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ネバーアンインストール~切り取った8つの物語~

    【あらすじ】
    アプリ/ SNS / AI / サイト構築。テクノロジーの進化が止まらない今。
    サラリーマンである一ノ瀬は、積極的に新しいIT技術を取り入れる。だけど、急ぎすぎて、大切なものを見失い、うまくいかない。
    常にフラットを求められる社会。取り残されてしまい、今まで積み上げてきたものを一瞬で喪失するのを目の当たりにする。
    スマホにはいつも好きなモノや見たいモノだけが映る。だけど、心の中には常に消化しきれない傷や思い出がとめどなく溢れている。
    視界はAIアルゴリズムにジャックされているけれど、心は決して加工できない。
    変わりゆく時代のルールにがんじがらめになりながら、昇華できない沢山の思いを抱く。
    僕が切り取った8つの物語。

    本作品は「NOTE創作大賞2026(お仕事小説部門)」応募作品です。
    一人でも多くの方に読んでいただけると嬉しいです。


    エピローグ:AIマジック

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    「AIでやれそうじゃないですか?」

    この一言が会議室に響いた瞬間、僕は、前傾姿勢をサッと起こして、素早く周囲を見渡した。

    僕が顔を上げる前、既に、「たしかに!」「絶対できそう!!」「天才!」などと、いや、天才は嘘。大人になって打合せでこんな阿呆みたいなことを言う人はいない。でも、とにかく、色めきたった歓声に近いどよめきが起こった。

    会議室の空気が一変した。

    僕が顔をあげた頃には、「ああ・・・。」「確かにね。」と辛うじての肯定的な呟きが各所から聞こえてきた。急展開についていけないものの、このご時世、AIに一定の理解を示さないのは恰好が悪いという保身から出る呟き。これもまた、前出のAI提案を優位なものにした。

    鳥居さん、やってくれたな。

    あともう少しで仕事の不公平感が解消されるところだったのに。何を言ってくれるんだよ。

    僕は唇をかみしめた。

    グッと入っていた力が身体からすべて抜けていく。このままペタンコになって萎れて椅子からヒラヒラと舞い落ちそうだ。

    鳥居さんのAI提案を皆が耳にするまで、上長の徳永さんの話の進め方は完璧だった。

    高圧的ならないように、あくまで相談というスタンスで話を切り出し、「うちの部署は大変なんだよ。」とか「うちは皆疲弊してんだ。」などといった自分達が一番大変なんだアピールで相手に罪悪感や嫌悪感を抱かせるようなことはせず、ただただ現状を淡々と話した。

    まずは、各部署の状況をグラフで公開。各部署の状況が会議室に映し出され、一目瞭然になる。そして、特定部署に時間とマンパワーに余裕がある状況が浮き彫りになり、それが皆の視覚を通して脳内に浸透した。

    もし、僕が該当部署の人間なら、ここまで赤裸々に開示される前に、「僕がやっておきます。」と答えて一刻も早くラクになりたいくらいの状況だった。

    僕は、この打ち合わせをきっかけに、暇だという印象を持たれたくないし、気が利かないとも思われたくない。ついでに、メタ認知ができてなくて、自他間にギャップがあることに気づけない客観性に乏しい奴だとも思われたくない。

    だけど、実際の会議室は、シンとしたままだった。ただ、皆が抱く感情は確実に1つにまとまりだしていた。

    皆、徳永さんが見せるグラフをしっかり見つめ、次第に徳永さんの話を頷きながら聞く。そして、僕も、気が付けば、かなり前のめりに徳永さんの話を聞いていた。

    機は熟した。徳永さんは皆の雰囲気からその確証を得る。そのタイミングで、公平性の観点からどの部署がどの仕事を担当するのが適切であるのかを、あくまで私見であると断った上で皆を見まわしながら抑揚のない声で提案した。

    さすが令和の上長。パーフェクトだ。僕は徳永さんの話の進め方に感嘆した。スタンディングオベーションをしてもよかったのだがやめておいた。

    それにしても、徳永さんは、強いていない。とことん強いていない。

    今日、書記誰だっけ。上田さんか。もうこの役割分担を議事録に打って、前に映しちゃえばいいのに。そしたら、この話はこれで終わりだ。

    そう思った瞬間の鳥居さんのAI提案発言だった。

    この発言を耳にした瞬間、皆の頭の中は「AI」という単語にジャックされた。その結果、徳永さんが緻密に創り上げた雰囲気が一瞬で崩壊した。まとまりかけていた話が反古された。

    だから、僕はこうして今唇をかみしめているのだ。

    さらに、ここで令和の「強いていないスタイル」が裏目に出た。徳永さんはAI提案を真摯に受け止め、「別にAIを使っても構わないですよ。」とAI提案に対して真摯にラリーを返しはじめたのだ。

    僕は途端に徳永さんの態度に不安を覚える。ダメだよ。「AIでもいい。」なんて言ったら。徳永さんが慎重にお伺いを立てていた仕事が兎にも角にも誰でもいいから片付けて欲しい類の仕事だということが露呈してしまう。

    しかも、鳥居さんは鳥居さんで二の句が続かない。鳥居さん、具体的にどんなAIをどう使えばタスクを処理できそうなのよ?教えてよ。

    あー!もう!!だから、嫌なんだよ。

    とりあえずのAI提案。

    タスクを担わされたくない人は、AIという言葉に一瞬色めき立つ。徳永さんの話で納得していた人でさえ、現代においてマルチタスクへの救世主感を出しているAIに聞く耳をもってしまう。不思議と空気が緩んで雰囲気がよくなったようにも見える。

    だけど、具体的な提案は無い。イソップ童話に出てくる靴屋のおじいさんとおばあさんを助けるために夜通し靴を作ってくれる小人。あの小人は居ないのかなと言ってるのと変わらないのだ(実際に、AIが出てくるまで、よく「小人さんが寝てる間にやってくれないかな。」と言ってる人が居た。)。

    さっきまで、皆、前傾姿勢で徳永さんの話を聞いていたのに、今は、給水タイムになっている。隣を見ると、佐々木さんもペットボトルの水を飲んでいる。

    ああ、僕も飲み物を持ってくるべきだった。喉が乾く。イライラしてるから喉が乾いてることで余計イライラする。

    僕は佐々木さんの方をまた見る。佐々木さんも僕を見る。目があったので、なんとなく笑う。

    完全に空気が緩んでしまった。もう鳥居さんの部署に仕事をお願いできそうな雰囲気には戻せない。

    とりあえずのAI発言。これを法律で禁止してくれ。

    本当は何もないのに「AI」という言葉を使って代替案があるようにみせかけないでくれ。

    でも、鳥居さんは、あっぱれだ。やるなぁ。どうしてもやりたくなかったんだろうな。僕も鳥居さんの立場だったら絶対やりたくないもんな。

    鳥居さん自身もここまでの破壊力があるとは思わなかったのかもしれないけれど、絶対にやりたくないという鳥居さんの気持ちがAI提案を生み出し、場の雰囲気を一気にグシャリと潰した。攻められる方が後がないと思った時のパワーはいつだってハンパない。

    次第にざわめきも収まり、また会議室がシンとなる。僕は、手持無沙汰で、なんとなく机の上に手のひらを広げて見つめる。

    完全に振り出しに戻ってしまった。そろそろ誰か何か言ってくれ。

    徳永さんは少々令和スタイルにこだわりすぎているのかもしれないな。

    いや、でも、今は、少しでも相手を否定することを言ったり、相手に強いるような発言をすると、僕達はパワハラ罪で糾弾され、時代錯誤の寵児として闇に葬られる。そんなの誰だって嫌だもんな。

    僕は視線を足元に落とす。隣の佐々木さんのクロックスが目に入る。そういえば、クロックスって最近履いてる人あまり見ないな。一時は、店舗も沢山見かけたけどな。クロックス達、どこに行ったんだろ。

    そういえば、今はタイパの時代じゃなかったっけ?音楽も前奏なしでいきなり歌い出さないといけないほど、皆が時間を大切にしてる昨今なんだよね?だけど、ここでは、これだけの人がこれだけの時間をかけた話し合いも、雰囲気発言で反故にできる。

    今は100%安全な言葉しか口に出せない。「引き受けるのをなんとか回避したいからという気持ちから具体的な提案はできないのに『AIにやらせよう。』とか言って話の腰を折らないでください。」とか言えない。

    いつからダメになったんだっけ?カラクリがわからなくて腑に落ちなくて釈然としない。だけど、今は、多くの人が思っているだろう言葉を誰か言ってくれと思ってもそれを言う人はいない。

    弱い立場の人。強い立場の人。本当に場面を支配しているのはどちらなんだろう。本当にゲームメイクしているのはどっちなんだろう。

    弱い立場で萎縮しながら当時のルールを必死に遵守していた昔の僕に今を見せてやりたい。

    今と当時を支配する空気の違い。僕は、ガラリと変わってしまった時代に振り落とされたくない。今とズレた人に映らないよう、昔をしがんでいる人だと思われないように、今に自分を必死に合わせ込んでいる。

    僕は「今」からはみ出していないだろうか。

    ああ、早く水が飲みたい。


    第1話:反転アプリ

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    デスクに戻って水を飲むことで頭がいっぱいになっていたけれど、僕はこの打合せで言っておきたいことがあったことを思い出した。

