
父子の中学受験と少年野球――専門学校卒の息子が東大に!?
父親が中学受験に本気で伴走した記録
<< この作品は創作大賞2026エッセイ部門への応募作です。第4章以降は有料マガジン「父子の中学受験と少年野球(第4章~終章)」にて連載します >>
はじめに
――専門卒・短大卒夫婦が、なぜ中学受験に本気で伴走したのか
もう10年以上前の話になりますが、我が家は中学受験を経験しました。
親の私が夢中になりました。中学受験というよりも、息子に夢中になったのだと思います。もちろん、良いことばかりではなく、いろんなことがありました。
しかし、少なくとも父親である私にとっては、息子と同じ目標に臨み、息子とともに戦った輝くような時間帯でした。
あの濃密な親子の時間は、もう二度と戻ってこないのかと思うと、いつまでも愛おしい記憶としてよみがえるのです。
当時、ひとりっ子で、鍵っ子だった息子は現在、二十六歳の社会人です。東京大学を卒業し、すでに自分で選んだ道を歩いています。私はこのnote(全9章)を通じて、中学受験の話を書こうと思っています。
ただ中学受験の話が主だって登場するのは第4章からです。ここでは中学受験と並行して頑張った、少年野球の話がメインになります。私がここで書きたいことは、単に合否の「結果」や受験の「ノウハウ」などではありません。
私が、父親として何を考え、何を背負い、何をしたのか。息子と過ごした日々の中で見えてきた、「男子を育てる」ということの意味について、あるいは息子や私自身の成長について、できるだけ正直に書きたいのです。
私は教育の専門家ではありません。デザインの専門学校を卒業し、三十代で起業した人間です。受験の理論も、教育学も、体系的に学んだわけではありません。
それどころか、私は、実父を幼い頃に亡くしていて、「父親とはどうあるべきか」というロールモデルすら持たないままに、父親になりました。
息子が生まれた時には、特に気にしなかったものの、大きくなるにつれ、私は「父親」というものについて、手探りながら悩む日々が続いていました。
厳しい父なのか。
優しい父なのか。
どっしり見守るべきなのか。
口うるさく関わるべきなのか。
正解は、どこにもありませんでした。
それでも私は、父親として、息子と向き合ってきました。
この note は、一人の父親が、息子とともに迷い、ときに折れ、立て直しながら歩いた三年間の記録です。
もし、あなたが今、息子との関わり方に迷っているなら。この記録が、「一人ではない」と感じるための参考になれば幸いです。
もちろん、正しい答えなどありません。ただ、当時の私たちの実態と、そのとき私が何を感じ、何を考えていたのかを、正直に書き記しました。
父親として。伴走者として。同じ道を歩く方に届くことを願って。

第0章 父親になろうと決意した日
――靴が脱げた小3の運動会
小3の運動会
息子が小学三年生の五月、運動会がありました。
祖父母らも誘って観に行きました。私は起業して間もなく、土日も多忙でしたが、この時ばかりはと顔を出そうと思ったのです。
徒競走の順番が来ました。息子がスタートラインに立っています。
ピストルが鳴り、子どもたちが走り出す。
しかし数歩も行かないうちに、息子の足元で何かが起きました。
靴が脱げたのです。
息子は靴を拾いに戻ったうえに片足で走り続け、ゴールした時にはビリでした。
観客席で笑いが起きていたかどうか、今となっては覚えていません。ただ、息子のその姿は、今でも鮮明に記憶に残っています。
担任との会話
運動会の後、保護者による片付けがありました。普段は夫婦ともに仕事で、PTAになかなか参加できていなかったこともあり、私はこの日ばかりはと率先して力仕事を手伝いました。
その片付けの最中、息子の担任の先生を見つけました。
気軽に声をかけ、学校での息子の様子を聞いてみたのです。「頑張っていますよ」くらいの、当たり障りのない返答を期待していました。
ところが、その中年の男性教員はこう言い放ったのです。
