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AzamI(アザミ)

    ※この作品はフィクションです。登場する人物・団体・出来事はすべて架空であり、実在のものとは関係ありません。


    【あらすじ】
      五十を過ぎて移った工場で、三隅誠は指導役のベテランに静かに追い詰められ、うつを患って職場を去った。
     回復の途上、散歩道で出会った紫の花——アザミ。その花言葉は「報復」だった。
     何か、できることはないか。三隅は会社の株主となり、AIに問いながら、有価証券報告書やガバナンス報告書を読み解いていく。やがて彼が会社へ送ったのは、糾弾ではなく、静かな問いだった。物の言えない現場の空気に、会社自身が気づくように——。
     相手の名は、どこにも記さないまま、株主総会の朝が来る。
     報復ではなく、回復へ。うつと再生、株主という立場、そしてAIとの付き合い方を見つめる、ひとつの「お仕事」の物語。


    プロローグ

     
     今年は、季節の歩みが早い。

     三月の後半にさしかかったところで、桜はもう葉桜になりかけていた。土手を歩くと、躑躅(つつじ)が咲き始めている。花水木も蕾をふくらませていた。

     早いな、と思った。
     例年なら四月に見る景色だった。

     ---

     散歩に出るのには、理由があった。

     怒りや悲しみは、頭の中で勝手に育つ。放っておくと塊になって居座る。そうなる前に体を動かして、目や耳から別のものを入れるといい。──いつか見た、お医者さんのSNSにそう書いてあった。

     だから歩いて紛らわそうとしていた。切り替えるのだ。

     ---

     その日も、土手を歩いていた。
     花に、目が止まった。

     紫の、棘(とげ)のような花。見たことはある。でも、名前は知らなかった。

     スマホで写真を撮って、AIに訊いてみた。
     便利だな、と思った。なんでも答えてくれる。

     アザミ。春に咲くのは、野アザミだそうだ。
     今年はそれも少し早いのかもしれない。

     その後に続く説明に、目が止まった。

     花言葉 「厳格」「独立」「報復」

     ---

     「報復」

     ---

     その二文字を、しばらく見ていた。

     何か、できることがあるはずだ。


    第一章 事前質問書在中


     六月八日、月曜。

     梶原弘樹の一日は、郵便物の仕分けから始まる。株式会社トマ研、総務部。三年前にここへ移るまで、彼はずっと人事部にいた。

     新卒で入って最初に配属されたのが人事部だった。そのとき直属の課長が相馬である。書類の詰めの甘さを何度も突き返された。「人の一生に関わる部署だぞ」が口癖の人だった。その相馬が総務部長になり、三年前、梶原も総務へ呼ばれた。だから今でも、つい「相馬さん」と呼ぶ。

     月曜は封書が多い。机に束を広げ、上から順にあらためていく。取引銀行の封書、業界団体の案内。総会を半月あまり後に控え、議決権行使書の返送も、そろそろ戻り始めていた。

     その一通は、束の真ん中にあった。

     白い長形封筒。簡易書留のシール。差出人の欄に、手書きの名前。表に、赤いボールペンで一行。

     ──事前質問書在中。

     梶原は、少し手を止めた。

     株主からの質問は珍しい。トマ研の株主は、その四割以上を創業家の苫代家と関連会社が占めている。残りも、長く持ってくれている地元の個人や、取引先がほとんどだ。とくに今期は、本業の利益に加えて投資先のファンドからの収益が大きく乗り、その分を増配に回している。株主は、たいてい静かだった。
     厄介なのは、外資のアクティビストのような株主だ。だがそれなら、代理人を立て、もっと別の形で来る。手書きの簡易書留で、個人が一人。

     封を切った。A4が三枚、ビジネス文書の体裁だ。質問は、六つ。

     一つ目は、資本の使い道。九割近い自己資本比率、積み上がった現金。それをどう株主に還元するのか。二つ目は、製造現場への投資。設備の更新、技能の継承。
     ここまでは、よくある質問だ、と梶原は思った。少し勉強した個人投資家なら、書けなくはない。

     三つ目から、空気が変わった。

     人的資本。組織の風土。心理的安全性。
     そして──ハラスメント。コンプライアンス。内部通報制度の、実効性。

     便箋を持つ手が、わずかに汗ばむのを、梶原は感じた。

     文面は、丁寧だった。感情的な言葉は、ひとつもない。むしろ冷静すぎて、その冷静さが、かえって落ち着かなかった。
     内部通報の窓口について、こうあった。「四年以上、同じ文言が一字も変わっていない」。ガバナンス報告書を過去を遡って見ている。正確だった。
     ハラスメントについては、制度そのものを責めてはいない。ただ、「制度がある」と「機能している」は違う、という一点を、静かに、別の角度から、何度も突いてくる。

     外から眺めただけの人間の書き方ではない、と梶原は思った。中を、知っている。あるいは──知っていた。

     最後の便箋に、署名があった。個人株主、一名。

     三隅。

     ——珍しい名字だな、と思った。どこかで見たような気もしたが、思い出せない。人事部にいた頃、何千という名前を見てきた。そのうちの、一つだったかもしれない。

     彼は便箋を揃え、立ち上がった。 相馬の席へ向かう。

     差し出された便箋に、相馬は老眼鏡を上げて目を落とした。読み進めるうちに、その眉が、少しずつ寄っていく。

     「……何株、持ってる」
     「百株です。最低単元」
     「百株か」相馬は、低く息を吐いた。「百株の株主が、ここまで書いてくるか」

     「アクティビストの線は」
     「だったら、こんな書き方はしない」相馬は便箋を置いた。「金の話だけなら、こっちも数字で返せる。これは……毛色が違う」

     総会まで、半月あまり。例年なら、議事はつつがなく進む。出席する株主は、二十人ほど。質問が出ることも、めったにない。

     「梶原。回答案を作っておけ」相馬は言った。「俺から、担当役員に上げる。場合によっては、取締役会にかけることになる」

     梶原は、コピーを取り、自分の席に戻った。窓の外は、よく晴れていた。今年は、梅雨入りが遅いらしい。

     一通の手紙が、静かに、会社の中を動き始めていた。
     誰が、何のために書いたのか。
     このときの梶原はまだ知らない。この名前を、いずれ自分が本気で調べることになるとは。


    第二章 経験あるんでしょ

     
     三隅誠が株式会社トマ研で働き始めて一年が過ぎた。

     前の会社では、機械設備の組み立てをしていた。名の知れたメーカーで、二十年以上現場にいた。
     だが、五十を過ぎて、フルタイムの正社員という働き方に、少し疲れていた。このあたりで、肩の力を抜いた働き方に、変えてもいいのではないか。そう思うようになっていた。
     正社員の働き方をやめようと思ったところに、トマ研の求人を見つけたのだった。設備の電気配線工、中途、年齢は問わない、とあった。五十を過ぎた身には、ありがたい一行だった。

     ---

     トマ研の「研」は、研磨の研だ。もとは近くの山で採れる天然の砥石を成形して売っていたのだという。それがいつしか部品そのものを研ぐ会社になった。ベアリングの部品や、機械の滑り合う面。ミクロン単位で平らにする技術が、この会社の背骨だった。精度を強みにいち早く大手からの受注を得て、業界では先駆者的な立場となり、小さな町工場や中堅の機械加工会社を、技術者の技術もまとめて吸収することで規模を拡大してきた。

