
『隣人は、まだ帰ってこない。』 第三話 返事のない夜
『隣人は、まだ帰ってこない。』
第三話 返事のない夜
翌朝、目が覚めたとき、最初に耳を澄ませている自分に気づいた。
もちろん、何も聞こえない。
朝の団地は夜とは別の建物だった。
廊下を走る子どもの足音。
どこかの部屋で鳴る掃除機。
味噌汁の匂いが換気扇から流れてくる。
夜になると輪郭だけを残していた建物が、昼間は生活というものを惜しげもなく外へこぼしていた。
隣だけが違う。
その部屋だけは、朝も昼も、まるで息を止めているようだった。
会社へ向かう途中、私は管理人室の前で立ち止まった。
ガラス戸の向こうでは、小柄な老人が新聞を読んでいる。
声をかけようと思った。
隣にはどんな人が住んでいるのですか。
それだけ聞けば済む。
だが、その一言が出なかった。
もし「空室ですよ」と言われたら。
そんな考えが、理由もなく胸をよぎった。
私は苦笑して、そのまま団地を出た。
会社では月末の資料作りに追われた。
数字を入力し、印刷し、確認し、また修正する。
三十年近く続けてきた仕事は、もう身体の一部のようになっていた。
考えなくても手が動く。
それは熟練なのか、それとも惰性なのか、自分でも区別がつかなかった。
昼休み。
社員食堂の窓際で一人、焼き魚定食を食べていると、新入社員たちの笑い声が聞こえた。
誰かがスマートフォンを見せている。
皆が笑う。
誰もこちらを見ない。
そのことに傷つく年齢は過ぎたと思っていた。
それでも、笑い声だけが遠く聞こえると、自分だけ別の時間を生きているような気がした。
帰宅したのは午後九時前だった。
部屋の電気をつける。
ネクタイを外す。
コートを椅子へ掛ける。
その一つひとつの動作が終わるたび、私は壁を見てしまう。
まだ音はしない。
私はテレビをつけずにソファへ座った。
時計の秒針だけが部屋を歩いている。
九時十二分。
カチッ。
壁の向こうでポットの音がした。
今日は向こうが先だった。
私は少しだけ笑い、自分もポットのスイッチを押す。
湯が沸くまでの数分間が、不思議と長く感じられた。
カップを手に持ったまま壁を見る。
もちろん壁は何も語らない。
だが、その向こうには誰かがいる。
それだけで部屋の広さが少し変わる気がした。
その夜、私は初めて自分から壁を叩いた。
コン。
返事はない。
早すぎたか。
そう思ってコーヒーを口へ運んだ、そのときだった。
コン。
コン。
二回。
昨日と同じ間隔で返ってきた。
私は思わず笑った。
誰にも見せることのない笑顔だった。
五十四歳になってから、自分がこんな顔をすることを忘れていた。
私は小さく、
「こんばんは」
と呟いた。
当然、返事はない。
それでも壁の向こうには、人の気配だけが静かに残っていた。
翌日から、それは習慣になった。
帰宅すると壁を一度叩く。
少し待つ。
コン、コン。
二度返ってくる。
ただ、それだけ。
名前も知らない。
年齢も知らない。
男か女かもわからない。
それなのに、その二度の音だけで、一日の終わりが少しだけ穏やかになる。
人は案外、それだけで生きられるのかもしれない。
ある雨の夜。
窓ガラスを細かな雨粒が流れ落ちていた。
私はいつものように壁を叩いた。
しかし、その日は返事がなかった。
部屋の中から、何の音もしない。
私は時計を見た。
十分。
二十分。
三十分。
ポットの音も、椅子を引く音も聞こえない。
静かすぎた。
静かであることが、これほど落ち着かないものだとは思わなかった。
私は立ち上がり、壁へ近づいた。
冷たいクロスへ耳を当てる。
何も聞こえない。
何も。
本当に何も。
第四話 見えない暮らし
壁の向こうにいるはずの誰か。その生活を想像するほど、現実との小さなズレが積み重なっていく。