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Photo byasd4002

接点 -スプリング編-

    はじめに。
    私の仕事は秘書だ。といっても派遣社員だけど。
    「ゆったりめの業務です」と派遣会社の営業シゲタから紹介されたこの仕事は、ゆったりそのものだった。ほぼ座っているだけの毎日が過ぎていく。

    一日が終わる頃に勤務時間の7時間55分を振り返ると、何の記憶もなくて不安になる。生きているのかな?って確かめたくなる。だから、拘束時間中に起こったことを一部でもいいから書くことにした。
    これは某年春のささやかな記録だ。

    ───

    3月20日 金曜日 天気は曇り

    裏紙に細かい線を書くことに1分もしないうちに飽きて、ブラインドが降りた窓を9時半過ぎから眺めている。視界のほとんどがオフホワイト。
    この変わらない景色を3週間も私は眺めている。

    最近はブラインドの向こう側を楽しめるようになった。窓に降りているブラインドは完全には閉じてはいない。わずかな隙間から外の光が十分に入るし、車の行き来もわかる。注意深く見れば雨の線も見えることに、2週間前の火曜日に気がついた。

    ブラインド越しに外の景色を愛でていると、唐突に話しかけられたせいで、お尻が少し浮いた。

    「坪生さん、書類に漏れはなかった?」

    来月アメリカ出張に出かけるこの声の主は、代表取締役副社長。くたびれたスーツを着ている。副社長は私の直属のボスではない。部署が違うとかではなくて、会社が違う。それでも私は副社長やその組織の雑務を依頼される。

    有り余る時間。
    副社長のスケジュールを見ると毎日びっしりと予定が入っていて、いつも席にいない。それが迷惑。

    「オーケー。じゃあ、23日に会議で決定したら発券しましょう。ヨロシク」

    副社長は、テンポよく来週月曜日の予定を私に伝え、リズミカルに次の予定へと向かって行った。

    「ヨロシク」ってか。とつぶやいて、卓上カレンダーの23日に「発券」と書いて、久しぶりに人と会話した余韻に浸っていた。
    この余韻で30分は過ごせる。

    パソコンの時計は11時27分を表示している。
    あと33分でお昼休憩だ。さて、その前に。
    オフィス用の小さなバッグを手に取って、私はお手洗いへと席を立った。

    ───

    3月23日 月曜日 天気は晴れ

    おはようございます。

    業務開始のチャイムが鳴ってナツメロのようなイントロが流れた。
    今日は朝礼で社歌を歌う日。みんなの歌声は菊池桃子のようなウィスパーボイスで、儚くて宙に消えてしまいそう。
    か弱い歌声を聞いていると、どうしても口元が歪んでニヤけてしまう。大勢の大人によるウィスパーボイスの合唱ってのは、聞くと本当に面白いのだ。

    朝礼後、フロアは一転、賑やかになった。

    「残念なお知らせが、」と耳元でささやかれた。声が近すぎる。私の右側が毛羽だった。副社長だ。アメリカ行きの予定が一週間うしろ倒しになったと言う。飛行機の変更をしなくてはいけない。今日はもしかすると退屈じゃないかもしれない。

    日程を聞き、旅行会社へ電話をかけてアレンジをお願いした。15分もしないうちに旅程の見積もりが届き、あっけなくアレンジは終わってしまった。今日中に発券依頼をすれば最安値でアメリカまで行ける。ただし、発券後のフライト変更はできない。
    見積もり内容を副社長へ転送し、一息ついた。副社長はきっと発券のゴーサインを出すだろう。これほどの安値は今まで交渉しても出てこなかったし、とにかく安くアメリカへ行きたいのだ。
    この案件はこれでFIX。忙しくなる予感は外れたかな。

    ブラインドへ目を向けると、ちょうど黄色いトラックが狭い脇道をバックで入っていくところだった。窓の外には目黒川。桜の開花は時間の問題。枝先の芽が今にもはち切れそうに膨まんでいる。
    もうすぐ春。暦の上ではとっくに春。

    私は外の景色を見たり、さっきのメールを開いたり閉じたりして過ごした。気づけば11時2分になっていた。

    取り立てて12時まですることもない。手詰まり。

    どのようにしてそうなったのかは分からない。でも、気づけば11時47分。本日、二度目のお手洗いへ席を立った。

    ───

    3月24日 火曜日 天気は晴れ

    「今日髪型、なんかバサっとしてるな。時間なかった?」とボスが聞く。その顔はにこやかに笑っていて、腹立つ。
    ボスのこと、「良くも悪くも裏表のない人」って前任者は言っていた。悪い方しか私には分からない。