     工場に入ると、まず匂いでわかる。研削の冷却液と、削られた金属の細かい粉の混じったような匂い。研削盤がシャーシャーと鳴き、砥石と材料が触れ合うところで、時折小さな火花が散っている。何人もの作業着の技術者が、ゲージを覗いては測定し、削ってはまた測定している。そんな機械加工のエリアを横目に奥へ進むと、電装係の作業エリアに辿り着く。機械加工エリアとは違い、油臭さは少なく、比較的綺麗なエリアだ。
     
     精度の世界も、現在はモーターが駆動する。それにより設備が高速かつ自動で動くことが当たり前となり、機械部品のみならず、それを駆動するモータと、モータを制御する制御装置、それをまとめて配置、配線する制御盤もセットでこなさないと受注できない。そこで、電装をこなす人員が必要になる。

     三隅の仕事は、そこだった。制御盤の中の部品の組込みと配線。モーターと盤をつなぎ、通電して、思ったとおりに動くか試験する。前の会社でやってきたことと、共通することは多い。

     ---

     そんな電装係を一手に引き受けてきたのが、杜澤だった。五十代の半ば、電装係の係長である。生産計画から工程の管理、後輩やパート従業員の教育、工程が逼迫すれば自分でもあらゆる作業に向かう。この工場で電装といえば杜澤、という人だった。

     電装の仕事はこの会社の長い歴史からすれば、新しい分野の仕事だ。長い経験を持つ機械の熟練工であっても、電気となれば全く手が出せない。だからこそ杜澤は、この現場で、揺るがない立場を持っていた。新人が配属されれば杜澤が指導するが、電気の知識はあっても、工程のことや固有の部品、製品の知識は、学問的知識ではカバーできない。また、他品種少量の受注に対応した生産を破綻させないことは実際大変なことで、それをなんとかすることで、杜澤が少々荒っぽく振る舞っても、課長や部長は目をつぶっていた。
     若手、中堅の社員は皆、杜澤の昭和の指導を受けて育っている。杜澤の機嫌を伺いながら、目立たぬよう、それぞれ担当の部品・製品を淡々とこなしているようだった。

     三隅が配属された初日、杜澤はちらりとこちらを見て、それきりだった。経験者が入るとは聞いていたのだろう。歓迎する様子は、なかった。

     わからないことを訊くと、決まって、間があった。
     「……経験、あるんでしょ」
     そう言われると、それ以上は訊けなかった。

     トマ研には、トマ研のやり方があった。配線の取り回しは、組み込む物と配置が決まれば大体決まる。しかし、手順そのものは標準化された手順で進めるのが、品質管理の面でも国際的な規格に沿っている、という認証を受けたこの会社であれば必須だ。杜澤はそれを時折、口頭だけで済ませた。また、道具や資料の管理、工程進捗の報告、製品、部品毎の特性といった、いわゆるマニュアルになりにくい暗黙知の部分は、教えられなければわからない。だが杜澤は、その「やり方」の説明をすることを最小限に留めていた。説明はしたとアリバイさえ作ればよいという雰囲気だった。よくわからず訊けば、「前の会社で、やらなかったの」。訊かずに進めれば、「言わないと、わからないの」。
     どちらにしても、間違いにされた。

     手が遅い、とも言われた。慣れない部品を前に、図面を確かめながら進めると、杜澤は横で、はっきりとため息をついた。
     「どうして、こんなに時間がかかるの」
     いちいち説明してられない、という雰囲気の口調は、ただただ刺々しかった。

     ---

     あの日のことを、三隅はよく覚えている。

     ある周辺機器の、最終の検査工程だった。配線を終えた盤に、順を追って試験をかけていく。三隅は、手順書のとおりに進めたつもりだった。だが、ある一項目で、杜澤の声が飛んだ。

     「待って。なんで、そこでその試験するの」

     三隅の手が止まった。

     「この基板は、〇〇用の基板でしょ。だったら、その試験を、ここでするはずないでしょ」

     言われてみれば、そうだった。意味は、わかった。
     だが、それを最初から知っていれば、間違えなかった。手順書には、そこまで書かれていない。基板の構造を踏まえて読み替えろ、という前提らしい。探しても、それを補う資料はなく、あるのかないのかも、わからなかった。

     三隅は、正直に言った。
     「、、、この手順書、わかりづらいです。間違えやすいと思います」

     責めたつもりは、なかった。品質管理の観点で直したほうがいい。間違いが起こる。そう言う気持ちだった。

     ---

     それが、気に入らなかったらしい。

     杜澤の顔から、表情が消えた。何か言うわけではない。ただ、その日を境に、何かが静かに変わっていった。


    第三章 聞こえるところで

     
     それからの杜澤は、目に見えて態度を変えた、というわけでもなかった。

     露骨に怒鳴るでも、無視するでもない。ただ、訊けば、答えるまでに怪訝な表情がよぎる。返ってくるのは、あからさまなため息混じりの言葉——いや、言葉混じりのため息だ。「面倒くせえな」と、無言のうちに聞こえる。
     「また、あれだ」三隅は思った。訊くも、訊かぬも、三隅を罪人に仕立てる仕掛けだった。
     その繰り返しが、日常になっていった。

     ---

     はっきりと、何かが切れた日があった。

     部品の梱包の仕方だった。三隅が箱に詰めた向きが、いつものやり方と違っていたらしい。杜澤が、それを見つけた。
     最初は、梱包の話だったはずだった。だがそこから、杜澤の言葉は、過去へさかのぼっていった。いつぞやの、あの試験手順のときの、三隅の一言。「わかりづらいです、間違えやすいと思います」──あれを、杜澤は、忘れていなかった。

     「だから、あの試験は、こう言うやり方なの!」

     声が、工場に響いた。
     わかりづらいと言ったお前のほうが、わかっていない。手順を、やり方を、何もわかっていないくせに口だけは一人前だ。──そういう意味の言葉が続けて飛んできた。三隅のあのときの指摘が、自分の認識不足を棚に上げたものだったと決めつけるように。
     同じ工程にいた他の二人の目の前だった。
     三隅は、何も言えなかった。

     ---

     その日から、周りが静かに引いていった。

     あからさまな、何かがあったわけではない。ただ、確実に、空気が変わっていった。じわじわと、音もなく。
     同じ工程の二人はあからさまに三隅を見下していた。挨拶しても、聞こえるか聞こえないかの返答。「無視はしてないよ」と言わんばかりだった。
     別の工程の人が、すれ違いざまに声をかけてくれることがあったのに、それもなくなった。
     部長や課長が、「どう、調子いい?」と気さくに寄ってきてくれることがあった。それも、いつの間にか、なくなっていた。

     一方で杜澤は、他の二人とはよく話した。明るく声を立てて。
     三隅の、聞こえるところで。

     制御盤に向かって、手を動かす。配線の続きを、一本ずつ、つないでいく。目の前の作業に、意識を集めようとする。
     だが、声は、聞こえてしまう。
     「経験者は、やっぱり違うねえ」。どっと、笑いが起こる。名指しは、しない。だが、誰のことかは、その場の全員が、わかっていた。三隅にも、わかった。背中で、それを、聞いていた。
     聞くまいとするほど、耳は、拾ってしまう。手元の配線と背中の笑い声。逃げ場はどこにもなかった。

