
リングとピエロ 前編
那珂川ランドの夏は、今年も蒸し暑く、賑やかだった。
諸岡くんとの出会いは、期間限定のラーメンフェスで同じ店を担当したときだった。同じ時期にアルバイトとして入社した彼とは、大学三年の夏にようやく本格的に言葉を交わすようになった。
彼は優しい顔立ちと人懐っこい性格で、誰からも好かれるタイプだった。上司陣からも自然と気に入られ、特に当時の大道芸マネージャーである光村さんに、妙に可愛がられていた。所属である私よりも、よほど頻繁に声をかけられているのを見て、私はずっと「何者だ……」と思っていた。
「諸岡喜六です。メリーゴーランド担当です。よろしくお願いします」
自己紹介は至って普通だった。でも、なぜか目が離せなかった。光村さんが私には事務的な会話しかしてこないのに、諸岡くんに対しては「喜六! ちょっと手伝いなさいよ!」と親しげに声をかけている様子が、ずっと気になっていた。
「山崎、もろちゃんは彼女に振られたばかりだから狙い目だぞ」
同じ大学の先輩、マサさんがからかうように言ってきたが、そんなつもりは毛頭なかった。ただ、どうすれば上司とあんなに自然に話せるのか、それが気になって、つい彼のことをじっと見てしまっていただけだ。
「千夏ちゃんと喜六は同い年だから、仲良くやれそうね!」
そう言われたとき、私は複雑な顔をしたのを今でも覚えている。嫌いなわけではなかったが、初対面の相手を「同い年だから」という理由だけで括られることに、強い違和感を覚えた。
「よろしく、山崎さん」
「はい……」
今思えば、なんて素っ気ない返事だったのだろう。あのときの私は、諸岡くんという存在に少し怯えていた。
ラーメンフェスまで残り一週間を切った頃、私たちはレンタルキッチンを借りて本番のリハーサルに明け暮れた。短気な私に、彼は決して苛立つことなく、丁寧に耳を傾けてくれた。意見をまとめ、試食し、改善案を出してくれる。卒なく何でもこなす人間なのだと、このとき初めて実感した。
それに、よく話を聞いてくれる。リアクションも大きく、オーバーなくらいに明るい。だからこそ、人に好かれるのだろうと思った。
「少し熱めで、麺はちょっと片目の方が、席について食べる頃にちょうどいい温度になりそうだね。長時間営業で気を使いすぎるのも、きついし」
何度も失敗を繰り返し、不味いラーメンを食べ続ける日々だったが、ようやくお客さんに提供できる味にたどり着いた。
「これでマサさんに良い報告ができるね、山崎さん」
諸岡くんは少し誤解していた。マサさんはただのサークルの先輩で、親しいだけだ。
「あの人は『信じてたわぁ』って適当に言うだけだよ」
私は普段通りに返した。誤解を解く必要もないと思っていたし、彼と特別な関係になりたいとも思っていなかった。
ラーメンフェスが終わると、マサさんはすぐに那珂川ランドを辞めた。
「天ぷら屋になるわ」
ラーメンを作っていた人間が言うセリフではなかったが、それも彼らしいと誰もが納得した。
「もろちゃん、山崎を頼んだぞ。案外寂しがり屋だから」
「セクハラですよ?」と私が返すと、諸岡くんは何も言わず、ただニコニコしながら頷いていた。
「えっ、責任取る気?」
「違いますよ!」
慌てて丘の上に戻っていく彼の背中を見送りながら、私は少しだけ笑った。
メンバーたちが離れていくのは寂しかった。夜中まで喫茶ロシナンテで語り合った時間も、もう戻らないのだろうと思っていた。
「山崎さん!」
振り返ると、諸岡くんがいつもの優しい顔で立っていた。
「寂しかったら、丘の上に来ればいるからね!」
冗談めかした言葉だったが、素直に嬉しかった。でもマサさんがいる手前、素直になれず「そっちこそ!」と返してしまった。
それでも彼はしょっちゅう丘下まで降りてきて、声をかけてくれた。
「おー、山崎さんじゃん、元気?」
「やー! ご機嫌よう」
適当な挨拶にイラッとすることもある。でも、救われることも多かった。