「いやあ、○○くんはねぇ、だめですねえ」
私は、聞き間違えたのかと思いました。
聞けば、思い通りにならないと喧嘩をしだす。授業中に勝手に席を立ってうろうろする、などなど。私の予想をはるかに超える内容が続きました。だんだん気が遠くなってしまい、途中から記憶がないほどです。
私はなぜか謝罪しながら、あろうことか「息子は大丈夫でしょうか」などと聞いてしまいました。まだどこかで、希望のある言葉を期待していたのだと思います。
しかし先生の返答は、「まあ、難しいでしょうねえ」でした。
私は止めを刺され、その場に呆然と立ち尽くしました。
他人任せにしない
帰り道、私はいろいろなことを考えました。
あの先生の言葉は、確かに酷いものでした。しかし私は、先生を責める気はありませんでした。先生を糾弾したところで、何も変わらない。来年になれば担任も変わる。妻に相談すれば学校に駆け込んで大事になってしまう。妻には今でもこのことは言えないままです。
それよりも、私がショックを受けた本当の理由は別のところにありました。
私は、息子のことを何も知らない。
私たち夫婦は共働きで、一人息子の彼は早くからいわゆる鍵っ子でした。学童には通わせていたものの、あまりに彼を放っておいてしまっていた。というより私は、息子という人間を知ろうとしていなかったのです。それがショックでした。
共働きを理由に、子育てを妻と、たまに手伝いに来る私の母に任せすぎていた。父親としての役割を、「仕事をして帰ってくること」だと思っていた。
その夜、私は自分に言い聞かせました。これからは他人任せにしない。息子の責任を持つのは、親だ。父親である私が、まず本気で向き合わなければならない。
息子の担任との会話は、私にとってひとつの転機になりました。
「始まり」となったあの日
その夏、家族でハワイへ行きました。海外に行ったことのなかった私の母も連れて、妻と息子と四人の旅でした。
そこで私はまた、別の現実を見ることになります。
妻が、息子に靴下を履かせてあげている。食事のたびに世話を焼き、少しでも不便があると先回りして手を焼いてしまう。私の母も同じでした。息子が何かをする前に、全部やってしまう。
その光景を見たとき、私は強く思いました。このままでは、この子は自分で何もできなくなる。
帰国してすぐ、私は妻に言いました。「これから息子は、俺に預けてくれ」
かなり唐突な宣言だったと思います。しかし私は、妙な使命感に突き動かされていました。
小3で起こった、これら一連の出来事が、やがて野球へ、そして中学受験へとつながっていきます。
今振り返れば、あの年に、私は「父親になり始めた」のだと思います。

第1章 父親たちから学んだ日々
――リトルリーグにいた父親たち
野球を選んだ理由
小3の運動会の後、私は息子をどう育てるべきかを真剣に考えました。
靴が脱げてビリになっても、律儀に靴を拾いに戻り、そして、すぐさまゴールまで懸命に走った息子のあの真剣な姿、あの表情が私の頭から離れませんでした。
この子は愚鈍かもしれない。だが、芯がある。しかし今の環境では、その芯が育たない。
妻も、私の母も、愛情ゆえに先回りして何でもやってしまう。息子が自分で考え、自分で動く前に、すべてが整えられてしまう。
どういう環境なら、男子は健全に育つのか。
私が出した答えが、野球でした。
私自身、中学まで野球をやっていました。私にとって野球は甘えが通用しない世界です。レギュラーと補欠がある残酷な世界でもあります。ただスポーツは、努力の意味が感覚としてわかりやすい、仲間と一緒に責任感も育ちます。
何より、うまくいかない現実と、正面からぶつかることができる。彼にそういう経験をさせたかったのです。
想定外の世界
その秋、息子をリトルリーグのグラウンドに連れて行きました。どうせやるなら、私が経験していない硬式野球をやらせたいと思ったのです。
しかし、いざ入ってみて、私は驚きました。
リトルリーグとは、親が本気で子どもをプロ野球選手にさせようと入団させる場所だったのです。
