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Photo byyomapipi

家の中の物の場所を全部覚えているから疲れる

    冷蔵庫の中身から、季節の道具、日用品のストック、本棚の本にいたるまで、私は家の中にあるあらゆるものの位置を完璧に把握している。

    家族に「あれどこ?」と聞かれるたび正確に言い当てて「すごいね」と感心されるのは、以前の私にとっては悪い気はしなかった。

    でも最近、この完璧な記憶は一体誰のために維持しているのだろうとふと思う。

    家族の探す手間を省く配慮のつもりだったが、その配慮こそが私の頭に莫大な負担をかけているのではないか。家中の配置を無意識に記憶し続けることは、実はコンピュータのメモリを常時100%使い続けているような、かなりの認知負荷を伴う作業なのだ。

    他の思考に集中したいときも情報が常にバックグラウンドで動き、創作中や読書中でさえ「あの道具はどこだっけ」と一瞬フラッシュバックする。
    その積み重ねが、自覚のない疲労となって私を疲れさせている。

    もし「自分で探してみて」と言えば、家族も意識を向けていずれ場所を覚えるし、私の占領されていたメモリも解放されるはずだ。けれど、その手間を相手にかけるのはどこか申し訳ない気がしてしまう。

    だが、その行き過ぎた親切は、相手の「自律性」を奪っているのではないだろうか。相手は「聞けばすぐに見つかる」と思い込み、私は「常にすべてを管理しなければ」と思い込む。結局これも、私の「配慮過剰」のバカパターンなのだ。

    朝のルーティンも、図書館の予約も、ストック品の確認も全部同じ構造だ。「他者のため」の先回りが、すべて「自分の負担」として返ってくる。それなのに、その負担を手放すことが相手を突き放すように感じられてしまうから、私は今日も続けてしまう。


    「自分で探してみて」という、たった一言を伝える

    とにかく、勇気がないのだ。言う気がないのだ。

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