    ボスは今日ご機嫌のようで、Original Loveの「接吻」を歌い始めた。「あ〜まくぅ〜、あ〜まくぅ〜」詳しくはないけど、歌詞が違うはずだ。
    ボスはよく歌う。私にはよくわからない歌を歌う。そしてワンフレーズしか歌わない。

    お昼は営業アシスタントのアシスタントをしている短期派遣のタモさんと食べた。タモさんは推定年齢48歳の小柄な女性で内容のない話を延々と話す。45分も話し続ける体力って、案外すごいことかもしれない。一体どんな人なんだろうかと思ったりするけど、思うだけだ。
    今日のタモさんの話も9割聞いていなかった。タモさんとのお昼はいつもこんな感じ。

    歯を磨いて、午後の退屈へと向かった。

    ───

    3月25日 水曜日 天気は晴れ

    今日は特別な日だ。初めてブラインドが全部上がった。
    わずかな隙間から覗いていた景色の全てが露わになり、外の希望に満ちた光が私の頬を熱くした。そして私は、この会社を辞めようと思った。

    前任者からボスの悪口をたくさん聞いた。デリカシーがないので仕方ないし、私もおおかた同意見。でもそんな気持ちは適当に隠して過ごしている。
    ボスは朝から若い社員を捕まえて「全部自分で作ったんだぞ、英語で」と自慢の資料を見せている。「すごいっすね」って言ってもらってご満悦。
    浅黒い肌が喜びで光ってる。黒光り。

    一方、私は副社長の飛行機手配で、相変わらず手間取っていた。
    副社長の第一希望は一見なんてことないシンプルなものだ。最安値でアメリカ行って会議に参加して帰国する。ややこしくなるのは彼の性格のせいだろうか。そうに違いない。
    コストが高いとゴネるし、航空会社はどこでもいいと言ったのに、でもデルタは嫌だと後から言うし、日付変更出来ないなんてあり得ない!と怒るし、イヤイヤ期なのかな?

    そんなこんなを、ずーっと私は対応している。旅行会社の担当者もきっと面倒くさいと思ってるはず。話すスピードが2倍速になった。
    何をどう書いたらいいだろう。副社長とのやりとりは長すぎて面倒くさい。

    だから、今日はここまで。

    ───

    3月26日 木曜日 天気は晴れ

    西陽がブラインドの隙間から差し込んで私を照らした。スポットライトのよう。仕事と人生とをひたすらに考えた午後の時間。
    受信ボックスと送信ボックスとを交互にクリックしながら、今の自分にため息をついた。夜空ノムコウな気分。

    退屈とは恐ろしい。有り余る時間のくせに、決して自由じゃない。ネットを見てたら「人生は断られることの連続だ」という記事を見つけた。
    交際を断られ、大学受験、就職先、取引先、パートナー、様々な相手に断られる。でも、そこで人生は終わらない。断られたことを謙虚に受け止め、反省するべきことを反省し、次に備えるのだ。チャンスは尽きることはない。前向きに進むのみだ、と。

    なんだか暑苦しいな。

    仕事中にネット見て落書きしてぼーっとしている私が、人生に悩んで過ごしているなんて、誰も知らない。みんな仕事してるから。私はいつも、サークルの外にいる。それが、私。

    こうして日記を書いて、時々鳴る電話に出て、17時45分になるのをひたすら待ちわびている。
    裏紙に螺旋を描いているとリンゴに見えてきたので、ヘタを描き加えた。pommeとフランス語を書き添えて、もう一個リンゴを描きはじめたとき、デスクの横に誰か来た。

    「質問があるんですが」とその人は言う。今ですか。リンゴ描いてる途中で、ちょっと恥ずかしいんですけど。というのを隠して、堂々と「なんでしょう」と返事をした。

    副社長の5月の飛行機手配はしている?という確認だった。私が手配中なのは4月のものだけだと答えた。5月もあるのかよ、面倒くさいな。仕事がないのもあるのも嫌。駄々っ子だ。