    「すみません。」と手を挙げて、「このお話は一旦ここまでという感じでよいですかね。」と切り出した。皆の視線が一斉に僕に向く

    徳永さんが「そうですね。いいですよ。鳥居さん、またちょっと個別にお話しましょう。」と言い、鳥居さんがそれに応じると、僕に向かって、「何かお話あるんですよね。どうぞ。」と話を振ってくれた。

    僕は「ありがとうございます。」と頭を下げて、「すみません。別件なのですが、広尾自動車関連のデータベース入力ってまだ時間かかりそうですか?」と佐々木さんの先に居る澤君に視線を向けて発言した。

    澤君は突然自分に話を向けられて少し驚いていたものの、すぐに、「もうすぐ終わるので大丈夫です。」とサラッと笑顔で返答してきた。

    もうすぐ終わるんだ。全然進捗を教えてくれなかったけど、終わるのならまぁいいのかな。ただ、大丈夫ですってどういうことなんだろう。何が大丈夫なんだ?澤くんが大丈夫なの?それはそうだ。とりあえず終わるのだから。

    僕は別に澤君を案じてるわけじゃないよ。僕のスケジュールを考えてるの。それとも僕が大丈夫ってこと?だとしたら、なんで澤君が決めるの?僕が大丈夫かどうかを決めるのは僕でしょ。大丈夫と言い切ってクローズするなよな。

    空気的に僕の「ありがとうございます。」待ちだけど、僕はありがとうって言わないよ。だって、全然有難くないから。でも、何か言わないと無視したと思われるよな。ありがとうは言いたくないけれど、イヤミだと思われる返答もまずい。あと、怒りを滲ませるのもダメだ。フラットに。とにかくフラットにいこう。

    僕は、「あー、はい。」と抑揚の無い、わかっているのかわかっていないのかわからないリアクションをした。そして、その場の空気をモヤらせきった。

    なんだか釈然としない。別に澤君は悪いわけじゃない。ただ、ずっと「大丈夫です。」発言と笑顔がひっかかってる。

    でも、それ以上にこんな事でいちいち目くじら立てる自分が嫌だ。別に澤君達の仕事が少し遅くなっても結局大過に至るわけじゃない。そしたら、もう別にいいじゃないか。きっと大丈夫だろ。

    皆が一斉に椅子から立ち上がった。自分のモヤつきをこねくり回してるうちに、打ち合わせはお開きになったようだ。

    佐々木さんも立ち上がる。僕も皆の動きに合わせて、立ち上がり、椅子を机の下に仕舞う。クロックスを履く佐々木さんとソロソロと歩きながら、「眠いっすね。」とか「今日は早く帰ります。」とか「珈琲淹れようかな。」とか言いながらデスクに戻った。

    デスクに戻っても、気づくと打合せを反芻していた。こんなことをしても意味がない。マウスを握って確認しないといけない書面を開く。モニタに映る書面を心の中で1行1行丁寧に音読する。

    書面をスクロールする。目も口も心も書面の文字を追っているのに、頭に溶け込まない。それどころか、気づけば手を止めている。そうすると、間髪入れずに、すぐにまた抑えていた気持ちが頭をかすめてくる。

    書面は一旦諦めて、Teamsのチャットに切り替える。打合せ中に溜まったTeamsチャットを「やばいやばい。溜まりすぎだろう。」とわざと心の中で呟きながら読んでみる。

    だけど、頭の中のモヤは全然晴れない。
    我ながら呆れる。

    周りはみんなそれぞれの仕事をしっかり始めているようで、キーボードを打つ音やパーテーション越しに相談している声が聞こえてくる。僕は、もっとドライにもっとライトにもっと成熟した人間でありたい。澤君の発言をこんなにも引きずってグズグズしてるなんてダサすぎる。

    僕は引き出しを覗いて、お菓子を物色する。そうだ。このチョコ、まだ食べてなかったよな。僕は楽しみにしていたチョコを取り出して、包み紙を破いて口に放り込んだ。300円もしたから期待したのに、甘すぎて気持ち悪くなってきた。あー、300円も払って気持ち悪いの我慢してチョコ食べて、僕は何をしてるんだろう。ああ、辛気臭い。

    マグカップをもって慌ててウォーターサーバーで水を入れてデスクに戻る。甘くなった口に水を流し込みながらマウスを握る。だけど、書面を開く気にも、チャットをチェックする気にもならない。

    はぁとため息をつく。

    結局、僕は器の小さい人間なんだ。

    僕は観念してデータベースにアクセスする。

    モニタに吸い込まれるように画面を見つめ、マウスでクリックし続ける。お目当てのデータを見つける。澤君が流し込んでくれたデータ。隅から隅までチェック。

    本来、僕は澤君のデータをチェックする立場ではない。アクセスしていること自体が気持ち悪い。それをわかっていてもチェックすることがやめられない。まったく性格が悪い。負の感情に突き動かされる情けない奴だ。

    最終的に全てチェックした。

    僕はマウスから手を離して手のひらを頭の上に置く。

    どの項目も正確にデータがトレースされてる。澤君、パーフェクトじゃん。

    たしかスタートさせたのは今月のはじめ。だけど、今日の時点でまだ終わってなかった。

    丁寧で正確。

    ただ、どう考えても時間がかかりすぎだ。

    僕の頭の中がシンとする。

    僕は、打ち合わせ以降、この考えからずっと逃れられないでいるのだ。

    これ以上座っていてもどうせ集中して仕事ができない。僕はマグカップを持って立ち上がった。もう帰ろう。

    給湯室でカップを洗って、そそくさとザックを背負う。「お先に失礼します。」と言いながら、扉をあけてエレベーターホールに出る。エレベーターホールでいつも通りイヤホンをつける。

    スマホを握りしめてエレベーターに乗り込み、ビルの出口でプレイリストをスクロール。

    今日はどの曲を聴いて帰ろうかな。僕の退社後の時間を色づける大切な選択。

    イヤホンで音楽を聴くと、頭の中にダイレクトにメロディが流れこみ、詩が追いかけてくる。どうしたって抑え込めなかった感情が消えていく。

    どんな気持ちも耳から音楽を流し込めば強制終了できる。僕はいつもこうやって音楽に身も心も委ねながら帰宅する。

    ***

    家に着くと、玄関でイヤホンを外す。手を洗い、服を着替える。

    耳から音楽が流れこまないと、途端に思考がリスタートする。そして、また胸がざわつき始めた。なぜこんなに落ち着かないのか、まだ頭が追いついていない。

    晩御飯は何にしようかなと思いながらも、デスクに座る。右手がスルスルとマウスに伸びて、パチパチとキーボードを打って会社PCにログインする。

    一度PCにログインしてしまうとスッとその世界に入ってしまう。PCから離れてしまえばなんでもないのに、PCを見ている限り、世界の全部がそこにあるような気がする。

    いつも自分が使っているノーコードアプリを開いて、新しいテーブルを作る。テーブルのイメージは固まっているからひたすら手を動かして設定していく。無音だと焦燥感が強くなり、イライラしてくる。

    動画再生アプリで好きなアーティストの動画を連続再生させる。

    回転数が速い曲だと心は勝手にその曲に合わせて上がっていく。そんな時は、無心で手を動かせる。作業がつらくないような気がする。次々に再生される楽曲にノッて永遠に作業できそうな気持ちになる。

    だけど、しばらくして、「痛っ。」と声が出た。手首が痛い。手首をブラブラと揺らす。気を取り直して、もう一度、マウスを握って作業を再開させようとするけれど、なんだか気分がのらない。

    もう音楽も味方をしてくれない。それどころか、音楽でキメていた反動がやってきたのか、手首から肘までがしびれてきた。

    とりあえずご飯食べるか。

    僕は流しで手を洗って夕食の準備をする。今日もうどんだ。ヒガシマルうどんスープにうどんをいれて、その上に、大量のネギと豚肉をのせて煮込む。肉に火が通ったら鍋ごとテーブルに運んで卵を落とす。取り皿にうどんを取り分けながら思う。ヒガシマルうどんスープは僕を裏切らない。

    食後、僕はお皿とお鍋を洗うと横になった。まだ、右肘が痛い。軽く目を閉じる。

    ダメだ。このまま眠ってしまいそうだ。
    まだ眠るのはもったいない。
    とりあえず起き上がる。

    そして、またPCの前に座る。

    食事の前の続き。ひたすら手を動かす作業がダルい。ダルいけど、進めないとテーブルは完成しない。今度は、音楽アプリで適当なプレイリストを流す。

    あ、ミシェルだ。南港のフェスで聴いた曲。この曲好きだな。チバさんの声、もう生で聴けないんだよな。でも、今でもチバさんはこうして僕にパワーをくれる。


    できたー。

    テーブル完成後、もうひと踏ん張りして思い描いていたアプリを形にした。

    ここまで来てようやく立ち上がる。キッチンでほうじ茶を淹れる。デスクにほうじ茶をそっと運んで、一口飲む。

    プログラムをスタート。

    大量の書類から必要なデータが抜き出されていく。そして、その抜き出したデータを、作成したアプリにインポート。モニタを見つめる。ほうじ茶を飲みながら、更新状態を確認すると、見事に欲しかったテーブルができあがった。トータルで10分もかかっていない。

    ブラボー、俺!!

