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受け継いでいくもの

    【目次】
    第䞀章 母ずは歩調が合わなかった
    第二章 私の家庭を぀くる
    第䞉章 母の生呜力
    第四章 四十歳のずき芪子が逆転
    最終章 受け継いでいくもの

    ヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌ

    ⚫第䞀章 
    母ずは歩調が合わなかった

    母ずの最初の蚘憶は、䞉歳くらいの頃。
    手を぀ないで歩いおいる堎面だ。

    買い物だったのか、どこかぞ出かける途䞭だったのかは芚えおいない。でも、家からバス停ぞ向かう道、途䞭にあった公園の景色だけは、今でも鮮明に芚えおいる。

    母は、どんどん先を歩いおいく。

    小さかった私は、その手に匕っ匵られるように必死に぀いおいった。

    「もう少しゆっくり歩いおほしい。」

    子どもながらに、そう思っおいた。
    なぜそんなに早く歩くのか、理由は聞かなかった。

    どうしお、友達ず友達の母さんが䞀緒に歩いおいるように同じスピヌドで歩いおくれないのだろう。
    どうしお私の歩幅に合わせおくれないのだろう。
    そんなこずを䜕床も心の䞭で思っおいた。

    母ず歩調が合った蚘憶は、ほずんどない。

    âž»

    友達の家ぞ遊びに行くたびに、少し矚たしかった。
    友達のお母さんは、おや぀を甚意しおくれ、郚屋は綺麗に片づいおいお、笑顔で迎えおくれる。

    「普通の家っお、こういうものなんだな。」
    そんなふうに思っおいた。

    おや぀を出しおくれるず、友達のお母さんは
    「ごゆっくりね、足りなくなったら、おかわりあるからね。」ず蚀っお郚屋を出おいく。

    その䜕気ない䞀蚀が、子どもの私にはうれしかった。歓迎されおる気持ちになったからだ。

    䞀方、私の家に友達が遊びに来おも、母はそんなこずをしおくれた蚘憶はない。

    家ではよく、母は掃陀機をかけ終わるず、そのたたコンセントも抜かずに眮きっぱなしにしお、
    「ああ、忙しい。買い物に行かなきゃ。」
    ず出かけおしたうような人だった。

    友達の家ぞ行くたびに、それが圓たり前ではないこずに気付いおいった。

    âž»

    私が䞭孊生の頃、母は先物取匕の勧誘を受けた。
    営業の男性二人が家に来おいた。
    倧人だけが䜕か話しおいる空気を察し、私は二階ぞ行った。

    その人たちが䌚瀟ぞ電話をかけるため、家の電話を䜿った。

    圓時は芪子電話ずいうものがあり、䞀階で話しおいる内容が、二階の電話の受話噚越しに䌚話が党郚聞こえるずいうものだった。

    私は二階で、その䌚話を聞いおしたった。
    「この奥さん、頭匱いから  」
    そんな蚀葉が聞こえおきた。

    䜕か良くないこずが起きる。
    子どもながらに、そう感じた。

    営業の人が垰る時、私は二階から叫んだ。
    「おじさんたち、電話、党郚聞いおたんだからね」

    今思えば、なんお危ないこずをしたんだろうず思う。
    その埌、海倖出匵䞭だった父ぞ囜際電話をかけた。
    父の指瀺で祖父母ぞ連絡し、クヌリングオフの手続きを進めた。

    倧事には至らなかった。

    その頃にはもう、
    うちの母は、友達のお母さんずは違う。
    そう確信しおいた。


    ⚫第二章
    私の家庭を぀くる

    二十代半ばを過ぎ、結婚の準備が始たった頃。
    私はただ実家で暮らしおいた。

    母が家の䞭でどう過ごしおいるかを、毎日芋おいた。
    鍋に火をかけたたた出かけたこずもあり、本圓に危なかった。
    気になるこずがあるず、今やっおいるこずをそのたたにしお突き進んでしたう。

    埌片付けよりも、次に気になったこずぞ意識が向いおしたう母。
    その様子を、私は子どもの頃から芋お育った。

    そんな母を芋お、
    自分の家庭は違うものにしたいず思っおいた。

    âž»

    䞭孊生の頃の母が䜜っおくれたお匁圓は、今でも忘れられない。

    ある日、ふたを開けるず、ご飯の暪におでんが入っおいた。
    倧きな倧根、ちくわ、
    そしお、手のひらほどある昆垃が䞀枚。
    箞で぀たんだ瞬間、ぬるっず滑っお床ぞ萜ちた。
    拟おうずしおも、なかなか぀かめない。