    有意義な時間を過ごしたい。螺旋リンゴを描いてやり過ごすんじゃなくて。
    思ったことはやらないと。やらなければ思わなかったことと同じになってしまう。それはゼロだ。偽物のゼロ。自分の気持ちを押し込めて、いつの間にか閉じ込めて出さないようにした偽物。そうなる前に、やるべきなのだ。熱い気持ち。

    あ、チャイムが鳴った。帰ろう。

    ───

    3月27日 金曜日 天気は晴れ

    今日は暖かくてまさに春って感じ。そして、ボスが休みで気分が軽い。のびのびした気分でメールを開くと、既に3件もきていた。1件もないのが普通だから非常事態だ。軽やかな気分が暗転した。
    (だって私は、IKEAの送迎バスの時刻表を調べに来た気分だったのだから)

    メールはグループアドレスの削除や新システムの案内、そして副社長の旅券の新しい料金案内。旅券については、新料金など今後一切知らせてこないでほしいと思う。新料金が出るたびにフライトが変更になり、伺いをたてる流れはもう飽きた。今予約しているチケットで飛んでもらおう。
    落書きをする暇もなくお昼時間になった。信じられない。それでもちゃんとIKEAの送迎バス時刻は調べることができて満足している。

    午後、新たに同じチームに加わった草野が斜め隣に座った。ドラえもんのような体型で、丸い手にペンを持って私の仕事についてヒアリングする。メモるようなこと、私からは出てきませんけど。
    「どんな仕事を毎日しているんですか」とまっすぐに聞かれて、言われたことをしていますと大雑把に答えた。私の横に2台並んだ電話を指差し、どのくらいの頻度でかかってくるのかも聞かれた。答えたくない。鳴らずの電話なのだ。

    そこへ「5秒で済むから」と副社長が割り込んできた。「フライト時間が2時間だけど、シャーロットに着くのは15時。出発は12時。 3時間あるよね!?どっちが正しいの」と唐突に聞いて「あ、時差ね!」と自分で答えて帰っていった。せわしない男だ。

    このやり取りを見ていた草野が「だいたい分かりました」と言った。分かったのなら、良かったと思う。
    草野は「今、結構不安じゃないですか?働きやすいようにガイドラインを作ろうと思います。業務のことで悩みがあったら相談にのりますんで」と言った。ありがたいけど、いらないかも。それでも、好感を持った。

    17時45分、終了のチャイムが鳴って振り返ると、草野と同じ背格好の同期2人が草野を囲んでいた。ネコ型ロボットが3体。瓜三つな3人を見て、ほのぼのとした気持ちになった。

    「お先に失礼します」と、誰に向けてでもないお決まりの挨拶をして、私は帰った。

    ───

    3月30日 月曜日 天気は晴れ

    今日と明日で東京の桜は満開になるらしい。

    今週の水曜日の歓送迎会への不参加を小田さんに伝えた。都合が悪いと断ると、都合のいい日を聞いてくる勘の悪い人。上手い嘘を言えなくて「辞めるから」と言ってしまった。小田さんは変なことを聞いてしまって申し訳ないと言ったけど、すぐに同僚に話していた。

    会社って、入る時に一生懸命働くことを誓わないといけない。私はそんなフリさえできないので、派遣社員をしている。私の仕事は、ぼーっと窓の外を眺め、1時間ごとに小さなバッグを持ってお手洗いへ出かけ、オフィス内を散策すること。あと、時々電話を取ったり旅券手配したりすること。

    今日は自販機のラインナップを腕組みしてチェックしていた。5台の自販機にはそれぞれ、20種類ほどの飲み物が並んでいる。唯一飲んでもいいかなと思うのは、ボルヴィックしかない。

    ボスは太っている。肌も赤黒い。席を立つとき座るとき、苦しそうな声を出す。死ぬかな、と時々思う。無呼吸症候群なんだって。毎日トクホのカロリーゼロドリンクを飲んでいるけど、使われてる甘味料は発がん性物質らしい。自販機に黒豆緑茶があったから、そっちがいいんじゃないかと思う。でも、人生は短い。好きなものを飲めばいい。