小学生に対して、中学生並みの厳しい指導が行われていました。怒鳴る父親たち。気合を入れる声。ミスをした子どもへの叱責。
まるで私が中学の部活でやっていた昭和型の野球そのものでした。
正直、最初は戸惑いました。時代はもう21世紀、前世紀のようなシゴキは時代遅れではないのか。
しかし同時に、どこかで引き寄せられるものも感じていました。なぜなら、親たちは本気だったからです。子ども以上に真剣な父親たち。我が子の成長のために、時間も労力も惜しまない大人たちがいた。
私はいつの間にかその世界に、少しずつ引き込まれていきました。
染まっていく自分
やがて私は、チームのコーチを務めるようになりました。
そしてある時、気づいたのです。自分もあの父親たちと、同じになっていると。
怒鳴ることなど日常茶飯事。コーチですから、他人の子ですら厳しく叱りました。礼儀を求めました。人から何かを教わる時には、まず学ぶ姿勢を学ぶ必要があると思ったからです。
今の時代にはそぐわないかもしれません。しかし当時の私は、心の奥底でそれが正しいと思っていました。
父親のロールモデルがいなかった私は、気づかないうちに、なんと目の前にいた父親たちを手本にしていたのです。
それが良かったのか悪かったのか、わかりません。正直、息子に申し訳なかったと、後悔していることなど山ほどあります。ただ、私は本気でした。そしてその本気は、息子にも確実に伝わっていたと思います。
ちなみに、このチームは後に世界選手権優勝チームになります。少しの間ではありましたが世界レベルのスポーツチームの環境に身を置けたこと、大人が本気で子どもに対峙している場所に出会えたことは、私たちにとって大きな財産でした。
朝練開始
リトルリーグに入ってしばらくすると、私たち親子だけの朝練を始めました。
朝6時に起きて、外へ出る。まだ空気の冷たい早朝に、親子で身体を動かす。
最初は眠そうな顔をしていた息子も、身体を動かし始めるとだんだん目が覚えてくる。
仕事の話も、学校の話もない。同じ時間を、同じ場所で、同じ目的をもって身体を動かす。毎朝、汗をかき、息を切らす。
何かが少しずつ変わっていきました。息子が何を考えているのか、私は少しずつわかるようになってきました。
父親になっていく日々へ
今振り返れば、私にとって、父親とは「なるもの」ではありませんでした。
子どもと一緒に過ごした時間の積み重ねの中で、少しずつ、父親に「なっていった」。そういう感覚でした。
しかし、常に手探りでしたから、間違いもたくさんありました。
グラウンドで怒鳴ってしまったこと。うまくいかなくて、イライラしてしまったこと。後悔はたくさんあるものの、息子と本気で向き合った時間でした。
そしてこの時間があったからこそ、やがて始まる中学受験の三年間をともに戦い抜くことができたのだと思います。

第2章 父と息子の再出発
――小3でビリだった息子が小6でリレーのアンカーになるまで
三年間、続けた朝練
私は朝練に本腰を入れるようになりました。
朝練の時間は30分ほどしかとれません。私は朝練のメニュ作りのために、さまざまな書籍を漁り、研究しました。
子どもの運動発達に関する翻訳書。
ゴールデンエイジやアジリティ開発に特化した書籍。
ランニング走法や野球の技術的な専門書。
可能な限り、効率的で合理的な時間にしたかったのです。
息子を起こして、朝六時に外へ出る。キャッチボール、素振り、ダッシュ、縄跳び。ラダーやクレイジーボールも取り入れました。
風邪をひいた時と雨の日以外、休んだ記憶がほとんどありません。
続けることが、いつの間にか当たり前になっていました。
毎朝同じ時間に起きて、同じ場所へ出て、身体を動かす。それだけでした。
最初の一年ほどは、正直なところ、表立った変化を感じることは少なかった。正直、「もっとわかりやすい変化がほしい」と思うこともたびたびありました。
ただ、毎朝毎朝、続けました。
なぜなら私は、そんな息子との時間が楽しかったからです。
