仕様に改造して廊下を走らせるなんて前代未聞、聞いたことないわよ。あれは何?」
「あれはバキ四駆っていって…」
酒井君にとって中島君は最高の友であり、ライバルでもありました。どちらがより人を笑わせられるかで競い合っていたのです。しかし周囲の生徒や教員の中には、それを快く思っていない人たちもいました。
それは二人が五年生の頃の、ある日の給食の時間でのことでした。いつものように教室の黒板の上にあるスピーカーからは、クラシックバージョンのビートルズが流れていました。皆が黙々と給食を食べている中、突然立ち上がった中島君はその勢いで教壇に飛び乗り、客席に礼をするように深々と頭を下げました。酒井君を含めてその場にいた生徒たちは、手を止めてその様子に見入っていました。そして中島君は暫くの間動きを止めていたかと思うと、徐々に体勢を元の直立の状態へと戻していったのでした。
するとどうでしょう。中島君の鼻の穴から二筋の白い液体が流れ落ちてくるではありませんか。なんと鼻から牛乳を出すという離れ技をやってのけた中島君は、喜色満面の笑みを浮かべながら、ドジョウ掬いのような踊りを始めました。教室は割れんばかりの笑い声と拍手に沸き立ちました。酒井君はその時本当に教室が揺れるのを感じて、中島君の生み出した笑いに大きな感動を覚えていたのでした。
「やめなさい!」
教室内を暴れ回るようなけたたましい騒音を破って、女子特有の金切り声が何度も鳴り響きました。辺りは徐々に静まっていき、ついには笑い声も完全に止んでしまうと、学級委員長の丸山奏さんが自分の机を叩きながら、首を左右に回してにらみを効かせ始めました。
「待ちなさい!」
教室から逃げ出そうと出入口へ近づいていた中島君は、丸山さんに呼び止められてわざとらしく肩をびくつかせ「な、なんでしょうか…?」と怯えたように言いました。その様子がまたおどけて見えて、丸山さんの神経を逆なでしたようでした。
「なんでしょうか、じゃないでしょ!くだらない…、だいたい下品で汚いし、何も面白くないのよ!みんなもこんなことで笑わないでよ。こっちが恥ずかしくなるじゃない…」
そうまくしたてると丸山さんは「どうしてこんな時に限って先生がいないのよ…」と言って椅子に向かって落ちるように座り込みました。
「うるさいぞ!食事中は静かにするように言ってあるだろ!」
教室に入ってくるなり怒鳴りつけたのは、隣のクラスの担任の松本大輔先生でした。丸山さんは松本先生の顔を見た途端に、堰が切れたように泣き出してしまいました。
「どうした丸山。何があったんだ?」
松本先生が心配そうに尋ねると、女子生徒たちが口々に「中島君が…」と呟きながら、丸山さんを取り囲んでいきました。
「中島…、お前」
中島君の方を見ると、鼻の下をニスでも塗ったかのように光らせながら、呆けたような顔で中空を見つめていました。
「何やったかは知らんが、女の子を泣かせちゃいかんだろ!」
そう𠮟りつけた松本先生の視界の端に、深く頭を下げた男子生徒の姿が映りました。
「で、お前は何をやってるんだ?」
男子生徒はゆっくりと頭を上げたかと思うと、鼻を啜りながら「ねぇ、中島君。どうしよう。牛乳出てこないよ…、どこいったのかなあ」と首を傾げているのでした。
「酒井…、お前なあ…」
松本先生は肩を落としながら大きなため息をつきました。これが世にいう『鼻から牛乳委員長号泣事件』です。
遠く山間から吹く風は、通学路を行く子供たちの柔らかな頬を撫でると、静かに運動場を横切りました。土埃が小さな波のように地を這い、校舎の壁にぶつかってぱらぱらと鳴っています。森本先生は校門に立って子供たちを迎え入れながら、少し寂しい気持ちに浸っていました。自分のような頭でっかちの言葉が、いったいどれほど子供たちに届いているものなのかは疑わしく、もしかするとこの風にでも吹かれることのほうが余程彼らを育んでいるのではないかとさえ考えてしまっていたのです。酒井君のように頬を赤く染めながら駆けてくる子供の姿を見ると、なぜかなおさらそう思えてくるのでした。
「酒井君、門閉めるから早く、ほら」
酒井君は六年生にしては幾分か小柄で、四年生と言われても納得してしまいそうなくらいに見えました。
「こうやって見るとかわいい男の子なんですけどね」
森本先生は校舎へ向かう酒井君の背中を見つめながら、隣に立つ松本先生に言いました。
「そうだな…、やっぱりあの二人を同じクラスにしたのは間違いだったのかな」
そう言って松本先生は、空を見上げて二本指を口に当て、煙草を吸うような仕草で大きく息を吐き出しました。禁煙一か月目と本人は自慢げに言っていますが、裏で吸っているという噂が後を絶ちませんでした。
「私の前の先生はどんなふうに関わっていたんでしょうか?」
森本先生は前任の岩田薫先生が結婚を機に退職したことで、隣町の学校から着任してきたばかりでした。最初は自分の力だけで問題を解決するつもりでいましたが、早くも限界を感じ始めて、先輩教員に助けを求めることにしたのです。
「また時間のある時に話してやるよ…。さあ、ホームルームだ」
「はい、お願いします」
一年前
職員室では、来年度に五年生へと進級する生徒たちのクラス分けについて、二人の教員が話し合っていました。一人はベテランの松本先生と、もう一人は若くて美人と評判であった岩田先生でした。二年ごとのクラス分けは人数や成績を平等に振り分けることに加えて、生徒同士、あるいは生徒と教員の相性なども鑑みた上で総合的に決められます。松本先生は酒井君と中島君を離したほうがいいと主張していました。
「あの二人、仲がいいのは結構だけど揃うと厄介だしな。ほかの生徒にとっても担任にとっても離れていてくれたほうがありがたいよな」
岩田先生は何か思いつめたような表情で、名簿を握りしめていました。そして反論というより懇願に近い言葉で話し始めました。
「お願いです。あの二人を同じクラスにさせてください」
「どうして?」
「あの子…酒井君、いじめられていたようなんです」
聞けば酒井君は三年生から四年生にかけて、同級生からの執拗ないじめにあっていたらしいとのことでした。おとなしい性分の酒井君は、誰にも相談できずに一人で抱え込んでいたといいます。いじめの主犯は吉本礼二君という男子生徒でした。
ある日、体育の授業を終えた生徒たちが教室へ戻ってくると、一番前の机が一つ床に倒れていました。
「なんだ、これ?なんで倒れてんの」
ある男の子がそう言いながら机を起こすと、天板の下の棚が空っぽになっていることに気がつきました。本来ならここに詰め込まれているはずのものはいったいどこへ消えたのかと首を捻っていると
「うわっ!なんじゃこれ」
教室の後ろ側のランドセルを置く棚の傍らで、別の男子生徒がごみ箱を覗き込んでいました。ゴミ箱の中には教科書やノートが埃にまみれた状態で捨てられており、その表紙の名前を書く欄には、酒井君の名前が書かれていました。
少し遅れて教室に戻ってきた酒井君はゴミ箱へ駆け寄り、手を突っ込んで中のものを取り出し始めました。すると後ろから現れた吉本君がごみ箱を蹴飛ばして言いました。
「きったねーなあ!このサルッケツが。ゴミ箱に手ぇ突っ込んでんじゃねぇよ」
酒井君は床にばらまかれた教科書類を拾い集めて、自分の席へ戻っていきました。先ほどゴミ箱を覗き込んでいた男子生徒が「なんだよ、そのサルなんとかって」と吉本君に尋ねました。吉本君は得意げに「こいつ顔がサルのケツみたいに真っ赤だから、サルッケツって名前つけてやったんだよ」と言って笑いました。
「それからだそうです。酒井君に対するいじめが始まったのは…。教科書やノートに落書きされたり、身に覚えのないラブレターが出回ったり」
松本先生は岩田先生の話を聞きながら、驚きを隠せない表情を浮かべていました。
「当時の担任って井川先生だよな。…俺そんな話一言も聞いてないんだけど」