大道芸で葛西さんと衝突していた頃も、彼は私のガス抜きに付き合ってくれた。やる気をくれたのも、彼だった。
今、私はパスケースにつけた不格好な真鍮のリングを、時折指にはめてみる。私が本当に手に入れたものよりずっと小さくて、手作り感の強いリング。
那珂川ランドに私を繋ぎ止めているのは、おそらくこれだ。
マネージャーになり、クレープ屋を任されるようになってから、仕事に楽しさを感じられなくなっていた。ただ焼くだけの作業と、シフト調整、新人指導。毎日が淡々と過ぎていく。
最近、諸岡くんを鼓舞することがあった。再び話すようになって嬉しかったのに、彼が以前よりずっと弱々しく見えて、ついきつい言葉を投げかけてしまった。
「もっと優しく言わなきゃ、いなくなるわよ?」
自分自身に言い聞かせているようなものだった。昔の彼のように話せたら、今の彼は救われるのだろうか。でも私には、そんな器量も度量もなかった。
だから、些細なことでイラついてしまう。
朝から項垂れていたヤナさんに、諸岡くんたちがピエロの稽古をやると伝えると、彼女は自分の稽古を放り出して彼のところへ行った。そして、すっきりした顔で戻ってきた。
「喜六ったら……気づかないうちに良い上司になっちゃって……」
何があったのかと尋ねてもはぐらかされ、私は嫌な気持ちになった。結局、諸岡くんに強く聞いてしまった。
「ピエロは、やるよ」
話し合いの末、彼は意外なほど自分からそう言った。私は最後まで「やります」と言えなかったのに、彼は器用に受け止めてみせる。
私は何も言えず、その場を離れた。
ヤナさんに見せた何かが気になって、勝手にイライラして、妬いて、最後は圧をかけてしまった。
彼は限界のギリギリを繋ぎ止めながら頑張っているのに、それに気づいていながら、私は素直になれなかった。
でも、彼なら受け止めてくれる。そんな気がしていた。
だけど——
発注書をまとめにオフィスへ向かう途中、普段は見かけない勤務医が慌てて走っていくのが目に入った。
「諸岡さん待ってろよ!」
その言葉に嫌な予感がして、私は大道芸楽屋へ全力で駆け出した。
有川くんが震えながら立っている目の前で、諸岡くんは倒れていた。
「喜六!?」
……そこからの記憶は曖昧だ。
勤務医と共に彼を医務室へ運び、有川くんを帰した後、マジシャンの衣装を着た手越さんが心配そうにやってきた。
「軽い脳震盪だから大丈夫です。手越さん、他のメンバーには体調不良で休んでいると伝えておいてください」
勤務医の言葉が重く響いた。当たり所が悪ければ、頭が割れていたかもしれないと。
私は知っていた。彼が自分を誤魔化しながら頑張っていることを。誰よりも近くで見て、心配していたのに——
「山崎さん? ですよね」
「はい。クレープ屋の山崎です」
「やっぱり! BOSSが一番信頼してる人ですね! なら、私も安心できます」
……信頼?
そんな私のどこに、信頼できる要素があるというのだろう。
手越さんが去った後、私は小さく呟いた。
「本当、ごめんね……」
目覚めるまで一緒にいようと、私はオフィスに半休届けを出して私服に着替えた。ロッカーから、時間潰しに昔読んでた本を取り出した。ドラマ化の時に、主人公を坂登純作がやったせいで嫌いになった小説だけど… なんだか読みたくなった。
大道芸の楽屋から諸岡のカバンを回収したら、葛西さんとすれ違った。
「どうも」
とりあえずの挨拶をしたが、バチバチ時代があるから特に返事は返ってこなかった。別に良いですけどね。
医務室に戻ると、まだ諸岡は起きていなかった。
「最近、寝れてなかったかもね。今スヤスヤ寝れてるのは良いことかも」
ちょっと前に医務室に諸岡くんは来て仮眠してたことがあったマネージャー業が慣れなくていつもてんやわんやで寝れてない、と相談にきていたらしい。そんなこと私には一切話してこなかった。
どんなに崩れ出しても、弱いとこはあんまり見せない。いや、見せられないのかもしれない。
私は諸岡くんのことを…… 理解してなかった…