    じんわりと身体が熱くなる。思っていた通りだ。無音の中で、心が熱くなる。

    ハレルヤ。

    時計を見たら午前1時。そろそろ風呂に入らないとな。達成感に背中を押されて、鼻歌混じりで風呂に向かった。

    ***

    翌朝、僕は、いつも通り、エレベーターホールでイヤホンを外す。

    デスクの下にザックを置いてPCにログイン。身体が重い。できる限り立ちたくない。でも、珈琲は飲みたい。このままマウスを握ってしまったら1時間は立たないだろうな。

    キシリトールガムを口に放り込んで、給湯室に向かう。

    「おはようございます。」と背後から声がして、「おはようございます。」と掠れた声を絞り出しながら振り返ると澤君が立っていた!僕は言葉を繋ごうとするも全く浮かんでこない。濯ぎ途中のマグカップがひたすら水を浴びせられている。

    昨日の夜の僕の成果を話したい。だけど、いくらなんでも、マグカップ洗いながらは無理だ。でも、このチャンスを逃したくない。モノにしたい。

    どんどん固まる僕に、澤君は「一ノ瀬さんに仕事を回すのが遅くなっちゃってすみませんでした。」と言ってきた。え、あ、そうなの?と思いながら、改めて澤君を見る。澤君は手に何も持っていない。給湯室で何するつもりだったんだろう。いや、違う。してるんだよ。今。俺に話を。

    急展開に戸惑いながら、「いや、大丈夫だよ。データ量がハンパなかったもんね。大変だったでしょ?」と僕は慌ててに澤君に寄り添う会話を始める。

    「はい。メチャ時間かかったっす。やってもやっても終わらなくって。」

    やってもやってもということは、やっぱり同じ処理を繰り返し手でやったんだろうな。

    「お疲れ様。大変だったね。ありがとう。」と言いながら、澤君と一緒に給湯室を出た。「あざす。」と頭を下げて、澤君は自分のデスクに戻っていった。

    澤君のTシャツの背中にはユニコーンが描かれていた。なんか見覚えのあるイラストだな。

    マグカップを机の上にそっと置いて、椅子に座る。マグカップに口をつけてビックリ。オエ。今日のフレーバーティー、失敗だ。酸っぱさが際立ちすぎだ。飲むたびに不味さに気が散る。かといって捨てるのは勿体ない。だから、一気に飲んで、結局、ウォーターサーバーで水を汲んできた。

    Teamsでそそくさと一通りの連絡を見たあと、昨晩作ったアプリのリンクをコピーする。

    カードキーを持って立ち上がる。リモワの人も多いからこの時間でもあまり人が居ないんだな。僕はあまりフロアを歩かないからか、リモワが始まる前のギュウギュウのオフィスがまだ記憶に残っていて違和感を覚えた。

    目的地に着いた。

    パーテーションを軽くノックして、「澤君。お疲れ様です。ごめんね。今、チャット送ったんだけどさ。」と話しかけた。澤君は、僕の登場に驚きながらも、「あ、一ノ瀬さん、お疲れ様です。これっすよね。」といってリンクを開いてくれた。

    澤君がモニタをこちらに向けてくれる。僕は澤君の隣に座って一緒にモニタを見た。僕の説明を聞きながら、動作を確認する澤君。アプリで加工したデータをデータベースに流し込んだ時には、「こんなに一瞬で終わっちゃうんですか。ヤバいですね。」と感嘆の声を上げてくれた。

    「えー、これ使っちゃっていいんですか?」という澤君に「是非使ってみて。わからないことがあったら遠慮なく聞いてね。」と僕は心を込めて答えた。

    僕は自席に戻りながら思った。昨日僕が澤君に抱いた感情。今日僕が澤君に抱いた感情。180度違う。話をすれば、寄り添えば、容易に辟易しなくて済むんだ。

    ハイタッチくらいすれば良かったかな。

    その日、僕は寝不足だったから、早々にベットに倒れこんだ。とても疲れていたけれど、心地良い疲労感で、眠りに堕ちる瞬間、とても幸せだった。

    ***

    だけど、あの朝感じた幸福な気持ちは続かなかった。僕が澤君から回ってきた仕事を終えた頃、僕の心はまた大丈夫ではなくなっていた。

    僕は何度も記憶を辿る。あの日のどの場面を思い出しても、僕の目に映る澤君は、僕の作ったアプリを歓迎してくれていた。だから、きっと近いうちに澤君はアプリを使ってくれるだろうと思っていた。

    今後は、あのスピードで処理が終わる。澤君も楽だし、僕もスケジュールを心配しなくて済む。見事なハッピーエンドだと思っていた。

    だけど、アプリの履歴を見ても、澤君が僕の作ったアプリを使った形跡が無い。2週間経っても、1カ月経っても変わらない。

    時折澤君とフロアですれ違う。特段、変わった様子はない。ニコリと笑って「お疲れ様です。」と言ってくれるし、自販機の前で会えば、「雨嫌ですね。」とかいつもと変わらず言葉を交わしている。

    だけど、きっともうこのアプリは永遠に使われないだろう。僕はアプリをそっと閉じる。

    僕も忘れてしまえばいいんだ。

    イヤホンから流れる曲を次々スキップする。どの曲もちぐはぐで、心が動いてくれない。

    そもそも頼まれたわけでもないのに勝手にアプリを作った僕が悪いんだ。だけど、少しくらい使ってみてくれたっていいじゃないか。思わせぶりな態度をしないでくれよ。

    いや、頼んだわけじゃないから彼には使わない自由がある。思わせぶりな態度じゃなくて、あれは、あの場を上手に取り繕うためにとった社会性のある振る舞いだ。あそこで真向から否定されなかっただけマシだ。

    そもそも人のデータをコソコソ見ていたことも気持ち悪い。そこを指摘されなくて良かったじゃないか。僕は独り相撲をとっていただけだ。いい加減、気づけよ自分。ここでケツまくれ。傷心なんかして恥ずかしい奴だ。

    まだ僕の焦燥感を沈めてくれる曲がみつからなくて、永遠とスクロールを続ける。

    胸がいっぱいだ。
    僕は泣きべそをかいてまた少し大人になった。


    第2話:遅延メッセージ

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    外はきっと炎天下だろうな。僕は今から外に出るのが憂鬱で仕方がない。

    今はひんやりと落ち着いている全身も、あの日差しに晒された瞬間、一瞬でじっとり、そして次第にずっしり、自分の汗にまみれていく。

    ああ、憂鬱だ。何年もの夏、何回もの夏の出張を経験しても腹をくくれない。

    どうせなら駅前でかき氷でも食べて帰ろうかな。かき氷は吐く息が熱いほど美味しい。きっと駅前で食べたら生き返るだろう。

    少し気持ちが明るくなったのも束の間、僕は、また、エレベーターが僕の階に近づいてくるのに比例して、どんどん憂鬱になる。猛暑がサラリーマンを萎えさせるパワーは本当に凄まじい。

    そして、エレベーターは非情にもあっという間に僕の居る階に止まる。帰る以外に選択肢はない。仕方ない。僕は泣きたい気持ちを堪えてエレベーターに乗り込み、1Fボタンを押した。

    そして、ふと顔をあげると、奥の扉が開いて、見慣れない女性がこちらに向かって走ってくる。どう考えても僕の方に向かっている。

    歳の頃は35歳~40歳だろうか。青みの強い紺色のブラウス。 珍しい色だ。でも、全体のトーンはとてもよくまとまっている。

    おしゃれな人だな。

    一度でも話したことがあれば記憶に残りそうな人。でも、いくら顔を見ても、どう記憶を辿っても、僕は彼女に会ったことはない。

    彼女は、今日、初めて会う人だ。 

    でも、彼女は、確固たる足取りで僕の方に歩み寄ってくる。

    あ、僕は何か忘れ物をしたのかもしれない。慌てて、ジャケットのポケットを上から触る。スマホはある。何を忘れたんだろう。一度、エレベーターを降りた方がいいのかな。全然答えに辿りつけなくて、僕は猛然と焦り出す。

     彼女は僕の前まで来ると、「総務の小西と申します。一ノ瀬さん。こんなタイミングで申し訳ありません。」とハキハキと喋り出した。少し鼻にかかった高めの声。気持ちの良い喋り方。

    でも、やっぱり知らない人だ。

    彼女は続ける。

    少しだけお話させて下さい。あの、合併、3年前の、その際にはご協力頂き、本当にありがとうございました。随分時間が経ってしまいましたが、本当に大変なことをお願いしましたよね。自分達だけではどうしようもなかったので、ご協力頂けて大変助かりました。部署の他のメンバーにも、くれぐれもよろしく伝えるようにと言われております。

    彼女は僕の目を真っ直ぐに見て、全ての思いを吐き出すようこう言った。

    僕はエレベーターの「開」ボタンを押しながら彼女の言葉を聞いて、瞬時に何も理解できなかった。だけど、身体が先に反応した。全身の毛穴が全部開いたような感覚。もう久しくこんなにも真っ直ぐに気持ちを伝えられたことが無い気がする。