「ええ、松本先生にはなんか話しづらいって…」
「ちょっと待って、俺ってもしかして…」
松本先生は頬をぽりぽりと掻きながら「嫌われてた?」と言って、これまでの井川先生のふるまいを頭の中に巡らせました。
「ええ、お気づきにならなかったんですか?」
岩田先生は淡々と話を続けました。
酒井君に転機が訪れたのは、四年生の夏のことでした。その年の夏は梅雨に雨が少なかったこともあって、このあたりの地域が深刻な水不足に見舞われた歴史的な夏でした。ただでさえ、年々暑さを増していくこの季節に喘いでいた大人たちを尻目に、子供たちは夏休みを迎えて、心身ともに太陽の元へと解き放たれたのでした。
酒井君は近くの公園へ蝉を捕りに出かけていました。蝉たちは痛々しいまでに激しく鳴いていましたが、その姿は樹皮の色に溶け込んでしまい、どんなに探しても見つかりませんでした。酒井君がふてくされながら歩いていると、一匹の蝉が視界を横切り、そのまま何かの木に止まりました。近づいて見てみると、小ぶりな油蝉が幹にしがみついていました。
酒井君はゆっくりと手を近づけて、胸部の両端をつまみました。無理やり木からはぎ取ると、蝉が腹部をぴくぴくと突き上げるたびに手に振動が伝わってきて、生命に触れているという実感が湧いてきました。
「鳴いてない…、雌か」
そう言って首から提げた虫かごに蝉を入れて、別の木へと歩いて行こうとしました。
「ちょっと待った!」
突然響いた大声に怒鳴られたと思い、酒井君は縮こまりながら声の方を振り返りました。するとそこには一人の男の子が、腕組みをしながら立っていました。酒井君はその男の子に見覚えがありました。
「君は、転校生の…」
「ああ、中島だ」
転校してきたばかりの中島君はクラス内で誰とも関わろうとしない、いつもひとりぼっちなイメージの子供で、酒井くんにとっても不思議でよくわからない存在でした。
中島君は酒井君に近寄り、虫かごを手に取りました。
「この蝉、どうするつもりだ?」
「どう…って」
「このまま家に持ち帰って、それでどうする?軒先にでも吊るすのか?だいたい餌はどうするんだ?」
「えっと…それは」
酒井君が言い淀んでいると、中島君は虫かごの中央にある扉を開いて、蝉を逃がそうとしました。
「ちょっとやめてよ…」
「こんなとこに入れてると、蝉なんかすぐ死んじまうんだ。ただでさえ短い寿命なのに」
中島君は、思うように出てこない蝉を力づくで取り出して、空へ向かって放り投げました。蝉は中空で器用に体勢を立て直して、またどこかへ飛んでいったようでした。酒井君の心の中は、蝉を勝手に逃がされたことに対する憤りよりも、また自分をいじめる人間が増えることへの不安と恐怖でいっぱいでした。
「人間だって同じなんだ」
「えっ?」
そんな酒井君の心配事をよそに、中島君は話を続けました。
「人間だって、あんな学校なんかに閉じ込められると、すぐにダメになるんだ。…なのに学校を卒業して大人になっても、結局会社に閉じ込められるんだ…。そう考えると、なんか暗い気持ちにならないか?」
「僕…、そんなこと考えたことなかったよ…。中島君ってなんか大人みたいだね」
酒井君は人間や社会に対して、中島君のように批判的な目を向けたことがこれまでありませんでした。そのためとても新鮮な気持ちになり、率直な感想を述べただけでした。しかし中島君はみるみる耳を真っ赤に染めて、ついには後ろを向いてしまいました。中島君にとっては予期せぬ言葉であったために、隠しきれないほどに照れてしまったのでした。
「俺は…」
中島君は恥ずかしさを吹き飛ばすように、不自然なまでに大きな声で言いました。
「俺は、そんな人たちを解放するために、いや…救い出すために笑わせるんだ!子供も大人も笑わせて、笑わせて…、笑わせまくって、俺も笑いまくってやるんだ!…そしたら、そしたらきっと、世界は変わってるはずなんだ!」
「…これは俺の革命なんだって言っていたそうです」
岩田先生は冷め始めたコーヒーを一口飲んで「淹れなおしましょうか」と二つのカップを持って立ち上がりました。
「なるほどなあ…革命のつもりだったのか」
「ええ、そのようですね。井川先生曰く、酒井君は中島君との出会いについて、見たこともないくらいに嬉しそうな顔で、仔細にわたって話していたそうです」
「なるほどなあ…で?それからどうなったの?」
「今コーヒー淹れてますので、少し待ってください」
岩田先生はそうたしなめるように言うと、鋭い一発でとどめを刺しました。
「そういうところではないですか?…嫌われるの」
「フンガッ・・・・」
酒井君と中島君はその日以降、互いの家へ遊びに行くほどの仲になりました。ある日酒井君の家で、一緒に夏休みの宿題をしていた時のことです。二人はノートやプリント類が散在する座敷机を挟んで座り、世間話に花を咲かせていました。
「ったく…、転校生にがっつり宿題出しやがってよー。ちょっとは手加減しろよってんだ」
「はははっ、中島君は勉強嫌いなの?」
「ああ、嫌いだね…。俺の人生に必要ない」
「…僕は好きだな。だって知らなかったことを知ったり、わからなかったことがわかったりするの、自分がちょっとずつ変わっていくみたいな気がして楽しいから…」
「へぇー、そんなもんかなあ…、んっ?それ、何書いてんの?」
「これ?ああ、日記だよ…、三日分まとめてだけど…」
「日記かー、完全に忘れてたよ。…ちょっと読ませてよ」
「うん、いいよ…」
8月2日(木)晴れ
明日のことを書きます。明日は××君の誕生日なので、プレゼントを渡して驚かせたいと思います。だけど何をあげれば喜んでくれるのかわからなかったので、村の長老に聞いてみることにしました。長老は
「おお、それなら××君の好きなものをあげればよい」
と言いました。しかし××君の好きなものがわからなかったので、村の漁師に聞きました。漁師は
「ああ、それならイチゴのケーキがよろしかろう」
と言いました。ケーキとはなんぞなということで、村の宇宙飛行士に聞きました。宇宙飛行士は
「やや、それなら作ってさしあげよう」
と言いました。はて?××君とは誰であったか、村の皇太子に聞きました。皇太子は
「まま、それなら○○さんの弟にございます」
と言いました。して○○さんとはこれいかに、村のさんぞくに聞きました。さんぞくは
「へへ、それならおいらの嫁だがな」
と言いました。そしてケーキを持って山へと消えていきました。
明日は××君の誕生日。一日早くなりましたが、お兄さんにケーキを渡すことができました。きっと家族で食卓を囲み、祝いの歌など唄うのでしょう。××君の喜ぶ顔が目に浮かぶようです。
それにしても、さんぞくとはいったい何でありましたか。明日村のおまわりさんに聞いてみることにしました。
8月3日(金)晴れ
この間おっふらんすに行った時なんて、しゃんぜりっぜを白人男性にえっすこーとされながら歩いたんざますわよ。彼らに比べればにっぽんの男なんて本当ただの砂利、あらいつの間にわたくしの足下にあったんざますかって感じざますわ。あの青い目で見つめられながら「ぼんじゅーらっふぁ」なんて言われたら「あら、ここはどこざます?天国?天国なんざますね」なんて気分でにっぽんなんて帰りたくなくなるのざますわよ。あら?ところであなた今日お召しになってらっしゃるお洋服、もしかしてぐぐっちじゃありません?あらあら、現地で出会った青年に買ってもらった?へぇー、なるほど。あっちに彼氏が5人いる?へぇー、それでそれで?旅費も全部持ってくれるし、宿泊は彼の豪邸…。へ、へーっ。わ、わたくしあなたとは違ってにっぽんを愛してますからね、やっぱりにっぽんちゃちゃちゃざますわ。あなたみたいに魂まで外人に売り飛ばしたりはできませんわ。この売国奴めが!さっきから聞いてたらただの自慢じゃねぇかよ!あーあ、うらやましっ…。ああ、なんなんだよマジで、顔とか戸籍とか交換したいわ!
