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母ず私の心を守る——日課衚の魔法


    第1章「銬鹿にしないで」

    最初の日課衚は、2008幎4月27日に生たれた。

    A4の玙䞀枚。手曞きで線を匕いお䜜った衚。
    列は巊から、ごはん、散歩、食事、薬、 
    うんこ、行った病院、出来事。
    朝・昌・倕・倜の行に、○を぀けるだけ。

    これを実家に垰ったずき、私が䜜った。

    母の返事は即答だった。
    「玙がもったいない。こんな簡単な衚、
    銬鹿にしないで」

    62歳たで事務員だった人だ。パ゜コンも、
    ファックスも、家のビデオ録画も、
    ゲヌム機も䜿いこなした。
    家蚈簿だっお長幎぀けおきた。
    A4の玙に䞞を぀けるだけなんお、ず思うのは
    圓然だったかもしれない。

    でも私には、母に蚀えなかった
    別の意図があった。

    ○を぀ける欄だけでは足りなかった。本圓に必芁だったのは、
    右端の「出来事」欄だ。

    忘れたこずでトラブルが起きたずき、解決したその瞬間に、䞀郚始終を曞き残しおもらう。
    母自身の筆跡で。

    私が曞いたのでは意味がない。
    本人が曞くから意味がある。

    次に同じ混乱が来たずき、「これ、私の字だ」ず本人が気づく。
    誰かに蚀い聞かせられた蚘録ではなく、
    自分が䜓隓しお、自分が玍埗しお、自分が残した蚀葉。
    それだけが、蚘憶の薄れおいく母を支えられるず思っおいた。

    A4でなければいけなかった。
    トラブルの䞀郚始終を曞くには、それだけの広さが必芁だったから。

    母はそれをただ知らなかった。

    倕食の欄に、母の筆跡でこう曞いおあった。

    「OOO(嚘)の手料理食べた」

    そしお出来事の欄に、䞀蚀。

    「䞀日の衚䜜った」

    銬鹿にしないで、ず蚀っおいた母が、
    その日のうちに曞いおいた。
    私はその玙をしばらく眺めた。

    画像
    2008幎4月27日 初めお䜜った日課衚


    日課衚を䜜る前の出来事は、いたでもおがろげにしか思い出せない。
    蚘録がないから。

    でも13幎埌、認知症センタヌで43項目の問蚺祚を枡された。
    い぀頃からその症状があったか、すべお答えなければならなかった。
    迷わず曞けた。日課衚があったから。

    ※この問蚺祚の蚘録に぀いおは、埌日あらためお曞く予定です

    この䞀枚が、18幎分の始たりだった。

    第2章「それは突然きた」

    2009幎2月、母から電話があったのは、
    関東の自宅にいるずきだった。

    しこりを自分で芋぀け、かかり぀け医に行き、倧きな病院に玹介され、生怜盎前たで終わっおいた。
    その党郚が、私に知らされおいなかった。

    電話口で母が蚀った。「乳がんみたい」

    そこから私は調べ続けた。脇のリンパたで取るのか。どんな術匏になるのか。党摘か、枩存か。手術たで䞀ヶ月あった。

    その少し前に母から蚀われおいた
    「死ぬたでに海倖に行きたい」

    執刀医から、手術は䞀か月埌だから構わないず蚀われ、
    私はハワむの手配をした。

    旅の間、母は手術のこずを芚えおいた。波の音を聞きながら、垰ったら入院だね、ず話した。普通の芪子みたいに、ご飯を食べた。

    垰囜した。入院の前日。

    「私、なんで入院するんだっけ」

    真顔だった。䜕床説明しおも、たた聞いおくる。乳がんのこずを話す。うん、ずうなずく。そしおたた聞く。
    「私、なんで入院するんだっけ」

    ——この出来事の幎ぐらい前から少し忘れっぜいずは思っおいた。
    だから2008幎月に日課衚を䜜った。
    その二か月埌、
    2008幎6月 物忘れ倖来にも連れおいった。
    そのずきの蚺断は「認知症ではない」だった。
    今ならMCI——軜床認知障害——ず蚀われたかもしれない。
    でも圓時、その蚀葉は先生の口から出なかった。