    今日初めて「何か仕事ないですか」と聞いた。「ありがとうございます、ありません」とのことだった。何も出てこないのだから、ぼーっとしていても悪くはないはず。

    先週、契約更新はしないと派遣会社に伝えた。「僕からボスに話しますので」と営業のシゲタに口止めされている。なのにシゲタからの連絡は一向にない。なんとなく不安な気分。ボスに早く伝えないといけないのに。胸騒ぎがする。
    どっちつかずの状況が耐えられない性分なのだ。

    シゲタ、シゲタ、シゲタ、シゲターーーーーーーーーーーーー!!!!!
    連絡してんのに居留守かよ!何かボスに言われたらお前のせいだぞ!わかってんのかコノヤロー
    暴言の一つ、二つ、言ってやりたい。あの鼻くそみたいなツラに向かって。

    悪口がすぎますよ。

    ───

    3月31日 火曜日 天気は晴れ

    私は職場に友人が1人いる。社長の通訳を担当している霞森さんだ。今日は霞森さんと目黒川の桜を見ながらランチを食べる。昨日から楽しみで、アイスコーヒーをセブンで買って、ランチはサンドイッチにしようか、それともドーナッツかな?と、舞い上がっていた。

    PCの電源をつけて、メールを開いて♪
    ルンルンな私に「契約は、どうなってるんだっけ?」とボスが聞いた。ぎくり。ヤバい、シゲタ、殺す。

    全部シゲタのせいにしてなんとか丸く収めた。乗り切った感。
    シゲタ、ごめんね。

    ───

    4月1日 水曜日 天気は曇りのち雨

    いつもの時間。いつものオフィス。

    今日から新年度。私の席にネコ型ロボットの草野が座っていた。会社全体で席替えがあって、誰かに取られないように「お前座ってろ」というボスの命を受けたらしい。
    そういう事情でいつもの席から解放されて、カフェのような席へ移動して、窓辺の桜を満喫した。この席替えで何より素敵だったのは、電話機2台が本来の担当者のところへ戻ったこと。

    せっかく1人時間を満喫していたのに、すぐに雑用に呼び出された。
    「これ持ってきて」「やっぱり汚いからいらない」「ホッチキス貸して」「販売推移調べて」「席変わって」
    結局いつもの席に戻されて、電話機2台も私を待っていた。「やあ、また会ったね」

    シゲタがやっと面談に来た。「お気持ち変わりませんか」と聞かれ「はい」と返事をした。ボスは相当残念がっていたそうだ。私は社内でイチ・二を争うほど評判が良く、誰からも好かれている人を手放すのは辛いから、考え直してほしいと言われたらしい。

    ラブコールにはとても弱い。少し考えたいと返事をすると、明日の飲み会までには答えを出した方がいいですよ、とアドバイスをくれた。なんとなくイラっとした。

    席に戻ると、どんな話をしたのかとボスがしつこく聞いてきた。たいした話はしていないと答えた。その割に小一時間も話しているけど。まあいいか。私は今、社内でモテモテなんだし、少しの嘘も魅力なのだ。
    モテる女性は嘘が下手だと、昔のバイト先で客が言ってたのを思い出した。

    ───

    4月13日 月曜日 天気は不明

    二日後、イギリスからCEOが来る。
    会議室が必要なことは先週から分かっていたのに、私たちはすっかり忘れていた。この時期どの部署も新規計画を話し合っていて、会議室は全部埋まっていた。

    次から次へと声をかけて、やっと会議室シドニーを譲ってもらった。シドニーはあまり綺麗な会議室じゃない。こんなところにCEOを案内して大丈夫か?と一瞬よぎったが、無いよりはいいのかもしれない。
    ふぅ。外部の立派な会議室を借りればいいのに。

    午後は当日のお弁当選び。地味にセンスのプレッシャーを感じる。決めかねていると、こんなのありますよって草野がサンドイッチ屋さんを教えてくれたので、そこにした。ナイス。
    ふぅ。今日はとても慌ただしい。

    ───

    4月14日 火曜日 天気は雨

    やっぱりというか、当然というか。CEOにシドニーは相応しくなかったらしい。一番綺麗な会議室を草野が勝ち取ったようだ。昨日の私の努力を思うと残念だけど、納得はできる。

    ひと段落ついたので、セブンに明日のお茶やお菓子を草野と買いに行った。「これくらいの雨ならいけるでしょ」と言った私に、草野は黒い大きな傘を「使ってください」と差し出した。紳士的なドラえもん。