     職場では、誰かの悪口を聞かない日はなかった。あいつはできていない、使えない。最初はただ聞いていた。同調はしたくなかった。
     だがある時期から気づき始めた。あれと同じに自分のことも言われている。
     手慣れているなと思った。こういうやり方に。きっと今までも、これからも。

     ---

     夜、眠れなくなった。

     布団に入っても、頭の中で、昼の場面が再生される。あの声。あの目線。二人の前で、立ち尽くした自分。
     朝は、体が重かった。起き上がるのに、時間がかかるようになった。

     車で工場へ向かう。近づくにつれ、アクセルを踏む足が重くなっていく。
     毎朝、途中のコンビニの駐車場に車を停めた。買うものがあるわけではない。ただ、そのまま工場へは向かえなかった。
     ハンドルを握ったまま、大きく息を吸って、吐いた。もう一度。それから、自分に言い聞かせるように、小さく声に出した。
     「大丈夫。……まだ、大丈夫」
     両手で頬をパンパンと叩いて車を出す。
     ——ずっとあとになって気づいた。「大丈夫」と唱えていたのは、大丈夫ではなかったからだ。本当に大丈夫なら、そんな言葉わざわざ口にしない。あれは頭ではなく、もう限界だと訴える体のほうから絞り出されていた言葉だった。

     それでも、このときの三隅は、まだ自分の未熟にも原因があると思っていた。
     慣れていないのは、自分だ。手が遅いのも、覚えが悪いのも、自分だ。
     まずは仕事をこなせるようになるのが先だ。そう思おうとしていた。

     そんな三隅の心は、ほどなく破綻した。
     


    第四章 淡々と流れる


     退職そのものは、もう決まっていた。

     家庭の事情、ということにして、静かに辞める。杜澤とも会社とも、そう話がついていた。あと二週間。それだけ勤め上げれば、終わるはずだった。
     静かに終わればよかった。ただ、それだけのことだった。

     でも、そうはならなかった。

     ---

     退職が決まってからも、杜澤は変わらなかった。

     いや、むしろ執拗になった。作業をしていると、後ろに人の気配がする。振り返らなくてもわかる。杜澤だ。息をひそめるように手を動かす。けれど、どこかで待っているのを感じていた。三隅が何か間違えるのを。
     案の定、ミスをした瞬間に声が飛んでくる。他の人には言わないような細かいことを、三隅にだけ。

     「教えたはずなのに、なんでできないの」

     その言葉は、指摘ではなかった。責めるために、あらかじめ用意されていた言葉だと、今ならわかる。
     もう辞めると決まった人間にまで、杜澤は、容赦をしなかった。

     ---

     その日の夜、家に帰っても、気持ちは静まらなかった。

     悔しいのか、怒っているのか、自分でも、よくわからない。ただ、何かが、ぐるぐると頭の中を回り続けていた。
     気づいたら、こう思っていた。
     「もう、行けない。」
     「行きたくない」ではなかった。「行けない」だった。体のほうが、もう限界を訴えていたのかもしれない。

     ---

     眠ろうとするほど、頭の中で、再生が始まる。

     あの言葉。あの目線。あの瞬間。
     悔しさと怒りが、ひとりでに形を持ちはじめて、どんどん大きくなっていく。鮮明になる。杜澤の声が、頭の中で、鳴りやまなかった。
     回想が、モンスターになっていた。

     週末でも開いている精神科を探した。
     スマホで何件か調べて、予約を入れた。半分は、何をしているんだろう、と思いながら。
     診察室でうまく話せたかは、わからない。でも、先生は静かに聞いてくれた。

     「うつと言っていいでしょう。休養が必要ですね。」

     その言葉を聞いた瞬間、三隅は、正直、楽になった。
     「病気だった」という事実が、彼を少しだけ、あの場所から、解放してくれた。
     まだ、霧の中にいる。でも、霧に、名前がついた。
     それだけで、その夜は、少し眠れた。

     ---

     月曜の朝、電話をかけた。

     受話器を取るまでに、ずいぶん時間がかかった。
     「うつと診断されました。もう出勤できません。診断書を送ります。」と伝えた。あと二週間の予定は、待たずに。
     電話の向こうは、それを、淡々と受け取った。引き止めるでもなく、病状を問う訳でもなく。

     静かに終わればよかった。
     結局、静かにすら、終われなかった。

     ---

     それからの日々を、うまく説明できない。

     寝るだけの日が、何日も続いた。何かをする意欲が、わかなかった。
     朝、目は覚める。だが、起き上がる理由が見つからない。天井を見る。また、見る。日が傾いて、部屋が暗くなっていく。それを、ただ、眺めていた。

     その間も、時間と世の中は、三隅とは無関係に、淡々と流れていた。
     季節は勝手に移っていく。世界は、彼が止まっていることなど知らないようだった。


    第五章 最高値

     
     寝て、目が覚める、ぼーっとして、食べたくなったら何か口にして、眠れなければ、SNSを眺める。
     何もしないと、回想がモンスターになる。ただ寝るか、情報で気を逸らすか、それしかなかった。

     SNSをしばらく見ていると、画面のほうがこちらの興味を当ててくるようになる。うつのこと。株のこと。AIのこと。
     見ている、というより、見せられている。誰かが、こちらの頭の中をのぞいて、手際よく並べているようだった。

     うつの経験者の声はやさしい。
     ー 休養が必要なんだよ。何かしようと思わず、あなた自身を休ませてあげて。
     ー 心は休みたがっているんだよ。もっと自分を甘やかしていいんだよ。

     何ら生産性のない自分には、ありがたかった。

     一方で、植物の棘が気付けば皮膚を突いているかのように、チクリチクリと回想が頭の中を刺しては離れ、刺しては離れ、そのチクリ、チクリの単発の音の間隔が次第に短くなり1つの長音となり、モンスターが出現するのだった。
     悔しいのか、悲しいのか、、、 何なのか分からない。
     自ら存在を消すことまでは考えなかったが、もし、最初から自分という存在を無かったことにしてもらえるなら、それが一番いい。とは思った。

     なんとか我に返ってSNSに目をやると、うつに関連した投稿に「気持ちのリセットは身体的行動と共にすべし。」とある。
     気持ちの問題を気持ちだけで切替えるのは難しく、歩くとか、音楽を聞くとか、上を向いて深呼吸するとか、気持ちを切替えたいなら、何か身体的行動をとるべきとの趣旨だ。

     「散歩するか、、、」 まったくそんな気にはならないのに、ぽつりと呟いた。
     
     その日から、時折、重い腰をあげて散歩するようになった。

     ---

     土手を歩くと、季節が変わっているのが見てとれた。桜は葉桜になりかけ、躑躅が咲きはじめ、花水木が蕾をふくらませていた。
     歩いている間は、少しだけ、楽だった。だが、時折、チクリ、チクリと悪い場面が再生される。霧は、晴れたわけではなかった。ただ、その中を、歩けるようにはなっていた。

     そんなある日、三隅は野アザミの花と出会ったのだった。

     ---

     日経平均が、二月に五万八千円を超え史上最高値となり、明るい兆しが出たのも束の間、中東情勢が緊迫し3月には急落した。
     良かったり、落ちたり、そんな気持ちの騰落の日々を三隅も過ごしていた。