    全身が一瞬でジンと熱くなり、そこから、やっと彼女の言葉を理解した。

    僕は、彼女が今日までずっと僕達にお礼を言おうと思っていてくれた誠実さが信じられなかった。下請け会社が仕事としてやったことだ。当たり前といえば当たり前のこと。ただのビジネス。

    しかし、彼女は、ずっと忘れずにいつか感謝を伝えようと覚えてくれたのだ。僕も彼女の誠実さに実直に呼応したくて、慌てて「とんでもないです。わざわざご丁寧にありがとうございます。随分前の事なのにこうして覚えていて頂き、本当に嬉しいです。」と言った。 

    だけど、上手く言葉が繋げない。

    やばい、 泣きそうだ。僕の胸に何かが込み上げてきた。

    僕は、また「本当にわざわざご丁寧にありがとうございます。」とお礼の言葉を重ね、「今後ともよろしくお願いします。」と会話を帰結させて、人差し指をボタンから離した。

    そして、深々とお辞儀をした。自分の靴先を見つめ、彼女の「お気をつけてお帰り下さい。」という言葉を聞きながら、扉が閉まっても、顔を上げることができなかった。

    なんとか気持ちを抑えて、頭を上げると同時にちょうど1Fについた。

    僕は顔を上げて呼吸を整えて ビルの出口に向かって歩く。 大きくため息にも近い深呼吸をする。気持ちが落ち着かない。嬉しいはずなのに、気分が上がらない。それどころか、なんだか苦しい。

    ビルの入り口に近づくと狂ってるとしか思えないほど外が明るい。強烈な陽の光で外が白っぽくさえ見える。

    自動ドアが開けば、僕はあの強烈な日差しにさらされる。この炎天下の中をオフィスまで帰るのか。そう思っただけで、僕はますます息苦しくなってきた。

    ポケットを探る。だけど、イヤホンをする気になれない。耳から音楽を入れたら破裂してしまいそうだ。

    ビルの外に出て歩く。あっという間に汗だくになる。でも、もう駅前でかき氷を食べようとも思わない。ただ炎天下の中、道もよくわからないのに商店街をひたすら歩く。

    歩き疲れて、駅に向かう。ホームのベンチに腰掛ける。暑さのおかげで僕は頭の中の苦しみから解放された。

    一緒に聞きたかったな。

    やっと胸に溜まっていたものがポツリと出た。

    そうだ。一緒に聞きたかったんだ。これが僕の今の気持ち。今度は、一緒に聞きたかったなと、わざと声に出して言ってみた。

    悲しいけれど、悲しみが込み上げることで不思議と胸が空いた。

    あの「ありがとうございます。」は僕なんかが受け取るべき言葉じゃない。本当は隣で一緒に頭を下げながら聞く言葉だ。

    ホームに電車が滑り込んでくる。滝のように額から汗が流れる。タオルで拭う。冷房の効いている車内を思い浮かべても足が動かない。まだ座っていたい。

    LINEする?

    先輩にLINEする?
    いや、しないよ。

    僕が今話したいのは、僕の隣に居たはずの先輩だ。

    先輩。

    言葉が溢れる。心が勝手に話かけ始める。

    ***

    今日、お客さんに心からありがとうと言われました。

    先輩、身を削って頑張ってましたもんね。

    先輩の誠意は3年経っても色あせていませんでした。

    今日、それがわかって嬉しかったです。

    一緒に聞けなくて残念です。

    僕は・・・・相変わらず毎日大したことない仕事をしてます。

    それでも僕はまだ会社にいます。

    ごめんなさい。

    ***

    僕は、今、隣に居るはずだった先輩にも、遠くに居る先輩にも、心でしか話かけられない。

    これ以上、どうしようもない。

    暑い。眩しさと暑さでどうにかなってしまいそうだ。

    今日はもう家に帰ろう。

    イヤホンをつけようとケースを開けた。だけど、まだ耳から言葉が入ってくることに耐えられそうにない。どんな言葉も受け入れられないほど僕の頭に言葉が溢れている。

    イヤホンケースをそのまま閉じた。次の電車には必ず乗ろう。


    第3話:隠しリンク

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    今日も一日平和に終わった。僕はベッドに横になる。スマホを右手に握りながら、なんとなく天井を見る。

    もう今着てる羽織りだと寒いな。明日から冬用のコートに変えようかな。夏が長すぎて永遠に冬なんか来ないと思ってたけど、冬は冬で毎年必ずやってくるんだよな。

    僕は、枕の上に頭を乗せ直して、軽く目を閉じる。

    うん!?一瞬意識を失ってた。このまま寝てしまってもいいけどと思いながら、充電ケーブルに繋がっているスマホを引き寄せる。

    インスタをチェックする。画面をスクロールするとポストがどんどん上がってくる。ラウンジの裏側で披露されるママやキャストのお喋り。好きな服屋のスタッフの1週間コーディネート。美味しそうな時短料理。

    僕に僕の好きなものだけを見せるためにAIが創り上げた編成。AIは僕に僕が見たい場面だけを見せてくれる。

    いい時代になったなぁ。

    スマホを置いて、僕は布団の上で大きく伸びをする。天井のシーリングライトが眩しい。上体を起こしてリモコンを探す。テーブルの上にあるのを見つけて面倒だけど立ち上がり、リモコンを手に取ってライトの調光を落とした。

    せっかく立ち上がったからカップに水を注いで、テーブルの椅子にもたれかかってチビチビと飲む。

    僕達は、かつて、仕事にフルベットすることが求められた。決まった時間までにどんな体調でも出社した。有給を取る時には、頭を下げて理由を言って、出社すれば「昨日はすみませんでした。」と言った。

    足りない部分が一目瞭然。すぐに炙り出せる状態。はみ出さないように、置いていかれないように、いつも周囲の様子を伺っていた。

    ほんの少し前の世界。その世界が閉じたことにホッとしながらも急激な展開にいつも忘れ物をしたような気にもなる。

    近ちゃんはこれだけの変化をどう思っているのだろう。

    近藤さんこと「近ちゃん」は、昔、僕の上司だった。その頃から現在に至るまで僕はずっと今ちゃんの隣に座っている。周囲の人間も長きにわたる師弟関係に好意的に目を細める。皆は、僕が近ちゃんを心から思慕していて、その絆の深さ故に仕事を続けてきたという物語を信じている。

    そんなわけないじゃないか。

    僕がまだ20代の頃、近ちゃんはとにかく強烈だった。近ちゃんは、自分のパフォーマンスが最高になることをモットーに周囲と協働していた。だから、僕に面倒なお客さんを当たり前に押し付けた。

    僕がお客さんに怒鳴られてもかばってくれないどころか、「知らないよ。自分でなんとかしなさいよ。」とヘラヘラ笑いながら怒気を孕んで返答してきた。近ちゃんは周囲に僕がそのお客さんの素行を報告している話を一刻も早く打ち切りたいようだった。

    カスハラとパワハラのコラボレーション案件。だけど、あの頃、カスハラ・パワハラなんて誰も知らされていなかった。会社も時代も近ちゃんを許容していた。そして、近ちゃんの莫大な売上に僕もしっかりぶら下がっていた。

    僕は近ちゃんがあてがう理不尽な仕事を近ちゃんが望むクオリティに仕上げなかった。僕の反抗的な態度への近ちゃんの怒りは凄まじかった。皆の前であろうと僕をなじる。

    (ただ、あの仕事のクオリティだと注意はされて然るべきだ。だけど、そうしていれば同じクライアントの仕事を回されなくて済むからね。)

    ある時、近ちゃんが、皆が僕の所業に困っていると、皆が僕を嫌っていると言い出した。

    嘘つけ。事務の人に僕の仕事のクオリティなんて関係ない。納期さえ守っていればそこに感想を持つはずがない。他のお客さんの仕事は然るべきクオリティに仕上げている。不満を抱いているお客さんはたった1人。近ちゃんが相手をしたくない、その人だけ。

    そして、それで嫌な思いをするのは近ちゃんだけ。相手をしたくないお客さんから連絡がくるから。煩わしい思いをしないといけないから。そして、それは選民である近ちゃんに相応しくない仕事だから。近ちゃんは心をかき乱されている。壮大な八つ当たり、見せしめが僕に向かってきている。

    そもそも、近ちゃんのことも皆快く思ってないよ。

    僕は心の中でそう突っ込んだものの、近ちゃんがこうやって相手を削り出すのは、僕に対する憎しみが一段上がった証拠である。近ちゃんは全力で僕を潰したいと思い始めている。

    僕はどうすればいいんだろう。
     
    僕はどうしたいんだろう。

    ある日、僕は、近ちゃんにガン無視された後、デスクで紅茶を飲みながら、椅子から立ち上がって近ちゃんの隣に立った。

    「すみません。お時間よろしいでしょうか。」とわざと周囲に聞こえる大きめの声で声をかけた。近ちゃんと一緒に会議室に向かう。

    僕の強引な展開に近ちゃんも何かを感じたのだろう。会議室の机の上に肘を立てて、手の甲を交互にさすりながら「どうしたの?」と笑顔をみせた。敵が落ちる瞬間を前にして嬉しいのだろう。相変わらず人の目をのぞき込み過ぎだ。久しぶりに近ちゃんが僕に笑顔を見せているな。