    ───

    4月15日 水曜日 天気は晴れ

    20分早く出社した。
    お茶やお水をセットして8時50分、CEOが到着した。1階でお出迎えして会議室へご案内。結構上手くできた。

    手伝ってくれる中島さんは気さくで関西弁の面白い人。働くのが楽しくなる空気を持っている。コーヒーを運んだり、サンドイッチを運んだり、緊張しないでできたのは、きっと中島さんとだからだ。

    自分の席に戻ると相変わらず仕事はないけれど、ときどき内線が鳴って、コーヒー出してとか、片付けてとか、雑用に呼び出された。その度に、何かやることがあるっていいなと感じた。

    あれこれCEOとボスたちの世話をしていたら定時になった。
    楽しい1日だった。

    ───

    4月16日 木曜日 天気は晴れ

    到着したCEOを迎えに行くと、ハンバーガーを食べていた。頃合いを見て、9時過ぎにもう一度迎えに行った。
    名前を聞かれたので、ハリウッド映画の真似をして答えた。名前を2回繰り返す、あれだ。
    英語で何か言っていたけど、わからなかった。ジョークとか言えたら楽しいだろうなって、人生で何回も思っていることを今回も思った。

    11時30分、お弁当のサンドイッチを配って
    12時30分、食べ終わって、片付けて、CEO帰って、終わった。
    ボスも草野もぐったりしている。

    13時45分まで私は休憩。

    そして午後。
    「イギリス人にサンドイッチはないだろー」とボスに言われた。確かにそうだったかもしれない。けど、しーらない。
    また仕事がなくなって、次の仕事も決まらないから落ち込む。

    ───

    4月17日 金曜日 天気は晴れのち曇り

    すっごい天気いい。なのに午後は雨なんだって。

    「信じられる?午後は雨ですって」と4階ですれ違った姐さんに声をかけた。「ねー」と姐さんは答えた。姐さんは人財部で、入社時から私の面倒をみてくれている頼りになる人。いつも元気。もちろん、今日も元気。

    最近仕事があったので、その落差で辛い。席を離れて社内をウロウロした。

    席に戻ると、小早川が草野に「あんまり効果なかったね」と話しかけていた。「俺、やりますよって言ったんですけど」「お金払いたいみたいで」「残念」 途切れとぎれに聞こえてくる会話。きっと私のことだ。仕事増やしてみたけど、結局辞めちゃうから効果なかったね。つぎ、来るの?それくらいなら、俺やりますって言ったけど、誰か置きたいみたいで。ってことなのかな。

    小田が新花巻行きの新幹線チケットを依頼してきた。手配して渡し、請求書の精算方法を教えている途中で、もう分かったというように話を聞かなくなる。教えてって言ったくせに。
    今はこの人が一番嫌い。せわしないし、うるさいし、含蓄ないし。

    ───

    4月20日 月曜日 天気は雨

    週刊ダイヤモンドが届いたので、ボスより先に読んだ。個人情報の相場や流出の問題、ジャパンビレッジが手放す自動販売機をどの企業が落札するか注目である、とかの記事。個人情報の相場が10,000円というのは安すぎると思った。

    ランチの時間。姐さん、霞森さんと会社近くのスパイシーカレーのお店に集まった。

    草野ってどう?って聞かれて「働きやすいですよ」と無難に答えた。ふーん、と姐さん。人財部で草野は危険人物扱いなんだそうだ。

    なんでも、個人でMBAを取得しにアメリカへ行ったのに、会社から派遣されたことにしてくれとしつこく頼み込んできたらしい。会社から派遣されると金銭面での援助と、出世コース確定の暗黙の約束があるそうだ。でも草野は勝手に自分で行ったので対象ではない。