    呚りの目が気になっお、ずおも恥ずかしかった。
    誰かに笑われたわけではない。
    それでも、「早く拟わなきゃ」ず焊る気持ちだけが倧きくなっおいた。
    このこずがきっかけで、昌䌑みの教宀で、
    お匁圓を広げる時間が少し苊手になった。

    友達のお匁圓は、
    食べやすく圩りもきれいだった。
    私も、そういうお匁圓を䜜っおもらいたかった。

    自分で䜜るなら、食べやすいこず、
    ふたを開けた時に恥ずかしくないこず。
    それだけは倧切にしたいず思う出来事だった。

    âž»

    高校生になるず、母の入院をきっかけに、自分でお匁圓を䜜るようになった。
    料理が奜きでやり始めたわけではなく、
    必芁に迫られただけだったから、負担に感じおいた。最初はうたく䜜れなかった。
    砂糖ず塩を間違えるくらいだったが、次第に慣れおいった。

    結婚しお子育おをするようになり、
    嚘には自分の䞭孊生の頃のような思いは、させたくないず思った。

    豪華じゃなくおも矎味しそうに芋えるこずを意識しお䜜ったお匁圓。
    圩りを考えたり、おかずを食べやすい倧きさにしたり。
    毎日続けるうちに、嚘奜みのお匁圓を䜜れるようになった。奜きなものを入れ、食べやすく詰める。
    「ママのお匁圓、奜き。」
    その䞀蚀が、うれしかった。

    䞭孊生の頃の私が欲しかったものを、
    嚘に枡せたような気がした。

    âž»

    片付けも同じだった。
    私は片付けが特別奜きなわけではない。

    物が片付いおいないず萜ち着かないのだ。
    だから片付ける。

    幌少期に、散らかった郚屋に居心地の悪さを感じおいたからこそ、今は心地いいず思える暮らしを䜜りたいず思っおいるのかもしれない。

    母を芋お育たなければ、今の私は違っおいたかもしれない。散らかっおいおも平気だったかもしれない。

    ⚫第䞉章
    母の生呜力

    私が高校䞀幎生のずきの母の入院は、B型肝炎を発症したためだった。母はただ40代半ばだった。

    長い入院生掻になり、その間、父ず匟ず私の䞉人で家のこずを回した。

    母がいない家は、それたでずはたったく違っお芋えた。
    家事は誰かがやらなければ回らない。
    その頃初めお、母が毎日やっおいたこずの倚さを知った。倚少散らかっおいおも仕方ないものなのかもしれない、ずさえ思った。

    母は退院埌も食事療法や通院を続けおいた。
    それでも、じっずしおいる人ではなかった。

    ハレヌ圗星が芋えるず聞けば、真冬の北海道で双県鏡を持っお倜空を芋䞊げる。

    医垫からは安静にするよう蚀われおいた。
    それでも、「芋おみたい」ず思えば出かけおしたう。
    昔からそういう人だった。

    父はそんな母を止めようずする。
    母は「芋たい、芋たい」ず子どもが遊びに行くように倖ぞ出お飛び出しお行っおしたう。父は困り果おおいた。
    子どもの頃は、そういうやり取りを䜕床も芋おいた。

    父は仕事をしながら、そんな母を心配し、支え続けおいた。

    âž»

    八十代になっおからも、母は倧きな病気をいく぀も経隓した。

    心臓の手術。
    乳がんの手術。
    コロナにも二床かかった。
    そのたびに心配した。

    今床こそ駄目かもしれない。
    そう思ったこずも、䞀床や二床ではない。

    手術の日は、私も萜ち着かなかった。
    病院からの連絡を埅぀時間が、ずおも長く感じられた。

    でも、母の口から、
    「もう駄目かもしれない。」
    ずいう蚀葉を聞いた蚘憶がない。

    気が぀くず、
    「だいぶ元気になったよ。」
    ずLINEが届いおいた。

    こちらが心配しおいるこずなど気にも留めおいないようだった。
    それも、昔から倉わらない母らしさだった。

    âž»

    今、八十八歳の母は老人ホヌムで暮らしおいる。

    奜きなずころぞ出かけ、
    奜きなものを芋お、
    奜きなように毎日を過ごしおいる。

    盞倉わらず、人を困らせるこずもある。

    先日、嚘ず䞉人で食事をした日も、埅ち合わせ堎所にはいなかった。
    私たちは駅の䞭を探し回り、やっず芋぀けた。
    離れたずころに座っおお氎を飲んでいたらしい。

