【デジタル夜譚】紫音(Sion)編 No.3 「三途の川」の川幅説、幅がありすぎる問題
生死の境をさまよい、生還した人の中には、この世とあの世の「境目」のようなものを見てきたという人がいる。
ひかりのトンネルであったり、柵であったり、お花畑であったり。
そして川であったり。
その川は、「三途の川」と呼ばれることがある。
生還した人は、その境目の向こう側にいる者に「まだ、来てはいけない」と言われて「生(せい)」に戻ると言う。
深夜のカフェ
待ち合わせ時間の少し前に着く。
先に、自分のコーヒーを注文して、静かなひと時を過ごす。
この時間が何とも愛おしい。
外は雨あがり。
時折、雨にぬれた路面が車のライトを照り返す。
"カラン"
紫音さんだ。
いつもの大きなバッグを抱え、どこか楽しそうな、パッとした明るい笑顔を浮かべている。
ゆっくりと歩いてくる。
*
紫音さんが、テーブルの向こうに座る。
彼女は、カプチーノを注文した。
注文をし終えると、彼女は、キッと、まっすぐな瞳をこちらに向けてきた。
――先生! 私、提案があるんです!
「おっおっ、なんですか、どうしたんですか、紫音さん」
――そこです! 私の呼び方。
こうして、何回か、お会いしてお話を聞いているので、堅苦しい呼び方は、ない方がいいと思ってるんです。
だから、……『紫音』でいいですよ。
「『さん』付けなしで『紫音』?
……まぁ、おかしくもないか。
そしたら、紫音さんの方は、私のことをどう呼ぶんですか?」
――私は、カタカナで『センセイ』と呼びます。
「?……えーーっとぉ、
カタカナの『センセイ』と、漢字の『先生』、
声に出したらどちらも同じですよね。何が違うんですか?」
――全然違いますよぉ。
漢字は堅苦しいんです。
カタカナの「センセイ」は可愛いと思いますよ。
わたし、先生のこと、ちょっと気に入ってるんです。
「『気に入ってる』って???……なんとまぁ」
……悪い気はしない。
――あとですね、センセイの方が年上なので、敬語は使わなくていいです。
「……そこまで?」
――大丈夫です。
「……そう……ですか。まぁ、わかりました」
――『わかった』……ですよね?
「わかった」
……大変なことになった。
*
――そしたらですね、センセイ。
紫音さんが、微笑みながら、なにやら机に資料を並べる。
――先日、センセイから「臨死体験」の話をお聞きしました。
あれって本当の話なんですか。
「ええ、そうです」
――敬語!
紫音さんが、両手の人差し指を交差して、バツのジェスチャーをする。
「……あ、いや。ああ、そうだよ」
紫音はクスクスと嬉しそうに笑うと、眼鏡のブリッジを指先でクイッと押し上げ、一転して真面目な顔つきになる。
といっても、瞳の奥にオタク特有の熱を孕んでいる。
――センセイが先日話してくれた臨死体験で、先生がたどり着けなかった、この世とあの世の境の川……
俗にいう三途の川ですが、私が見つけた体験談では、50mくらいが一番広かったです。
「50メートル? ……調べた?」
――ええ
嬉しそうに笑う。
「50m……亡くなった親族の手招き、見えるかな。……近視には辛い」
――顔もわかんないですよね
「たしかに。
誰かも判別できない。
生(せい)へ戻す、『まだ来てはいけない』の会話も難しい。
……こんな感じ?」
*
「おーーーい、まだ、くるなーーー!」
「なんてーーー?」
「まぁーーーだーーー、くーーーるーーーなーーー」
「もおう、いっかーーーーーい」
「まぁーーーだーーー、くーーーるーーーなーーー」
「だーーーれーーーー?」

*
――ぷっ。
……センセイは本当に面白いです。
でもセンセイ、天寿を全うしたお年寄りに、健康な歯は残っていないと思います。
「……なら、こんな感じ?」
*
「ふぉーーーひ、ふぁら、ふるなーーーー!」
「なんてーーー?」
「ふぁーーーらーーー、ふーーーるーーーなーーー」
「もおう、いっかーーーーーい」
「ふぁーーーらーーー、ふーーーるーーーなーーー」
「だーーーれーーーー?」
*
――いえ、耳も遠いと思いますよ。
「……」
*
「ふぉーーーひ、ふぁら、ふるなーーーー!」
「なんてーーー?」
「ひょえ?」
*
「……そもそも会話が成立しない」
――そうなんです!
向こう岸で亡くなったおじいちゃんが『おーい! こっち来ちゃダメだー!』って叫んでても、
川のせせらぎで『え? なにー? 焼き肉ー?』って聞き取れずに、
『今、そっち行くねー』って、うっかり渡っちゃう距離感です!
「『お前はまだ来てはいけない』を聞くんなら、3mかな。
……『お前はー、まだ来てはいけなーい』で15mかな」
――さらになんです。
仏教にも三途の川の記述があって、その川幅は、数百由旬と書かれているんです。
それを、現代の距離に換算すると、数百kmになります。
「それは何となく知っていた。数百kmか、仮に400kmくらいだとしたら日本列島を飲み込むよね」