息子は、父親が急に密に接してきて戸惑っていたかもしれません。ひょっとしたら、嬉しかったのかもしれません。私はただ、息子のまっすぐな姿勢が大好きでした。
変わってゆく息子
小5の春、リトルリーグから地域の軟式少年野球チームへ移りました。塾に通うようになり、定期テストの日程の関係で両立が難しくなったからです。同じ小学校の仲間たちとグラウンドに通う日々が始まりました。
息子は当初、リトルリーグからの移籍でかなり期待されていました。しかし、彼はこの軟式チームの中でも、特に足が速いわけでも、肩が特別強いわけでも、センスが際立っているわけでもありませんでした。
それでも朝練だけは続けていました。
そしてその積み重ねは、目に見えにくい形で、しかし確実に、息子の中に何かを作っていきました。
子どもの成長は、必ずしも直線的とは限りません。しばらく何も変わらないように見えて、ある時期から急に表立って変わり始める。息子の場合はそうでした。
小6の運動会
それが証明されたのが、小学六年生の運動会でした。
この頃には息子は、軟式少年野球チームで中心選手の一人になっていました。
六年生の花形競技は、リレーです。息子は選抜選手の一人でした。
三年前、靴が脱げてビリになった彼とは、まるで別人のようでした。
レースが始まりました。野球チームの仲間が、その親たちが、グラウンドのあちこちから声援を送っています。
息子はアンカーでした。そして一位でゴールしました。
声援の中で、私は一人、目頭が熱くなっていました。
息子への「周囲の目」
その日、私が一番嬉しかったのは、息子が一位になったことではありません。息子を見る周囲の目が変わっていたことでした。
小3の頃、息子は「運動が苦手な子」でした。少なくとも周囲からはそう見られていたと思います。しかしあの日のグラウンドには、息子なら当然勝つ、という空気がありました。チームメイトたちの信頼。親たちの期待。監督の確信。それらがすべて、息子に向けられていた。
子どもは、周囲からの見られ方で変わります。「あの子は運動が苦手だ」と思われ続ければ、本人もそう信じるようになる。逆に、「あいつはできる」と周囲が思えば、本人の中に自信が育っていく。
あの日の変化は、足が速くなったから起きたのではなく、積み重ねてきた自分を信じられるようになったから起きたのだと思います。
結果は、姿勢の後からついてくる。自信は、積み重ねた後についてくる。
息子からそう教わった三年間でした。

第3章 合格のためだけにしない中学受験
――塾では教えてくれない受験の本質
扉を開けてくれた人
さて、息子が小学三年生の秋、リトルリーグを始めた頃のことです。
チームに、開成高校出身のお父さんがいました。
受験を知らない私でも、開成という名前だけは知っていました。日本最難関と言われる、あの開成です。
ある日、彼から何気なく聞かれました。
「○○くんは、中学受験しないんですか?」
中学受験。その言葉は知っていました。しかし私には、まるで別世界の話でした。
私自身も妻も、中学受験の経験がありません。公立中学、公立高校育ちです。特に田舎で少年時代を過ごした私には、「中学受験をする子どもたち」がどんな生活をしているのか、全く知りませんでした。
しかし彼は、丁寧に教えてくれました。どんな塾があるのか。いつ頃から始めるのか。どれくらいの費用がかかるのか。どんなスケジュールで動くのか。
私はとても興味を惹かれて、その場でメモを取りました。
帰宅して調べると、教えてもらった塾のひとつが、家の近所にあることがわかりました。
妻の反対
息子が小4になった夏、その塾へ入塾しました。当初、妻は賛成してくれていました。
しかし実態がわかるにつれ、少しずつ表情が変わっていきました。宿題の量。テストの頻度。塾のある日の帰宅時間。そのうえ、土日は野球の練習でヘトヘトです。
「こんなに大変だとは思わなかった」「まだ小学生なのに、かわいそう」
妻の言葉には、愛情からくる真剣さがありました。だから私は、むやみに反論できませんでした。
しかし私には、妻とは少し違う感覚がありました。