    蚺察の最埌、私は先生に蚀った。

    「本圓にこのたたこれで垰っお、私は埌悔したせんか」

    先生はこう答えた。

    「え」

    それだけだった。

    先生は手を䌞ばし、私が持参した母のファックスの原本を手に取った。
    「これ、いただいおもいいですか」

    どうぞ、ず私は答えた。

    コピヌしおいなかった、ず気づいたのは、
    その埌だった。

    18幎埌のいた、
    私はあのファックスのこずを思う。

    認知症介護の、最初の䞀枚。
    私の蚘憶では、物盗れ劄想で財垃を別の堎所に隠したせいで、
    それを芋぀けられなくなっおしたった様子を曞きなぐっお送っおきた、
    生々しいメモだった。

    あのずき手攟さなければよかった——
    けれどあのずきの私には、
    これがこんなにも長い旅の始たりだずは、
    知る由もなかった。

    第章「それでも厩れる日がある」

    2020幎7月14日 私は関東の自宅にいた。

    突然、銀行からの電話。

    母が銀行に駆け蟌んだ。二人の男にお金を盗られた、ず。譊察が駆け぀け、母の携垯のアドレス垳に地域包括支揎センタヌの番号があったので、担圓ケアマネさんがすぐに母のもずぞ向かっおくれた。ほんの少し前に顔合わせをしたばかりだった。
    その番号が、母を救った。

    私はその日、実家に垰れなかった。

    ケアマネさんが母を家に連れ垰り、
    日課衚に䜕があったかを母の筆跡で曞き蟌んでもらうようお願いした。

    「二人の男の人が来お ずられたず蚀っお (銀行の名前)さんぞかけこんだ。通垳ずかぎ む゚の䞭の珟金わ れンブブゞダツタ お母さんのかんちがいだった、もうそう だった」
    本人の蚀葉で、その堎で読んでもらっお、玍埗するように
    右端の出来事欄に、倧きく曞いおもらった。

    その倜、母から䜕床も電話がかかっおきた。
    怖い、怖い、ず蚀う。
    私は電話口で蚀った。
    「日課衚を声に出しお読んで」

    母は読んだ。最初は声が震えおいた。
    でも䜕床も読むうちに、声が萜ち着いおきた。
    そしおその倜、母は䞀人でちゃんず眠れた。

    日課衚が、電話口で読み䞊げるための装眮になった倜だった。

    埌から気づいたこずがある。
    前日の7月13日の日課衚が、ない。

    日課衚を぀け始めおから12幎目、ほが欠かさず぀けおきた蚘録に、空癜があった。
    その頃にはもう、母の完党なルヌティヌンになっおいた。それでも曞けなかった日があった。あのずき、すでに䜕かが始たっおいたのかもしれない。

    システムは、厩れる日がある。
    それでも、蚘録が残っおいれば、戻れる。

    ——圓時はコロナ犍真っ只䞭。
    地方では関東からの移動を良しずしない空気に包たれおいた。
    この日を境に、遠距離介護から、数幎にも及ぶ『泊たり蟌みの圚宅介護』ぞずシフトするフェヌズに入った。
    日課衚を぀け始めお12幎。
    母はそれでも、ただギリギリ䞀人で暮らしおいた。

    第4章「本圓に芋えおいるのかもしれない」

    少し時間を遡る。
    2012幎頃から、母は蚀うようになった。

    「倜䞭に男の人が来るんだよ」

    最初は聞き流しおいた。でも段々、毎晩のように蚀う。
    私は説埗しようずした。
    「幻芚だよ」「そんな人は来おいないよ」
    認知症の本をコピヌしお芋せたこずもある。

    母は玍埗しなかった。

    2013幎10月、アル゜ックず芋守り契玄を結んだ。
    私䞀人ではもう察応しきれなかった。

    安心材料にはなったが、
    「倜䞭に男が来る」ずいう蚎えそのものは、なくならなかった。

    転機は2021幎、
    日本認知症リハビリテヌション協䌚の先生ずの
    個人Zoomでのこず。
    月䞀回の面談が2幎目に入ったずころだった。

    ——出䌚いはコロナ犍のZoom普及がきっかけだった。
    遠方の先生に盞談できるようになったのは、
    あの時代の数少ない恩恵だった。
    蚀われた通り、運動や氎を飲む習慣を
    すぐ日課衚の項目に远加した。
    母はすんなり受け入れ、䞀幎以䞊続けられた。結果も出た。圚宅介護が少し楜になった。
    信頌関係ができおいた。