     三隅は株式投資の経験があり、証券口座も持っている。
     ただ、保有しているのはレストラン割引券やファストフードの優待券が貰える銘柄と、配当の高い銘柄をNISAで少額、ほぼ放ったらかしだ。
     トマ研が上場しているのも知っている。入社前にどんな会社か調べる意味で株価と指標を調べた。投資対象として悪くないという印象だった。

     野アザミの花言葉は、三隅に「何かできることがあるかも、、、」とは思わせたが、三隅はなんの算段もなく、現在のトマ研の株式情報を調べた。
     指標は崩れていない。1単元(100株)なら買える。
     3月決算会社の権利落ちの日が迫っていたこともあり、三隅は何をするとも考えず、トマ研の株を購入した。 

     何かをするにしても、何もしないにしても、考える時間はある。

     三隅は、それだけして、また布団の中へ戻った。


    第六章 AI

     
     今日も三隅は布団の中にいた。寝るだけ寝たので、ただSNSを眺めていた。
     よく目にする記事はAIのこと。 エージェントAIなるものが流行っているようだ。
     一応理系出身の三隅は、興味がないこともない。

     数年前、チャット型のAIが注目された。
     調べたいことを話し言葉で打ち込めば、その解答そのものを提示する。関連されるサイトが提示されるのみの、それまでの検索方法よりも、容易に情報に辿り着く。
     更に、文章や画像などを生成することも可能だ。トピックを提示すれば、それなりの文章や画像を生成してくれる。
     
     エージェント型のAIとは、チャットのように一問一答ではなく、AIにになってほしい役割と目標、注意事項を設定することで、してほしい役割を担ってもらうイメージ——だそうだ。三隅は、理解するでも調べるでもなく、ただただSNSの画面をスクロールしていた。

     4月になり、またAIのことが話題になった。
     この間、「エージェント型AI」で話題になったアメリカのAI企業が、新たなAIを開発した。ネットの世界のセキュリティの脆弱性を見つけ出すAIだそうだ。
     脆弱性を先回りして塞げれば、防御の切り札になる。だが、悪意を持った人間が使えば、そのまま攻撃の道具にもなる。機密を扱う政府や企業にとっては、諸刃の代物だ。
     興味深いのは、そのあとだった。作ったAI企業のほうは、公開に前向きだったらしい。道具そのものに罪はない、要は使う側の問題だ、と。ところが政府は、悪用されれば取り返しがつかない、と止めた。アメリカも、日本も。作った会社と、国とが、真っ向から対立する構図になった。というのだ。
     AIが怖いのか。それを使う人間が怖いのか。——三隅は、その対立を、どこか他人事のように眺めていた。そのときは、それ以上、深くは考えなかった。

     三隅はふと、以前テレビで取り上げられていたAI搭載のロボットのことを思い出した。

     AI搭載のロボットがある。動作を一つ一つ教え込まず、学習させるという内容だ。
     陸上のトラックのようなコースを歩き、一周のタイムを測る。タイムは短くなればなる程スコアが上がる。「スコアが高くなるように学習せよ」とロボットに指令すると、最初は立つこともできなかったロボットが立って歩きだす。というのだ。これを実物のロボットのみならず、コンピュータで作ったロボットのモデルを何百台分用意し、サイバー空間で同様に動作を学習させる。一定の時間が経過したところでそれぞれのロボットのモデルが学習したデータを一つに統合することで、学習の時間を大幅に短縮する。高度に学習されたデータをごく短時間で得たロボットは、走るようになり、カーレースのようなコーナリングをもするようになる。
    というのだ。

     なんだか、映画みたいな話だな。と三隅は思った。
     AIが高度なインテリジェンスを短時間で獲得して、自身の永続性の確保に邪魔になる人類の滅亡を画策する、、、的なSF映画はあった。映画としてとても面白かったが、セキュリティAIの話もAIロボットの話もそれらの延長線上に、SF映画の世界があるというのか、、、。

     ---

     スマホを持つ手を、布団の上に下ろした。天井の木目が、ぼんやりと目に入る。
     映画の話だ。少なくとも、自分には関係がない。そう思いかけて、ふと、あの花を思い出した。
     土手の、紫の棘のような花。アザミ。花言葉、「報復」。あの日、何かできることがあるかもしれない、と思った。思って、なんとなくで株を買った。それきりだった。何を、どうするのか。算段は、何もなかった。

     三隅は、もう一度スマホを持ち上げた。
     花の名前を教えてくれたのもこのAIだった。調べ物にはいつも使う。天気も、道順も、知らない言葉も。訊けば答えてくれる。
     なら、これも訊いてみるか。三隅は、半分は気まぐれで、半分は、本気で、文字を打ち込んだ。

     どう報復すればいいか。

     打ってから、少し、ためらった。物騒な言葉だ、と自分でも思った。政府が止めるほどの力を持つ道具に、こんな、下らない相談を持ちかけている。指先が一瞬とまった。それでも、送信した。

     ---

     返ってきたのは、報復の方法ではなかった。

     会社の相談窓口。社外の、匿名で相談できる窓口。労働基準監督署。弁護士への相談。——箇条書きで、簡単な方法とメリット、デメリットを整然と並べてある。的確な回答と思える。

     三隅は、それを、しばらく眺めた。

     仮に、どこかしらへ相談したとして何が起きるか。
     どの場合も事実関係を確認することになるだろう。こちらには録音なんかしていないし、言葉にならない杜澤の陰湿なプレッシャーは第三者に理解してもらうにはハードルが高い。双方が「言った」「言わない」「やった」「やらない」の応酬。何よりも、折に触れてその時の気持ちを思い出す必要がある。回想モンスターを自ら呼び込むような物だ。正直きつい。その結果、勝利となるのか。 
     
     報復の道は、静かに、閉じていた。最初から、そんなものは、なかったのかもしれない。杜澤はしたたかにやっている。手慣れている。何人もここで泣き寝入りしたに違いない——と感じた。

     なんか、ないのか。三隅は、もう一度打ち込んだ。他に、何か、ないのか。
     自分でも、子供のような問いだと思った。

     少し、間があった。——気のせいだ。相手は機械だ。間など、あるはずがない。
     それでも、返ってきた文字は、それまでと、少しだけ、違って見えた。

     ——ここに挙げたもので、相手を罰することはできません。
     少し、間があった。
     ——あなたが本当に望んでいるのは、何ですか。
     
     手が、止まった。

     政府が止めるほど危ういと恐れられた力が、三隅のたった一つの、物騒な望みには、乗らなかった。——妙な話だ、と、ちらりと思った。だが、それきりだった。

     ---

     何が、したい。
     三隅は、天井を見た。木目が、さっきより、はっきり見える気がした。

     杜澤に、頭を下げさせたい。それは、ある。認める。今も、腹の底に、黒い塊が居座っている。あの声を、あの目線を、今度はあいつに味わわせたい。そうなれば、どんなに痛快であろう。

     だが——それをできる道はないらしい。泣き寝入りなのか、、、
     多分、杜澤は明日も、次の誰かに、同じことをする。ならば、せめてこの苦い経験を、泣き寝入りで終わらせない、意味のあることに振り向けられないか。
     
     物を言えば叩かれ、黙っていれば見下される。若手が何かやってみようと口を開く、その前に、芽を摘まれる。余計なことは言わない、黙々と自身の仕事だけをこなしていればいい、、、という硬直した空気。杜澤の醸成したあの空気は間違っている。

