メインコンテンツへスキップ
見出し画像

☕ Café Solas — Season 9 Episode 1 「風鈴が鳴る前に」


    朝のソラス。

    窓が少しだけ開いている。

    外から吹き込む風が、
    カウンターの端に置かれた紙ナプキンを、
    ふわりと揺らした。

    まだ六月。

    夏と言うには、少しだけ早い。

    それでも、
    窓から差し込む光は、
    昨日より少しだけ白く、強くなっていた。

    店の前では、
    アキラが脚立に乗っている。

    軒先に、小さな風鈴を吊るしていた。

    透明なガラス。

    白い短冊。

    まだ、一度も鳴っていない。

    結び目を確かめるように、
    指先で紐を軽く引く。

    「……ちょっと早くない?」

    店に入ってきたケンタが笑う。

    ギターケースを肩から下ろしながら、
    風鈴を見上げる。

    「六月だぞ?
     まだ鳴らないだろ、それ」

    アキラは脚立を降りる。

    「鳴る頃には、忙しくなる」

    「準備が早いなあ」

    「いつものことだ」

    ケンタは苦笑して店に入る。

    カラン♪

    扉の音。

    そのあとを追うように、
    アイが小さな紙袋を抱えて入ってきた。

    「おはようございます」

    「おはよう」

    アキラが短く返す。

    アイは入口で足を止める。

    「あ……風鈴」

    見上げたガラスが、
    朝の光を受けて小さく輝いていた。

    「きれいですね」

    「まだ鳴かないけどな」

    ケンタが笑う。

    「だからいいんじゃないですか」

    アイはそう言って、
    少しだけ目を細めた。

    少し遅れて、
    サチがやって来る。

    「おはよう」

    「おはようございます」

    店の前で風鈴を見つけると、
    自然と笑顔になった。

    「夏が来るね」

    アキラは頷くだけだった。

    ~~~

    開店してしばらく。

    店内には、
    いつもの静かな時間が流れていた。

    コーヒーの香り。

    カップが触れ合う音。

    ページをめくる音。

    窓の外では、
    街路樹の葉が、
    少しだけ色を濃くしている。

    タクヤは窓際でノートを開いていた。

    まだ何も書いていない。

    白いページを見つめながら、
    ふと窓の外へ視線を向ける。

    風鈴は、
    微動だにしていなかった。

    「書かないのか?」

    ケンタが聞く。

    タクヤは笑う。

    「まだ、鳴ってないから」

    「何が?」

    「夏」

    ケンタは少しだけ考えてから、
    「なるほど」と笑った。

    ~~~

    昼過ぎ。

    ミユキがノートパソコンを開いている。

    仕事の合間に、
    冷たいアイスコーヒーを一口飲む。

    「今年も暑くなるかな」

    「たぶんな」

    ケンタが答える。

    「去年より暑いって、
     毎年言ってる気がする」

    サチが笑う。

    アイも小さく笑う。

    その笑い声は、
    窓から差し込む光の中へ、
    ゆっくり溶けていった。

    ~~~

    夕方。

    客足も落ち着き、
    店内は再び静かになる。

    アキラは入口のガラスを拭いていた。

    ふと見上げる。

    軒先の風鈴。

    まだ動かない。

    「……今日は鳴らなかったな」

    ケンタが外を見る。

    「まあ、そのうち鳴るだろ」

    誰も急がない。

    季節は、
    急いで来るものじゃない。

    少しずつ、
    誰にも気づかれないくらい静かに、
    形を変えていく。

    アキラは店の灯りを見渡す。

    いつもの椅子。

    いつものカウンター。

    いつもの仲間。

    何も変わっていない。

    だからこそ、
    季節だけが、
    ゆっくり前へ進んでいることがわかった。

    その時だった。

    風が吹く。

    窓辺のカーテンが、
    やさしく揺れる。

    店の前を、
    ひとすじの風が通り抜ける。

    チリン——。

    小さな音。

    ほんの一度だけ。

    誰も言葉にしない。

    けれど全員が、
    その音を聞いていた。

    アキラは少しだけ笑う。

    「……来たな」

    誰に向けた言葉でもない。

    夏は、
    いつもこんなふうに始まる。

    静かに。

    気づかれないくらい、
    やさしく。



    ☕ To Be Continued...
    Season 9 Episode 2
    「冷たい一杯、その向こう側」



     
     

    和人

     
     
    和人 52歳。 放送大学で学びながら、 小説『Café Solas』を執筆中。 就職氷河期世代として、 仕事・学び直し・健康・老後について考えています。 50代のリアルな日常と、 学び直しの記録を発信しています。 小説とエッセイを中心に更新中。

    あなたへのおすすめ