
☕ Café Solas — Season 8 Episode 2「ケンタ──音が、止まった日」
その朝、店に入ったケンタは、いつもより少しだけ遅かった。
ギターケースはある。歩き方もいつも通り。
「おはよー」
声も変わらない。
ただ、右手だけが、ほんの少し遅れて動いていた。
アキラは何も言わず、コーヒーを淹れている。
タクヤは目線を上げない。
「遅かったな」
「ちょっとな」
それだけ。
カップが三つ並ぶ。
ケンタは座る前に、ほんの一瞬だけ手を見る。
すぐに視線を外す。
「なあ」
言いかけて、止まる。
「いや、いいわ」
タクヤが少しだけ顔を上げる。
「何かあったな」
「なんもねぇよ」
少しだけ早い。
ケンタは右手をテーブルの下に置いたまま、コーヒーを飲む。
「さっきさ」
ぽつりと。
「弾こうとすると、ちょいズレんだよな」
笑おうとして、やめる。
誰もすぐには返さない。
閉店前。
ケンタはギターケースを開ける。
少し迷ってから、弦に触れる。
音は鳴る。
でも、前に出ない。
少しだけ、後ろにいる。
——あの夜の音と、同じだ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ステージは小さかった。
観客も多くなかった。
それでもケンタは、最後まで弾いた。
最後のコード。押さえる。音は鳴る。
鳴るはずの音と、少し違う。
ケンタは、もう一度同じコードを押さえた。
鳴る。
違う。
もう一度。
鳴る。
違う。
そこで、止まる。
指を見た。
動いている。
でも、さっきまでと同じじゃない。
何が変わったのかは、わからない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
——同じようには、もう弾けない。
ケンタは、その場で一度だけ笑った。
「……まあ、いいか」
その言葉は、やけに軽かった。
楽屋に戻る。
ギターを持つ。
弾こうとして、やめる。
もう確かめる必要がなかった。
外に出る。
空気が軽い。
軽すぎる。
少しだけ、腹が立つ。
ギターケースを肩にかけて歩く。
さっきの音が、頭から離れない。
ほんの少しのズレ。
でも、それはもう埋まらない。
ケンタは、もう一度だけ手を見た。
何も起きていないように見える。
それが、余計に腹立たしかった。
「……まあ、いいか」
その夜、何も終わっていないように見えて、
ひとつだけ確実に終わっていた。
ケンタは弦から手を離す。
店の中は静かだ。
アキラは何も言わない。タクヤも何も書かない。
音は、戻らない。
それでも、朝は来る。