
☕ Café Solas スピンオフ「欠けたピースの記憶(メモワール)」 第7話:交差点の響き 前編(共鳴)
閉店後のCafé Solas。
外は雨だった。
春の雨にしては冷たく、
窓ガラスを細かく濡らしている。
最後の客を見送ってから、
店内には三人だけが残っていた。
アキラはカウンターを拭き、
ケンタは椅子を戻している。
タクヤはレジを締め終え、
ようやく顔を上げた。
「……終わった?」
「だいたいな」
アキラが答える。
ケンタが伸びをする。
「腹減った」
「さっき食べただろ」
「掃除すると腹減るんだよ」
「お前、ほとんど椅子運んだだけだろ」
「それが重いんだよ」
「一脚だろ」
「一脚でも椅子は椅子だ」
「意味わからん」
タクヤが笑う。
高校時代から、
三人のこういうやり取りは変わらない。
年齢だけが重なって、
言っていることは昔とたいして変わっていない。
ケンタが倉庫へ向かう。
「じゃあ、最後にこれ戻してくるわ」
しばらくして。
「……あれ?」
奥から声がした。
「アキラ」
「何だ?」
「これ、何?」
アキラとタクヤが顔を見合わせる。
「また何か見つけたのか?」
「いや、俺が見つけたんじゃなくて、
そこにあった」
ケンタが倉庫から顔を出す。
両手に、
古い木箱を抱えていた。
表面には薄く埃が積もっている。
金具は少し錆びていた。
「こんなのあったっけ?」
タクヤが近づく。
「俺は知らない」
アキラも箱を見る。
「俺も覚えてないな」
「じゃあ開けよう」
「なんでそうなる」
「気になるじゃん」
「お前はいつもそれだな」
「高校の頃からな」
「自慢するな」
ケンタが笑いながら、
蓋に手をかける。
ギィ……。
古い金具が、
小さく鳴った。
箱の中には、
一台の古い蓄音機が入っていた。
「……うわ」
ケンタが思わず声を漏らす。
「本物?」
タクヤが覗き込む。
「たぶん」
「動くのか?」
「知らない」
アキラが答える。
「レコードもある」
箱の底には、
何枚かの古いレコードが重ねられていた。
紙のラベルは擦れている。
曲名も、
名前も、
ほとんど読めない。
ケンタが一枚を取り出す。
「これ、相当古いよな」
「店ができる前からあったのかもしれない」
アキラが言う。
「この場所に?」
「たぶんな」
タクヤが蓄音機を調べる。
「壊れてるかもしれない」
「やめとく?」
ケンタが珍しく聞いた。
タクヤが顔を見る。
「お前が言うと意外だな」
「最近、変なこと多いからな」
その言葉に、
アキラが少しだけ黙る。
三人の間に、
ほんの短い沈黙が落ちる。
それからアキラが言った。
「……無理はしない」
「じゃあ、やめる?」
「いや」
アキラは蓄音機を見る。
「音が出るなら、
一度だけ聞いてみよう」
タクヤが頷く。
針を落とす。
ザッ――。
最初に聞こえたのは、
ひどく大きなノイズだった。
ケンタが顔をしかめる。
「うわ、びっくりした」
その直後。
ピアノの音が、
ゆっくり流れ始めた。
古い録音だった。
音は少し揺れている。
それでも、
旋律は不思議なくらい穏やかだった。
誰も喋らない。
雨音と、
古いピアノ。
その二つだけが、
店の中に重なっていく。
そして。
アキラが、
ふと窓の外を見る。
……誰かいる。
窓際の席。
男が一人、
座っている。
白いシャツ。
少し前かがみになって、
テーブルの上の何かを見ている。
アキラは瞬きをする。
消えた。
「……今」
ケンタの声。
アキラが振り向く。
ケンタも窓際を見ている。
「いたよな?」
タクヤは答えなかった。
ただ、
蓄音機を見ている。
「……もう一回」
「何を?」
「今の音」
タクヤが針の近くを見る。
「同じところを?」
「うん」
タクヤが慎重に針を戻す。
もう一度。
ザッ――。
ピアノ。
今度は、
何も起こらない。
ケンタが窓際を見る。
誰もいない。
「……気のせいか?」
「俺も見た」
アキラが言う。
ケンタが少し驚く。
「アキラも?」