私は高校を卒業するまで、塾に通ったことがありません。
しかし小学生のときから、授業の先には、もっと面白い世界があるはずだと、どこかで感じていました。
「なぜ?」の向こう側への好奇心。その先を知ることの喜び。ひらめいた時の感動。
私がそういう体験をしたのは、ずっと後のことでした。
だからこそ思ったのです。
もし息子が、本格的な学びの面白さを小学生のうちに体験できるのであれば、それは非常に恵まれた幸運であり、そして、とても豊かなことではないか、と。
塾とは、ただ受験の準備をする場所ではなく、学ぶことの深さに触れる場所でもあるのかも、と。私はそう期待したのです。
私が確信した理由
その頃、私はあることにも気づいていました。
私には、尊敬している仕事関係者が数人いました。彼らの知見や視点はどこから来るのか、いつも感心していました。年齢に関わらず、「すごい!」と思う人たち。
実は、彼らの多くが中学受験経験者だったのです。偶然かもしれません。しかし私には、偶然とは思えませんでした。
中学受験という経験が、何かを作るのではないか。学力だけではない、何かを。
そして同時に思っていたのです。息子には今、野球がある。朝練もやっている。この土台の上に、中学受験という経験を積み重ねられたら、息子のなかに真のリーダーシップも宿せるのではないか。
私は妻を説得し続けました。長い時間がかかりました。それでも私は、曲げませんでした。
そして私は誓いました。どんな結果になったとしても、私も妻も、そして、もちろん息子も、必ず「やってよかった」と思える中学受験にしてみせると。それが、この挑戦に対する私の負った責任でした。
中学受験とは何か
中学受験の世界に入ってみると、最初に驚いたのは「数字の多さ」でした。
偏差値。
合格実績。
開成何人、桜陰何人。
子どもも親も、気がつけば数字に囲まれ、数字の中で一喜一憂するようになる。合格は成功。不合格は失敗。偏差値が高い学校に受かる方が偉い。
しかし冷静に考えると、十二歳の試験ひとつで人間の価値が決まるはずがありません。
では、中学受験とは何なのか。
私なりに考えました。中学受験とは、人生の厳しさを少しだけ先に体験できるイベントではないかと。毎日机に向かうこと。わからない問題と正面から向き合うこと。努力してもすぐには結果が出ないこと。悔しさを味わうこと。そして、その悔しさから立ち上がるマインドを持つこと。
これらはすべて、社会に出てからも繰り返されます。中学受験は、その縮図を小学生のうちに経験させてあげることではないかと、私は思うようになりました。
自信の蓄積
私はこのように、当初から、中学受験の本質を「合格」そのものとは思っていませんでした。
もちろん、志望校合格は本気で目指します。当然です。
ただ、志望校は直前でも変更できます。ずらすことが可能な目標など目標になりえません。
そんなことよりも、絶対に避けなければならないことがあります。それは仮に息子が「不合格」だったときに、それを「失敗」だと認識してしまうことです。そうなれば、彼はこの先、また難題に挑戦できるでしょうか。努力を馬鹿にする人にならないでしょうか。これこそが大失敗です。親の責任です。
合格を目指して費やした努力。その過程で得た知識や学力。そして何より、「自分は努力してきた」という実感。そうした経験を親子で肯定していくことで、子どもの中に少しずつ積み上がっていく「自信」の獲得こそが、中学受験の目的なのだと思います。
これは野球でも同じでした。小3でビリだった息子が、小6でリレーのアンカーになった。あの変化は、足が速くなったから起きたのではありません。積み重ねてきた自分を、変化した自分を、信じられるようになったから起きたのだと思います。
中学受験も、同じだと思いました。
家訓「文武一道」
ところで、なぜ、私がこのように息子との時間を作れるようになったのか。私は家族の経済的な支柱です。相当な覚悟で思い切った私の行動については、第4章以降に後述することにします。