    そしお、食事が終わるず、
    母は䜕事もなかったように、
    「じゃあね。」
    ず蚀っお、足早に颯爜ず垰っおいった。

    その埌ろ姿を芋送りながら、嚘が蚀った。

    「おばあちゃんっお、すごいね。」

    私も思わず笑っおしたった。
    さっきたで駅の䞭を探し回っおいたこずが、どうでもよく思えた。

    あれほど困らせおいたのに、䞍思議ず腹は立っおいなかった。
    それよりも、「この人は本圓に倉わらないな」ずいう思いの方が倧きかった。

    子どもの頃、母ずは歩調が合わなかった。
    倧人になっおからも、䜕床も振り回された。
    それでも今、その背䞭は頌もしく思える。


    ⚫第四章
    四十歳のずき芪子が逆転

    父は倧孊教授だった。
    八十歳たで仕事を続け、晩幎は倧孊で教えるこずよりも、講挔や執筆掻動が䞭心だった。

    仕事䞀筋だった父が、仕事を蟞めお家で過ごす時間が増えた。
    仕事を蟞めた途端、父の様子が倉わり始めた。

    い぀も「財垃がない」ず蚀い、探し回っおいるず、母から連絡がきおいた。

    倜䞭にわけのわからないこずも蚀っおいたらしい。
    倩井に穎が開き、そこからドむツ人がハシゎから降りおくる。
    怅子が膚らんで人間になる。

    そんな幻芚を芋るようになっおいた。

    しっかりしおいた父が、少しず぀父ではなくなっおいく。認知症になっおしたったのだ。

    その倉化は、私には受け止めきれなかった。

    âž»

    父ず母が暮らしおいたのは、健康な高霢者向けのマンションだった。
    介護が必芁になるず䜏み続けるこずはできない。

    母は父の倉化に耐えきれず、血圧が䞊がっお倒れおしたった。

    父の介護斜蚭を探さなければならない。
    私ず匟、母で話し合いが始たった。
    匟は仕事が忙しかった。

    動けるのは、圓時パヌト勀務だった私。
    斜蚭を探し、病院ぞ付き添い、匕っ越しの準備を進める。

    匟が車を手配し、家族みんなで斜蚭を芋孊に行った。
    父も䞀緒だった。
    父はその日、自分がこれから暮らす堎所を芋お、䜕を思っおいたのだろう。
    今でも時々、そのこずを考える。
    助かったのは、父は斜蚭に入るこずにあたり抵抗を感じおいなかったこず。
    倧孊の研究宀なんだよね、ず蚀っおいた。
    そしお、そういうこずにしおおいた。

    父を斜蚭ぞ入れるたでの時間は、目の前のこずをこなすだけで粟䞀杯だった。
    斜蚭ぞの入居日、私は荷物を運びながら、「本圓にこれでよかったのだろうか」ず䜕床も考えおいた。
    でも、父のためでもあり、母のためでもある。
    家族みんなで考えた末に出した結論だった。
    あの頃は、正解だったのかどうかを考える䜙裕さえなかった。
    これは、私が四十歳のずきのできごず。
    芪子の立堎が逆転したこずを実感したのだった。

    八十歳のずきに介護斜蚭に入居した父は、
    八十六歳でこの䞖を去った。

    âž»

    その頃、嚘は䞭孊受隓を考え始める時期だった。
    塟にも通わせたい。
    そのためにも仕事は続けなければならない。

    倏䌑みになるず、嚘は孊校の預かり教宀ぞ行きたがらなくなった。
    家で留守番したいず蚀う。

    私の勀務する䌚瀟は自転車で五分ず近かったので、昌䌑みに家ぞ戻り、お昌ご飯を䜜っお䞀緒に食べ、たた職堎ぞ戻った。

    昌䌑みはあっずいう間だった。
    嚘の顔を芋お少し安心し、たた急いで䌚瀟ぞ戻る。
    そんな毎日を繰り返しおいた。

    頭の䞭は、い぀も䜕かでいっぱいだった。

    父の病院。
    介護斜蚭での生掻。
    嚘の受隓。
    自分の仕事。

    毎日、目の前のこずを片づけるだけで䞀日が終わっおいった。

    あの頃のこずは、正盎あたり芚えおいない。

    思い出せるのは、䌑む暇もなく走り続けおいたこずだけだった。

    âž»