     そして、たぶん、会社は、知らない。
     工場の、いちばん奥の、電装係の、あの隅の空気まで、社長に見えているはずがない。悪意で放っているのではない。ただ、見えていないだけだ。知らないだけだ。

     ——なら。
     三隅の中で、何かが、ゆっくりと、向きを変えた。
     気づかせればいい。ああいう空気が、現場に生まれること。そして、誰もが物を言える風通しを、育てなければならないことに。
     それは、報復とは、違う言葉だった。うまく名前はつけられなかったが、少なくとも、報復ではなかった。杜澤の名前は、そこに、どこにも要らなかった。

     後になって思えば、この夜だった。三隅の中で、アザミの花言葉が、別の何かに書き換わり始めたのは。


    第七章 質問状


     あの淀んだ空気に、会社自身が気づくように。杜澤を責めるのではなく、株主の立場から、そう働きかける。——前の晩、三隅がたどり着いたのは、そういう答えだった。
     だが、そう思い至ったところで、何をどうすればいいのかは、わからなかった。株主として会社にアプローチするといっても、根拠のない話を、会社が聞くはずもない。何を根拠に、どう問うのか。

     株主として、会社にアプローチするとして、どうするのか。根拠のない話を、会社が聞くはずもない。何を根拠に、どう問うのか。
     三隅は、体を起こした。久しぶりに、背中に、少しだけ力が入った。
     エージェント型AIというのがあったはずだ。役割と、目標と、注意事項を決めて、役割を遂行させるタイプだ。

     ---

     三隅は、スマホを置いて、久しぶりにノートパソコンを開いた。天板の埃を袖で拭った。

     役割。目標。注意事項。画面の説明を、思い出しながら、打ち込んでいく。
     あなたは、会社の資料を読み解く手伝いをしてほしい。目標は、ある会社の、現場の風通しや、人を大切にする姿勢が、どうなっているかを知ること。注意——事実だけを見て、憶測は混ぜないでほしい。個人を、責めないでほしい。
     最後の一行を打ちながら、三隅は、少し、笑いそうになった。責めないでほしい、と、自分で書いている。

     ---

     上場している会社は、いろいろなことを開示している。それは、株を買う前に、少しだけ調べて知っていた。
     有価証券報告書。コーポレートガバナンス報告書。事業報告。三隅はトマ研のそれらを一つずつ拾い集めていった。PDFが画面に積み上がっていく。

     開いてみて、ため息が出た。わからない言葉が次から次に出てくる。
     自己資本比率。コーポレートガバナンス・コード。補充原則。有価証券報告書——日本語のはずなのに、意味が、頭に入ってこない。

     三隅は、一つずつ、AIに訊いた。
     これは、どういう意味か。この数字は、何を表すのか。訊くたびに答えが返ってきた。噛み砕いた言葉で。何度も似たようなことを訊いても返ってきた。ため息も間もなかった。「経験、あるんでしょ」も「前の会社で、やらなかったの」もなかった。「言わないと、わからないの」も。
     ——教えてくれるのか。三隅は、少しだけ、可笑しくなった。人には教えてもらえなかったことでも、機械がいくらでも、嫌な顔ひとつせず、教えてくれる。

     暴走するだの、いつか人を要らなくなるだの——さんざん恐れられている当のものが、目の前では、どこまでも従順で、辛抱強かった。
     怖いのは、こいつではないのかもしれない。——そう思いかけて、三隅は、また資料に目を戻した。

     ---

     わかってくると、面白くなってきた。

     元は技術者だ。資料や数字から意味を読み解く。昔の仕事と通じる作業だ。
     
     コーポレートガバナンス報告書を数年分並べてみた。会社の体制を説明した文書だ。
     内部通報の窓口について書かれた、その一段落が何年も一字一句変わっていなかった。年度の数字だけが書き換わっている。あとは、同じ。まるでコピーして貼り付けたように。
     、、、見直しては、いないんだな。三隅は、思った。責める気持ちより先に、ただ、そう思った。制度が「ある」と書いてある。だが「ある」と「機能している」は違う。それは身をもって知っていた。

     三隅は粗を探しているのではなかった。少なくとも、途中からそうではなくなっていた。
     この会社が現場の空気をどう見ているのか。物の言える風通しをどう作ろうとしているのか。あるいは——作ろうとしていないのか。それを知りたかった。責めるためではなく、気づいてもらうために。
     人的資本。心理的安全性。ハラスメント。資料に並んだ言葉は、どれも、あの、電装係の隅の空気に、遠くつながっていた。杜澤の名前は、そこに一度も出てこなかった。出す必要もなかった。

     ---

     根拠が、少しずつ、積み上がっていった。
     三隅は、それを質問の形に変えていった。会社への事前質問書。それと、監査を担う委員たちへの問い合わせの手紙。

     文面は努めて静かにした。感情は一つも入れなかった。
     告発ではない。「あなたの会社には問題がある」とは書かなかったし、そう訴えていると捉えられないように努めた。攻撃的な相手だ、とか、私怨をぶつけていると思われて会社と対立関係になってしまえば、本音の回答を得られなくなる。むしろ会社とは信頼関係を築くべきと考えた。

     現場には、物の言えない空気が生まれることがある。御社は、それをどう把握し、誰もが発言でき、若手や中堅が挑戦できる風土をどう育てているのか。企業価値の持続的な向上のために。
     
     これは、イノベーション起こしたり、業務に対する改善活動が活発になることによって、生産性向上につながる。そうなれば、会社としても、従業員としても、株主としてもプラスになる、いわば三方よしになり得る。

     一度だけ、杜澤の名前を、書きそうになった。俺は今、社長や役員に直接アクセスできる立場だ。指が勝手に動いた。
     三隅はその手を止めた。名前を書けば、それは私怨になる。思い直して名前は消した。

     AIは、文章の組み立てを手伝った。ここは論点を分けたほうがいい、この数字は出典を添えたほうがいい、と。だが、何を問うかは三隅が決めた。どこで踏みとどまるかも三隅が決めた。
     道具はあくまで道具だった。使う人間が、どこへ向かうかまでは決めない。決めるのはこちらだった。

     ---

     書き上がったのは六月に入ってからだった。
     ちょうどその会社の総会の招集通知が郵送されてきた。総会は半月あまり先だ。

     質問書を書き上げで、封筒に赤いボールペンで一行書き添えた。 ——事前質問書在中。
     簡易書留で送付した。

     郵便局を出てトボトボと歩き始めた。つい数日前に梅雨入りしたと聞いたが、空はよく晴れていた。
     すっきりとはしなかった。ただ少しだけ、体が軽かった。できることはやったのだ。

     あの封筒がこれから会社の中でどう読まれるのか。三隅が知ることはない。
     総務の誰かが、月曜の朝、束の真ん中から、それを抜き出して封を切ることも。その人が、いずれ、自分の名前を本気で調べることになるのも。


    第八章 珍しい名字

     
     梶原は、回答案作りに追われていた。

     総会まで、あと十日。あの事前質問書への回答を、担当役員に上げ、場合によっては取締役会にかける——相馬は、そう言った。たたき台を作るのが、梶原の仕事だった。同じ差出人からは、監査等委員宛にも、別の一通が届いていた。そちらは、監査等委員たちの手に渡っている。梶原の担当は、事前質問書のほうだった。

     前半は、難しくなかった。資本の使い道、現場への投資。数字のある話は、数字で返せる。増配の方針、設備投資の計画、技能継承の取り組み。IR用の資料から、言葉を選んで、並べていけばいい。