    どうして僕達はこんな関係になってしまったんだろう。

    僕は、近ちゃんの指先を見つめながら、「今までとてもお世話になったのに大変申し訳ないのですが」と切り出した。少し視線を上げると、近ちゃんは胸の高鳴りが聞こえてきそうなほど頬を赤らめている。僕は近ちゃんの目を真っ直ぐ見て、感情を込めずに話し出した。

    実は、最近、とても状況的につらくて心療内科に電話をしたんですよ。そして仕事場での様子を話したのです。一番辛いことはと聞かれたから、先日のあの話をしました。そしたら、お医者さんが今すぐ話を聞くから病院に来た方がいいって。お医者さんがそう言ってるので行った方がいいですよね。

    あと一息で堕ちるはずだった僕。これまでのお礼と辞める非礼を詫びる僕。映るはずだった場面が映らない。ストーリーが歪む。

    王国の外に居る人間に近ちゃんの所業が曝される。フェイクだと言いきれない。自分の記憶は塗り替えられても、外に飛び散ったエピソードは回収できない。

    自分が自分の居ないところでもうすぐジャッジされる。その場面に割り込むことはできない。僕の口から語られる物語が歩きだすことの告知。

    近ちゃんの顔色が焦りの色に満ち満ちた。

    僕は近ちゃんの偉大な功績を沢山見てきた。そして、それと同じだけの裏側の物語も。僕の頭の中には数多の近ちゃんのプロファイリングデータが蓄積されている。

    手垢のついた方法で堕とされたらたまったもんじゃない。

    近ちゃんは凄まじい早口でこういった。それはどこの医者だってそう言うよ。向こうは商売なんだから。馬鹿馬鹿しい。そして、会議室から出て行こうとした。

    いや、どうしたの?って言ったでしょと思いながら、近ちゃんの背中に向かって、「そうですよね。でもお医者さんが診察が必要だと言っているので15時に予約しました。すみませんが早退させていただきます。」と最後まで言葉を吐ききった。

    自分の中でどんどん正当化させて雑魚をイジメ散らかしておいて何拗ねてるんだよ。

    僕は手に汗を握りながらもスッキリした気持ちでデスクに戻り、ゆっくりバッグを手に持ってオフィスを後にした。

    この日を境に、僕が近ちゃんの思惑に完璧にハマらなくても、僕に不機嫌をまき散らすことはなくなった。

    ***

    そして、僕はどんな日も近ちゃんと机を並べ続けた。

    僕は近ちゃんの思うようにバリバリ仕事をこなすような人間にはなれなかった。だけど、丁寧に確実にお客さんに信頼されるように仕事に取り組む姿勢を守り続けた。どんなに大したことがないと思われるような仕事でも、不甲斐ないという思いに負けて投げやりにならなかった。

    時間が僕を味方してくれた。誰もがやりたくない仕事だからこそ確実に積み上げていく姿。これは、病める時も健やかなる時も、近ちゃんのイズムを体感し続けた結果だ。

    ケツメイシの「友よ。」のサビを聴くといつも近ちゃんを思う。

    僕が近ちゃんの隣に座り続けた時間は、振り返ればあっという間だった。だけど、ここから先。僕のこれから先の人生。これだけの時間を誰かと持つことはもう叶わない。

    この一生でたった一人、僕がどんな日も背中を見続けた人。

    若き日。僕は、僕にとって特別な人というのは、きっと僕に素晴らしい教えや影響を与えてくれる人だと思っていた。

    僕は特別な人の教えを聞いて、滝に打たれたような感覚を覚える。僕はその人の影響を受けて、人生が開花する。また、僕が悩める時には、僕に真摯に向き合い、寄り添い、一緒に悩みを解決してくれる。

    こんな風に、特別な人というのは、僕の人生を好転に導いてくれる人だと思っていた。

    だけど、僕がこの世で出会った特別な人は全然違った。

    それは、縁が切れなかった人。

    ただひたすらに縁があった人だ。

    ***

    久しぶりに色々思い出したな。僕も年を取った。

    そう思いながら寝がえりと打って、僕はまた右手でスマホを探した。


    第4話:アンチェックシック

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    もうすぐ年末だ。やばい。食料品の買い溜めをしておかないと。年末のスーパー、苦手なんだよな。無印良品のレトルトが美味しいから、いっそのこと全種類買ってそれで生きていこうかな。なかなか楽しそうだ。

    無印のおやつやご飯を食べて、年末年始はネトフリ三昧にしよう。寒いし、誘われた時以外は絶対家から出たくない。

    僕の頭の中は仕事に関係ないことでいっぱいだった。完全にダレていた。そこに、「ちょっといい?」と声が聞こえて振り返った。いつの間にか僕の左側に上野さんが立っていた。

    僕は慌ててダレる前に作業していたデータを保存しながら、「あ、はい。どうされました?」と返事をした。すると、上野さんが、「一応確認なんだけどさ。麻木さんからのチャットって届いてるよね?」と声のトーンを落として言いにくそうに聞いてきた。

    あー、しまった。僕は、「すみません。」と言いながら、Teamsを開く。あら、10分おきくらいに麻木さんから連投でメッセージが入ってる。僕はだいたい事態を把握した。椅子を上野さんの方に向けて、僕も立ち上がる。

    「すみません。細かい作業をする時に通知を切って、そこからずっとそのままにしてました。麻木さん、怒ってました?」と聞くと、上野さんも上野さんで全ての予想はついていたようで、「いやいや、怒ってないよ。全体的にも全然大丈夫。ただ、麻木さんが僕の所にきて、色々細かく説明してくれるからさ。特に急ぎじゃないことも確認してるんだけど、僕もどうしていいかわからなくなったから、一応聞きに来たんだ。」と眉間に皺を寄せていう。

    さらに、「チャットで捕まらないときは電話してくれても構わないって言ってくれてたから、電話してみたらどうですか?とも言ったんだけど、そこまでのことじゃないって言うんだよね。でも、そこから話が長くて・・・。ごめんね。」と上野さんはすっかり疲れた様子で言う。

    上野さんはそこまで言ったら、僕はそこまで聞いたら、上野さんは全てを伝えたから、僕は全てを聞いたから、お互いに黙った。

    僕は恐縮する。「すみません。また僕が通知切りっぱなしだったから、上野さんにまたご迷惑おかけしましたね。もう3回くらいやらかしてますよね。本当に申し訳ないです。」と言うのにかぶせて、上野さんが「いやいや、違う違う。そもそも、一ノ瀬さんは、チャット届かなかったら電話してくれてもいいっていってるんだから、それで何も問題ないよ。」と言う。

    そして、二度目の沈黙。

    僕は袖机から「ブラックサンダー」をフレーバー違いで3つ出して、上野さんに、「本当に申し訳ないです。今度こそ気を付けます。良かったら、これ食べてください。」と差し出した。上野さんは、ずっと手を小刻みに揺らして、「いやいやいやいや、別に一ノ瀬くんは間違ってないよ。」と言いつつも、「でも、ブラックサンダー大好きだから、頂いちゃうね。ピスタチオ味ってあるんだおいしかった?」と受け取ってくれた。

    そして、「うちってファミリーパックで買うから新しい味ってなかなか食べられないんだよね。」といつも通りボソボソと喋りながら「ありがとね。」と自席に戻っていった。

    僕は、そのまま麻木さんの元に行って、「お疲れ様です。すみません。僕が全然チャットに気づかなくて。」と声をかけた。麻木さんは僕の方を見て、「あ、いいえ。急ぎではなかったんですけど。わからない所が沢山あって」と申し訳なさそうに僕を見る。

    「あ、そうなんだ。いいですよ。わからない所は聞いてもらった方が助かります。見せて下さい。」と言って、麻木さんにPDFデータを見せてもらう。

    麻木さんは、丁寧にモニタを指さしながら、「これは、前の書類のこれと同じことかなと思ったんですけど」と1つ1つの疑問を説明してくれる。

    僕は、麻木さんに、各案件ごとのPDFデータから必要項目を抜粋してもらい、Excelにまとめてもらっていた。麻木さんは、全く同じ言葉や表現でないと「同じだ」と判断しない。それは、間違えたらいけないという慎重さ故だ。そして、派遣さんという立場が彼女の慎重さに拍車をかけているのだとも思う。

    僕は麻木さんとモニタを見ながら、1つ1つ確認する。麻木さんは、僕の答えをしっかり聞き、ゆっくりとタイピングしてExcelシートを埋めていく。

    国名を抜粋する時に、国名でなく国コードになっていたり、少しでも表現が違うと、これとこれは本当に同じですか?と確認しないと次に進めない。国コードは、ネットで調べればどこの国を表しているのか一目瞭然なのだけど、僕も麻木さんにはそれを言えない。

    麻木さんはリストの最後の項目まで全て確認したことを確かめると、僕に向かって「すみません。ありがとうございました。」と頭を下げて、椅子に座ってクルっとモニタに向かい、また作業を再開した。