8月4日(土)くもり
「今年は水不足で困りましたなあ」
「ほんまでんなあ、降りそうで降りませんなあ」
「はよ降り注いでくれんかなー…、だんなの愛情」
「そんなもん今さら降るかいな。水不足の話とちゃうのん」
「そうそう、水不足ですわ。ほんまに困りましたなあ」
「なんかええ方法ありませんの?」
「ああ、それやったら井戸掘ったらよろしい」
「井戸?井戸ってあの井戸?」
「そうそう、地面掘っていってな、ほんなら出てきよんねん…、ブラジル人のお尻が」
「掘りすぎやろ!地球の裏のトイレまでいってもうてるやん」
「しゃあないやんけ、掘っても掘っても出てけぇへんのやから」
「ああ、水がな」
「いや、だんなの愛情が」
「もうええわ!やめさせてもらうわ」
中島君は日記帳を読みながら、目を丸くしていました。
「これって、日記…だよな」
「うん。…僕もやってみたくて」
「何を?」
「…笑い…、とってみたくて。難しいんだね、笑いって。だって中島君全然笑ってないから」
確かに中島君は笑っていませんでしたが、それは決して面白くないからではありませんでした。むしろ酒井君の文章力と表現力に圧倒され、呆気にとられていたのでした。
「いや、すごいよ!お前こんなことができるなんて…、面白い!面白いよ!」
「ホントに?」
「うん、ホント、本当に面白い」
酒井君は中島君に認められたことが、うれしくて仕方ありませんでした。これまで誰かにここまで褒められたこともなく、自分はダメな人間で神様の失敗作なのだとばかり思っていました。しかし今目の前にいる親友は、自分の書いたものを読んで震えながら感動してくれているのでした。
実際のところ中島君のほうに悔しい思いがなかったかといえばそんなことはありませんでしたが、しかし彼にとってはそれよりも酒井君との出会いを改めて喜ぶ気持ちのほうが余程強かったのでした。
「俺も負けてられないな…ん?これは…」
中島君の目線の先にあったのは、一冊の学習ノートでした。そのノートには力づくでねじ曲げたような跡があり、全体が波打つように変形していました。
「あっ、それは…」
酒井君はノートを除けようと手を伸ばしましたが間に合わず、中島君の手に渡ってしまいました。中島君はノートをぱらぱらと捲りながら、表情を強張らせていきました。
「なんだよ、これ。…お前まさか」
「…うん」
中島君が机上に開いたノートには、丁寧に並ぶ数式を赤や緑のマジックペンで塗りつぶすような落書きがされていました。他のページには汚く罵る言葉がいっぱいに書かれ、一目で人為的にいたずらされたものであることがわかりました。酒井君は目頭を潤ませながら、かねてから問いたかった疑問をぶつけました。
「吉本君たち、僕をいじめる時、本当に楽しそうに笑うんだ。…それだって笑いなんじゃないの?笑いがいつも人を救うとは限らないんじゃないの?」
中島君は「うん、あれも笑いだ…」と俯き加減で言うと、酒井君の目を見据えて続けました。
「でも人を傷つけてとる笑いなんて、三流のやることだ。俺は一流しか認めない。俺の好きな芸人の言葉だ」
その後夏休みが明けると、中島君は井川先生にいじめの事実を伝えました。井川先生はすぐに二人から話を聞いて、吉本君に釘を刺したといいます。
「さすが井川先生だな。見て見ぬふりする教員も多いのにな」
松本先生は空になったコーヒーカップを、岩田先生の机に置きながら「それで、いじめはなくなったの?」と尋ねました。
「そう聞いてます。…ご自分でどうぞ」
戻ってきたカップを手元で揺らしながら、松本先生の頭にはある疑問が浮かんでいました。
「なんでいじめが始まったのかな?顔が赤いから?でも話によると急に始まった感じだよな」
「吉本君も理由については何も話さなかったそうなので、実際のところはわかりませんが、井川先生によると酒井君、女子人気が高まった頃のようですから」
「嫉妬ってことか…、子供も嫉妬するんだよな」
「しますよ…、大人がするんですから。実際嫉妬ほど子供っぽいものもないと思いますけどね」
それからというもの、さすがの井川先生もふざけ続ける二人に手を焼くことになりましたが、それでもいじめ問題を抱えるよりは余程気が楽であったといいます。
「でもなあ、話はわかったけど、それをもって二人を同じクラスにするのはなあ」
松本先生はやはり、二人を離したほうがいいという考えを変えられずにいるようでした。しかし、岩田先生も譲る気がなく、議論は白熱の様相を呈しました。
「最も恐れるのは、いじめの再燃です。吉本君がしなくても、他の子が真似する可能性もありますから。中島君の存在はその歯止めになります。それに…」
「それに、何?」
「中島君は、またいつ転校するかわからない生徒ですから…」
「だから?」
「…言いにくいですが、うまく使わない手はないかと」
松本先生は、岩田先生の冷徹な物言いに若干の怖さを感じていましたが、最終的には押し切られる形で議論の決着を迎えました。
そして二人が五年生になってすぐ、例の『鼻から牛乳委員長号泣事件』が起こりました。体調を崩して休んでいた岩田先生は、自分が不在であった日のその出来事に頭を抱えていました。
「松本先生、すみませんでした。私が休んだばっかりに」
「いや…、体調は仕方ないさ。そんなことより中島には言ってやらんとなあ。…残念ながらそんな方法じゃ世界は変わらないって」
「そうかもしれません。でも彼の言い分によると、一番変えたいと思っているのは私たち教員ということになりませんか?」
「どうして?」
「大人になっても学校に閉じ込められているから」
「なるほどな…、でも俺閉じ込められてるって意識ないぞ。まあカゴの中の蝉にもそんなもんないのかもしれんけど…」
二人が並んで廊下を歩いていると、教室から勢いよく飛び出してきた男子生徒とぶつかりそうになりました。
「あっ!すみません」
そう顔も見ずに走り去ろうとする背中に、松本先生は「おい!廊下を走るんじゃない」と声を張り上げましたが、生徒はまるで聞こえていないかのように階段を駆け上がっていってしまいました。
「ったく、どうなってんだよ。この学校の教育は」
松本先生が大きなため息をついている横で、岩田先生は何か考え込んでいる様子でした。
「んっ?どうした、そんな顔して」
「いえ、中島君の家庭環境が気になりまして、いわゆる転勤族の子供というのは、他の子供と比べても多くのものを見ているのかもしれませんから、考えることも多いのかなと…」
「…岩田先生って、なにげに理解力あるんだな。利用するとか言ってたんじゃないのかよ」
「いえ、利用するにはまずその人となりを知らなければなりませんから」
「ふーん、なるほどねぇ…」
松本先生はそう言って岩田先生の顔を覗き込みました。しかし逃げるように顔を背ける岩田先生をそれ以上詮索するのはやめて「俺トイレ行くから、先行っといて」と言って別れたのでした。そして松本先生は、用を足しながら独り言を呟きました。
「そんな冷たいこと考えてるやつの顔じゃないだろ…」
「なにが?」
「えっ!」
隣を見下ろすと、女の子のような顔をした生徒がパンツを足元まで下ろしてお尻を出しながら、松本先生の顔をじっと見上げていました。
「あっ、いや…ええっ?あー、手にかかった!あぁ~あ」
委員長号泣事件以来なりを潜めているかに見えた中島君が再び活動を始めるのは、春の運動会でのことでした。クラス対抗リレーの時、バトンを渡された次の瞬間全速力で逆走を始めた中島君は、クラスメイトから大顰蹙を買いながら、他の生徒と保護者たちの爆笑をかっさらったのでした。
お昼休憩の時間になると、生徒たちはそれぞれの保護者の元でお手製の弁当を食べるのが一般的でした。酒井君が白いテントの下で、お母さんの作ったサンドイッチを頬張っていると、少し離れた所に座る中島君が一人でコンビニ弁当を食べているのが見えました。
「義人、中島君呼んであげたら?」
酒井君のお母さんが眉を寄せながら言うと、その声が聞こえていたらしい中島君が振り向き、二人の目が合いました。酒井君が手招きすると、中島君は微笑みながら手を振って断りました。
「中島…行けばいいんだよ。こういう時は」
中島君が声の方を見ると、テントの外で松本先生が目配せしていました。
「いいよ!俺はこれでいいんだから…」
「…そっか、ならいいけど…、お前」
この時松本先生には、中島君の背中が少し陰って見えていました。本当は寂しい子供であるのかもしれず、岩田先生の言うように家庭環境を考慮に入れなくてはならないような気がしていたのでした。
中島君が変えようとしている世界は、人々を学校や会社に縛り付けることで彼を孤独にさせてしまう、冷血な人さらいでした。中島君の両親は他の保護者と関係を築くことを避け、学校行事に参加しようとしませんでした。共働きであったこともあり、親子関係も希薄になりがちで、中島君はいつも寂しい思いをしていました。その上転校を繰り返しているために友達を作ることにも積極的になれずにいたのでした。