     後半で、手が止まった。

     人的資本。心理的安全性。ハラスメント。内部通報制度の、実効性。
     制度は、ある。就業規則にも、ガバナンス報告書にも書いてある。相談窓口も設けている。梶原は、それをそのまま書いた。「当社では、内部通報制度を整備し、適切に運用しております」。
     書いて、読み返して、落ち着かなくなった。

     あの質問書は、まさにそこを、先回りして突いていた。「制度がある」と「機能している」は違う、と。この回答を読んだら、あの株主は、どう思うだろう。整備しております、運用しております——その言葉の、何を、信じろというのか。
     では、何を書けばいい。機能している証拠を、と言われて、梶原の手元には、出せるものが、なかった。相談窓口に、この一年、何件の相談があったか。梶原は、知らなかった。たぶん、ゼロと書いてある。ゼロは、うまくいっている証なのか、それとも、誰も使えていない証なのか。

     ---

     落ち着かないまま、梶原は、もう一度、質問書を読み返した。

     やはり、中を知っている、と思った。外から眺めただけの人間の書き方ではない。制度の建前と、現場の実際、その隙間を正確に知っている。
     署名を見た。三隅。
     ……この名字、どこかで。

     この文書を受取った朝も、そう思った。思って忘れた。人事にいた頃、何千という名前を見た。そのうちの一つ、と流した。だが、今度は流せなかった。

     株主名簿を、開いた。三隅。百株。住所は、県内。取引先ではない。地元の個人だ。
     個人株主なら、それまでの話だった。だが、梶原の中で何かが引っかかったままだった。

     梶原は、席を立った。気づけば足は人事部へ向いていた。

     ---

     人事部の隅に、久野さんの席がある。

     梶原が新人で配属されるより、ずっと前から、久野さんはそこにいた。事務のベテランで、給与も、社会保険も、入退社の手続きも、細かいことは、たいてい久野さんに訊けば、片がついた。少し口は達者だが、根はいい人だ。この会社の人にまつわることは、たぶん誰よりも知っている。

     「久野さん、ちょっといいですか」梶原は、世間話のふりで、切り出した。「三隅、って人、うちにいませんでしたっけ。なんだか、名前に、見覚えがあって」

     久野さんは、老眼鏡越しに、少し宙を見た。
     「三隅さん……ああ」
     思い出すのに、時間は、かからなかった。
     「いたわよ。電装の。中途で入って、一年くらいだったかしらね」
     梶原の、心臓が、小さく跳ねた。
     「……辞めた、んですか」
     「辞めたわよ」久野さんは、少し声を落とした。「あの人ね、家庭の事情で辞める予定だったんだけど、そのちょっと前にうつの診断書出して来なくなったのよ、、、急に、、、」

     診断書。
     その一言で、梶原の中の、ぼんやりした像が、輪郭を持った。

     ---

     電装係。梶原は、席へ戻る道すがら、それを、頭の中で、繰り返した。

     電装といえば、あの工場に、係長が、一人いたはずだ。名前は、すぐには出てこない。腕は確かだが、少し荒い、という話をどこかで聞いた気もする。人が続かない、とも。気のせいかもしれなかった。

     梶原は、工場の総務担当に、電話を入れた。別件のついでに、それとなく訊いてみた。電装で去年あたり辞めた人がいたはずだが、何かあったのか、と。

     電話の向こうは、歯切れが、悪かった。
     「ああ……まあ、いろいろ、あったみたいで」
     いろいろ、とは。
     「いや、私も、詳しくは。現場のことなので」
     それ以上は、出てこなかった。言葉を濁している、というより、本当につかめていないのかもしれなかった。現場の空気などというものは、たぶん、電話線を伝わってこない。書類にも残らない。

     梶原は、受話器を置いた。深追いする理由は、なかった。彼の仕事は、回答案を作ることで、退職者の事情を掘り返すことではない。
     それでもモヤモヤは残った。

     ---

     その日の夕方、梶原は相馬に進捗を報告した。回答案のことのついでに、一つ付け加えた。
     「実は久野さんに訊いたんですけど、この株主、三隅さん。……元、うちの従業員でした。電装で一年ほど。うつの診断書を出して、辞めた人だそうです」

     相馬は、しばらく、黙っていた。老眼鏡を外し、目頭を、押さえた。
     「……そうか」
     「そのことも上げておく。ただ、株主として質問をしてきている以上は我々も株主として対応することには変わらない。上もそう言うと思うぞ。分かっているだろうが、回答案はあくまでその方針でな。」と、確かめるように梶原を見た。
     その通りだ。と梶原は思った。この株主は告発をするでも、私怨をぶつけるでもない。株主の立場で事業の内容について質問してきている。それに誠実に回答することが会社の対応だ、と回答案を作成することに集中しようと思った。

     ---

     席に戻ると、窓の外は、もう暗かった。

     梶原は、質問書を、もう一度、手に取った。感情がひとつもない、冷たい文面。冷たいのではなかった、と、今は思う。

     緻密に、そして、冷静に質問を組み立てることで、かえってその真意に興味を向ける。
     感情を込めれば、聞いてもらえない。この人は、たぶん、言葉にしない何かを伝えようとしている。

     「——人の一生に関わる部署だぞ。」相馬のあの口癖が、耳の奥で鳴った。
     梶原は何千という名前を見てきた。入社の名、退社の名。数々の名前が書類に載って流れていく、その裏側で一人の人間が壊れていたことに、自分は気づきもしなかった。

     、、、総会まで、あと十日である。


    第九章 定刻

     
     六月二十五日、木曜。総会の当日だった。

     朝、いつもどおりに、目が覚めた。
     少し前までは、目が覚めても起き上がる理由が見つからなかった。天井をただ眺めていた。今はそうではない。散歩に出て、株を買い、質問書を書いて、投函した。まだ体の重い日もあるが、動く。マシになっている、という実感はあった。

     それでも、その朝は、どこか、落ち着かなかった。
     落ち着かなさの正体は、二つあった気がする。
     一つは、会社に相対する、ということ。頭では戦いに行くのではないと、わかっていたのに、いざ会社そのものに向き合うと思うと、体のほうが勝手に身構えた。
     もう一つはただ単に、やったことのないことへの緊張だった。株主総会というものに行ったことがなかった。ずっと平日は働いていたのだ。どんな場所で、どんなふうに進むのか、まるで見当がつかなかった。

     ---

     数日前、二通の回答が届いていた。

     一つは、監査を担う委員たちからのものだった。質問の一つひとつに、丁寧な回答が返ってきていた。指摘は重く受け止めている、しかるべく対応している——そういう趣旨の、通り一遍ではない文面だった。いい加減にあしらわれた、とは感じなかった。経営を監督する立場の目に、この問いは、きちんと届いていた。それは、伝わってきた。

     もう一つは、事前質問書への回答だった。前半の資本や投資の話には、数字が並んでいた。後半のハラスメントや内部通報の話には、こうあった。
     「当社では、制度を整備し、適切に運用しております」。
     三隅はそれを読んで怒りは湧かなかった。ただ、やはり、、、と思った。整備しております。運用しております。——そう書くしか、ないのだろう。書面では、それが、精一杯なのだ。