仕事の仕方を考え直し、息子の野球と塾に夢中になっていくなかで、私は自然と私の支えとなる方針や指針のようなものを欲っしていました。
そもそも私は父親として、いったい息子にどういう男になってほしいのか。
「強くて優しい男子」になってほしいという理想は、すぐに思い浮かびました。ただ、それではあまりに漠然としすぎていて、具体的にどうすればそうなるのか、そもそもどう強くて、どう優しいのか、掘り下げる必要がありました。
私も男子として長年生きてきました。世間から受けるさまざまな期待がどのようなものかを理解していました。そして、今まさに息子が目の前にいます。
息子への祈りに似た期待、この子を男にしたい。そのために私がいる。そういう強い思いがありました。しかし、私自身が途中で迷わないよう、例え間違っても立ち返ることのできる、そんな「道しるべ」を強く欲していました。
そんなとき、ひとつの言葉が湧いてきました。
文武一道。
よく聞く「文武両道」とは少し違います。私のなかにふと生まれてきた造語です。
勉強とスポーツを別々として考えるのではなく、同じ道の上にあるものとして捉える考え方です。
朝練やグラウンドで培った「やり続ける感覚」が、机の前でも生きていきているように感じていたのです。
野球で身につけたもの——続ける力、諦めない力、自分を律する力、負けを受け入れて次に向かう力。それらはそのまま、勉強にも通じるものでした。
算数の計算練習は、野球でいう毎日の素振りと一緒です。基礎練習と競技が体系的に繋がっているように、一見つまらなくみえる練習にも意味があるということを、息子はすでに感覚的に理解できていたのです。
私は、この「文武一道」を堂々と我が家に掲げたわけではありません。
それどころか、いままで誰にも話したことは無かったように思います。
でもいつか、もし孫ができたら、息子にこれを「家訓」だとして、話してみたいと思っています。
親に必要な「覚悟」
親がよかれと思ってのことではあるものの、正直、息子はわけがわからないまま中学受験に足を踏み入れています。親自身がそうさせている自覚が必要です。だからこそ、中学受験を「合格」のためだけにしない、本人にもやってよかった経験にする責任があります。
親が結果ばかり見ていれば、子どもも結果ばかり見るようになります。
親が成長を見ていれば、子どもも成長を見るようになります。
子どもは、親の言葉よりも親の姿勢を見ています。
中学受験では、親の考え方やその覚悟が試されます。
自分はどんな価値観を持った人間なのか、親自身が問われることになるのです。
父親になるという事は、子供を通じて自分自身の至らなさを露わにすることでした。そして、その無残な姿を認めたうえで、子供の成長と、自分自身の成長を約束することでした。
私が妻の大反対を受けながらも、どうしても続けたかったのは、私が「父親」になりたかっただけかもしれません。父を知らなかったからこそ、父親に憧れていたのかもしれない。私はそのために覚悟と責任を負ったのです。
そして今、妻は言ってくれます。「あなたは正しかった」と。
その言葉は私にとって、後のどんな合格通知よりも嬉しいものでした。
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【続きについて】
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
第3章まででは、なぜ中学受験をしようと決めたのか、その動機と覚悟について書きました。
第4章以降では、実際の伴走の日々が始まります。
睡眠・朝練・転塾。父親が変えた家庭の仕組み。ワークライフバランスの考え方。勉強で息子にしたサポート。学校の選び方。小6秋まで野球を続けた理由。そして2月1日の不合格と、2月2日の合格。息子が進学先に選んだ学校。
息子が東大を卒業して二十六歳になった今、あの日々を振り返り、私たちが本当に学んだことを全9章立てでお話したいと思います。
続きは下記、有料マガジンにて掲載します。