――400kmって、東京から大阪方面まで行けちゃう距離ですよ!?
渡るどころか、もう長距離遠征ですよ!
善人は橋を渡れますけど、罪人は激流の400kmを泳がされるんです。
臨死体験どころか、足がつって即死……あ、もう死んでるのか。とにかくスケールがバグりすぎなんです!
一人で大ウケして、テーブルをタンタンと叩く紫音。
「そうだよなぁ。罪人は、大分下流に流されるよ。
……おぉ!それで善人と罪人の行先がフィルタリングされるんだ」
「仮に、罪人が男子競泳自由形のオリンピック選手だったとして、対岸に着くまでの時間と、下流に流される距離を計算してみよう。
前提条件を、
川幅:400km
オリンピック選手の競泳速度:2.0m/s
激流の流速:4.0m/s
とする。
これを、AIを使って計算するとだな……。
横断にかかる時間:55時間33分20秒(約2.31日)
おぉ、紫音!
意外に不可能じゃないかも知れない。
そして流される距離は……、
流される距離:800,000 m(800 km)
紫音!
罪人の行き先は、善人の行き先から約800km下流にあるわけだ!」
ーーセンセイ、大発見!
*
「紫音、実は、その三途の川の川幅には、もう一つの距離がある」
――えっ、もう一つの距離ですか?
紫音の目がきらりと光る。
「あのな、うちの母親が幼い頃に聞いて、ずっと信じ込んでいた、三途の川の幅は『三寸』だったんだよ」
――……はい? さんずん……?」
一瞬、紫音の思考がフリーズした。眼鏡の奥の瞳を丸くして、パチパチと瞬きをする。
――三寸って……約9センチですよね? 9cmの川って、それ川じゃなくて溝じゃないですか! 跨ぐどころか、靴のつま先すら濡れませんよ!?

「自分が中学生くらいの時だったかなぁ。例の『おそらくあれは臨死体験』の話を、母親にしたんだ」
*
「あの時、黄色い草原を見たんだよ。果ての見えないどこまでも続く草原。
僕はそこを歩いていた」
「それはな……そのまま歩いていくと、
やがて三寸の小さな川があるんだってよ。
……それをまたぐとな」
母親は目をつぶり、「カクッ」と死んだジェスチャーをした。
*
――お母様、可愛すぎます!
「ありがとう。
言動から察するに、母親は大人になっても『三途の川の幅は、すぐ跨げる幅』だと、本気で思ってたらしい」
――うわあ……! 50mから、数百km、果ては9cm!
縮尺の振り幅が極端すぎて頭痛くなってきた……!
紫音は、もう、耐え切れないと、笑いが止まらないようだ。
「川幅には、幅がある」
――……。
「……」
――センセイ、
……うまいこと言っている場合ではありません。
それ、普通なら、気づかずスルーされます。
「拾ってくれてありがとう」
紫音の瞳はキラキラしている。
――でも、どうして三寸になっちゃったんですかね。
お母様の「三寸」の出所は、なんだったんでしょう?
「さあなぁ、母親が他界してから、もう大分経つ。本人の口からはもう聞けない」
――あっ……すみません。お母さま、お亡くなりでしたか。
「全然気にしなくていい。
誰だっていつかは亡くなるものだ。ただの順番だよ」
ダウンライトの傘が、オレンジ色を帯びている。
「ただ、母親には聞けないが、なぜ三寸と覚えてしまっていたかは、なんとなく想像がつく」
――と、いうと?
「多分、母親は、小さな頃、叔父さんか、お兄さんみたいな存在が、適当に言った、
『三途(Sanzu)の川だから、幅は三寸(Sanzun)だよ』
を信じてしまったんじゃないかな。
――駄じゃれ……!
オヤジギャグじゃないですか!
やだもう、罪な大人がいたもんですね!
子どもの純粋な好奇心に、そんな適当なダジャレを吹き込むなんて……!」
「ああ、想像だけどな、
大人たちはゲラゲラ笑っている。
でも、それを聞いた小さな女の子だけは笑っていない」
――言った本人はその場のノリで忘れてるのに、受け取った子どもはそれを『世界の正しい知識』として何十年も記憶に刻み込んじゃう……。
言葉って、時に学術書よりも強固に誤解を固定化させちゃうんですよね。
そして自分が大人になって、子供に問われたときに「三寸だよ」と教える。
――……罪です。
「ああ、罪だよなぁ。
でも、これさ、ちょっと申し訳ない気分になる。
やってしまいがちなんだよね。
……自分もやりそう」
――ブッ、センセイなら……絶対やりそう。
「うん、絶対やりそう。
だって小さな女の子はかわいいから、
ついやってしまう。
でも、その子は冗談を真実として記憶する。
その子は大人になる。
次の世代に伝える」
紫音はカプチーノのカップを両手で包み込んだ。
――普段、話題にのらない話題って、だれかが『それ違うよ』って言ってくれる機会もないでしょうから……親から子、大人から子供っていう『時間を越えた縦方向の壮大な伝言ゲーム』ができちゃうわけですね。
……ね、センセイ。嘘から出た誠じゃないですけど、こういう温かいバグなら、私はちょっと好きですよ」
「ああ、
なぜ大人たちが笑っているのかわからない、幼い頃の自分の母親。
想像してみるのも悪くない」

死んじゃうんだぞ。うひゃひゃひゃ」
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