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銀狼物語 第四十八話 絶望の果てに降り注ぐ光

    重く軋む音が、戦場に響き渡ります。
    閉ざされていた門が、ゆっくりと開き始める。
    サハルディア王国軍の兵たちは一斉に正面へ武器を構え、総司令官が鋭く声を張りました。

    「全隊、構えろ! 門を見ろ、来るぞ!」

    兵たちの盾が揃い、無数の槍の穂先が門へ向けられます。
    リリアも杖を強く握り直し、アステルはすぐ隣で陣を描く準備に入りました。
    ガレスは一歩前へ進み出て、アステルとリリアの盾となる位置につきます。

    「アステル様、リリア様、私の後ろへ」

    リリアが小さく頷きかけた、その時でした。
    開いた門の内側には、ひときわ巨大な魔物が並んでいました。
    さらに、街道の両側に立ち込める瘴気の奥からも、魔物の兵が次々と姿を現し始めます。
    誰かが息を呑みました。

    「なっ……!」

    正面の門、左右に群がる魔物たち。
    背後にも、じわじわと瘴気が流れ込み始めています。
    総司令官の表情が険しく変わります。

    「退路を確保しろ! 左右にも構えろ!」

    命令が飛び交う中、魔物たちは咆哮を上げ、一斉に押し寄せてきます。
    その光景を見たアステルが、低く呟きました。

    「……違う」

    リリアが振り返ります。

    「アステル様?」

    アステルの顔から、血の気が引いていました。

    「押し戻していたのではありません。ここまで、おびき寄せられていたのです」

    リリアの中で、この一か月の戦いが一つにつながりました。
    リリアの浄化が及ぶ範囲、アステルの陣の展開速度。
    蒼月が危険を察知する距離や、サハルディア王国軍の進軍速度。
    そのすべてを、敵は巧妙に測り続けていた。

    ――すまぬ。察知できなかった。おそらく、俺が察知できるぎりぎりを移動してきたのだ。

    「蒼月のせいではないわ」

    同じ頃、瘴気の奥で男が笑っていました。

    「あの女をやれば、全ては終わる。全力で潰せ」

    男の声に応えて、門の瘴気の奥から黒い結晶を持った魔物が次々と現れます。
    赤黒い筋を走らせながら不気味に明滅する結晶は、濃い瘴気を吐き出していました。
    魔物たちはその結晶を、リリアたちのいる本陣へ投げ込んでいきます。
    結晶が地面に転がった瞬間、本陣の中に黒い瘴気が噴き上がりました。
    それと同時に、前方の門から、そして左右の瘴気の奥から、魔物たちが一斉に突進してきます。

    「ぐっ……!」

    瘴気を浴びた前列の兵が膝をつき、剣を握っていた腕から力が抜けていきます。
    盾を構えていた兵たちも、その場に崩れ落ちる。

    「倒れた者を下げろ! 救護班、前へ!」

    総司令官の声が響き、救護班が動きます。
    しかし、左右から押し寄せる魔物たちの手が、倒れた兵へ伸びました。
    兵士たちの身体が、瘴気の奥へ引きずり込まれていきます。

    「させるか!」

    ガレスの剣が一閃した。
    リリアへ迫る魔物を斬り伏せ、倒れた兵を掴む魔物の腕を断ちます。
    エレナも左側へ踏み込み、長剣で群がる魔物を薙ぎ払いました。
    ミラは低く身を沈めて近づく魔物の膝を砕き、体勢を崩したところを蹴り飛ばします。
    けれど、数が多すぎる。
    一か月に及ぶ戦いで、誰もが消耗しています。
    呼吸は荒れ、足取りは重く、剣を振るう腕にも限界が近づいていました。

    「リリア様!」

    ミラの声が戦場に響きます。
    リリアが振り向くと、ミラの足首を魔物が掴み、そのまま瘴気の奥へ引きずり込もうとしていました。

    「ミラ!」

    駆け込んだエレナが、魔物の腕を斬り落とします。
    ミラは地面を蹴って体勢を立て直しましたが、顔色は悪く、肩で息をしていました。
    リリアは杖を握りしめます。

    「今、浄化します!」

    声とともに、頭上に淡い翡翠色の陣が広がりました。
    光の陣はゆっくりと地上へ降り、周囲の魔物たちを包み込んでいきます。
    光に触れた魔物たちは砂のように崩れ、立ち込めていた瘴気も薄れていきました。
    兵たちの呼吸が、少しだけ戻ります。
    けれど、投げ込まれた黒い結晶だけは、浄化の光を浴びても消えませんでした。
    地面に転がったまま、不気味な明滅とともに濃い瘴気を吐き出し続けています。
    総司令官が声を張ります。

