メインコンテンツへスキップ
見出し画像

『隣人は、まだ帰ってこない。』  第一話 壁の向こう

    『隣人は、まだ帰ってこない。』
    第一話 壁の向こう

     壁は、人を隔てるためにあるのだと、長いあいだ思っていた。

     それが、誰かの存在を確かめるためのものになるとは、五十四歳になるまで考えたこともなかった。

     その部屋へ越してきたのは、十一月の終わりだった。

     駅から十五分ほど歩いた先にある、築四十年を超えた五階建ての団地だった。外壁は何度も塗り直されているらしく、ところどころ塗膜が厚く盛り上がっている。午後になると、その凹凸が西日を受け、壁全体がゆるやかに波打って見えた。

     会社まで電車で四十分。

     家賃は安い。

     風呂とトイレは別。

     それだけで十分だった。

     五十四歳の独身会社員が部屋を選ぶ理由など、年齢を重ねるごとに減っていく。

     眺望はいらない。

     駅から近くなくても構わない。

     しゃれた街である必要もない。

     静かで、雨漏りがなく、冬に寒すぎなければ、それでいい。

     いや、「それでいい」と思うようになった、というべきなのだろう。

     若い頃は違った。

     休日には人の多い街を歩き、新しい喫茶店を探し、本屋で何時間も過ごした。

     誰かと会う約束がなくても、外へ出れば何かが始まるような気がしていた。

     今は違う。

     仕事を終え、決まった時間に帰宅し、決まったスーパーで半額になった惣菜を買う。

     電子レンジが回る音を聞きながらネクタイを外し、ニュース番組をつける。

     内容は頭に入らない。

     それでも音だけは流しておく。

     部屋が、自分しかいない場所だということを忘れるために。

     その夜も、いつもと変わらなかった。

     コートを脱ぎ、台所でポットに水を入れる。

     スイッチを押す。

     赤いランプが小さく灯る。

     しばらくして。

     壁の向こうからも、

     カチッ。

     同じ音が聞こえた。

     電気ポットだろう。

     偶然だと思った。

     団地には同じ設備が多い。

     同じような生活を送っていれば、同じ時間に湯を沸かすことくらいある。

     気にも留めなかった。

     翌日も。

     その翌日も。

     夜九時十二分。

     私がポットのスイッチを押した数秒後、

     カチッ。

     壁の向こうでも同じ音がした。

     時計を見る。

     九時十二分。

     その数字だけが、不自然に記憶へ残った。

     次の日。

     私はわざと時間を変えた。

     九時四十分。

     読みかけの文庫本を閉じ、ポットのスイッチを押す。

     カチッ。

     三秒ほど遅れて、

     カチッ。

     また同じ音がした。

     思わず壁を見る。

     偶然。

     たぶん偶然。

     そう考えることにした。

     だが、一度気になってしまったものを、人は見なかったことにはできない。

     それから私は耳を澄ますようになった。

     帰宅するとテレビをつける前に壁へ意識を向ける。

     夜九時を過ぎると、本を読むふりをしながら音を待つ。

     生活音というものは不思議だ。

     聞こうとしなければ、何も聞こえない。

     聞こうと思った瞬間から、世界は音で満ちている。

     蛇口。

     電子レンジ。

     椅子を引く音。

     皿の触れ合う音。

     咳払い。

     小さなくしゃみ。

     歩く足音。

     その一つ一つが、壁一枚向こうで誰かが今日も生きている証拠だった。

     しかし、その誰かを私は一度も見たことがなかった。

     朝、出勤時間を少し早めてみた。

     玄関の前で五分待つ。

     誰も出てこない。

     休日。

     ベランダへ出てみる。

     隣の洗濯物は一枚も干されていない。

     カーテンも閉じたままだった。

     夜だけが、その部屋に命を与えていた。

     会社では考えないようにしていた。

     だが、時計を見るたび、

     あと何時間で九時になる。

     そんなことを思ってしまう。

     五十四歳にもなって、隣人の生活音を楽しみにしている。

     誰にも話せることではない。

     ある金曜日だった。

     冷え込みが急に厳しくなり、窓ガラスが白く曇っていた。

     私はコーヒーを飲みながら、何気なく壁へ目を向けた。

     もちろん壁は何も映さない。

     ただ白いクロスが貼られているだけだ。

     それでも人は、見えないものを見ようとしてしまう。

     そのときだった。

     コン。

     小さな音。

     壁を指先で軽く叩いたような音だった。

     私は顔を上げる。

     気のせいだと思った。

     しかし数秒後。

     もう一度。

     コン。

     今度ははっきり聞こえた。

     私はゆっくり立ち上がる。

     壁の前まで歩き、手のひらを当てた。

     冷たい。

     古いコンクリートの冷たさが、そのまま皮膚へ伝わる。

     向こうにも誰かが壁へ手を当てているのだろうか。

     そんな考えが頭をよぎる。

     馬鹿げている。

     ただの生活音だ。

     そう思いながらも、私は右手を握り、小さく壁を叩いた。

     コン。

     静寂。

     時計の秒針だけが進む。

     一秒。

     二秒。

     三秒。

     返事なんてあるはずがない。

     そう思った、その瞬間だった。

     コン。

     コン。

     壁の向こうから、二度。

     確かに返事が返ってきた。

     私はその場から動けなかった。

     壁は、人を隔てるためだけのものではなかった。

     その夜、私は初めて、自分からテレビを消した。

     部屋に残ったのは、壁一枚向こうにいるはずの誰かの気配だけだった。



    第二話 呼び鈴の向こう側

     
     

    和人

     
     
    和人 52歳。 放送大学で学びながら、 小説『Café Solas』を執筆中。 就職氷河期世代として、 仕事・学び直し・健康・老後について考えています。 50代のリアルな日常と、 学び直しの記録を発信しています。 小説とエッセイを中心に更新中。

    あなたへのおすすめ