    画像
    コロナ犍で始たった、オンラむン䜓操


    だから、先生からこう蚀われたずき、
    私はすんなりず受け入れるこずができた。

    「お母さたには、その男の人が本圓に芋えおいるのかもしれたせんよ」

    最初は戞惑った。母に嘘を぀く気がした。
    でも、どれだけ説埗しおも倉わらなかった珟実がある。私には先生ぞの信頌があった。

    䞀床やっおみよう、ず思えた。

    ある日、い぀もの母の蚎えがはじたったずき、私はこう蚀った。

    「お母さんには本圓に男の人が芋えおいるんだよね。でも、ごめんね。私には芋えないの」

    するず母は蚀った。
    「ふん、そうなの」

    「それじゃあ、しょうがないね」
    ずおも萜ち着いおいお、それ以䞊䜕も蚀わなくなった。

    䜕幎も平行線だった䌚話が、
    その䞀蚀で終わった。

    あの手この手で、必死に説埗しようずしおいたのに。

    思い返せば、倉えようずしおいたのは母の認識ではなく、私自身の心だったのかもしれない。「分かっおほしい」ず願っおいたのは、
    母に向けおではなく、
    自分自身の「正しさ」に察しおだったのかもしれない。

    日課衚は「お互いが気持ちよく接するための土台」ずしお2008幎に䜜った。
    でも私はただ、母を「正しい偎」に連れおこようずしおいた。

    先生の䞀蚀が、その思考から私を解攟した。

    第5章「チヌムで、垰る」

    2025幎1月12日の倜だった。

    1幎ぶりに関東の自宅に戻っおいた。
    昌間は倧谷翔平遞手が日ハムの2軍時代に出前を頌んでいたずいう䞭華屋ぞ、25幎以䞊乗り続けおいるオンボロの愛車で行き、倫ずスタミナ定食を食べた。
    䜕があっおも埌悔しない、ずやっず芚悟を決めた、3日目の倜だった。

    電話が鳎った。ショヌトステむ先の倜勀の男性からだった。

    「お母さんがベッドから萜ちおいお、痛くお動けないので、すぐ来おください」

    実家ぞ戻れる時間ではなかった。
    時間を远うごずに、母の発熱が始たった。

    実は、がんやりず思っおいた。もし母に䜕かあれば、そのたた斜蚭に行くコヌスなのかもしれない、ず。
    やっず自分の時間を取り戻した3日目に、
    そんなこずを挠然ず考えおいた。

    でも実際に起こっおみるず、そんな考えは吹き飛んだ。家族がやらなければならないこずが、山のようにある珟実を突き぀けられた。
    その倜の緊急入院は、斜蚭の方ずケアマネさんが動いおくれた。

    倖科の先生から電話が来た。

    「お母さんは倧腿骚転子郚骚折です。
    いたたさに廃甚症候矀の入口です」

    廃甚症候矀——動けないこずで、あらゆる機胜が加速床的に倱われおいく状態。
    認知症高霢者の堎合、耇合的な芁因から、䞀幎以内の死亡率も高い。

    私はその蚀葉を知らなかった。電話を切っお、すぐスマホで怜玢した。
    画面を芋た瞬間、こずの深刻さが䞀発でわかった。

    忙しい医垫が遞んだ䞀蚀が、私を動かした。
    正確な蚀葉ず、怜玢できる環境があれば、長い説明はいらない。
    あずから冷静になっお、そう思った。

    私は翌日の始発で垰った。

    入院䞭、母はなぜ自分がここにいるのかを蚘憶できなかった。

    私はフリップを䜜った。
    「骚折したので入院しおいたす」
    「リハビリをすれば、家に垰れたす」
    毎日それを芋せた。日課衚ず同じ発想だった。
    状況を倖に出しお、母が自分で読めるようにする。


    画像
    レントゲンを写真に撮っおフリップを䜜った


    そしおある日、呚りの空気が倉わる瞬間があった。

    退院1ヶ月前の家屋調査で、
    母は階段を䞀歩も䞊がれなかった。
    睡眠薬で朊朧ずした状態のたた、
    たった䞀床きりのその日を迎えおしたった。

    目もう぀ろで、よだれも出おいた。
    でも以前からやっおいる蚈算問題はスラスラ解けた。
    それたで硬かった衚情の若い介護士さんたちが楜しそうに、
    䜕床も母に蚈算問題を枡しお、
    スラスラ解ける様子を私に話しおくれた。

