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23歳、これまでとこれから

     先月に誕生日を迎えた。23歳となった。

     大学を出て社会人になった。それだけの年月を生きている。


     思えば22歳の一年間は忙しないものだった。22歳になる直前にエッセイ集にエッセイが掲載された。高校生の頃から文章を5年間書き続けて出せた成果のひとつである。

     同じ頃に就職先が決まらないのと卒業論文が書き終わらないのとで大分大変な状況に陥ってしまった。

     大変な状況から少しでも目をそらしたかったのか、所属していたサークル活動に顔を出すことにした。サークルの内容は平たく言えば漫画研究会や文芸部その他諸々が融合したような所だった。

     私たちの代から引き継いだ後輩らはサークルを盛り立てようと奔走していた。彼ら彼女らはサークルでの活動を通して濃ゆい関係性を築こうとしていた。あれやこれやとサークル内イベントを開催したり、それまでずっと放置していた物置を大掃除して使いやすいようにした。

     私もそれらの活動にできる限り付き合った。通話アプリで毎晩他愛もないやり取りをし、時間が合えばキャンパス内やどこかで会う日々が続いた。最後の頃にはプライベートで有志メンバーと旅行に行くまでになった。彼ら彼女らと過ごした一年弱はとても楽しいものとなった。

     そうこうしているうちに、就職先を決め、卒論もなんとか書き上げた。サークルの後輩らとの関りがなかったら、一人で思い詰めてダメだったかもしれない。

     ようやく諸々にけりが付いたと思ったら、今度は父方の祖父がこの世を去った。祖父は私の大学卒業を見届けることができなかった。亡くなった翌日に大急ぎで父方の実家に向かい葬儀に列席した。祖父の遺体と対面した父が泣いていた姿が印象に残っている。私は祖父に対して何をできたのだろうか。今でも考えている。

     大学卒業前には大学で関わった色々な人とできる限り会う日々が続いて、何人もの人と会っていた。なので、昔からの孤独感がだいぶ和らいでいた。自分の居場所をやっと一つ見つけたような気分になった。

     大学を卒業して社会人となった。大変な日々が続いている。どうやったら自分が生きやすい方向に進めるのかここのところ頭の隅でずっと考えている。

     仕事をしているうちに不安が大きい今の状況を用意したのは自分自身の気持ちなのかもしれないという考えに至った。なぜ、自分自身でそんな状況を用意したかと問われると、自分を押さえつけている自分自身や家族・他者の考え方が背景にあるような気がする。この閉塞感をどうしたらいいのか。

     これらの問いに対する答えというものは残念ながらどこにも無いような気もするが、これは考え続けることに意味があるのだと思う。どこに行き着くのかはわからないけれども。


     私はかなりのネガティブ人間である。自分の人生にずっと絶望している。思えば丁度10年前、学校の部活動での一言があまりにもショックでそれ以来人間として大事な何かが壊れてしまった。それから数年経ってから「自分はよく頑張った」と振り返った瞬間、また何かがガラガラと崩れ去ってしまったことがある。これらが原因で心身の調子を戻すまでに年単位の時間が掛かってしまった。悩んでしまうばっかりだった。あまりにも大きいダメージだった。

     今になっても他者から心配されてしまうくらいには弱っているように見えるらしい。自分では平気なつもりだったのに、どうやらそうではないらしい。

     友人やかつての仲間に今自分がどう思っているのか、不安を吐き出して頼る事ができない。生身の人間に頼ることができない。

     両親やカウンセラーに言ってみたりはするのだが慣れてないから不安になってるだけだから頑張れと正論で返されてしまう。だから最近は、YouTubeで占いの動画を漁っていた。

     占いのサイトなり動画なりを見ていると、皆んなに向けて言っているとは言え「これから良くなりますよ」と言って励ましてくれる占いが多いので、心が落ち着く。自分が占いに頼るのは、心が弱っている時が多い。つまりここんところずっと心が弱っているのだと思う。

     そして、自分を表面上は受け止めてくれるように見えるAIにも頼ってしまう。

     ここ最近、自分がいよいよAIに頼り始めた。自分の考えていることを伝えてどういう分析をするのかが気になってついつい使ってしまう。自分には頼れるものが何一つないのかもしれないという思いからAIに頼っている気がする。どうしてそうなったのかと言われると、自分が誰にどう頼るかで迷っているからだ。