    パヌト先の䌚瀟の朝瀌で、ある日突然心臓の匷い動悞を感じたこずがあった。

    その堎に立っおいるこずが苊しくなり、倖ぞ出お空気を吞った。

    パニック障害ずいう蚺断だった。

    病院で凊方された薬を飲みながら、父の介護も、嚘の受隓も進めおいかなければならない。
    䜓調を理由に立ち止たれる状況ではなかった。
    通院しながら、仕事も続けた。
    ただ気力も䜓力もあったのだな、ず今なら思う。

    ⚫最終章
    受け継いでいくもの

    嚘が小さかった頃、母はよく我が家ぞ遊びに来おくれた。
    パズルをしたり、人圢で遊んだり。

    嚘の盞手をしおいるずいうより、
    母自身が倢䞭になっお遊んでいた。
    汗をかきながら、二人で真剣に遊んでいる。

    嚘を楜したせようずしおいたずいうより、母自身が心から楜しんでいた。

    私は少し離れたずころから、その様子を眺めおいた。
    あんなふうに子どもず䞀緒になっお遊ぶこずは、私にはできなかった。

    今思えば、母は昔から倉わらない。

    母は、自分が面癜いず思ったこずに倢䞭になっお生きおきた人だった。

    âž»

    今、母は老人ホヌムで暮らしおいる。
    嚘は結婚し、新しい家庭を築いた。
    私は倫を看取り、今は䞀人で暮らしおいる。

    䞉人ずも、それぞれ違う堎所で生掻し、それぞれの人生を歩いおいる。

    それぞれ別々に暮らしおいおも、必芁な時には連絡を取り合い、䌚えば自然に笑っお話ができる。

    昔は想像もしなかった関係になった。

    子どもの頃は、母ずは歩調が合わないず思っおいた。
    結婚しおからは、母のようにはなりたくないず思っおいた。
    今たでの人生、䜕床も振り回された。
    そんな母は、今も䜕ひず぀倉わっおいない。

    倉わったのは、私の受け止め方だった。

    母は䜕も倉わっおいない。
    倉わろうずしたこずも、おそらくない。
    それでも今は、それが母らしさなのだず思える。

    âž»

    母のこずを振り返っおいる぀もりだった。
    でも、振り返っおいたのは母のこずだけではなかった。

    私自身の人生の振り返りだった。

    この文章を曞き始める前は、母ずの出来事を敎理したいず思っおいた。
    でも曞き進めるうちに、敎理されおいったのは私自身の気持ちだった。

    母ずの出来事だけではなく、その時々の自分の気持ちたで思い出しおいた。

    忘れおいた景色たで、䞀぀ひず぀思い出した。

    圓時は毎日を乗り切るこずに粟䞀杯だった。

    だから気づかなかったこずも、五十代埌半になった今だから芋えおきた。

    来幎、私は新居で新しい暮らしを始める。
    嚘も家族ず暮らし、母も自分の暮らしを続けおいくだろう。

    人生には、それぞれの節目があるのだず思う。

    その前に、䞀床立ち止たり、ここたで歩いおきた人生を振り返るこずができた。

    今、このこずを曞く機䌚があっお、本圓に良かったず思っおいる。

    母は、自分らしく生きおきた。
    私は、そんな母ずは違う人生を遞んできた。
    それでも、母から受け取ったものは確かにある。

    それは、生き方そのものではなく、たくたしく生きおきた母の背䞭から䜕かを感じ取るこずが、今だからできおいる。私も負けおはいられない。

    そしお、ふず思った。

    私は母のこずを芋ながら育ち、たくさんのこずを感じ、考えながら自分の人生を歩いおきた。
    では、嚘は私のこずを芋お、䜕を感じ、䜕を受け取っおいるのだろう。

    それは、嚘だけが知っおいるこずなのかもしれない。
    そしお私は、それを知らなくおもいいのかもしれない。

    母は母。
    私は私。
    嚘は嚘。

    これからも、それぞれの人生を歩いおいくのだず思う。


     
     
    🪎 思考敎理・蚀語化Mint・moon 䌚瀟員ずしお働きながら、日垞ので起こる些现な出来事から感じたこずや考えたこずを敎理しお発信しおいたす🌿 noteでは深くゆっくり心を敎えるお話を。 Instagramでは日々の小さな気づきを。 読んでいただけるず嬉しいです☺

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