
オルテガをご存知でしょうか?
政治に特別な情熱があるわけではない。という立場で長く生きてきた。でも、選挙にはできる限り行くし、新聞も読む。だが、政治の話をするたびに声が大きくなる人たちとは、できるだけ距離を取っていた。揉めたくもないし…
民主主義は良い制度だと思っている。しかし「民主主義こそが絶対に正しい」と信じ込む人たちが思うほど万能な制度だとも思っていない。
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▪️断定したがる人々
ここ数年、どうにも見過ごせない光景が増えている。例えば、財務省解体を叫ぶデモ。「全部あいつらが悪い」と断言する陰謀論。そして、説明が始まった瞬間に「それは詭弁だ」と結論を先に置く人たち。
不思議だったのは、その確信の強さだ。そこまで断言できるほど、あなた方はこの制度を理解しているのだろうかと。
財政の話は、正直とても難しい。プライマリーバランス、国債、金利、財政規律。正直に言えば、私自身、完全に理解しているとはもちろん言えない。「分からない」という感覚が、常にブレーキとして残る。
ところが最近は、「分からない」という言葉が、まるで敗北宣言のように扱われる。分からないなら黙れ、という空気すらある。代わりに評価されるのは、よく分からないまま断定できる勇気だ。ここまで来ると、少し感心してしまう。その自信は、どこから湧いてくるのだろうか。どちらの大学でお勉強なされていたのですか?と聞きたくなるほどだ。
▪️オルテガが予言した「現在進行形」の病
そんなとき、ふと思い出したのが ホセ・オルテガ・イ・ガセット だった。彼は「大衆」を批判した思想家として知られている。だが『大衆の反逆』を読み返すと、そこに書かれているのは、思った以上に現在進行形の話だった。
オルテガが問題にしたのは、無知な人間ではない。自分が無知である可能性を、完全に排除した人間だ。ページをめくりながら、これは百年前のヨーロッパの話ではないと思った。むしろ、今日のSNSのタイムラインに、そのまま貼り付けられそうな文章だった。
▪️制度の欠陥と「悪役」という組合せ
政治家という職業について考えてみよう。選挙に勝つ。それは確かに大変なことだ。だが、人気を得る能力と、制度を理解する能力は、残念ながら別物だ。
それでも選挙に勝った瞬間から、世界は変わる。東大法学部卒の官僚が、深々と頭を下げる。難しい制度の話を、できるだけ噛み砕いて説明してくれる。この状況で、「自分は偉い」「自分は分かっている」と思い始める人がいても、責める気にはなれない。努力や勉学の結果ではなく、承認だけが先に与えられる設計になっているからだ。ただ、その勘違いが修正される機会は、ほとんど用意されていない。
そんな世の中で、財務省が悪役にされたのも、ある意味では合理的な話ではないだろうか。顔が見えない。数字を扱う。説明は長く、専門的で、しかも「増税」「緊縮」という聞きたくない話ばかりする。これほど、怒りを預けるのに便利な存在もない。
だが、冷静に考えれば、もし財務省が本当に日本を裏から操る絶対権力なら、あの森友学園の公文書改ざんなど起きなかったはずだ。権力者は、忖度などしないはずだから。それでもなお、「財務省がすべて悪い」という物語は愛され続ける。理解する努力より、敵を決める方が圧倒的に楽だから。
▪️単純化される世界と「大衆人」の増殖
アメリカで ドナルド・トランプ が支持を集め始めた時、最初は遠い国の話だと思っていた。だが今では、日本と地続きの話にしか見えない。トランプの言葉は、世界を驚くほど単純にする。複雑な制度は消え、敵と味方だけが残る。しかも聞き手は、常に「理解している側」に置かれる。
オルテガの言う「大衆人」とは、学のない人間のことではない。学ばなくても、すでに分かっているつもりになれる人間のことだ。民主主義は、その状態を、選挙という正当な手続きで承認してしまう。それがこの制度の、最も扱いづらい欠点だとも言える。
▪️民主主義を引き受ける「勇気」
オルテガ的な考え方は、今でも危険視される。エリート主義だ、民主主義への挑戦ではないかと。だが、少なくとも彼は、「考えるのをやめろ」とは言っていない。むしろ逆だ。
自分は分かっていないかもしれない、という前提に立て。だからこそ説明を求めろ。怒りより先に、制度を見ろ。
民主主義は決して信仰ではない。放っておけば、簡単にノイズに支配される。今、世界で起きているのは民主主義の終わりではない。民主主義を、あまりにも楽観的に信じてきた結果だ。
オルテガの問いは、今も残っている。自分が分かっていないことを、それでも引き受けられるか。その問いを引き受けられない社会ほど、自分の声の大きさに、無自覚になっていく。それが、少しだけ、いや、正直に言えば、かなり怖い。私は無知です。と認める勇気を持ちたい。