     だから、やはり行こうと決めた。直接問うてみよう、と。

     ---

     暑い日だった。梅雨入りしたはずなのに、空はよく晴れていた。
     背広を着ようとしてやめた。暑すぎる。シャツ一枚でいいことにした。総会にこれでいいのだろうか。少し迷った。だが着替える気にはならなかった。
     「行ってきます」と口の中で言って、一人で家を出た。

     会場は、市の中心にあるホテルだった。案内板に社名と総会の会場である旨が、記してある。エレベーターで、上の階へ。
     受付があった。議決権行使書を差し出す。名前を確認される。入場票を渡された。勝手がわからず、心の中は戸惑っていたが、平静を装った。

     ---

     会場に入って、まず、その静けさに緊張した。

     広い部屋に、机と椅子が整然と並んでいる。前方中央に「議長」と書かれた演台と、その両横に役員が座るらしい席。演台の後ろには事務方であろう、記録係かサポート係か、既に着席している。あの質問を読んだだれかがその中にもいるのだろう。役員はまだ着席していない。裏手に控えているのだろう。
     
     三隅は遠慮がちに、やや後ろの左端に席を確保した。
     すかさず、ホテルの従業員が、静かに、でも手際よく、水とオレンジジュースを三隅の前に置く。自分には場違いなほど、丁寧で静かなおもてなしだと思いながら、喉が渇いていたので、水を一口飲んだ。
     
     机の上に今日質問するメモを置いた。見失わないよう、大きめの文字で記録した物だ。参考に送った質問書と頂いた回答書を揃え、とりあえず周りを見回した。

     出席者は思ったより少なかった。二十人ほどだろうか。そして、皆思ったよりずっとカジュアルな服装だった。ポロシャツの人。二、三人で、親しげに談笑している常連らしい人たち。手元の株主通信を静かに読んでいる人。どの人も個人株主らしい慣れた空気だった。
     自分よりずっとラフな服装の人ばかりで、少しほっとした。

     一人だけ、目についた人がいた。
     背筋を、ぴんと伸ばし、姿勢よく座る、黒いスーツの女性。まっすぐ前を向いている。個人株主なのか、それとも、どこかの関係者なのか。三隅にはわからなかった。わからないまま、なんとなく、目で追っていた。

     ---

     左の前方に、議事進行の予定表が掲げてあった。

     報告事項。決議事項。第何号議案。——三隅の目は、その中に、「質疑応答」の文字を、探した。
     どこだ。質疑応答の時間はいつなのだろう。

     感情を込めるな。三隅は自分に言い聞かせた。淡々と、はっきりと、自信をもって。—— 戦いに、来たのではない。
     身構えている自分をなだめながら、上を向いて深呼吸した。

     やがて、役員が裏手から静かに入場、着席し、定刻になった。
     場内の空気がピリッと引き締まり、議長の声が開会を告げた。


    第十章 質疑応答

     
     議長が自己紹介をした。
     「議長は、代表取締役社長、苫代周が務めます」
     壇上の中央の恰幅のいい男が軽く頭を下げた。
     まばらな拍手が起こった。三隅は一瞬戸惑った。——ここで、拍手をするのか。促されるでもなく、周りの株主たちは慣れた手つきで手を叩いている。三隅も遅れて小さくそれに倣った。
     黒いスーツの女性だけは拍手をしていなかった。背筋を伸ばしたまま、まっすぐ壇上を見ている。手は膝の上で動かない。

     苫代周。三隅は、その名を読み違えていた自分に気づいた。
     一年以上この会社に勤めていながら社長の名を「あまね」と読むのだと勝手に思い込んでいた。学生の頃、哲学の授業で聞いた話が頭の隅に残っていたせいだ。philosophia——知を愛する、という意味のその言葉を、明治初期に西周(にしあまね)が「希哲学」と訳し、のちに「哲学」になった。あの「周」は「あまね」と読む、と思い込んでいた。
     「しゅう」か。三隅は、胸のうちで小さく苦笑した。こんな時に何を考えているのだろう。

     ---

     梶原は、演台の後ろ席にいた。事務局として、進行を見守る位置だ。
     会場をそれとなく見渡す。やや後方の端のほうに、その男はいた。シャツ一枚の、五十ぐらいの男。手元に書類を揃えて置いている。
     三隅だ。
     この会場であの男が何者であるかを正確に知っているのは、たぶん、自分だけだった。事前質問の主。電装の元従業員。うつの診断書を出して辞めた人。株主名簿の百株。——それが、今、そこに、座っている。
     今日何を問うのだろうか。梶原は、なぜか自分のほうが落ち着かなかった。

     ---

     議長の進行により、事業報告、監査の報告、が行われた。
     事前に文書で読んだ内容や、株主通信で記載された内容が、ただ淡々と読まれて行った。

     「報告は以上となります。ここで質疑応答に移ります。ご質問のある方は挙手をして指名されましたら入場票番号とお名前を言ってご質問下さい。」

     議長がそう言った。会場は、静かだった。
     三隅は一旦周りを見回し、誰も手を挙げない。例年質問など出ないのだろう。
     三隅は、サッと真っ直ぐに手を挙げた。
     指名され、ホテルの係の人がマイクを持ってきた。

     三隅は短めの深呼吸をして起立し、用意したメモを読み上げた。

     「事前質問への書面回答において、ハラスメントの相談窓口を設置し、適切に対応する体制が整っている。とのご回答を頂きました。 関連して二点ご質問させて頂きます。」

     三隅は意外にも、落ち着いてゆっくりと喋る自分を感じていた。

     「一点目、ハラスメント相談窓口の周知と、ハラスメント防止に関する教育は、パートタイムを含む全従業員を対象に、年間どのくらいの頻度で実施されているでしょうか」

     「二点目、相談した従業員に不利益が生じないことを、どのように担保されているでしょうか。 以上二点お願い致します。」

     議長より、回答を確認致しますので、しばらくお待ちください。との返答があり、会場に静寂と緊張が張り詰めた。

     ---

     会場の静寂とは対照的に、梶原のパソコンを操作する手が激しく動く。
     
     株主総会で起こりうる、想定問答を作成するのは梶原の仕事だ。
     通常は配当金や内部留保のお金をどう使うかといったお金にまつわる質問を想定する。株主の最大の関心事だ。
     しかし、事前質問した株主が、元従業員でうつで退職した。だから、職場環境やハラスメント対応に関する想定問答も検討しておくように、と相馬から指示されていたのだ。

     男の問いは、梶原があの回答案に書いた、まさにその隙間を静かになぞっていた。「整備しております」「適切に運用しております」—— その言葉の、裏側の、空洞を。
     だが、糾弾はなかった。声を荒げるでも誰かを名指すでもない。ただ、事実だけを、そっと、卓の上に置いていくような問い方だった。
     冷たいのではない。と、梶原はまた思った。この人は、たぶん、会社を敵だとは思っていない。気づいてくれ、と、言っているのだ。

     梶原の手は、ほどなく止まった。パソコンごと議長の演台に置いて、画面を指差した。
     「一問目がこれで、二問目がこれです」

     パソコンを渡し、ひと息ついて、梶原は会場を見渡した。
     前方の席に、黒いスーツの女性がいた。手元の紙に、ペンを走らせている。この春、大株主に名を連ねた、生命保険会社の運用担当だ。経営陣や株主の雰囲気を自分の目で確かめに来たのだろう。株価や配当ではなく、人的資本や組織の風土——いまは、そういう時代だ。
     その彼女が顔を上げ、後方の三隅のほうを見ていた。百株の個人株主の問いを、大株主の目が聞いている。梶原は、なぜか背筋の伸びる思いがした。