    僕は、「はい。よろしくお願いします。」と言いながら、麻木さんの席を離れた。

    席に戻った僕は、パソコンのモニタを見つめながら、上野さんが来るまで、自分が何をしていたのかを思い出す。

    メガネを外して、目を擦りながら思う。ああ、そうだ。これやってたんだ。自分がやっていた作業を思い出し、早く結果が見たい気持ちもあったから、そのまま作業に没頭した。

    帰りの電車の中。イヤホンをつけて、何か音楽を聴こうとするも今日はこれだ!という曲が浮かばない。一応、インスタもチェックするけれど、どのフィードも面白いと思わない。

    結局、電車に乗ってる間、プレイリストを、少し再生しては飛ばし、少し再生しては飛ばしを繰り返していた。

    やっと、最寄り駅に着いた。今日の電車はなんだか息苦しかったな。僕は、改札を出て、駅ビルのエスカレーターを上って、珈琲チェーン店に入った。席を確保して、ショーケースを覗く。少し気持ちが明るくなってくる。今日は好きなスイーツを食べていいことにした。

    ドーナツとカフェオレをオーダーして、席に着く。

    PCで作業している人が多いな。友達同士で喋っている人も居るけれど、高校生くらいだと、突然、二人ともがスマホを触りだして無言になる。喋る時もスマホの画面を見せ合いっこしたりして、まるで、スマホが手にひっついてるみたいだ。

    僕達の高校生の頃とは全く違うものを手にしているけれど、一緒に居れば楽しそうなのは変わらない。

    熱心に喋り続けてる人。PCで作業する人。マルチ活動をする人。スマホを見てる人。沢山の人達のざわめきに僕の呼吸もだんだん混ざり合っていく。

    焦燥感がなくなる。

    あー、今日は気を張っていた仕事が終わって良かった。高カロリーのドーナツを頬張りながら、自分を労う。ドーナツってなんでこんなに美味いんだろう。脳の中がだんだん明るくなる。

    それでも、僕の頭にどうしても入り込んでくる。麻木さん。

    ドーナツを食べても、色んな人達をみても、入り込んでくる。

    もう気分は暗くない。だから、冷静にわかる。

    ずっといい人だからと思ってきた。

    だけど、もう、限界だ。

    ドーナツが口いっぱいに広がる。ここのドーナツは、中のクリームが、少し酸味があって美味しい。ドーナツ効果で、頭のモヤモヤが晴れて、僕の気持ちがクッキリと浮かんだ。

    隣のカップルの会話をなんとなく聞きながら、スマホのホーム画面を開いて、一通りSNSをチェックする。

    毎日溢れるほどの動画やテキストが流れてくる。だけど、そのどれも見たらすぐに忘れてしまう。

    そんな中でもたまに印象に残るものがある。それは、おそらくその人の本当の気持ちが綴られているのであろう内容だ。

    その人が本気で好きなこと。面白いと思っていること。苦しんでいること。怒っていること。その人の根っこからの話だけが僕の心まで到達する。

    どんな職業でもどんなスタンスでも、自分と相反する考えでも、その人が本気で喋ってると、不思議と腑に落ちる瞬間がある。反対に、嘘をつくとどこかがおかしいと思い始めてしまう。信じられなくなる。

    ***

    もう家に帰りたいと思うまでカフェに居て、帰宅した。風呂に入って、洗濯を終え、今日もしめやかに一日を終える。

    最後に、静かな気持ちでパソコンにログインした。

    生成AIのアプリを開いて、麻木さんに渡したPDFデータを圧縮してアップする。抜き出したい項目を投げて、テーブルで吐き出させる。ダウンロードしてチェックすると、2割くらいは間違っている。

    それを生成AIに修正項目としてどんどん投げて覚えこませていく。AIだから、何回ダメ出しをしてもいいし、どれだけでも吐き出させることができる。全く遠慮が要らない。5~6回やり取りを繰り返したことで、もうPDFデータをアップすれば、どんどんテーブルが出来上がるようになった。

    半月ほど前から持ち続けていた目算。手を出したら引き返せないだろう。そう思って、踏みとどまっていた。

    だけど、もう自分の心に嘘はつけない。これ以上我慢したら、僕は麻木さんを疎ましく思い始めてしまう。麻木さんに対するネガティブな感想を漏らしてしまうかもしれない。

    そうなる前に、僕が申請するのを辞めればいいだけだ。

    僕達のフロアは、月に1度、派遣さんに業務を依頼するか否かのアンケートが配布される。僕は、来月のそのアンケート用紙のチェックボックスにチェックを入れない。麻木さんは真面目に仕事をしていたのに、僕はもうチェックボックスにチェックを入れないのだ。

    麻木さんはどう思うだろう。良く思わないに決まっている。でも、後悔はない。だって、今、とてもスッキリしているから。ずっとモヤモヤした状態で過ごした2週間がとても辛かったから。これでお開きにしよう。

    僕は麻木さんと手を取り合う場面を失った。


    第5話:ゼロ電位化

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    カーテンをあけると雪が降っていた。雪か。昨日の夜から今日はよく冷えるなと思っていた。天気予報で雪が降るって言ってたっけ。いつも都内に雪が降りそうな時は大騒ぎなんだけどな。気づかなかった。

    雪が降るなんて珍しい。ハラハラと空からとめどなく降ってくる雪を窓辺に立ってしばらく見ていた。

    やっぱり寒い。靴下を履いていない足先がかじかんできた。僕は窓辺を離れて、キッチンに向かう。

    ロイヤルミルクティを淹れよう。最近ハマってる粉末のロイヤルミルクティ。1カップの粉をカップに入れてお湯を注ぐだけ。それなのにこのミルクティは本当のロイヤルミルクティの味がする。これにとっておきのハチミツを垂らす。ナイジェリア産のハチミツって初めてだけど、スーパーで売ってるハチミツとは別物だ。また今度アイツが帰国するときに買ってきてもらおう。

    カップに口をつける。香りも味も芳醇すぎるほど芳醇。外が寒いから余計に美味しい。

    ロイヤルミルクティをデスクに置いて、靴下を履いて、PCにログインする。今日はリモート勤務だから、パジャマのまま。顔も洗ってないし髪もボサボサ。歯だけは磨いた。今日は、外には出ないぞ。

    ミルクティに口をつける。

    どうせやるならサッサとやってしまおう。

    お目当てのサイトを開く。さらに、そこからサイトの編集をクリック。

    僕は、椅子の座面に立膝をついている左足の膝に左手の肘を乗せて頬杖をつく。散々思案したはずなのにまた思案する。

    サイトのページを削除すれば、相手はきっと僕のことを訝しがる。臍を曲げたと思うのかもしれない。かもしれないじゃなくて確実にそう思う。僕なら絶対思う。

    でも、もし、ページを削除せずにこのままにしておけば、僕は相手と話し合いに応じなければならなくなる。話合いで、僕が言葉を尽くして、このサイトへの思いを吐露し、縋るような形で僕の希望を汲んでもらうこともできる。

    だけど、そんなの嫌すぎて、無理だ。

    話し合いの対象がある以上、僕は話し合いをしなければならない。だから、今、話し合いの対象を失くしてしまおう。

    今しかない。きっと、僕は、今、僕の作成ページを削除しないと後悔する。

    昨日の夜も散々逡巡 した。そして、今また逡巡している。だけど、結局、何度考えても、僕が後悔しないと思える選択肢はかわらない。このプレイ以外思いつかない。

    僕は該当ページのチェックボックスにチェックを入れて、ゴミ箱ボタンを押す。

    一括消去完了。

    時間をかけずに淡々と処理するつもりだったのに、逡巡祭りをしたせいで、ミルクティがすっかり冷めていた。冷めているミルクティは飲みやすく、渇いた喉に心地良い。ゴクゴクと一気に飲んだ。美味しかったのは美味しかったけど、なんだか勿体ない飲み方だったな。

    仕切り直しのミルクティを淹れよう。

    今度こそ。僕はまたミルクティをデスクに置く。
    窓辺で少し雪を見る。今日が雪でよかったのかもしれないな。
    深呼吸して、淡々といつも通りの仕事に取り掛かった。

    朝の山場を過ぎたところで、のんびりとメールをチェックしていると、サイト担当からチャットがきた。あんなにグチグチ考えていた割に朝の出来事をすっかり忘れていた僕は、当然のはずのそのチャットにドキッとした。

    「もしかして、ページ全部消しちゃいました?」との短い問いかけ。僕も、「はい。僕の作成したページでご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。」と短く返信。そして、続けて、「もう話し合う対象のものもなくなりましたので、ヒヤリングして頂く必要もないかと思います。今後とも、サイトの運営、よろしくお願い致します。」と結んだ。

    これで、サイト担当と話し合いをしなくてすむ。本格的にほっとする。でも、サイト担当とチャットをしたことで昨日のことを思い出した。

    昨日、サイト担当からチャットが届いた。もう、その日のHPはとうに枯渇していて目が痛かった。チャットを開かずにさっさと帰ればよかったのに、惰性でチャットを開いたのが運の尽きだった。

    打合せでサイトの仕様を決めた。一ノ瀬さんの作成したページの仕様が相応しくない。ここが、おかしい。あそこもおかしい。ちょっと意味がわかりません。色々書いてあって、最後に、今後は編集可能なデータをサイト担当に渡して頂く。明日その話をしたいのでお時間下さい。

    こんなことが書いてあった。

    サイトの仕様を統一しないといけないのはよくわかる。でも、そもそも実験的に作ったサイトに記事入れしてみてほしいと言われたから、ページを作成しただけだ。でも、コンテンツ自体は僕が誠心誠意、熱を込めて書いたものだ。