    私はケアマネさんに蚀った。
    「薬を抜けば、母は倧䞈倫です」

    銀行に駆け蟌んだ日から、5幎間芋おきおくれたケアマネさんは、私の蚀葉を信じおくれた。チヌムのみんなで、自宅埩垰の支床を始めた。

    そしお春、母は、自宅に垰った。
    盎前に付け替えた二本の手すりをしっかりず握りながら、
    階段を登り、自分の城に戻った。
    リハビリのおかげで、骚折前よりも足の調子が良くなった。

    いろんな意味で骚折は本圓に怖いこずだず、
    たさに骚身にしみるか月だった。

    第6章「60歳で、飛び蟌んだ」

    母が骚折したその月、
    私はしばらく䜿っおいなかった
    目暙管理シヌトを開いた。

    将来の倢を曞く欄に、私はこう曞いた。
    「自分の奜きな空間で、排泄介助やトむレ臭の凊理をする」

    笑えるかもしれない。でもあのずき私には、
    それが本圓に遠い目暙だった。

    劄想レベルの欄には、もう少し倧きなこずも曞いた。
    「認知症介護のノりハりを、YouTubeで䞖界䞭の人ずシェアする」

    母のいない間に、人生で䞀番苊手な片づけを、コツコツ進めた。
    日に䞀床は入院先から、キツむおしっこ臭のする着替えを持ち垰り、
    颚呂堎で螏み掗いした埌、悪臭を取り陀くじぶん考案の぀け汁に挬けながらがんやり生み出した倢だった。

    そんな時、『しずワヌク』ずいう静岡県ずランサヌズの共創事業を知った。パ゜コンがあれば自宅でできる仕事を県民に玹介し、スキル講座や盞談窓口で支揎しおくれるずいう。今幎で事業は終了しおしたったが、
    ここでの気づきや出䌚いは、私の䞀生の宝物だ。

    無事母が自宅埩垰した様子を芋おいたケアマネさんや、
    リハビリ病院の理事長さんに、私がやっおきたこずを本にするずいいず
    アドバむスをもらったが、その時は文字より
    動画のほうがわかりやすいのではないかず思い、動画線集をやるこずにした。

    2025幎7月䞋旬、私はPremiere Proを初めお開いた。

    黒い画面に、癜い小さな文字がびっしりず䞊んでいた。
    ちょっずいじるず蚭定が倉わっおしたう。
    深倜独りがっちのリビングで、本圓に孀独を感じた。

    入ったばかりのオンラむンスクヌルの講座も、
    目が慣れおいないからすぐ眠くなった。
    歳の目には、黒い画面は優しくなかった。

    それでも、シヌトに今日やるこずを曞いた。
    明日もたた曞いた。

    母は18幎間、日課衚に䞞を぀け続けた。
    私は目暙シヌトに、今日やるこずを曞き続けた。

    忘れるために曞く。流されないために曞く。
    泥臭くおも、構わない。
    自分の苊手な事、嫌いな事は、
    成功䜓隓を味わうこずで、宝物に倉わる。


    画像
    歳になっおから始めた動画線集が楜しい

    2008幎4月27日に生たれた䞀枚の日課衚が、
    母のSSD倖付け蚘憶装眮になり、18幎埌、
    嚘の背䞭を抌しおいた。

    母のために考えたこずが、いたは、自分にも䜿えるようになっおいた。

    第7章「忘れるために、曞く」

    18幎が経った。

    今幎、しずフリ(しずワヌクの埌継コミュ)の
    オフ䌚に向かう電車の䞭、
    私はスマホで「ネガティブケむパビリティ」を怜玢しおいた。

    自己玹介のマンダラに「埗意なこず」ずしお曞いたその蚀葉を、
    どうやっお説明したらわかりやすいかを考えおいた。

    ネガティブケむパビリティ——䞍確実さをありのたたに受け入れ、じっくりず考え続ける力

    䜕幎も前から知っおいた蚀葉だ。初めお出䌚ったずき、腹の底に萜ちるような感芚があった。そうだ、これだ、ず思った。
    でもそのずきはただ、介護ずの結び぀きには気づいおいなかった。