そんな中島君にとって酒井君の存在はとても貴重なものであると同時に、不安にもさせる複雑なものとなっていました。今はどんなに仲良くしていても、遠くない未来には離ればなれになることが決まっていたからです。幼いころから寂しさを抱えてきた中島君を救ったのは、テレビを通して見るお笑い芸人たちでした。笑っている時だけは暗い気持ちを忘れられ、自由でいられるような気がしたのです。中島君が笑いによって世界を変えられると信じるようになったのには、そんな事情があったのでした。
今年の梅雨は、いつかの水不足を取り戻すかのような長梅雨で、今日もつぶてのような雨が教室の窓ガラスをたたき続けていました。外の暗さに慣れてしまったせいか、蛍光灯の放つ光がわざとがましいほど白く見える中、森本先生は教壇に立って宮沢賢治の詩について話していました。
「賢治さんは自分では決して詩と言わず、心象スケッチと呼んでいたそうです。見て感じたことをそのまま書きとったものにすぎず、詩と呼べるようなものでは到底ないと考えていたようです。ですから賢治さんを読むときは、変に勘ぐらなくていいと言いますか、そのままを読んで感じればよいのです。…では読んでみましょうか。近藤さん、お願いします。」
「はい…。…この森を通りぬければ みちはさっきの水車へもどる 鳥がぎらぎら啼いている…」
朗読の間森本先生は、生徒たちの目をひとりひとり見回していました。教科書から離れて辺りをきょろきょろとうろつく目もあれば、今にも眠ってしまいそうな目もあります。酒井君の目にたどり着いた時、森本先生は思わず凝視してしまいました。あまりにも真剣に教科書を見つめていたからです。そのまなざしは、まさに今この瞬間に感動し、少なからず影響を受けようとしている子供の、無垢な輝きそのものでした。
窓際の席に目を向けると、中島君の目が外をじっと見つめているのが見えました。長い睫毛の下に、雨の世界を見透かすような黒い目がひっそりと浮かんでいました。森本先生は松本先生の話を聞いてからというもの、中島君の抱える孤独に思いを馳せることが多くなっていました。酒井君が言ったという「大人みたいだね」という言葉が図らずも問いかけているのは、中島君の背中に時折漂う悲哀の色が、彼を他の生徒から隔絶させている要因であり、そのことがこの大人びた表情を生んでいるのではないかということでした。
森本先生は授業が終わると酒井君の元へ向かい、席を立とうとするのを制止して言いました。
「酒井君。どうだった?宮沢賢治」
すると酒井君は満面の笑みをうかべて「うん、すごいよ!すごくいい」と興奮を隠せない様子でした。
「そう、よかった。賢治さんは童話も素晴らしいから読んでごらんよ」
「うん、わかった」
森本先生が中島君のほうに視線を移すと、授業中から体勢が変わっておらず、少し丸まった背中が斜め向かいに見えました。森本先生は心配になり、中島君の席へ向かいながら名前を呼びました。
「中島君!…中島君!」
しかしいくら呼んでも、中島君は固まってしまったように動きません。森本先生が後ろから肩を叩こうとした時、静かな呼吸音に混じって不快な雑音が聞こえました。
「いびき?…って寝てるんかい!」
下校時間になっても弱まることを知らない雨が、生徒たちの開く黄色い傘を容赦なく打ちつけ、家路を急かしていました。多くの生徒がそうして濡れながら帰る中、保護者の迎えを待っていた一部の生徒も無事に送り出し、森本先生は誰もいなくなった教室を見回していました。そしてこっそりと中島君の席に座り、窓の外を眺めました。いったいここから何を見ていたのかを知りたかったのです。
窓ガラスには教室の輪郭がかすかに映り込み、その中央には森本先生の姿が薄い影のように透けて見えるだけでした。中島君の見ている世界を想像すると、そこはいつでも雨降りで、山も空も人々も灰色の背景に溶け込んでしまっているのでした。
「何やってんだよ?」
聞き覚えのある声に振り向くと、松本先生が背後から窓を覗いていました。しかし森本先生の頭の中は分厚い靄に包まれて、目に映るものすべてがぼんやりと曇って見えていたのでした。
「松本…先生?」
「そうだけど、何?」
徐々に鮮明になっていく視界の中、森本先生は我に返って「い、いえ…職員室戻りましょうか」と急いで立ち上がろうとしました。
「まあ待てよ。ちょっと話さないか?」
そう言うと松本先生は教壇へ上がり、教卓に手をついて話を続けました。
「あの二人、最近どうなんだ?」
「ええ、まあ変わりなくという感じです」
「そっか…、家庭訪問行ったんだろ?どんな感じだったんだ?」
「はい…そうですね。酒井君のお家は一般家庭を絵に描いたようなと言いますか、平穏そのものという感じでしたが、…中島君のお家は」
家庭訪問の目的はまず第一に生徒たちの家の場所を知ることだといわれています。通学路に危険がないかを把握して、何かあった場合にすぐ駆けつけられるように用意しておくためです。ひとつの家庭あたり十分程度の時間しかとれないため、家庭環境を見るには短すぎますが、少し家の中を見渡すだけでも重要な情報を得られることがあります。最もわかりやすいのは散らかり具合を見ることですが、家庭訪問に際して多少は掃除をする保護者も多く、うまく隠されている場合があるため一概に判断できないところではありました。
「まあ、問題のない家庭なんてないのかもしれませんが、中島君のお家は…なんと言いますか、あまりにも何もなくて…殺風景と言いますか」
「なるほどなあ、そういえば岩田先生も家庭訪問した時同じようなこと言ってたな。もうこっち来て二年近くになるのに、やっぱりちょっとおかしいよな」
「中島君のお母さん、家庭訪問自体の意義を疑っているみたいで、終始嫌そうな顔と態度があからさまで…」
「まあ、そういう保護者もいるけどな。こっちが仕事休んでまですることかって言われたこともあるしなあ」
森本先生は立ち上がり、床の踏み心地を確認するようにゆっくりと歩き始めました。
「そういえば岩田先生のことですが…、中島君を利用してたって」
「ああ、そうなんだよ」
「私それって、一種の照れ隠しだったんじゃないかと思うんです」
「照れ隠し?」
「はい…。本当は生徒たちに対して誰よりも熱いものを持っているんだけど、それを表に出せないだけだったんじゃないかと…。ほら、今時そういうの流行らないから」
「なるほどなあ。同じ熱血漢同士、相通ずるものがあるってとこか?」
「そんなんじゃありません。もう…、からかわないでくださいよ。ホントに空気読めないんだから」
「ぐっ…、なんかだんだん岩田先生に似てきたな」
酒井君と中島君にとっての小学校生活最後の夏は、二人で過ごす最後の夏休みを迎えていました。中島君もその両親も、この町に二年間も滞在することになるとは思ってもみませんでした。学校近くに借りた三階建てのアパートの一室も、すぐに出払うことになるだろうと考え、必要最小限の物以外は段ボールに詰め込んだままにしていました。少しでも荷物を減らそうと、引っ越しのたびに処分を繰り返してきましたが、それでもなぜか段ボールの数は増える一方でした。
中島君はそんな段ボールの山を見るたびに、自分もその中に捨て置かれているような寂しい思いに襲われるのでした。インターホンのチャイムが鳴り、暗い気持ちを振り払いながら玄関のドアを開くと、手提げ袋を持った酒井君が優しそうな笑みを浮かべて立っていました。中島君は自然と微笑み返して「よっ、まあ入れや」と招き入れました。
リビングには壁際のテレビと中央のこたつ机、それから角の小さな本棚を見てしまえば、他にはこれといって目に入るものがありませんでした。二人はカーペットの上にあぐらをかき、夏休みの宿題そっちのけでテレビゲームを始めました。酒井君が中島君の腕前に完膚なきまでに叩き潰され、この世の終わりのような顔をしていると、中島君が改まった口調で言いました。
「ありがとな…」
「えっ、何が?」
「いや…仲良くしてくれて」
「何それ。…ねぇ、中島君ってまた転校しちゃうの?」
「うん、そのうちな」
「やだよ…そんなの。一緒に中学校行きたいよ」
「俺だってそうだよ。それに、まだあいつを笑わせてない」
そう言って悔しそうに太ももを叩く中島君を見ながら、酒井君は『鼻から牛乳委員長号泣事件』の直後に交わした会話を思い出していました。
—すごい!すごいよ中島君。どうやったの?僕にも教えてよ—
給食終わりの昼休みに中島君の席へ向かった酒井君は、顔いっぱいに感動を塗りたくったような表情で言いました。しかし中島君は浮かない顔をして、肩を落としているようでした。
「どうしたの?…中島君」
「うん…。いや、お前はあんなことできなくていいんだよ。お前には言葉があるんだから。体張るのは俺の役目だ…、それに」
「それに?」
「それに全然すごくないよ。笑わせるつもりが泣かせちまった。大失敗だよ」
酒井君はそれ以上何も言えず、中島君のため息に合わせて表情を沈ませていきました。この時中島君が笑いに対していかに真面目であるかを知った酒井君は、闇雲にふざけているだけでは、革命は成し遂げられないものだということに思い至ったのでした。
そして今改めて思うことは、中島君は本気で世界を変えたいと思っているのに、自分は単に楽しいからという理由だけで真似したり、ふざけた文章を書いていていいのだろうかということでした。