    誰にも触ってほしくない。

    僕から話合いに応じる旨のチャットがくると信じているサイト担当に、僕は「承知しました。」とだけは返信したくなかった。

    後輩達はいつもクライアントとの契約、デフォルトの処理方法、社内での運用、その全部が体系的にまとまった情報がほしいという。そして、それは常に最新の情報に更新されていてほしいとよく言っている。

    最新の情報を体系的にまとめるにはサイトは最適。僕の仕事内容に付随した情報であれば僕が書ける。僕と横並びの仕事をしている後輩の役には立つだろう。

    導線を考える。あらゆるところを開けては最新の情報を拾う。切って、貼って、繋げる。ある程度まとめた情報をまたそれより大枠で繋げる。すべてを繋げて、あらゆる入口を作る。順を追って情報を見つけられるようにも、テキスト検索でダイレクトに情報を見つけられるようにもした。

    一部のメンバーにテスト利用してもらった。キャッチアップしたい情報が一元化されていて助かる。そんな僕が一番聞きたかった感想ももらえた。僕が目指していたものの具現化の一歩。

    今後、編集権限をもらえないのなら、細かい修正や追加ができないから、情報の鮮度が落ちてしまう。僕の1番やりたいことがやれなくなる。それであれば、サイト作成グループに参加しても仕方ない。サイトなんて、また新しく作ればいい。

    コンテンツは全部僕の頭の中にある。

    相容れないのだ。全削除して良かった。

    ロイヤルミルクティを淹れたこと、ナイジェリアのハチミツを垂らしたこと、これを飲みながらデータを全削除したこと。どれも僕の最高の選択だ。

    また淡々と仕事をする。雪のせいかいつもより厳かな気持ちになる。

    窓の外の雪を見る。雪の白さで冬の景色の黒さが際立っている。
    背もたれに体を預けたとき、ふと、思った。

    澤君はあの時、今の僕と同じような気持ちだったのかもしれない。

    ずっと変わらず笑顔で挨拶してくれる澤君の顔が浮かぶ。うしろめたくて直視できないような気持ちが湧く。なんでだろう。あれ以降、僕は澤君と込み入った話はしていない。当然、非難するようなことも言っていない。

    だけど、僕は澤君に謝りたい気持ち?申し訳ないような気持ち?が湧いてきた。こんな気持ちを抱いたのは、あれ以降、初めてだ。

    そうだ。

    僕は澤君に対して決定的に欠けていた視点があった。

    マグカップに口をつける。

    冷たい。

    そうだ。

    データのインポート作業は、澤君の仕事だった。

    「めっちゃ時間かかるっす。」という感想にも嘘はない。ただ、時間がかかろうと、澤君の仕事だし、何かあった時は澤君が責任をとらないといけない。だから、自分が、心から確証を得られる方法で処理したいと思っていたのではないだろうか。

    僕が意気揚々と説明するから、歓迎するように話を聞いてくれたけれど、どこがどうなっているのかよくわからないアプリを澤君の立場上使わないのは当然だ。

    僕は澤君の気持ちに全然気づけなかった。僕は自分が作ったアプリが絶対的に良いものだと思いこんでいたから。それは僕にとって都合がいいもので、澤君にとっては得体のしれないもので安心できないものだった。

    そんな物、使えないよね。

    僕は、今やっとそれに気づけた。

    僕はなんて自分勝手な人間なんだ。

    澤君、ごめんね。

    ***

    昼ごはんは、無印良品のレトルトカレー。まだ、外は雪が降っている。僕は、少し前の曲を集めたプレイリストを流して、カレーをテーブルに運んだ。

    スパイスがよく効いてるのに、なんだか甘いカレー。おいしい。なんていうカレーだっけ、覚えておかないとな。

    カレーを食べることで次第に明るい気持ちになる僕。僕の明るい気持ちの背中を押すように、プレイリストから「JOY」が流れ出した。

    いつかの忘年会で、澤君と僕は同じミュージシャンが好きだということが発覚した。しかも、2人共1番好きな曲まで同じだった。それが「JOY」。スマホで小さな音で「JOY」を鳴らし、一緒に口ずさみ、リリックの秀逸さを語り合った。

    これ以降、「JOY」が流れてくると、僕はこの日の澤くんとの語らいをよく思い出した。

    僕は、澤君が大切にしていることを全く理解していなかったんだ。

    今日の「JOY」は胸が痛い。スワイプすれば簡単に次の曲に変わる。それでも、僕は、スワイプに逃げる人間になりたくなくて聴き続ける。こんな気持ちで聴いても「JOY」は心に響く。

    ふと思った。

    そうだ。ユニコーンのイラストのTシャツ。あれはライブTシャツだ。

    澤君は変ってない。

    澤君、本当にごめんね。僕は全然大人になれてなかったよ。


    第6話:LINEブレイク

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    年度末の仕事が無事に終わった。あー、終わった。今年度も無事に仕事を納められた。

    今日の晩御飯に、僕は好きなパンを好きなだけ買った。贅沢な晩餐。珈琲を淹れて、パンを皿に並べる。あとでチーズでも切ろうかなと思いながら、スマホも見ずにゆっくり食べる。

    食べてるうちに眠けを感じる。今日はゆっくり眠ろう。寝るのが楽しみだ。

    ゆっくり風呂に入ったあと、なんとなく自分のパソコンを開き、データの整理を始めた。

    写真を整理していると、入社して間もない頃の僕と先輩の写真があった。他にも沢山会社の人が写っている。この頃、携帯電話はガラケーで、携帯電話ではこんなに沢山の人を一度に写せなかった。だから、きっとこれはデジカメで撮った写真だ。

    誰かの送別会かな。柏木さんだ。懐かしい。元気にしてるのかな。もう今会ってもわからないかもしれないな。他にももう随分会ってない人の顔を見つけては色んなことを思い出した。今居るメンバーも若い。僕も若いし、もちろん先輩も若い。

    それにしても酷い写真だ。夜だし今と比べてめちゃくちゃ解像度も低いから、夜に先輩の髪の毛が溶けたみたいになっている。目は赤目になってるし、酔ってるから顔も赤い。でも、なんだかみんなノビノビしてる感じがする。暗い中で大きな声で笑っている声が聞こえてきそうだ。

    こうやって見ると、僕より先輩の方が大人しそうに見えるな。先輩にだらしなく寄りかかりながらピースをする僕の隣で先輩は控えめに笑っている。
    僕も痩せているが先輩も痩せていた。あの細い身体でちゃんと牧場経営できてるのかな。

    就職で上京してきた僕には、身近にあまり友達が居なかった。だから、金曜日は、よく同僚や先輩と飲みに行っていた。その流れで、登山や海にも行った。だから、PCに保存してあるデジカメの写真には、会社の人達との写真がかなりの頻度で出てくる。

    スマホが普及するようになってからはわざわざデジカメで写真を撮らなくなった。だから、ある時から、パタリとPCに保存されている写真がない。

    いや、そうじゃないや。僕は、一時期体を壊して、皆と飲みに行ったり遊びに行ったりすることができなくなった。だから、僕のデジカメの写真の数は、スマホが普及するよりもっと以前にガクンと減ってる。だから、先輩が映っているデジカメ写真も思ったより少ない。

    僕は、体を壊してからは、生活が一変した。王道の仕事は回って来なくなり、それと比例して、僕の仕事に賭ける思いもなくなった。会社にぶら下がって生きていた。会社では息を潜め、できる限り小さくふるまった。何の存在感もないように。

    その間も、先輩は変わらず、仕事をこなしていた。

    自分に引け目を感じる僕は、以前のように先輩に話掛けづらくなった。不甲斐ないと思われているかもしれないと疑心暗鬼になって近寄れなかった。
    でも、先輩は本当にそう思っていたのだろうか。

    思い返せば、先輩は、ずっと仕事に関してはストイックだったけれど、お酒の席や出かけた時はいつも優しかった。誘えばいつも来てくれたし、気軽に話せた。食べたいものもいつも皆に合わせてくれた。

    大変さを愚痴り合って、嘆き合って、笑い合った。

    今思えば、あの時間は、間違いなくあの頃の僕のセーフティーネットだったのだ。

    気前もよくて、いつも飲み代は大目に払ってくれた。今思えば、僕よりそんなに沢山お給料をもらっていたわけではなかったのかもしれない。

    僕が業務外で話すことがなくなり、周囲の人も環境の変化で飲みに行くことが減った頃から、先輩を取り巻く仕事環境はより一層大厳しさを増した。不遇を訴えても、すぐには無理だと言われたり、一向に改善されない状況に、先輩は諦めと憤りを感じていた。

    先輩は強く踏ん張らないと、自分を奮い立たせないと、立っていられなくなった。それに比例して、僕だけでなく、皆も、先輩と少しずつ距離ができた。近寄りにくくなった。先輩もその方が悲しくならずに済んだのかもしれない。

    思い出の後半、正直、先輩の発言や態度は、見ていて気持ちのいいものではない時が多かった。身じろぎできない状況の中で抑えることができなかったのか、統制をとるための最善の策だったのか、どんどん周囲への圧を強めていった。