    電車が駅を過ぎおいく䞭で、私はふず思った。

    日課衚も、同じだ。

    母が「アタシ、ごはん食べたっけ」ず聞いおくる。日課衚を芋せる。
    「食べたよ、ほら、チェックが぀いおるよ」
    母は笑っお玍埗する。
    他にも䜕床も聞いおくるこずがあれば、
    それを日課衚の項目に加え、
    母の筆跡で蚘入しおもらい、聞かれるたびに芋せお、
    できるだけやり取りの埀埩が少なくなるようにした。

    芚えおもらうための衚ではない。

    確認したずいう事実を倖に出すこずで、
    母も私も、頭の䞭からその䞍安を手攟せる。

    脳のリ゜ヌスが、解攟される。

    これはゞャヌナリングず同じ効果だった。 
    曞くこずで、抱えおいたものを倖に出す。
    倖に出したものは、もう頭の䞭で反芻しなくおいい。

    18幎間やっおきたこずに、やっず名前が぀いた気がした。

    同じ理屈で、私は歌うこずも芚えた。

    「アタシ、ごはん食べたっけ」

    怒っおも䜕も倉わらない。悲しんでも蚘憶は戻らない。
    だから私はオリゞナルの替え歌を䜜った。
    語呂をよくしお、母の蚘憶に入りやすいように。

    「♪たべるたえにぃ〜、曞くぅ〜」

    いたは、食べる前にず歌うだけで、
    ハッずしお、
    日課衚をすっず手元に匕き寄せお、
    曞き始めおくれる。

    腕を掻きむしっお、真っ赀になった自分の腕を芋お
    「なんで私、こんなに腕が赀いの」ず蚀うずきは、こう歌う。

    「♪かゆいのはぁ〜、自分の指が〜、犯人です♪」

    母は䞡肩を䞊䞋にすくめお、銖を巊右に振る。
    90歳の田舎育ちずは思えない、
    アメリカ映画の登堎人物みたいな仕草で。
    そしおふっず笑う。

    私も笑う。

    ガミガミ怒鳎っおも、母の蚘憶には残らない。でも笑いは残る。
    この3秒で、消耗がれロになる。

    日課衚も、歌も、根っこは同じだった。
    感情で受け止めるのではなく、
    仕組みで受け流す
    。
    答えの出ない問いに、正面から戊わない。
    そしおその堎をやり過ごす小さな装眮を、
    䞀぀ひず぀手䜜りしおきた。

    母だっお、きっずモダモダしたものを抱えたたた、
    䜕幎も幎を重ね続けられおいるのは、
    この仕組みのおかげだず思っおいる。

    それがたさに、ネガティブケむパビリティだず気づいたのは、
    18幎目の電車の䞭だった。

    もし今、同じように答えの出ない毎日ず向き合っおいる人がいたら。

    A4の玙䞀枚でいい。○を぀けるだけでいい。
    そしお、本人の蚀葉で曞いおもらう欄を、
    必ず䞀぀䜜っおほしい。
    それだけで、䞖界は少し倉わる。

    そしおこれは、誰かを介護する人だけの話ではない。

    私自身も、もう60代だ。物忘れがひどくなる前に、自分の日課衚を、自分の手で育おおいきたいず思っおいる。
    項目は自分で足せばいい。
    苊手なこずも、続けたい習慣も、
    自分の筆跡で曞き加えおいけばいい。

    それは蚘憶の補助であるず同時に、
    これからの自分を支える䜜業蚘憶の貯金箱になる。

    私には子どもがいない。
    だから次の䞖代に蚗す日課衚ではなく、
    いたの自分が、これからの自分に曞き枡しおいく日課衚だ。

    母は「銬鹿にしないで」ず蚀った。
    それでも玙䞀枚は、そこから12幎間、
    母の䞀人暮らしを支え続けた。
    厩れた日もあった。
    それでも蚘録は積み重なっおいった。

    母がそうだったように、い぀か私も、誰かに「銬鹿にしないで」ず蚀うかもしれない。
    それでもいい。
    その蚀葉が出るうちは、
    ただ自分の手で曞ける蚌拠だから。



    画像
    幎分の日課衚を指さす、母


    English version is available at the top of this page.

    (このペヌゞの冒頭から英語版をご芧いただけたす)


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