「中島君…、僕は中島君を手伝いたいと思っているんだ。一緒に革命をやりたいって。僕はどうすればいいの?」
「そっか。でも手伝いより競争のつもりでいてくれたほうがいいんだ。それにお前は今のままでいいんだよ。今まで通り面白いものを書いていてくれれば、それでいい」
「でも宿題で作文が出ることなんてほとんどないし、機会が少なすぎるよ」
「そうだよなあ…、もったいないんだよなあ」
岩田先生の発案で生徒間に日誌が出回るようになったのは、そのすぐ後のことでした。毎日ひとりずつ順番に日誌を書いていくことになり、酒井君は自分の番が回ってくることが楽しみでしかたありませんでした。岩田先生には「日誌って意味わかるわよね」と事前に釘を刺されていましたが、そんなものはどこ吹く風、全くお構いなしでした。
「ねぇ、中島君は僕の日誌読んでくれてる?」
ある日中島君の家のリビングでくつろぎながら、酒井君が尋ねました。
「ああ、もちろん。すげぇよなあ、かなわないよ」
「へへっ、結構頑張って書いてるからね」
「でもよかったな、先生代わってもなくならなくて」
森本先生は現在のクラスを引き継ぐにあたり、日誌の作成もそのまま継続することにしました。酒井君一人のために廃止にはできないという松本先生の判断に従ってのことでした。そんな裏事情を知る由もない二人は、日誌の話題で盛り上がっていました。
「特にあれなんか最高だったよ。『シン・桃太郎』」
中島君の言う『シン・桃太郎』とは、酒井君が五年生の頃に日誌に書いたギャグ小説のことです。当時クラス内でも話題となった自他ともに認める最高傑作でした。
「うん。僕もよくできたと思ってる好きな作品だよ」
『シン・桃太郎』
むかーしむかしあるところに、じいさんとばあさんがいました。じいさんは山へしばかりに、ばあさんは川へせんたくに行きました。ばあさんがじいさんの腐ったふんどしを枯れ枝でつっついていると、川上から大きな桃がどんぶらこ、どんぶらこと流れてきました。桃などめったに食べられるものではありませんでしたし、これほど大きなものなら適当に加工して売りさばけばいい金になるに違いないと家に持ち帰ることにしました。道中ワックワクのウッハウハであったことは言うまでもありません。
じいさんは何やらブーブー言うとりましたが、ばあさんはそれを黙らせた包丁で、続けて桃を切ろうとしました。すると勝手に割れた桃の中から男の子の赤ん坊が現れたではありませんか。
男の子は桃太郎と名付けられ、元気にすくすくと育ちました。すくすくすぎて一か月あまりで二十歳くらいのりっぱな青年にまでなりました。そしていきなりオニ退治に行くとか言い出しました。ばあさんはなんか色々めんどうだったので、テレビを見ながら鼻をほじり「いいんじゃない、べつに。…知らんけど」と言ってきび団子を持たせて行かせました。
桃太郎が歩いていると前からイヌとサルと村長がやってきて
「もーもたろさんももたろさん、お腰につけたきびだんごー、ひとつーわたしにくださいなー」
と見事なまでのハモりで歌い上げました。
「いやいや、歌うまいのはわかったけど最後村長って何?」
「なんかキジがお腹痛くてこれなくなったから代わりに呼んだ」
「だからってなんでこんなじいさん連れてくんだよ。自治会行くんじゃないんだから」
「うるせぇよ!このサル!権力のイヌ!」
「お前らにだけは言われたくないわ!」
口げんかはこの調子で日没まで続き、待ちくたびれたオニがやってきました。しかし、終わる気配のないケンカにオニも何やら気を使って、仲裁に入り始めました。
「まあまあ、そんなに言わなくても…。何があったか知らないけど、ね?ケンカやめようよ」
すると桃次郎と三匹の獣たちは、いっせいにオニをにらみつけて言いました。
「もとはと言えばお前が悪いんだろが!オニ退治のきっかけがお前なんだから」
そしてオニをボコボコにして家に帰りました。
桃次郎はばあさんの喜ぶ顔を思い浮かべながら玄関のとびらを開きました。するとそこには見知らぬじいさんがいて、ばあさんといい感じになっているところでした。ばあさんは「ここにはもうお前の居場所はないよ!」と言ってとびらを閉めてしまいました。結局一番のオニはばあさんでしたとさ。おしまい。
夏休みが終わり再開した学校生活に、生徒たちも漸く慣れ始めてきた頃、例年通り授業参観が行われることになりました。授業参観は、学校での教育活動について保護者に理解を求めるとともに、教員との交流を深めることを目的として行われます。しかし中島君の両親のように参加することを毛嫌いする保護者も少なくなく、その本来の目的をどれほど果たせているかは疑問のあるところでした。
しかし子供たちにとっては特別なイベントであることに変わりなく、ランドセルの棚の前におめかしした母親たちがずらりと並ぶのを見ながら、自分の親を見つけた生徒たちが手を振ったり、微笑んだりしていました。そんな中で中島君は一度も後ろを振り向くことなく、また窓の外を眺めながら授業をやり過ごすつもりのようでした。かつて中島君にとって授業参観は、大人たちを笑わせるかっこうの舞台でもありました。しかしこのところなぜかスランプに陥り、“ウケ”が悪いことに思い悩んでいて授業中に騒ぎ立てることも少なくなっていました。
かたや酒井君はもともと授業中に率先してふざけるタイプの生徒ではなく、中島君の真似をすることが多い、いわば中島君頼みなところが多分にありました。その上今日はお母さんが来ているということで、なおのこと静かに授業を聞いている様子でした。森本先生はこのまま平穏無事に授業を終えられることを祈るような気持ちで、黒板に夏目漱石の『坊ちゃん』の一節を書いていました。その時携帯電話の着信音が、チョークの音をかき消すような大音量で鳴り響きました。ざわつき始めた教室内で思わず振り返った森本先生の目に、ひとりの保護者が通話しながら廊下へ向かうのが映りました。その保護者—佐藤楓さんのお母さんが腰を曲げ、小走りで他の保護者の前を通っていった次の瞬間、佐藤さんの体は前のめりに浮き上がり、そのまま鈍い音をたてて床に叩きつけられたのでした。
「大丈夫ですか?」
森本先生は急いで後方へ向かい、佐藤さんを起き上がらせようとしました。そして周辺の保護者たちの手を借りながら、なんとか椅子に座らせることができました。
「痛っ!いったーっ」
涙を流しながら痛がる佐藤さんのスカートから覗く左ひざを見ると、まるで樹木のこぶのように腫れあがってきていました。森本先生が肩を貸しながら「保健室に連れていきます。立てますか?」と言うと、二人の保護者が駆け寄ってきました。
「私たちが行きますので、先生は授業続けてください」
「そうですか…、ではお願いします」
佐藤さんのことは二人に任せて、森本先生は教壇へと戻り授業を再開しました。しかしその後教室内にいる誰もが、寝起きのようにぼんやりとして身が入らず、授業参観は最悪の形で幕を下ろしたのでした。
数日後、休み時間の図書室で本を読む酒井君と、暇を持て余してペン回しを始めた中島君が話をしていました。
「なあ、お前聞いたか?」
「何を?」
中島君は隣に座る酒井君に肩を寄せて、こっそりと秘密を打ち明けるように言いました。
「この間転んだ人、誰かに足をかけられたって言ってるらしい」
「えっ!」
「クラスの誰かの親がやったってことになるんだよ」
「怖っ!」
「怖いよなあ、大人のくせにそんなことするなんてなあ…」
室内には二人のほかに数名の生徒がいましたが、図書室特有の静けさが漂い、本を捲る音や棚から抜き取る音が耳元で鳴るように聞こえていました。中島君はその静けさを破ることを楽しむように、普段より大きな声で話し始めました。
「お前って本好きなんだな」
「うん。最近だけどね、読みだしたの」
中島君は「へぇー、宮沢賢治か。面白いの?」と言って酒井君の手元から本を取り上げ、ぱらぱらと捲りました。
「うん、面白いよ」
「笑える感じ?」
「いや、そういうのとは違うかな…。どっちかというとゲームとか漫画読んだ時の面白いに近いかな」
「へぇー…、でも俺読めないわ、難しくて」
酒井君に本を返して席を立った中島君は、図書室を見回したかと思うと早足で去っていってしまいました。酒井君が視線を感じて顔を上げると、生徒たちの白い目が全身を突き刺すほどの鋭さで、一挙に集まってきているのでした。
「ち、ちょっと中島くーん」
酒井君の今にも泣きだしそうなか細い声が、蚊の羽音のように室内を巡り、本を閉じる誠実な音に弾かれて散っていったのでした。
その日家に帰った酒井君は、台所に立つお母さんの背中に向かって少し興奮気味に話しかけました。
「ねぇ、お母さん。今日中島君から聞いたんだけど…、佐藤さんのお母さん誰かに転ばされたんだって」
お母さんは手を止めて振り向きもせず「…そう…なのね」とだけ言いました。
酒井君はお母さんの反応が思いのほか薄いことに違和感を覚えましたが、さほど気にすることもなくリビングに向かい、小さな机の上に図書室から借りてきた本を開きました。このところこうして本を読むことが増えた酒井君は、自分の書いてきたものがいかに下劣でつまらないものであったかを思い知らされていました。そしていつしか作家になることを夢見るようになっていったのでした。
