
🎹 Episode 7:アイ、音楽やめるってよ(音が帰ってくる場所)
夏の午後。
冷たいグラスについた水滴が、ゆっくりと木のカウンターを濡らしていた。
店内には誰も話していない時間が流れている。
コーヒーを挽く音。
遠くで鳴く蝉。
窓から差し込む光。
その静けさを壊さないように、ドアベルが小さく鳴った。
アイだった。
「こんにちは。」
いつもの笑顔はなかった。
アキラは何も聞かず、ブラックコーヒーを淹れ始める。
アイも何も言わない。
しばらくは、コーヒーの香りだけが二人の間を満たしていた。
やがてアイが小さくつぶやく。
「……音楽、やめようかな。」
カップを置く音だけが響く。
誰もすぐには返事をしなかった。
その沈黙が、かえって優しかった。
「この前のライブね。」
アイはゆっくり話し始める。
「全然届いてる気がしなかった。」
「拍手も少なくて。」
「私の音なんて、もう必要ないのかなって。」
アキラは静かに頷く。
励まさない。
否定もしない。
ただ、話を聞いていた。
ケンタは厨房からプリンを運んでくる。
「甘いもの、食べる?」
アイは少し笑った。
「そういうところだよ。」
「何が?」
「みんな、無理に元気づけない。」
ケンタは肩をすくめる。
「元気なんて、人からもらうもんじゃないし。」
そのときだった。
タクヤが店の奥にある電子ピアノの布を外す。
「弾く?」
アイは首を横に振る。
「今日は無理。」
「そっか。」
タクヤはそれ以上何も言わず、また布を掛けようとした。
「……待って。」
その一言で手が止まる。
アイはゆっくり椅子へ座った。
最初の一音は、小さかった。
間違えた。
少し笑った。
弾き直した。
音が店の中へ溶けていく。
誰も拍手をしない。
誰も感想を言わない。
コーヒーの香りだけが静かに寄り添っていた。
曲が終わる。
長い沈黙。
アイは鍵盤に触れたまま、小さく笑った。
「……やっぱり好きなんだ。」
その言葉だけで十分だった。
閉店後。
アイが帰ったあとも、ピアノの蓋は閉じられなかった。
アキラはカップを磨きながら言う。
「今日は店が、少しだけ歌ってたな。」
誰も返事をしない。
でも、その沈黙は、さっきまでの音楽の続きを聴いているようだった。
――今日の「記憶のレシピ」。
『音楽は、拍手の数ではなく、帰ってきたくなる場所で育っていく。』
🕊️ 次回予告
Episode 8『夏のアイスコーヒーと6人の沈黙』
——午後の光とともに、隠された気持ちが顔を出す。