
来年のこと
浪人してから、朝が遅くなった。
目覚ましは七時に鳴る。けれど布団から出るのは十時過ぎだった。冬の光は弱く、カーテンの隙間から入ってくる白い光だけが部屋をぼんやり照らしている。机の上には開きっぱなしの参考書。赤シート。飲みかけのエナジードリンク。昨日とほとんど同じ景色だった。
スマホを見る。
高校の時に仲が良かった友達がインスタに写真を上げている。大学のサークル。居酒屋。スーツ姿。知らない女。みんな少しずつ、「先」へ進んでいた。
俺だけが、去年の教室に取り残されている。
本当は、大学へ行く理由なんて、ちゃんと無かった。将来やりたいことも、なりたい職業もない。ただ、高校三年の終わりが怖かった。
制服を脱いで、卒業して、社会へ押し出されていくことが。
だから浪人した。
もう一年だけ、猶予が欲しかった。
十八歳でいるための、一年間。
洗面所へ行くと、父親が新聞を読んでいた。
コーヒーの匂い。
ストーブの熱。
テレビでは、どこかの政治家が何かを謝っている。
「起きるの遅いな」
父親が言う。
「……うん」
それ以上会話はなかった。
父親の手が見えた。
皺が多かった。
昔はもっと、硬いだけの手だった気がする。
けれど今は、乾いて、薄くて、指の節が少し変形していた。
自分も、ああなるのだろうかと思った。
嫌だった。
皺。
老眼。
白髪。
名前を忘れること。
若い店員に気を遣われること。
ニュースで見る老人たちは、みんな当たり前みたいな顔で生きている。
電車で眠り、スーパーで値引きシールを待ち、健康診断の話をしている。でも、あの人たちにも十八歳はあったはずだった。自分と同じように、眠れない夜とか、意味もなく焦る夕方とか、そういう時間が。それが何十年も経つと、ああいう顔になる。その事実が、妙に怖かった。「若い」というだけで、少し許されている気がした。
何者でもなくても。
けれど、それは期限付きだった。
大人はみんな、「歳を取るのは怖くなくなる」と言う。
でも、本当にそうだろうかと思う。
たぶん違う。
慣れただけだ。
現実を受け入れているだけだ。
予備校は午後から。
駅前の雑居ビルの五階。暖房が効きすぎていて、いつも少し眠くなる。
英語の長文を解きながら、ふと周囲を見る。みんな静かにシャーペンを動かしている。この中の何人が、十年後、自分の老いを受け入れているんだろう。あるいは諦めているんだろう。
帰り道、駅前のコンビニへ寄った。
肉まんの湯気。
レジ横のホットスナック。
制服姿の高校生たち。
楽しそうだった。その笑い声を聞きながら、
「18歳無職」
という言葉を思い浮かべる。
響きだけなら、少しかっこよかった。
社会から半分はみ出している感じ。
まだ何者でもない感じ。
でも、
「40歳無職」
になると急に笑えなくなる。
また一日が終わる。
また少し老いる。
部屋へ戻ると、窓の外はもう暗かった。
机に座る。
参考書を開く。
五分だけやって、スマホを触り、動画を見る。
気づけば三十分経っている。
努力できない。
いや、本当は違う。
時間だけが過ぎていくことが怖いのだ。
何者にもならないまま、皺だけ増えていくことが。
居間から、テレビの音がかすかに聞こえる。
一階のストーブが、ピー、と鳴って消えた。