
CFOシリーズ#10:「その記録、ありますか?」——買収直前、弁護士が黙り込んだ3秒間
会議室の空気が凍った瞬間
会議室のテーブルには、買い手側のDD(デューデリジェンス)チームが持ち込んだ分厚いファイルが積まれていました。
財務諸表のレビューは順調。経営者は、すでに「この買収案件は通る」と確信していました。
そこで、買い手側の弁護士がひとつのファイルを開き、静かにこう聞きました。
「このアカウントマネージャーの解雇について、警告書やPIP(改善計画)の記録はありますか?」
経営者は一瞬、質問の意味が分かりませんでした。
「いや……その、パフォーマンスが悪かったので、普通に解雇しただけです。うちはAt-Will(随意雇用)の州ですから」
弁護士は表情を変えず、ノートに何かを書き込みました。
3秒の沈黙。
それだけで、部屋の空気が変わったのを、経営者は肌で感じました。
2週間後、届いたのは修正オファーでした。
評価額は、当初提示額から大幅に減額。
理由は、
「未文書化された人事プラクティスに起因する潜在的訴訟リスクの調整」
という一行の注記でした。
事の発端は、その1年半前のある朝だった
話は遡ります。
「いやあ、あのアカウントマネージャー、全然成果が出ないから今朝クビにしてきたよ。もう片付いたから」
経営者はコーヒーを片手に、まるで在庫処分の報告でもするように、さらっと言いました。
本来、会社の企業価値を守る財務責任者(CFO)の視点があれば、ここで確認しておきたいことがあります。
「警告書は出しましたか?」
「PIPは?」
「能力不足を示す記録は、時系列で残っていますか?」
すると経営者は、
「なんでそんなものが要るんだ? うちはAt-Willの州だぞ。理由なんてなくても、いつでもクビにできるはずだろう」
と答えました。
このやり取りだけを見れば、社内の些細な一幕に過ぎません。
しかし1年半後、それはM&Aの会議室で、**「企業価値を押し下げる可能性のあるリスク」**として姿を変えました。
At-Willは「何でも許される」という意味ではない
At-Will雇用は、米国の多くの州で採用されている雇用原則です。
しかし、At-Willだからといって、雇用主がどんな理由でも自由に解雇できるという意味ではありません。
差別や報復など、法律で禁止されている理由による解雇は別問題です。
そして、ここで重要になるのが**Documentation(記録)**です。
例えば、
「パフォーマンスが悪かった」
という理由で解雇したとしても、
いつ問題が発生したのか
何を本人に伝えたのか
改善の機会を与えたのか
マネージャーの評価と解雇理由に一貫性があるか
といった記録が残っていなければ、後から会社側がその判断を説明することが難しくなります。
もちろん、すべての解雇にPIPが法的に必要というわけではありません。
しかし、「At-Willだから記録はいらない」という考え方は、M&Aの観点では非常に危険です。
波①:法務DD——問題は「何が起きたか」だけではない
M&Aの法務DDでは、訴訟や行政手続きだけでなく、雇用契約、従業員ハンドブック、人事記録、過去の労務問題なども確認対象になります。
例えば、
元従業員からのクレーム
失業保険に関する争い
差別・報復を主張する申立て
元従業員の弁護士からの通知
未払い残業代などの労務問題
が存在すれば、買い手はそのリスクを評価します。
ここで重要なのは、
「会社が正しいと思っているか」ではなく、「第三者に対して、その判断を説明できるか」
ということです。
口頭では、
「本人のパフォーマンスが悪かった」
と言えても、それを裏付ける記録がなければ、買い手や弁護士から追加質問を受ける可能性があります。
波②:財務DD——法務リスクが「数字」に変わる
そしてCFOにとって怖いのは、法務上の問題が、最終的に数字の問題へ変わることです。
買い手側は、潜在的な訴訟・労務リスクについて、
「もし問題が発生したら、会社にどれくらいの経済的負担が生じるのか?」
を考えます。
その結果、状況によっては、
買収価格の調整
Indemnification(補償条項)
Escrow(エスクロー)
表明保証・保証条項の強化
クロージング条件の追加
などにつながる可能性があります。
つまり、
「人事の問題だからHRの仕事」
では終わりません。
M&Aでは、それが最終的に企業価値、キャッシュ、契約条件の問題になることがあります。
なぜCFOは、数字の「先」を見なければならないのか
多くの経営者は、CFOを
「キャッシュフローを管理する人」
「税金をチェックする人」
「月次決算を見る人」
だと考えています。
しかし、戦略的なCFOが見るべきものは、数字そのものだけではありません。
その数字の裏側に、将来のリスクが隠れていないか。
ここを見ることも、CFOの重要な仕事です。
車で例えるなら——
どれだけ大きな馬力を生み出すレーシングエンジン(売上・事業推進力)を作っても、ブレーキシステム(法務・HRコンプライアンス)が整備されていなければ、最初のコーナーで大事故につながります。
戦略的なCFOは、解雇通知を「事後報告」として受け取るだけの存在ではありません。
会社の価値を守るために、数字になる前のリスクを見る。
それがCFOの仕事です。
DDで指摘を受ける前に確認したい5項目
「会議室で沈黙が流れる3秒間」を避けるために、普段から次の5項目を確認しておくことをお勧めします。
☐ ① 過去2〜3年の解雇について、必要な人事記録が残っているか
警告書やPIPが常に必要という意味ではありません。
重要なのは、解雇理由と、それまでのパフォーマンス評価・コミュニケーションに一貫性があるかです。
☐ ② 従業員ハンドブックは最新の州法・市法に対応しているか
特に州や市によって労働法が大きく異なる場合、古いハンドブックが思わぬリスクになることがあります。
☐ ③ 重要な人事判断について、経営・HR・必要に応じて法務や財務が連携しているか
すべての解雇にCFOが関与する必要はありません。
しかし、重要な人事判断が完全にブラックボックス化していないかは確認しておきたいところです。
☐ ④ 残業代・最低賃金などのPayroll Complianceに問題がないか
ひとつの労務問題が、過去の給与計算や従業員全体の問題へ広がるケースもあります。
☐ ⑤ 人事ファイルを第三者が見ても、時系列で状況を理解できるか
DDで重要なのは「書類があるか」だけではありません。
日付、評価、本人への通知、改善機会、最終判断までの流れに矛盾がないか。
ストーリーとして説明できることが重要です。
結論:ブレーキは、コーナーの手前で確認する
「At-Will雇用だから大丈夫」
この言葉だけに頼るのは危険です。
法務上のリスクは、最終的に財務リスクへ変わることがあります。
そしてM&Aでは、そのリスクが、
企業価値 → 買収価格 → 契約条件 → キャッシュ
へとつながっていく可能性があります。
だからこそCFOは、問題が起きてから数字を見るのではなく、数字になる前のリスクを見る。
会議室で弁護士が黙り込む3秒間を、DDが始まる前に潰しておく。
それが、企業価値を守るCFOの仕事です。
サーキットに飛び出す前に——
あなたの会社のブレーキは、本当に正常に機能していますか?
著者について
週末は車を直し、平日は会計を自動化する「メカニック会計士」。
数字だけでは見えない、会社の「壊れやすい部分」に目を向けながら、CFOの現場を考えていきます。
CFOシリーズ第10弾にお付き合いいただき、ありがとうございました。