    「このまま後退する!」

    兵たちは肩で息をしながら、じりじりと後退を始めました。
    各隊の隊長たちが、声を張り上げます。

    「隊列を崩すな」

    だがその瞬間、再び門の奥と街道の左右から魔物の増援が現れ、新たな黒い結晶を本陣めがけて投げ込んできます。
    兵たちの間から、呻くような声が漏れました。
    魔物たちはためらわず、軍勢へ再び襲いかかります。
    リリアは歯を食いしばり、もう一度浄化の陣を展開しました。
    翡翠色の光が降り、魔物の兵は確かに消えていきます。
    同じ攻防が、二度、三度と繰り返されます。
    魔物が押し寄せるたびに浄化の光を放ち、魔物を崩す。
    けれど結晶だけは残り続ける。
    その繰り返しの中で、五度目の浄化を終える頃には、兵たちの足はほとんど止まりかけていました。
    アステルが張る結界にも揺らぎが生じ、前衛のガレスも、エレナも、ミラも、立っているのがやっとの状態で荒い息を吐いています。
    そこへ、蒼月の切迫した声がリリアの内側に響きました。

    ――もう無理だ。俺は、お前を連れて逃げる。

    「蒼月、お願い……お願い……」

    リリアの声は震えていました。
    しかしその瞬間、後方の瘴気が大きく波打ちます。
    渦巻く闇の奥から、新たな魔物の兵が姿を現す。
    退路は、完全に断たれました。
    蒼月がリリアを乗せて戦線を離脱する道すら、もう残されていません。
    地面に点在する無数の結晶から噴き上がる瘴気が、兵士たちの体力を奪い、その動きを重くしていきます。
    リリアは結晶を見据えたまま、声を張りました。

    「アステル様!」

    「分かっています!」

    アステルが両手を掲げ、地面に転がる黒い結晶の一つへ白い陣を重ねました。
    結晶を包んで、結界が閉じられます。
    赤黒い光が結界の内側で激しく揺れ、その結晶からの瘴気の流出が一時的に止まりました。

    「結晶を封じます! ですが、長くは保ちません!」

    けれど、封じきれない別の結晶からは、なおも黒い瘴気が噴き出しています。
    瘴気に当てられた兵が倒れ、その隙を突いて魔物が迫りました。
    怪我人を運ぼうとする救護班までも押し戻されていきます。
    戦場のあちこちで、叫び声が上がります。
    その中で、蒼月はリリアの周囲を守り、戦い続けていました。
    銀色の巨躯が駆けるたび、魔物の列が弾け飛びます。
    牙が魔物の腕を砕き、爪が黒い身体を裂く。
    無傷ではいられず、毛並みには濃い瘴気が絡み、荒い息とともに動きにもわずかな鈍りが見え始めていました。
    それでも一歩も、リリアの傍から離れようとはしません。
    その時、ひときわ大きな黒い結晶を持った魔物が、一直線にリリアへ狙いを定めて突き進んできました。

    「リリア様!」

    ガレスが迎撃に出ようとしますが、別の魔物が立ち塞がって行く手を阻みます。
    すかさず横合いから飛びかかった蒼月が、結晶を持つ魔物を体当たりで弾き飛ばした。
    しかし、その背後からさらにもう一体が迫ります。
    空中で身体を反転させ、爪でそれも薙ぎ払う。
    その、ほんの一瞬の隙でした。
    死角から伸びた別の魔物の手が、後ろ足を掴み取ります。
    動きを止められた蒼月へ向け、さらに無数の魔物が殺到する。

    「蒼月!」

    リリアが声を上げます。
    その隙を突き、先ほど弾き飛ばされた結晶を持つ魔物が、再びリリアへ向けて突進してきました。
    赤黒く光る結晶の先端は、鋭い槍のようにリリアへ向けられています。

    ――リリア!

    足を掴まれたまま、蒼月は無理やり身体をねじりました。
    肉が裂ける音が響く。
    それでも、リリアの前へ飛び込んだ。
    鈍い音とともに、突き出された黒い結晶が、蒼月の身体へ深く突き刺さります。
    これまで聞いたこともない苦鳴が上がる。
    その瞬間、リリアの呼吸が止まりました。
    傷口からどす黒い瘴気が溢れ出し、純銀の毛並みをじわじわと黒へ染めていきました。
    リリアの脳裏に、かつて蒼月を失いかけた時の恐怖がよみがえります。

    「いやぁぁぁぁ! 蒼月! だめ……。だめ、だめ、だめぇ……!」

    身体を支えきれず、蒼月がゆっくりと沈み込んでいきます。
    それでも、蒼い瞳だけは、リリアを見つめ続けていました。
    大粒の涙がリリアの瞳から零れ落ちた瞬間、身体がふらりと大きく揺らぎます。
    胸の奥で、限界まで張り詰めていたものが音もなく切れました。
    リリアは、震える唇から言葉をこぼします。