    その一方で、先輩と同じようなスタンスだった人達が、皆、そのスタンスをタイミングを見計らったかのようにスルスルと退いていった。そんな中、先輩だけが変わらなかった。伏せた先輩の目に皆の動きが映らなかったのだろう。

    それでも、なんだかんだこの雰囲気のままずっと時は流れるのだと思っていた。でも、時代の流れが大きくうねった。先輩のやり方がバッサリと否定される雰囲気があっという間にできあがった。

    たしかに、先輩のやり方は決して褒められるものではない部分もある。自分が実際に嫌な目にあっていたら決して許せなかっただろう。その思いに僕も共感する。

    でも、先輩が一心不乱に自分の沢山の時間を仕事に賭けて業務を引っ張り続けたのも事実だ。だけど、先輩のこの後者の事実が、ある時からまるで全く無かったかのような空気に変わった。その展開の速さは信じられないスピードだった。

    自分の人生を賭けてやってきたものが崩れていく。それに耐えられる人なんていない。

    自身の撒いた種だと言われればそれまでだ。だけど、僕の仕事人生の序章を映すデジカメ写真の中で、いつも先輩はこんなにも皆と笑っている。先輩は僕のデジカメ写真の終焉と共に、勝手に1人で変わってしまったのだろうか。

    こんなにも笑い合っている皆と距離ができたことに何も思わなかったのだろうか。先輩は望んで変わったのだろうか。

    この写真を見ると先輩が盗られてしまったものが僕の心に浮かび上がってくる気がする。先輩は誰に盗られてしまったんだろう。盗られたことに気づくことはあったんだろうか。気づいた時からどういう気持ちで時間を経過させたのだろう。

    そう。僕達は同じ思想の元で育てられた。

    そして、ある時点まではその思いを共有していた。たまたま、僕は、途中で、その思想の元での立場の弱い人間になり、圧を強めることができなくなった。

    だから、先輩と道が分かれた。ただそれだけだ。それくらい、僕たちは同じ所で同じ思想をもっていた時があった。だから、先輩の起こしたことや先輩の身に降りかかったことは、僕の身に起きたとしても不思議ではない。その思いが僕の心の中にずっと留まっている。

    ふと気づく。

    僕は、今、のうのうと暮らしている。

    僕は未だに先輩の退職を自分の中で消化できずにいる。

    先輩が辞める直前、僕は、給湯室で間違えて、置いてあった先輩のカップにお湯を注いでしまった。しかも、それを持っていこうとして、トイレから戻ってきた先輩に「おい!それ!!」と言われて、僕は、「え!?なんで??誰のこれ??」と言うと、「知らねえよ。俺のだよ。」と先輩は大爆笑した。僕も自分の馬鹿さにようやく気づいて大爆笑した。

    ひとしきり笑った後、先輩は、「まぁお湯入れる手間が省けたわ。」とマグカップを持ってスタスタとデスクに戻っていった。

    そういえば、上野のハードロックカフェでも同じようなことがあったな。酔いが回っていたのか、僕は途中から先輩のビールも自分のビールも飲んでいた。事態が発覚した時には、僕達は、腹がよじれるほど笑った。

    生ぬるい風の吹く季節。スマホなんてなくて、今より沢山の静けさを痛感することがあった時代。

    震えるほど幸福な時間に見える。

    あんなに笑い合ったのに、もう一生一緒に笑い合えない。

    それは、僕が先輩を見捨てたから。

    先輩のLINEを開く。先日、取引先でお礼を言われたことを送信しようか迷った時に開いたのかよくわからない文章が残っている。

    僕はあの時LINEをしなかった。だって、僕からLINEが届けば、先輩は必死に頑張っていた仕事を辞めなければいけなかった気持ちを思い出してしまうから。

    それでも、先輩は「ありがとう。」と返信してくれるだろう。

    自分が楽になるためにのLINE。

    LINEに縋る。

    安きに逃げる僕。

    それよりも全部覚えておけよ。全部絶対に忘れるなよ。都合の良いように事実を上書きしようとするな。

    僕は僕に言う。

    先輩と何度も飲みに行ったこと。横浜まで遊びにいったこと。距離ができたこと。先輩を巡る評判に迎合していたこと。先輩が田舎に帰ってしまったこと。

    退職したのが僕だったかもしれないこと。

    そして、先輩が踏ん張り続けた先の今に僕がのうのうと暮らしていること。

    謝罪もお伺いも労いも要らない。

    僕は待つだけ。

    どうしたって、自分の気持ちの中にある思い出は勝手に加工できない。


    エピローグ:ネバーアンインストール

    画像

    今年は地元に戻った時、ちょうど桜が満開だった。河川敷の出店はまだオープン前で、人通りが少なく、視界には春の空気を存分に吸い込んだ景色がどこまでも広がっていた。

    皆、桜を見ながら、橋を渡っていく。よく見ると、少し興奮したような明るい面持ちで橋をわたってくる。

    桜を見ると心が広がる。そして、少し緊張した張り詰めた気持ちも湧く。過去と未来の繋ぎ目の時間に居る感覚がする。ほんの少し、悲しい気持ちも混ざる。桜は単純に幸福を感じさせてはくれない。

    僕は、サラリーマンになって何度目の春を迎えたのだろう。永遠に続くような日々。とりとめのない日々。その中で、僕は淡々と仕事を続ける。

    様々な出来事に心を砕き、心が折れたりした。でも、そのどれもが、所詮、僕の思い込みと僕が見た世界が構成する僕が生成した出来事。そうしているうちに、もっと大きな何かが動いて、永遠だと思っていた物をあっけなく喪失する。

    ***

    スラムダンクの映画のエンディング。映画館の中に歪んだギターの音が鳴り響いた。

    チバさん?

    チバさんだよね?

    嗚呼、何年経っても変わらない。チバさんの奏でる楽曲。声。また聴こう。これからもずっと聴こう。

    そう思って映画館を出た後、プレイリストに次々にチバさんの曲を追加した。また、新譜が出たら追加しよう。

    そう。僕はやっぱり全然理解できていなかった。

    僕は、何かを咀嚼する度、自分の幼稚さ、思い込みの激しさ、おめでたさに愕然とする。いつまで経っても、何もわからない。学ばない。進まない。

    ***

    デスクでモニタを見つめる。まだ胸が痛む。誰も僕がこんなことを気にしているなんて思わないだろう。僕はメンバーに入ってなくて普通。それなのに僕は毎年胸が痛んでしまう。そんな己が何より恥ずかしい。僕は、いつからか、今現在に引け目を感じ続けて生きている。

    右腕を伸ばしてデスクの引き出しから珈琲のドリップパックを取り出し、机上のマグカップも持って立ち上がる。ドリップパックの封を切りながら給湯室に入る。

    近ちゃんがいた。久しぶりに近ちゃんの後ろ姿を見た。いつの間にか上着を2枚脱いだかのように肩が薄くなっている。何かが少しずつ減っていく。

    もしかして、時間が少しずつ閉じていってるのだろうか。

    お疲れ様です?おはようございます?今何時だ?僕がなんて声をかけようか迷っていると、僕の気配に振り返った近ちゃんが「ああ、一ノ瀬君、えらく目が充血してるじゃん。大丈夫なの?」とザラザラと割れた声で聞いてきた。

    僕は慌てて、「ああ、結膜下出血だと思います。疲れ目で時々なるんですよ。」と答えた。「物凄く赤いよ。大丈夫?医者行った方がいいんじゃない?」と近ちゃんは畳みかける。「いや、いつも1週間くらいで治るから大丈夫です。」と返答する。「ホント?それならいいけどさ。」と近ちゃんは僕の目を見つめながら給湯室を出て行った。
     
    危ないから前を向いて歩いて欲しい。そう思いながら、ドリップパックにお湯を注ぐ。

    近ちゃんは僕にもっとエース級の人間に育って欲しかっただろうな。だけど、そうはなれなかった僕。近ちゃんは残念に育った僕のことを、どう咀嚼して、また受け入れようとしてくれたのだろう。

    今日、僕の赤目に触れてくれたのは今のところ近ちゃんだけだな。そう思いながら、ドリップパックを三角コーナーに捨てる。

    そういえば、近ちゃんは、19時に退社する時に、いつも気を付けて帰るんだよと言ってくれる。近ちゃんの目に映る僕はいつまでも若い僕なのだろう。

    もう今からは会えない。

    僕を子供のように心配してくる人に。

    もういくら給湯室に来ても先輩に出会うことがないように、いつか、近ちゃんとも給湯室で出会うことがなくなるのだろう。

    ***

    強烈に青い空の下にいる僕にチバさんのシャウトが響いた。

    「俺たちは野良路を歩いてきたぜ。」

    今でも、時々、真夏の空の下、大歓声の中でDOG WAYが流れてくる。僕はいつも思わず振り返る。

    僕の目には彼らが映らない。

    ステージに現れた次のアーティストの声が聞こえる。

    「虹見たー?」

    空を指す彼女の言葉。

    僕はまた雨上がりの強烈な暑さを感じながらそれに全力で応える。

    完




     
     
    都内の片隅に住む、勤続約20年のサラリーマン。 【装】大好きな洋服のこと/【業】仕事のこと/【虚】短編小説を書いています。

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