中島君が思い描き、それに酒井君が加勢する形で盛り上がりを見せた二人の革命は、くしくも冬の時代を迎えようとしていました。しかし二人は変わらず仲が良く、学校でも私生活でもいつも一緒でした。そんな二人を複雑な心境で見ていたのが、担任の森本先生でした。
「どうしたんでしょうか。最近二人がおとなしいんですよ」
森本先生は職員室でコーヒーを淹れながら、松本先生に相談していました。
「いいんじゃないか…、それで。そうしたかったんだろ?」
「ええ、まあそうなんですけどね…。酒井君なんてこの間普通に日誌書いてきましたよ。どうしちゃったんですかね」
「まあ、子供といえど色々あるんだろ。…それもそれなんだけど、佐藤さんのこと…どうなったんだ?」
「はい…、それなんですが、あっどうぞ」
松本先生の机にコーヒーカップを置いた森本先生は、暗く沈んだ表情で椅子に座りながら、犯人がまだわからないことと佐藤さんが学校を欠席していることを伝えました。
「あんな怖いことをする人の子供がいる学校には通わせられないと、転校を考えているようなんです」
「そうか、たしか大きな問題にしなかったのって佐藤さんが嫌がったんだよな」
「そうなんですよ。付き添った保護者の方も出るところへ出るように勧めたみたいなんですけど、何かあるんでしょうか?」
「まあそこはそんなに詮索せんでいいだろ。…それにしてももうすぐ学習発表会だぞ。こんな問題抱えた状態で上手くやれるのか?」
「そうなんですよ。正直なところ不安しかありません」
この学校では生徒たちが日ごろの学習の成果を発表する貴重な場として、毎年学習発表会を開催していました。それぞれの学年ごとに合唱やダンスなどの出しものを披露することになっていて、六年生には演劇が割り当てられていました。まだ演目も決まっていない状態で、担任が台本作りからキャスティング、演技指導までを一手に引き受けなくてはなりませんでした。森本先生は悩み癖のついた頭でいくら考えても何も思い浮かばず、松本先生が出してくれたいくつかの案にすがりつくしかありませんでした。
そんなことを知ってか知らずか、酒井君の家でゲームをしていた中島君が、突然命令するように言いました。
「お前、台本書け!」
「台本?」
「ああ、学習発表会の台本だ。俺も手伝うから、書け!」
「で、でも僕…」
「お前最近日誌でもふざけなくなっただろ」
「…うん、なんか上手くいかなくて」
「俺もなんだ。笑いのとり方がわからなくなってきた。このままじゃダメなんだ。だから俺とお前で力を合わせて、最高の舞台を作るんだ」
「でも…」
「書きたいのか書きたくないのかだ」
酒井君は意を決したように「書きたい…、僕書きたいよ!」と答えて、中島君と握手を交わしました。
「最近僕のお母さん、様子がおかしいんだ」
酒井君がそう話し始めたのは、台本作りが遅々として進まず、二人が頭を抱えながら休憩に入った頃でした。台所の奥のくもりガラスに夕日が透けて、橙色の光をリビングにまで届けていました。
「おかしいって、何が?」
「うん。なんかボーッとしてるっていうか、時々悩んでるみたいな顔してるし」
「心当たりは?」
「それが、例の佐藤さんのお母さんのことがあってからみたいなんだ」
「まじか…、もしかしてそれって」
「いやいや、ないよ。それは絶対ない」
「そうだよなあ。あのおばちゃんがあんなことするわけないよなあ」
すると中島君は、あぐらをかいた膝を叩いて言いました。
「よし!俺が聞いてやる。もうすぐ帰ってくるんだろ?」
暫くして酒井君のお母さんが玄関の扉を開けた時、驚いてバッグを取り落としてしまいました。目の前に中島君が立ちはだかっていたのです。
「あら…中島君?どうしたの?」
「おばちゃん、佐藤さんのことでなんか知ってるんじゃないのか?隠してることがあるなら言ってくれよ」
「それは…」
玄関にしゃがみ込んでしまったお母さんの背中に、小さな手を置いた酒井君が「お母さん、何があったの?」と心配そうに言いました。
すると彼女は声を震わせながら「お母さんね…、見てしまったのよ」と話し始めました。
職員室では低学年の生徒が数人机の横に並べられ、担任に激しく叱られていました。森本先生がその様子を横目に窺いながら、台本を書き進めていると、反対側の目に二人の生徒が走り込んできました。森本先生がそちらを振り向くと、酒井君と中島君が真剣な表情で立っていました。
「どうしたの?二人そろって」
森本先生が尋ねると、中島君は勢い込んで言いました。
「学習発表会の台本、まだできてないんだろ?だったらこれ使ってくれよ」
「…これ…って?」
中島君が机に叩きつけた学習ノートの表紙には、マジックペンで台本と書かれていました。
「俺たち二人で書いた台本だ」
森本先生は呆れたようにため息をついて「あのね、中島君」と言いながら、中島君の目を見据えました。
「とても大事な行事なの。だからあなたたちの台本は使えないのよ」
「いいから読んでみてよ。それから決めればいいじゃん。ホントにちゃんと書いたからさ、読んだらきっと驚くよ」
暫く目をつむって、痛そうな顔で中島君の声を聞いていた森本先生は、適当にいなすように「わかった。わかったからもう教室に戻りなさい。ほら、酒井君も」と言って机に向き直りました。そして二人がいなくなるのを待って頭を抱え、もう一度深くため息をついたのでした。
酒井君のお母さんが職員室を訪ねてきたのは、その日の午後のことでした。入口の前で深々と頭を下げる彼女を、森本先生は応接室へ案内しました。仰々しいソファに、ガラス天板のローテーブルが置かれた室内はやけにひんやりとしていて、このところすっかり熱していた森本先生の頭を程よく冷やしてくれるようでした。
「すみません、突然お邪魔して…」
そう言ってばつが悪そうな表情を浮かべる酒井君のお母さんをソファに座らせると、森本先生は「それでお話というのは…」と先を促しました。
「はい…、それが」
そうして酒井君のお母さんが言葉に詰まりながらも話したのは、あの時佐藤さんのお母さんに足をかけた人物が誰であるかを知っているということでした。しかし告げ口するようで怖かったことと、自分以外にも見ていた人がいたはずだという考えから腰が引けて、なかなか話すことができなかったのだといいます。
「中島君に言われなかったら、今もひとりで抱えていたと思います。感謝しないといけませんね」
「そうですか…、中島君が…」
酒井君のお母さんが帰るとすぐに、森本先生は事件の犯人—河本たつき君のお母さんに電話をかけました。森本先生が問い詰めると、彼女は暫くの間沈黙した後、口内にため込んだ言葉を少しずつこぼしていくように、とつとつと話しました。
「…ごめんなさい…。ほんの出来心だったんです。あんなことになるなんて…思わなかったんです…」
「出来心って、なんで…どうして大人がそんなにも子供なんですか。どうしてそれで…、子供がいい大人になれるんですか…」
森本先生はこみ上げる怒りをなんとか抑えつけながら、丁重に電話を切りました。そして暫くの間体を震わせながら立ち尽くしていました。ブラインドの隙間から覗く校舎裏には、クラブ活動を終えた生徒たちがランドセルを揺らしながら走るのが見え、はしゃぐ声が聞こえてくるようでした。森本先生は崩れるようにソファに座り、両手で顔を覆って泣きました。嗚咽混りの泣き声が、いつまでも応接室に響いていました。
「私…、ちゃんと先生できてるんでしょうか」
放課後の教室で森本先生はうなだれながら教壇に立ち、後方の掃除道具入れにもたれた松本先生に言いました。
「聞いてますか?松本先生…、先生?」
「うん?ああー…」
気のない返事をする松本先生の手元には、一冊の学習ノートが開かれていました。例の二人が書いた台本でした。
「すまん…、これ読むのに夢中になってた。…なあ、これホントにあいつらが書いたのか?」
「ええ、そうです」
「…参ったな」
「ええ、参りましたね…」
生徒の書いた台本で演劇をやるのは前代未聞のことでしたが、森本先生は二人の提案を採用する方向へ傾こうとしていました。松本先生はその後、自分のクラスの台本を徹夜で書き直すことになるのですが、それはまた別の話です。
「先生やれてるのかどうかって、そんなこと考えてもしょうがないだろ」
松本先生はノートを閉じて、腕組みしながら言いました。
「聞いてたんじゃないですか」
「ああ、まあな…。やれてるかやれてないかじゃなくて、俺は俺という先生でしかないし、森本先生は森本先生でしかないってことだ」
「なるほど、つまり…、どういうことですか?」
「おい、あのなあ…」
松本先生は教壇に向かって歩きながら続けました。
「例えば食堂のテーブルを布巾で拭いている生徒がいたとして、その子は布巾をくしゃくしゃにしたままで使ってるんだけど、そんなことを誰かが注意するわけでもない。だけど隣のテーブルを別の生徒が綺麗に畳んだ布巾で拭き始めて、それを横目で見たその子はそっと手元の布巾を畳みだすかもしれない。人が誰かにものを教わるということの本質は、実はそういうところにあるような気がするんだ」