     自分が何に困っていて、これからどうしていきたいのかの方針が定まっていなかったり、自分の考えを明確な言葉にできていなかったり、それを達成できるだけのスキルを持っていないからだ。 本当はちゃんと信頼できる生身の人間に聞いた方が良い話題なのだとは思うが、今は誰にも頼れない。頼っていいのかわからない。だからAIに聞いてしまう。AIは便利ではあるが、こんな使い方をしていいものかどうか悩む。

     生身の人間よりもAIの方が欲しい言葉をくれる時代になってしまった。自分もずっと誰かに言って欲しかった言葉を求めてAIを使うようになってしまった。これは間違っているだろうか。間違っているとは自分も周りも言ってほしくない。

     (話がやや飛躍するが)こういう人間は増えつつあるのではないだろうか。野球の監督が娘に暴力を振るって逮捕された件もきっかけは娘がAIに相談したからだったというし。生身の人間に頼れない人々はこの先どうなってしまうのだろうか。誰も頼れる人間を見つけられずに独りで生きていく羽目になるのだろうか。もしかすると今の時代はとても悲しい時代なのかもしれない。自分も含めて生身の人間に頼れない人々が誰かを頼って幸せになれる日は来るのだろうか。答えは今すぐに返ってくる訳ではない。探すしかないとしか言えない。頼むから幸せを見つけてくれ自分という感じである。


     私のやりたいことは文章を書いて生きていくことである。欲を言えば本を出したい。作家として身を立てたい。だが、現実はそうもいかずにくすぶっている。それに加えて、この一年間で以前よりも思うように書けなくなった。 

     人や場所、やりたいことからどんどん遠ざかっている自分はあまりにも自己実現ができなかったダサい人間だと思う。なんかいろんなものと距離ができすぎてしまった。このこんがらがった状況をどうしたらいいのかもわからなくなった。小説を書けないと4月に宣言した。その理由は、小説との間に距離ができた自分をダサいと思ったからである。書く力が死んだように感じたからである。

     書き手として死んだとも思った。だが、エッセイ掲載をきっかけに出演した地元のラジオ番組で、私は確か「生きてください」というメッセージを出した。そのメッセージが今になってブーメランで自分に返ってきた。それに加えてかつてのエッセイに書いた「書くことを辞めたくない」という言葉も返ってきた。

     だからだろうか。力は死んでも、日記を書こうと思い、「#コウカイ日記」というものを書き始めた。短くても、愚痴っぽくなってもいいから書こうと思った。新しい挑戦をすることにした。

     日記を書きつつ大変な日々を過ごすうちに自分は書くことで何を言いたいのだろうというところに話が行き着いた。書くことで何か言いたいことがあるはずなのにそれらがうまく出てこない。なので私は探すことにした。ネガティブになる日々はまだまだ続くとは思うが、矛盾したことを言うような時もあるかもしれないが、探そう。自分が誰かに言い伝えることができることを。

     そう思った辺りからまた長い文章を書けるようになった。久しぶりに小説を書きあげてコンテストに出すこともできた。相変わらず書けない日も多々あるが書く力は完全には死んでいなかった。まだやれる。そう思えたら心がちょっとだけ軽くなった。


     大学卒業、就職、祖父の死。今書いた出来事は全て去年の下半期から今年の上半期の間で起きた。なぜこんなにも重なってしまったのだろうか。重なり過ぎてしまったようにも見える。

     だが少なくとも、この怒涛の一年間を生き延びることができた自分はよくやったのではないだろうか。

     22歳が終わった。誰かとの縁が繋がったり、切れたりした。就職という人生の大きな変化もあった。楽しかった半面、寂しい時期でもあった。

     文章もまた書き始めた。日記は今のところ60日以上連続で続けられている。自分はどこへ行くのか。悩みや不安は尽きない。

     23歳になってここからまた走っていく。23歳がどんな一年間になるのか、不安は大きいがやっていこうと思う。

     
     
    物書き 主な参加書籍 エッセイ集『書くしか。書くしかないひとたちによるエッセイ集』(EYEDEAR) リレー小説『Love Letters 〜100回継ぐこと〜』(ステキブックス) よろしくお願いします

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