
☕ Café Solas — Season 8 Episode 6 「扉の向こう側」
雨は、降っていなかった。
湿った夜気だけが、路地に残っている。
店の灯りは、いつも通りだった。
カラン、と小さく音が鳴る。
男が入ってくる。
見慣れない顔。
少しだけ背中が丸い。
けれど、疲れ切っているわけでもない。
どこか、落ち着いている。
アキラは顔を上げる。
「いらっしゃい」
男は軽く会釈をして、カウンターに座った。
「……初めてです」
「そうだね」
それだけで会話は止まる。
アキラはコーヒーを淹れ始める。
豆を挽く音。
湯の落ちる音。
店の中に、静かな時間が流れる。
ケンタがグラスを拭きながら、ちらっと男を見る。
「この辺、よく来るんですか?」
男は少し考えてから、首を横に振った。
「いや……通るだけで」
「へえ」
ケンタはそれ以上踏み込まない。
タクヤは雑誌をめくる手を止めずに、耳だけを向けている。
サチはカップを並べながら、小さく微笑んだ。
コーヒーが置かれる。
男はそれを見つめて、少しだけ息を吐く。
「……いい匂いだ」
一口飲む。
ほんのわずかに、肩の力が抜ける。
「……うまい」
その声は、小さかった。
「それはよかった」
アキラは短く返す。
また、静けさ。
男はカップを両手で持ったまま、少しだけ遠くを見る。
「……この店、前から知ってたんです」
誰に向けたでもない言葉。
アキラは何も言わない。
「何度か前を通ってて」
少し笑う。
「でも、入れなかった」
ケンタが目だけでアキラを見る。
アキラは変わらない。
男は続ける。
「理由なんて、たいしたことじゃないんですけどね」
少し間が空く。
「……余裕がなかったのかもしれない」
タクヤがページをめくる音だけが、静かに響く。
ミユキは手を止めずに聞いている。
「十年前だったら」
男はカップを見たまま言う。
「たぶん、この店には入れなかったと思う」
誰も、すぐには言葉を返さない。
アキラがコーヒーを一口飲む。
「そう」
それだけ。
男はそれ以上話さない。
店の空気は、何も変わらない。
やがて、カップが空になる。
男は静かに立ち上がる。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
サチが言う。
少しだけ、声が柔らかい。
男は一瞬だけ驚いた顔をして、
それから、小さく頷いた。
「……また来ていいですか」
「どうぞ」
アキラが答える。
短い言葉。
それで十分だった。
男は扉に手をかける。
少しだけ、止まる。
振り返らない。
そのまま、外に出る。
カラン、と音が鳴る。
夜の路地。
空気は変わらない。
店の中。
ケンタがぼそっと言う。
「なんか、いい顔してたな」
タクヤは雑誌を閉じる。
「……うん」
サチは、空になったカップを下げる。
アキラは、カウンターの内側で
次のコーヒーの準備をしている。
手は止まらない。
何も変わらない。
カラン、と音が鳴る。
誰もいない扉が、
少しだけ揺れていた。