そして森本先生の隣に並んで教室を見渡しながら「だから俺たち教員にできることはまず何よりも、正しい人であることなんだと思う」と自分に言い聞かせるように言いました。
二人の書いた台本が正式に採用され、生徒たちが稽古する段階に入いると、校内はにわかにあわただしくなりました。配役は森本先生を含めた三人で行い、主役は中島君が務めることになりました。当初からそのつもりで作られた台本であり、森本先生にも異論はありませんでしたが、ひとつだけ気がかりなことがありました。
「中島君…、ご両親は当日来られるのよねぇ」
中島君は首を横に振りながら「…来ないよ。たぶん無理だよ」と言って、表情を暗くしました。
「そんなこと言わないで、必ず来てもらうのよ」
「俺が言ったくらいじゃ、来てくれないよ」
「中島君…」
佐藤さんが隣町の学校へ転校したのは、それから数週間後のことでした。それまで事件のことを噂していた生徒たちも徐々に別の話題に乗り換えていき、佐藤さんのことを頭の片隅に追いやろうとしていました。河本君のお母さんとの間で示談が成立していたとはいえ、学校関係者になんともいえない苦い後味を残していったのでした。
とろけるような金木犀の香りが教室の淀んだ空気を和らげて、冷たい風と共に廊下を渡っていきました。じきに雨風がその花を散らせば、冬の到来はもうすぐそこです。そしてついに本番を迎えた学習発表会は、子供たちの晴れ姿を見ようと集まった保護者で満員となりました。体育館では六年生の出番の前に、低学年の合唱大会が行われているところでした。
外廊下から駐車場につながる階段に酒井君と中島君が並んで座り、本番を控えて最後の読み合わせをしていました。
「中島君、なんか緊張してきちゃったよ」
そう言って固まる酒井君の背中を叩いて、中島君は立ち上がり、階段を下りました。
「大丈夫だ。絶対成功させるんだ。俺たちの力で、世界をひっくり返すんだ」
朝の光を一身に浴びた中島君の影が、階段の形に沿って折れ曲がりながら酒井君の体を包み込んでいました。酒井君は目の前の背中を見つめていると、不思議と緊張がほどけていくのを感じました。
「うん、そうだよね。きっと上手くいくよね」
例年以上の盛り上がりを見せた合唱大会が終わり、客席は充分に温まっていました。そしていよいよ森本先生の口上が始まり、舞台の幕が開こうとしていました。
「…ではごらんください。演目は『鳥箱先生』です」
「あるお家にひとつの鳥かごがありました」
ステージの下にある木製の教卓がスポットライトに照らされ、女子生徒のナレーションが始まりました。その女子生徒は例の『鼻から牛乳委員長号泣事件』の丸山さんでした。
「鳥かごというよりは、鳥箱と言った方がいいのかもしれません。ある日そこに一匹のひよどりが入れられました」
ゆっくりと緞帳が上がると、紙製の翼を両腕につけて、鳥の顔を象った帽子を被る酒井君が舞台袖から現れました。そしてばたばたと翼を動かしながら「いやだ、いやだ。こんな暗くて狭いところはいやだよ!」と暴れ始めました。するとどこからともなく声が聞こえてきました。
「こら!ばたばたするんじゃない」
酒井君は天井を見上げながら「なに?声がする…誰だろう」と不思議そうに言って「ママーっ」と泣き叫び始めました。
「泣くんじゃない!」
「だってだって、今までは超高層マンションの最上階で本革のソファに寝転がってシャンパンの匂いに酔いながら夜景を見下ろすのが日課だったんだもん。うぇーん、うぇーん」
「ってどんだけええ暮らししとったんじゃ!」
酒井君が客席を見ると、一瞬場を包んだ静寂に心臓の動悸がガンマイクを通るのではないかと思うほど高鳴りました。しかし次の瞬間、奥の方からあがり始めた笑い声が波紋のように伝播して、会場を包み込んだのでした。深く安堵した酒井君は、勢い込んでお芝居を続けました。
「ところで君は誰なの?」
すると四角い箱で胴体を包んだ中島君が現れて、腰を前後に振りながら言いました。
「私は先生だ!鳥箱先生と呼びなさい」
「ええー、やだよ。こんな変な先生」
「変なとはなんだ、変なとは。箱型の鳥かごが腰を振りながら先生を名乗って、何が変なのだ」
「それが変なんだよ」
ひよどりと鳥箱がこうしてケンカしている間に、再びナレーションが流れ始めました。ナレーターは丸山さんとは別の生徒でした。数名の女子生徒が交代で務めることになっていたのです。
「ひよどりは鳥箱先生が嫌いでした。何かと口うるさい先生のお腹の中で過ごすなんて、地獄よりも下にあることでした。そのためエサが食べられなくなったひよどりは、可哀想に死んでしまいました」
舞台袖では一時的に他の生徒と交代するため、中島君が箱を脱いでいました。するとそこに丸山さんがやってきて、中島君の名前を呼びました。
「委員長が俺を名前で呼んだの、初めてじゃないか?」
「私にも丸山っていう名前があるのよ」
「ああ、丸山委員長だろ?」
「かなでっていう名前が…、まあいいわ。…なかなかいいものね」
「あん?なんだって?」
「だから…、笑いもなかなかいいものねって言ったのよ」
すると中島君は満面の笑顔で「だろ?最高だよ」と言って腰を振りました。
「ちょ、調子に乗らないの!」
思わず後ろを振り向いた丸山さんの頬は、ほんのりと桃色に染まっているのでした。
舞台上ではひよどりの後にやってきた文鳥が、鳥箱先生と話していました。
「先生先生、どうして空はあんなに青いのに、僕は先生のお腹の中にいなくてはならないのですか?」
「それはお前が私の生徒だからだ」
「先生先生、どうして先生はそんなにも偉そうなのですか?」
「それは私が偉いからだ」
「先生先生、どうして日本経済はこんなにも長い間不景気が続いているのですか?」
「知らん、っていうかそんなん答えられたらこんなとこで鳥箱やってないわ!」
その後ナレーションが悪戯ねこによって文鳥が奪われたことを伝えると、猫の姿をした男子生徒が文鳥の人形を引きずりながら舞台を横切っていきました。
「はっはっはっはー、悔しかったら取り返してみろやい!せ・ん・せ・い」
「いかん!私の生徒を返しなさい!」
「しかし、所詮は鳥箱にすぎない先生に為すすべはなく、文鳥は連れ去られてしまいました」
そう続くナレーションの間に、舞台には穴の絵を描いた張りぼてが置かれました。そして、ナレーションはさらに、鳥箱が物置の棚の上に捨て置かれたことを淡々と語ったのでした。
再び鳥箱役として舞台に立った中島君は、鼻をつまみながら「なんだこの汚い場所は」と言って辺りを見回しました。
「それにこの穴はいったい…」
そこに一匹のねずみが現れて、中島君を引っかいたり齧ったりした後、去っていこうとしました。
「待ちなさい!むやみにものを齧ってはいけないと、かの聖徳太子も言っておるそうな」
ねずみは土下座しながら「その教え五臓と六腑に染みわたっております。ほら、今にもお腹の鳴る音が聞こえるでありましょう」と言って起き上がり、腹をぽんぽんと叩きました。
中島君は耳に手を当てながら、何度かうなずきました。
「まあよいだろう…、してお前は生徒をやる気はないか?」
「いえいえ、めっそうもございません。わたくしよりも息子のフウを教えてやってはもらえませぬか」
「よいだろう。フウとやら連れて参れ」
そして中島君は腰に手を当てて「きっと立派なねずみにしてみせよう」と言い、胸を張りました。
突如舞台袖から走り込んできた子ねずみは、飛んだり跳ねたりして暴れ回っていました。そして眠っている中島君を齧りました。
「お前がフウじゃな。むやみにものを齧っては…」
「聖徳太子がそんなこと言うかよ!なにが先生だよ、この嘘つきが!」
「なんと荒々しいねずみだろうか…、はてどうしたものか…」
「しかーし!」
突然声がしたかと思うと、どこからともなくステージの前面にエプロン姿の男女生徒二人が現れ、男子生徒が
「さあ、舞台をごらんのみなさんに朗報ですよ」
と満面に笑みを浮かべながら中島君を中央に引っ張り出しました。
「えっ、何?なんなのこれ?」
戸惑う中島君をよそに男子生徒と同じような顔をした女子生徒がわざとらしく尋ねます。
「はい、今日はまたどうしました?」
「はい、今日ご紹介いたしますのはこちら、鳥箱先生です。これさえあればどんな荒くれ者も一発で大人しくなるという優れものなんですよ」
改めて紹介されて、中島君が頭を掻きながら恥ずかしそうに客席に頭を下げていると、そんな中島君を押しのけるようにして女子生徒が前に出て
「でもー、そんないいものならやっぱりー、お値段のほうもお高いんでしょう?」
と男子生徒にもじもじと両手を擦り合わせながら詰め寄りました。
「ご心配なく。今回に限りなんとこちらの最新型炊飯器をお付けして8890円、8890円と大変お安くなっております」
「ええー、安―い!」
「安―い、じゃねぇわ!ほとんど炊飯器の値段じゃねぇか!ていうか誰なんだよ、お前ら」
中島君の突っ込みが舞台を震わせるのと同時に二人の生徒はそそくさと袖に引っ込んでいきました。
さて仕切り直してフウねずみをなんとしても生徒にしなくてはと説得している場面へと移ります。
「フウよ、悪いことは言わん。大人しく私の生徒になりなさい」