     「お待たせ致しました。」 議長が回答し始める。

     丁寧な口調で議長が続ける。
     
     管理職の就任時に教育を実施し、必要に応じ追加で教育を実施していること、相談に関しては総務部が主幹事となり、内容の秘密と相談者の匿名は厳重に管理している、との回答をした。

     「他にご質問は」 議長が続けた。

     ---
     
     三隅はもう一言添えるつもりだった。

     「引き続き、注視させていただきます」と。引き続き関心を持つことで、継続的に会社には関心を持ってもらう必要があると考えたからだ。
    しかし、その一言を添えるタイミングを逸した。

     それきり、質問に立つ者はなかった。
     

     議案が一つずつ読み上げられ、そのたびに静かな拍手で承認されていく。例年どおりなのだろう。
     閉会まで、滞りは何もなかった。

     ---

     「こんなもんかな。やるだけやった。まあ、概ねOK」と心で呟き三隅は机の上に広げた資料をまとめ始めた。
     誰かが近づくのが見えたが、自分に向かっているとは考えずに、片付けを続けている。 
     
     「ご質問、ありがとうございました。」 社長の苫代周だ。

     三隅は面くらい、起立して姿勢を正した。 苫代が続けた。
     「ハラスメントの対策は、私共も重く考えております。つい先日も、私のところに報告が上がってきまして、厳正に対処したところなのです。」
     「担当していた者に、ハラスメントになるという自覚はないのです。仕事に熱心なあまり、昔ながらのやり方で進めてしまう。ハラスメントには、そういう難しさがありまして。」
     社長は、少し、間を置いた。
     「いずれにしても、しっかり対応してまいりますので」
     
     そう言って、もう一度軽く頭を下げて去っていった。
     「ご丁寧に、ありがとうございます」 三隅はそれだけ言うのが精一杯だった。

     「注視して参ります」 とか 「若手にのびのび仕事させてあげて下さい」とか、言えばよかった、と後になって思った。
     
      、、、にしても、どう言う意味だったのか。
     株主との対話の一環と取れる。20人程度の出席者で質問したのが三隅一人であれば、一言添えるというのは、大いにあり得ることだろう。
     しかし、三隅の素性を知った上で、無自覚の加害があり、対処した、という会社の言葉を一般論として三隅に伝えた可能性もなくはない。

     それを解る術はない。いずれにしても、やることはやった。社長からの「しっかり対応する」との言葉も得られた。

     上出来だろう。

     片付けを終えて顔を上げると、あの黒いスーツの女性が、席を立つところだった。
     総会のあいだ、ずっと気になっていた。何者なのか。なぜ、あの人だけ拍手をしなかったのか。閉会してもなお、その姿から目が離せなかった。
     女性は、通路をまっすぐ出口へ歩いてくる。すれ違うその一瞬、目が合った。
     かすかに、口の端が上がったように見えた。何かを知っているような、あるいは、こちらを認めているような。意味はわからない。だが、確かに、何かの表情だった。
     それきり彼女は行ってしまった。誰なのだろう。わからないまま、三隅も会場を出た。
     
     外はよく晴れていた。


    終章 知を愛する

     
     総会のあと、三隅の日々は、また、淡々と流れ始めた。

     劇的に、何かが変わったわけではなかった。相変わらず体の重い朝もあれば、昼まで布団の中にいる日もあった。回想がチクリと刺す夜もまだあった。
     ただ、以前とは違っていた。刺されても前ほど深くはめり込まなくなっていた。霧が晴れたわけではない。ただ、その中を前よりは歩けるようになっていた。それで十分だった。

     トマ研の株は、持ち続けるつもりだ。売る理由はない。ただ、来年も、その次も、静かに見ているのだろう。総会の日に、言いそびれた一言 —— 「若い従業員に伸び伸びと仕事をさせてあげて下さい。」を、口ではなく、そうやって果たしていこうと思った。それだけで、たぶん意味があると思えた。

     ---

     「報復」
     
     アザミの花言葉の前でそう思った日から、ずいぶん遠くまで来た気がした。

     結局、三隅の行動は、報復に至ったとは言えない。
     できなかったのではない。しなかったのだ。相手を痛めつける道は、現実に閉じていた。だが、たとえ閉じていなかったとしても、たぶん選ばなかった。
     標的は、いつのまにか移っていた。杜澤という個人から、あの淀んだ空気へ。そして、それを裁くことではなく気づいてもらうことへ。名前を一度も出さないまま、会社は自分の力でそこへたどり着いた筈だ、今そうでないとしても、いずれたどり着ける筈だ。社長はしっかり対応すると言った。
     勝った、という感じではなかった。ただ、届いた、と思えた。それでいい。

     ---

     振り返って、三隅は一つ可笑しなことに気づいた。
     あれほど世間が恐れていたAIのことだ。

     暴走するとか、いつか人を要らなくなるとか、政府が慌てて止めるほどの危うい力だとか。四月には、それを作った会社が「道具に罪はない、要は使う側の問題だ」と言い、国が、それを止めた。AIが怖いのか、それを使う人間が怖いのか——あのときは、深く考えなかった。
     
     三隅の手の中のAIは、一度も、暴走しなかった。むしろ、報復の方法を訊いた三隅にそれを差し出さなかった。危なかったのはAIの方ではなく、それを握って報復に使おうとした自分の心の方であったと思う。

     セキュリティの状態を健全にすべくチェックするAIは、人の悪意によって犯罪に使われる。
     スコアを求めるロボットのAIは、適切な制限を人が与えなければ、人の生命や財産を脅かしてまでスコアを上げる方法を追求する。

     知を愛する。「フィロソフィア」とは、そういう意味だという。それを、明治の西周は「希哲」——哲(知)を、希(こいねが)い、望む、と訳した。愛する、ではなく、望む。

     知を望み、どこまでも追い求めるのは、人の、純粋な欲求だろう。だが、望むあまり、倫理や法を踏み越えるわけにはいかない。人には、それを押しとどめる心がある。AIには、その心を、人が与えてやらねばならないのだった。

     ---

     そういえば、三隅はもう一つ思い出した。
     アザミの花言葉。「報復」の二文字ばかりを見ていた。だがあそこにはほかの言葉もあった筈だ。


    エピローグ

     
     今日も、土手を歩いている。

     風が少し湿っている。梅雨明けはまだ先らしい。梅雨の晴れ間の日差しは、もう夏だ。
     桜は葉の緑を深くしている。春の初めに気の早い花をつけていた木々も、今は皆、緑の中にいる。

     アザミが咲いている。紫の棘のような花。三月に見たものよりずっと背が高い。

     三隅は立ち止まり、もう一度、花言葉を訊いてみる。
     
     「厳格」「独立」「報復」。

     あの日、目に飛び込んできたのは「報復」だった。
     今日は、「独立」に、目が止まる。
     
     変わったのは、たぶん、それを見ているこちらの方だろう。

     顔を上げて歩き出す。
     よく晴れた、初夏の散歩道だ。

     

     
     
    人間関係に悩み休養中です。少しずつ日常に戻っています。感じた気持ちを言葉にしていきます。静かに過ごす時間が増えた今、言葉にすることを大切にしています。

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