「ああ」
タクヤが静かに続ける。
「俺は見てない」
「じゃあ、なんで止めないんだ?」
「音が気になる」
「音?」
タクヤは頷く。
「さっきから、
同じところだけノイズが入ってる」
三人が耳を澄ます。
ザッ……。
ピアノ。
そして。
ザッ……。
また同じ場所。
タクヤが眉を寄せる。
「偶然じゃないな」
「何が?」
「音が途切れる位置が同じ」
アキラがレコードを見る。
そのときだった。
ピアノの旋律の奥に、
別の音が混じった。
カップを置く音。
椅子を引く音。
誰かの笑い声。
そして。
雨の音。
ケンタが息を止める。
「……この店?」
アキラは答えない。
聞こえてくる音は、
今のSolasではなかった。
もっと古い。
もっと雑然としている。
煙草の匂いまで、
記憶の中から立ち上がってくるようだった。
誰かが笑っている。
誰かが注文している。
誰かがピアノに合わせて、
小さく口笛を吹いている。
そして。
男の声。
『……また来るよ』
三人とも動かなかった。
雨音だけが残る。
ケンタが小さく言う。
「……今の、聞いた?」
タクヤが頷く。
「聞いた」
アキラは、
窓際を見た。
さっき男が座っていた場所。
そこには、
何もない。
ただ、
椅子が一脚。
いつもの椅子だった。
けれど。
その椅子だけが、
ほんの少し濡れている。
まるで――
ついさっきまで、
誰かが座っていたように。
ケンタが近づこうとする。
「待て」
アキラが止める。
「触るな」
「でも――」
「まだ何もわからない」
タクヤも頷いた。
「今までとは違う」
「何が?」
「人の記憶じゃない」
タクヤは店内を見回す。
「ここに残ってる」
アキラが静かに言う。
「……場所の記憶か」
三人の間に、
また沈黙が落ちる。
そのとき。
カラン――。
突然、
ドアベルが鳴った。
三人が振り向く。
ドアの前に、
老人が立っていた。
傘を閉じ、
濡れたコートを軽く払っている。
老人は三人を見た。
そして。
蓄音機に目を向ける。
その表情が、
わずかに変わった。
「……まだあったのか」
ケンタが聞く。
「これ、知ってるんですか?」
老人はすぐには答えなかった。
ゆっくりと店の中へ入る。
蓄音機の前まで歩き、
古い木箱の縁に指を置く。
「知ってるというより……」
老人は、
少しだけ懐かしそうに笑った。
「昔、
ここで何度も聞いたんだよ」
アキラの目が変わる。
「ここで?」
老人は頷いた。
そして窓際の席を見る。
さっき、
誰かが座っていた場所。
「……あの席だ」
三人が振り返る。
老人は、
しばらくその席を見つめていた。
「いつも、あいつが座ってた」
ケンタが尋ねる。
「……誰ですか?」
老人は答えない。
ただ、
窓の外の雨を見た。
そして、
小さく呟いた。
「帰ってこなかったんだ」
ピアノの針が、
まだ静かに回っている。
ザッ……。
老人が蓄音機を見る。
その音に、
ほんの少しだけ顔を曇らせる。
「だから、
あの曲を聞くと――」
そこで言葉が止まった。
老人は、
何かを思い出したように目を伏せる。
「……いや」
小さく首を振る。
「続きは、
また今度でいい」
そう言って、
老人は窓際の席に近づいた。
椅子の背に、
そっと手を置く。
まるで、
そこに誰かがいるかのように。
三人は何も言えなかった。
雨は、
まだ降っている。
古いピアノだけが、
店の奥で静かに鳴っていた。
そして。
老人が帰ったあとも、
誰も蓄音機を止めようとはしなかった。
――「また来るよ」
あの声が、
まだ耳の奥に残っていた。
それが、
誰の声だったのか。
老人が待ち続けている
「あいつ」とは誰なのか。
そして――
なぜ、
今になってこの音が
Café Solasに戻ってきたのか。
三人には、
まだわからなかった。
ただ一つだけ。
この店には、
自分たちが知らない時間がある。
そのことだけは、
もう疑いようがなかった。
雨の夜。
古いレコードは、
静かに回り続けていた。