    働きやすい人だったのに、人財部での暴れん坊ぶり。あぶない人だった。

    ───

    4月21日 火曜日 天気は曇りのち晴れ

    あいつ、ペテン師だったんだぜ。
    いちいち言動が鼻につくようになってしまった。ネコ型ロボット、草野である。暇なのでなおさらイラつく。

    午後、ボスと草野はセミナーへ出掛けて行った。私は皮膚について調べて疲れた。何をするにも体力を消耗するようだ。

    ───

    4月22日 水曜日 天気は晴れ

    面接へ行こう。
    午後の休みをもらった。外部会議で不在のボスに草野が早退の許可を取ってくれた。取ってくれたのにイラっとした。ペテン師だから。

    今日は3時間しかぼーっとしなくていいと思うとウキウキ。
    突然電話が鳴った。別会社の、本当は私が出なくてもいい方の電話。出ると「ミウラジローさん、近くにいる?」と唐突に聞かれた。ミウラジローって誰?で、お前も誰? 近くにいた小田を捕まえて、その人が近くにいるか尋ねた。いないそうだ。「今、いないようです」と伝えると、携帯の番号をメールして欲しいと言うので、そうすることにして電話を切った。
    小田にミウラジローさんの携帯知ってます?と聞くと、「内線表」と吐き捨てた。「顔はスマイルサーチ」と、また吐き捨てた。言い方な、おい。

    ───

    4月23日 木曜日 天気は晴れのち曇り、のち雨

    ボスに「お休み、ありがとうございました」とお礼を言った。一応、社会人。

    昼休み。
    芝生に行きませんか?と霞森さんを誘った。芝生っていうのは本当の芝生じゃなくて、人工芝のような緑が床に敷かれていて、切り株のような椅子が点在している、社内のリラックスエリア。リラックスできるのにあまり使われていないから基本的に空いてる。
    霞森さんは、私も誘おうと思ってた、って返事してくれた。

    最近は、草野に「坪生さ〜ん」と呼ばれても返事したくない。ペテン師だからだ。ホチキスを「例のもの」といって内輪で笑っていた頃の私たちではもうない。女子アナと友達っていうのもイラつくし、態度も横柄な気がしてきた。

    人の心は変わりやすい。夏目漱石を思い浮かべた。

    ───

    4月24日 金曜日 天気は晴れ

    あと3日なのだ。

    9時30分、総務に郵便物を取りに行った。週刊ダイヤモンドがボックスに届いていた。いつ挨拶をしても反応の薄い男性社員が「辞めちゃうんだって?」と声をかけてきた。意外な言葉だった。「はい」と返事すると「残念だなぁ」って言った。「人事に言って他の部署に変えてもらえばいいのに」って続けた。そんな気持ちがあったなら、今日の半分くらいでいいから反応して欲しかった。

    席に戻って週刊ダイヤモンドの封を開け、パラパラとページをめくった。今週は全く気になるページがなかったので、ボスのデスクへすぐ置いた。その週刊ダイヤモンドを見て草野が「もう来たの?毎日来るね」と言うので、「毎日は来ません。週刊ですから」と返事した。ついキツい口調になってしまった。しーらない。

    お昼。ひとり、芝生で食べた。リラーックスタイム。霞森さんはお客様とランチ。

    セブンのアイスコーヒーを買って午後がスタート。
    会議室が急遽必要になって、慌てて探したけど全部埋まっていた。もう辞めるので仕事に身が入らない。埋まっているんだし、オープンスペースでやってもらおう。それでいいじゃない。

    草野に少々嫌味を言われたけれど、波乱は去った。そしてまた、退屈な時間がやってきた。

    非常口のランプが目について「ピクトグラム」って検索した。出てきた画像をエクセルに貼り付けて、せりふを当てはめてみた。
    超絶・楽しい!

    あっという間に45分が過ぎ、帰る時間になった。いつの間にか草野が席に戻っていた。見られたかな?この楽しい遊びを。

    まぁいいや。かえろーっと。

    ───

    4月28日 火曜日 天気は晴れ

    今日、この会社の最終日。終わったあと清々しい気持ちだった。目黒川の水面が桜の花びらで桃色に染められているのを眺めながら帰宅した。
    ボスに嫌味を言われた。きっと何かいいたかったんだろう。嫌味には気づかないふりをして明るくかわした。そんなものは受け取らないのが一番いい。釈迦も言ってた。

    次は代官山での仕事が決まっていた。
    青山のSpiralという展示場で作品展のイベントに参加して、夫と東京で遊んで。夫が帰ったあとは、ひとりのんびり過ごして、それから、また新しい場所で働き始める。

    季節はもうすぐ初夏。



    #創作大賞2026 #エッセイ部門

     
     

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    写真と言葉と本。日々、静かな表現をつくっています。 日常の光や影、かたちの気配をすくい取るように制作しています。 作品は SFMOMA / K*MoPA に収蔵。 ▷ Instagram(制作の記録) ▷ 作品ショップ(STORES)

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