「へっ!冗談じゃないね。そんなもんになるくらいなら焼き殺されて食われちまったほうがましだぜ」
「なっ、なんという言葉づかいか…、恐ろしい」
「それにあんた知ってるか?人間の世界では、先生ってのは悪口なんだぜ」
「そんなことはない。先生とは立派なものにつける名前だ」
ここで丸山さんのナレーションが「フウねずみに手を焼いた鳥箱先生は、立派なねずみに育てるという約束を守れそうにないことを、母さんねずみに伝えました」と語り、舞台上にはふて腐れた様子の母さんねずみが現れました。
「なーんだ、やっぱ無理だったんだ。まあ最初から期待してないし、別にいいけどさあ」
「なんか前と全然態度が違うんですけど」
「それにしてもなんであの子はあんなに性根がわるいのかねぇ。全くわからんわ」
「いや、完全に遺伝なんですけど」
再びフウねずみが走り込んできて「今日は仲間を連れてきたぜ」と言うと、反対側から悪戯ねこがやってきました。そして腕を組んで辺りをスキップし始めました。
「ええーっ!何その凶悪なコンビ。怖いんですけど」
嵐のように暴れ回るフウねずみと悪戯ねこは、ついに中島君を転ばせてしまいました。
「鳥箱先生はたまらず棚から落っこちてしまい、網は無残に破れ、ガラスは割れてしまっていました」
ナレーションはその惨状を、ニュースを読むように伝えました。そして「鳥箱先生の大きな鳴き声に驚いたすずめが、窓の隙間から覗いていました」と続けたのでした。
すずめは舞台端のカーテンから顔を覗かせて、茶化すように言いました。
「これはこれは哀れなことだ。だいたい先生なんぞやるからだ。生徒なんぞとるからだ」
「それは違う!私は生まれた時から先生なのだ」
「はははっ、面白いことを言うなあ。生まれついての先生なんていないのさ。…だいたい君はただの鳥箱じゃないか」
「君を教えなくてはならないようだね」
「へっ、ごめんだね」
そう言うとすずめはカーテンの奥に引っ込みました。中島君がうなだれて泣いていると今度は蟻の行列が唄いながらやってきて先頭蟻が言いました。
「あらあら、哀れなことだ」
「笑うなら笑うがいい」
「はははははははっ!」
「そんな本気で笑わなくてもいいだろ!へこむわ、全員爆笑って」
「ああ、失敬失敬。ところで君は先生なのかね?」
「いいや、私はもう先生ではない。だいたい生徒がいないのだ」
「ほほう、生徒がいなくては先生はできぬとな。…ではどうだろう。君が生徒をやって、我々が先生をやるというのは」
「私が…、生徒を…?」
後方の蟻たちもうなずきながら「そうだ、それがいい」と言い合っていました。中島君は「しかし生徒など…」と腕組みしながら首をかしげて、こう言い放ちました。
「やったことがないから、できるかどうかわからん…」
客席が大きな歓声と拍手、そしてもちろん笑い声に包まれる中、緞帳がゆっくりと下りていったのでした。
舞台を終えた生徒たちが、体育館と校舎を結ぶ渡り廊下を歩いていると、中島君の名前を呼ぶ声がしました。声の方を見ると、中島君のお父さんとお母さんが校庭に立って、手を振っていました。
「祐二、お前がこんなに面白い子だなんて知らなかったよ。よく頑張ったな」
そう言葉をかけるお父さんの懐に、中島君は飛び込んでいきました。中島君の泣きわめく声に、体育館から聞こえてくる松本先生の口上は追いやられ、間の抜けた独り言のように空しく鳴っていました。
森本先生は酒井君の肩を後ろから軽く叩き「一番笑わせたかった人を、笑わせられたのね」と言いました。
「酒井君もよく頑張ったわね。まさか賢治さんがあんな風になるなんて、先生驚いたわ」
のちになって酒井君のお母さんが、中島君の両親に学習発表会へくるよう頼み込んでいたことがわかりました。中島君に対するお礼の意味があったのだといいます。こうして学習発表会は大盛況の内に幕を閉じました。しかし中島君はひとつだけ、大きな隠し事をしていました。舞台の本番が近づく中で、お父さんの転勤が決まっていたのです。舞台を無事に終わらせるまでは、学校側に伏せておこうという中島君なりの配慮に両親も同意してのことでした。ここでもやはり酒井君のお母さんの存在が、その効力を発揮したようでした。
「ホントに行っちゃうんだね、中島君…」
「ああ…」
酒井君と中島君の二人は廊下の窓際に並んで立ち、互いに別れを惜しんでいました。
「中島君は向こうでも続けるの?…革命」
「さあな…、行ってみないとわからないや」
「そっか…」
「…あのさ」
会話が途切れそうになるのを無理やり繋げようとするように、中島君は本来なら話さずにおくはずだったことを、酒井君だけに打ち明けました。それは中島君が転校が決まるたびにその地域で行なってきた儀式のようなもので、学校近くの公園にその時々の宝物を埋めてきたということでした。そして酒井君には特別にそれを掘り起こす権利を与えると言って、話を続けました。
「なんかの節目の時に、卒業式の時でもなんでもいいから掘ってみてくれよ」
中島君はそう言い残してこの町を去りました。佐藤さんの両親がインサイダー取引で逮捕されたというニュースが、風に乗って伝わってきたのもちょうどこの頃でしたが、生徒たちにとっては中島君の転校の方がよほど大きな出来事であったようでした。
そして時は流れ、卒業を控えた六年生が体育館に集められていました。この学校では、中学校へ上がる前に、生徒から教員に直接質問する機会を設けていたのです。生徒たちは、床の冷たさにためらいながら腰を下ろし、いわゆる体育座りをしていました。
「中学生になったら、こんな冷たいところに座らなくてもよくなりますか?」
ある男子生徒が質問すると、辺りから小さな笑い声が上がりました。生徒たちの正面に立つ松本先生は、隣の森本先生と顔を見合わせて微笑みながら「どうだったっけ?」と聞きました。首をかしげる森本先生から生徒の方に向き直った松本先生は、頭を掻きながら言いました。
「すまん…、わからんわ。でもたぶん座らないといかん場合もあるだろうから、まあ我慢してくれ」
終始和やかな雰囲気で行なわれた質疑応答が終わると、松本先生は一変して真剣な表情になって「…みんなに言っておきたい言葉があるんだ」と言い、突然大きな声で叫びました。
「人間は、時間がかかる」
体育館を反響した松本先生の声には、生徒たちの耳に襲いかかるような迫力があり、森本先生を含めたその場の全員が圧倒されていました。しかし松本先生は、そんなことはお構いなしとでもいうように話を続けました。
「みんなにはまだよくわからないかもしれないが、実際問題人間ほど時間のかかる存在はない。先生は、そのために学校があるんだと思ってる。学校はなにより、自分に時間をかけるための場所なんだ。…みんなのそんな貴重な時間に立ち会えたことを、誇りに思う。…先生はもちろん教える立場にあるけど、みんなから教わることも少なくない。最近教わったことは、人間はその時々を笑って過ごしたかどうかで、人生が変わってくるのかもしれないってことだ。そしてこの世界が人間によって成り立っていると考えるなら、それは世界を変えることに繋がるのかもしれないってことだ…」
生徒たちを教室へ帰し、静けさに包まれた体育館で、森本先生と松本先生が話していました。
「松本先生、いいんですか?あんな中島君を持ち上げるようなこと言って」
森本先生がからかうように言うと、松本先生は「ああ、かまわんさ」と答えて、出口へ向かって歩いていきながら、小さく呟きました。
「おおいに…、利用させてもらうさ…」
「えっ、今なんて言いました?松本先生。…ちょっと待ってくださいよ」
卒業式を終えた酒井君は、中島君が描いた地図を手に公園を歩いていました。この公園は二人が最初に関わり合った思い出の場所でした。あの時中島君は次の転校に備えて、宝物を埋める場所を探しに来ていたのだといいます。酒井君が拙い地図に従って桜の並木道を渡っていると、アカゲラと思われる鳥が木をつつく音が優しく鳴るのが聞こえてきました。頭上を見上げると、綻び始めた桜の蕾が青空に憩うように揺れていました。
中島君が宝物を埋めた場所は大きな木の下でした。その木に黒い紐で巻きつけられた板にはイチョウと書かれていました。酒井君はたどり着くと同時に根元へしゃがみ込み、素手で掘り始めました。暫くすると土の中から見覚えのあるお菓子の箱が出てきました。取り出して耳元で振ってみると、中の物が缶の内側で動く音がことことと鳴りました。酒井君が蓋を外すと、中には何冊かの学習ノートが入っていました。
ノートを捲ってみると、全ページに渡って中島君の字がびっしりと書かれ、触ると手が黒くなりそうでした。中島君は密かに酒井君の真似をして、文章を書く練習をしていたのでした。
「ずるいよ…中島君。体張るのが自分の役目って言ってたくせに」
酒井君の頬を温かい涙が滑り落ち、ぽつぽつと音をたてながらノートを濡らしていきました。涙で滲んで消えていく文字を、それでもなんとか目で追いながら「それに…」と嗚咽混りに言って、ノートを胸に抱きました。
「それに全然面白くないよ…、中島君」
泣き崩れる酒井君の背中を、一個の影が流れていきました。冗談みたいな青空を一羽のアカゲラが過ぎていき、春の陽気を笑うようにひと声鳴いたのでした。