
そうだけど、そうじゃない
鉄板の蓋のネジが緩んでいたから、外そうとした。そしたら水が垂れてきた。母と目が合ったから、私は言った。
「水垂れてきたから、それ取ってくれる?」
母は、水の入ったコップを差し出してきた。違う違う、と言うと、今度はアルコール綿に手を伸ばした。タオル取って、とはっきり言い直して、母はようやく理解した。
その前にも、似たようなズレがあった。母との会話は、いつもどこかで噛み合わない。姉の翻訳がなければ、母に伝わらないことがしょっちゅうある。私がそのことをこぼしたら、姉が言った。
「あなたたちは、主語がないから分からないんだよ」
なるほど、と思った。私は、文脈を伝えれば、相手が何を求めているかはなんとなく分かる。手指をこすり合わせてキョロキョロしている人を見れば、手を拭きたいのかなと思って、濡れたタオルを渡す。言葉にされていない意図を、状況全体から拾い上げる。でも母は違う。「水が垂れてきた」と言われたら、「水」という単語だけを認識する。だから、コップの水を持ってきた。
数日後、テレビのニュースで、円高を利用して新婚旅行に行こうとしているカップルが紹介されていた。二人はペアルックを着ていた。私は言った。
「あ、ペアルックだ。懐かしいね」
母は言った。「新婚旅行だから」
そうじゃなくて、ペアルック懐かしいねと、もう一度言った。母は、また同じように答えた。「新婚旅行だから」
母の答えは、間違ってはいない。確かに、新婚旅行の映像だった。でも、私が言いたかったのは、そこじゃなかった。違う違う、と言い直そうとして、言葉を紡いでいるうちに、母はもう興味を失って、聞く耳を持たなくなっていた。二度言っても、返ってくる言葉は変わらなかった。
同じ円高のニュースの中で、唐揚げ屋さんのインタビューもあった。これまではブラジル産の鶏肉を仕入れていたけれど、国産に変えたという話だった。私は言った。
「これまでは外国産の方が安かったから仕入れていたけど、今は円安だから国産にしたんだね」
母は同意せず、こう言った。「国産のほうが美味しいからね」
そうだけど、円安の話をしているんだよと言い直しても、母はまた同じように言った。「国産の方が美味しいから」
これも、間違ってはいない。でも、私が話したかったのは、味のことではなかった。
ニュースの中には、いくつもの情報があったはずだ。円高、新婚旅行、ペアルック。私は、その中の「ペアルック」という一点に注目して、懐かしさを共有したかった。でも母は、紹介文の中から「新婚旅行」という単語だけを拾い上げて、そこに固定されてしまったようだった。唐揚げ屋さんの話も同じだった。私が見ていたのは「円安だから仕入れ先を変えた」という経済の話だったのに、母が見ていたのは「国産は美味しい」という、味の話だった。何度言い直しても、そこから動かなかった。
水と、タオル。ペアルックと、新婚旅行。国産と、味。
似たようなことが、繰り返し起きる。私は、状況や文脈をひとまとめにして受け取って、そこから相手の意図や、話の焦点を汲み取ろうとする。母は、耳に入った、あるいは目に入った一つの単語を、そのまま言葉通りに受け取る。文脈という土台の上で会話をしている私と、単語という点で会話をしている母。同じ景色を見ていても、拾っているものが違う。
これは、母が私の話を聞いていないとか、私を軽んじているとか、そういう話ではないのかもしれない。ただ、情報の処理の仕方そのものが、根本的に型が違うのだと思う。私が「主語がない」と言われて初めて気づいたように、私はずっと、母も自分と同じように、文脈から意図を汲み取れるはずだと思い込んでいたのかもしれない。
タオルを取ってほしいときは、タオルと言えばいい。ペアルックの話がしたいときは、たぶん、ニュースの紹介文ごと共有しようとするのではなく、「昔、あんな服が流行ってたよね」と、私自身の言葉として始めた方が、母には届いたのかもしれない。
分かり合うということは、相手が自分と同じように受け取ってくれることではなく、相手がどんなふうに受け取るのかを知って、その型に合わせて渡し方を変えることなのかもしれない。水がほしいのか、タオルがほしいのか。それを、母にも分かる形で、渡していくしかないのだと思う。