あなたの持っているものは、全部お金に換えるべきもの?〜9つの資本のはなし〜
ゴマを分けたら、パンが返ってきた
私はゴマを栽培しています。上の写真がゴマです。花が綺麗。
ゴマを友達に分けると、お返しにパンがもらえたりします。
これだけの話なんですが、最近この「ゴマとパン」のやりとりが、自分の中でずいぶん大事なことに思えています。お金はほとんど動いていないのに、明らかに何かが豊かに循環している。
循環の正体をうまく言葉にできずにいたのですが、「9つの資本」という考え方を知ってからは少し腑に落ちている。そんな話をしてみます。

そもそも資本ってなんなん?
まず「資本」という言葉から。
資本と聞いて何を思い浮かべるでしょうか。多くの人はお金だと思います。円、ドル、ユーロ。そして社会で生きていくと、それ以外にもいろいろ種類があることがわかってきます。不動産も資本だし、株式や金融商品も資本と呼ばれています。小さい頃、おばあちゃんが言っていたのは「体は資本だ」ということで、どうやらこの肉体も資本らしい。
資本とは、いま使い切ってしまうためではなく、これから何かを生み出すために蓄えておく「元手」だとされています。経済学の用語でいえば capital。消費するものではなく、回したり働かせたりするものーーー
数字だけになった資本主義
今は資本主義の時代と言われます。いろんな資本があるはずなのに、結局は一番最初に出てきた「お金をどう増やすか」に集約して世界が回っているようです。いろんな留保がついたって、結局はお金を持っている人は立派で、お金がない人はその逆であると。
これは、資本というものをすごく狭く捉えているからじゃないかと思っています。資本を全部お金、つまり数字だと考えてしまっている。小さい頃は学校でいい点数を取るよう教わり、学生になったら偏差値、大人になったら年収や資産。数字が多い方がいいという価値観にだんだん染まっていく。詰まるところ、これが今の資本主義の有様だと思います。
住まないのに投機目的でマンションを買ったり、株やビットコインも、大きく言えば数字ギャンブルのように勝者と敗者が決まるゲーム。「体が資本」も、大きい数字を得るため、男女問わず取り返しがつかない犠牲が日々生まれています。
前置きが長くなりました。資本にもいろいろあるはずなのに、今の社会では、そのすべてがお金という数字に換算できるかどうかで価値が決まってしまう。そのこと自体は今の社会の仕組みだから変えられないかもしれないけれど、自分自身の身の回りの見る方法(観法)を変えると、また違った景色が見えてくるんじゃないかと思ってます。
私にとってそれは9つの資本という考え方でした。そのメガネをインストールすると、現状は全く変わらなくても「お金がない」とか「自分にはお金に変えられる価値がない」といった考えから、少しだけ距離を置くことができる。

9つの資本
これはイーサン・ローランドとグレゴリー・ランヅアの二人が考えた「8つの資本」に、私のパーマカルチャーの師匠的存在であるソーヤー海が「余裕資本」を加えて、9つにしたものです。
まずは8つの資本から。
金融資本 お金、通貨、株。僕たちの社会ではものすごくパワーがある
社会資本 人とのつながり、影響力。人と接している限りものすごく重要
物質的資本 石、鉄、木、化石燃料、道具、建物、社会インフラの原料
生命資本 水、土、動植物、菌類。パーマカルチャーはこれに特化
知的資本 自分やほかの人のアイデアや知識、科学など
経験資本 体験を通していろいろなことができるようになること
精神的資本 自分より大きな「何か」を信じることから生まれる力
文化資本 歴史のなかで積み上げられてきた伝統(食文化、民謡、お祭り)(海の文章から引用)
金融資本以外は「これも資本なの?」と思うものが多いかもしれません。社会資本や物質資本あたりは、まだ耳にするかもしれない。友達や人間関係はいろんなエネルギーの元手になるし、何よりそれ自体が楽しかったり嬉しかったりします。物質資本は、家の中や庭を見渡せばすぐ見つかる。自分の土地も、登記簿に書かれた面積の数字だけじゃなく、バナナが実りやすい土なのか、日当たりがいいのか、木と木の間にハンモックを吊れるのか、いろんな情報が入っています。要するに、自分が持っているもので、目に見えたり見えなかったりするものの全部が資本と言えそうです。
この見方に立つと、人とのつながりや、庭に生えている柿の木の実や、小さい頃に関わった地域の祭りのリズムが、全部お金や数字に書き換えるのはナンセンスになります。
土地は売れる、柿の木も売れる、体験も何かに還元してお金に変えられる。
かもしれないけど、一度数多くの資本の一つでしかない金融資本主義のメガネをとって、見渡してみましょう。
ゴマとパンの循環
自分の持っている資本を一度棚卸ししてみて、お金や儲けから一回切り離して、それ自体だけを見つめてみる。
ゴマの話。
私が先祖から受け継いだ生命資本であるゴマの種を、物質資本である土地にまく。育て方はネットでもわかるけど、戦前にゴマ作りを手伝ったおばあちゃんの知識(文化・知的・経験資本)を電話で聞いて育て、そこから実ったゴマを友達にあげると、別の物質資本であるパンが返ってくる。久米島には料理の得意な友達がたくさんいるので、その友達が経験資本として蓄えていた料理の技術で、素敵なご飯が食べられたりもします。そして何より、社会資本という、友達と仲良くなる素敵な時間が生まれます。
一つのゴマの種で、様々な資本が動いている。少しお金がかかっている部分もあるけれど、基本的には金融資本以外の循環が起きていて、最終的にはお金ではなく、「腹がふくれた」とか「たのしい」とか「また明日もがんばろう」とかそういうエネルギーになっていきます。ゴマとパンのやりとりがなぜ大事に思えたのか、こうして並べてみると、動いていた資本の種類の多さと、それらが元手となって生まれるつながりの豊かさが大事だったんだな、と気づきます。

たまに思い出すだけで大丈夫!・・・と思ってる・・・
こんなに素晴らしい循環の島に暮らしているのに、白状すると、普段の私の頭を占めているのはお金や数字のことばかりです。あれの支払いがどうとか、これはいくらになるとか。せっかく目の前でゴマとパンが循環しているのに、気を抜くとすぐ金融資本の物差しを持ち出してしまう。私も結局、数字が多い方がいいと思ってる人だと思います。中学生の頃、金(きん)の専門書を読んで秩父まで金を掘りに行くという間抜けなことをしていたし、この前もカイジ読んで目頭が熱くなってロト7買ってたし。矛盾と論理破綻が神がかってる。
ただ、「9つの資本」という考え方を知ってからは、そういうときに「本当はそうじゃない」と心のどこかで思い直せるようになりました。自分の持っているものだけじゃなくて、当たり前に使える水道や電気、整備された道路をただ通るだけでも、この島や、この体をくれた親への感謝が湧く。全部を金融資本に換算しないで、それ自体として見れたりする。
今の資本主義社会で、そう思える瞬間はごくたまにしかありません。でも、たまに思い出すと、恵まれてる環境にいるなあって思います。
長い文章を読んでいただき、ありがとうございました!