    「許さない。許さない。許さない。蒼月を傷つけるものは、絶対に許さない……!!」

    涙に濡れているのに、その声は冷たく戦場へ落ちました。
    直後、身体から翡翠色の光が立ち昇り始めます。
    光は炎のように揺らぎながら、熱を持たず、広がっていきました。
    傍まで迫っていた魔物たちが、その光に飲み込まれます。
    光に触れた魔物たちは、悲鳴を上げる間もなく、黒い塵となって消えていきました。
    大きく見開かれたリリアの瞳の奥にも、同じ翡翠色の光が揺れています。
    ふらついていた両足を踏み締め、蒼月に深く突き刺さった黒い結晶へ手を向けました。
    掌から放たれた翡翠色の光が黒い結晶を包み込み、光の結界を張ります。
    先ほどまで止めどなく溢れていた瘴気が、止まりました。
    その力の流れに気づいたアステルが、目を見開きます。

    「駄目です、リリア殿! そんな使い方をしたら……!」

    しかし、リリアは振り返りません。

    「そんなの、どうでもいい」

    リリアは杖の先を、地面へ立てました。
    翡翠色の光が杖を伝い、空へ向かって立ち昇ります。
    頭上の遥か高みに、巨大な光の陣が展開されました。
    アステルが描く陣すら凌ぐほどの大きさで、広い戦場を覆い尽くしていきます。
    淡い翡翠色の幾何学模様が幾重にも重なり、空一面に広がりました。
    その光景に、戦っていた兵士たちでさえ、思わず武器を下ろして天を仰ぎます。
    ガレスも、エレナも、ミラも、ただ息を呑んで立ち尽くしていました。
    総司令官も、頭上に広がる光を見上げて言葉を失っています。
    その中で、アステルだけは、青ざめた顔で陣を見上げていました。

    「いけない……あれでは……!」

    アステルは悲痛な声を上げ、リリアへ向かって一歩踏み出しました。

    「リリア、やめなさい! その陣を降ろしてはなりません!」

    翡翠色に染まった瞳が、ゆっくりとアステルを捉えます。

    「黙って」

    その一言に、アステルの足が止まりました。

    「すべてを、消さなければ」

    巨大な陣が、ゆっくりと地上へ降りてきます。
    魔物たちが激しく動揺し、叫び声を上げました。
    逃げる間もなく、陣の光に触れた端から、魔物たちは音もなく塵となって崩れていきます。
    濃い瘴気さえも光から逃れるように渦を巻きますが、次々と浄化されていきました。

    戦況を見ていた男は、空を覆い尽くす翡翠色の陣を見上げた瞬間、その口元から笑みを消しました。

    「……まずいな」

    男は短く吐き捨てると、素早く身を翻します。
    渦巻く黒い瘴気がその身体を覆い、次の瞬間には、男の気配は戦場から消えていました。

    そして、天を覆う陣が大地へ触れた瞬間。
    リリアの手の中で、杖が音もなく砕け、細かな光の粒となって消えた。
    翡翠色の浄化の光が、清らかな水面に落ちた一滴の雫のように、美しい波紋となって四方へ広がる。
    その光は戦場を包み込み、街道を埋め尽くしていた黒い瘴気を押し流していきます。
    地面にばら撒かれていた黒い結晶も、激しく明滅したかと思うと、赤黒い光を失って沈黙し、ただの黒い石ころへと変わっていきました。
    門の奥に淀んでいた濃い瘴気も、翡翠色の光に洗われるように薄れる。
    光は街の内部へ流れ込み、砂色の道を走り、白い城壁を越え、王都ハルディアの空へ広がりました。
    遠く離れた村にも、荒れ果てた大地にも、深い瘴気に沈んでいた場所にも、同じ光が届きます。
    サハルディア王国全土を覆っていた黒い靄は、朝日に溶ける夜の影のように、少しずつ消えていきました。
    空を覆っていた陣が薄れていくのを確かめると、リリアは弾かれたように蒼月へ向き直ります。

    「蒼月っ……」

    地面に膝をつき、蒼月の身体に食い込んだ黒い結晶へ、震える両手をかざしました。
    残された翡翠色の光が、結晶を包み込みます。
    直後、甲高い音を立てて、黒い結晶に細かな亀裂が走りました。
    そのひびは瞬く間に全体へ広がり、結晶は粉々に砕け散ります。
    同時に、蒼月の身体を侵食していた黒い染みが、浄化の光に押し流されていきました。
    魔物に裂かれた足の傷口も温かな光に包まれ、見る間に塞がり、流れていた血が止まります。
    淀んだ闇が払われ、銀色の毛並みが少しずつ戻っていきました。
    やがて、苦痛に歪んでいた蒼月の瞳が、リリアを真っ直ぐに見つめ返します。

    ――リリア。

    胸の奥に直接響くその声を聞いた瞬間。

    「よかった……本当によかった……」

    リリアの身体から、ふっと力が抜けました。
    そのまま、地面へ崩れ落ちます。

    「リリア様!」

    血相を変えたガレスが駆け寄り、蒼月も身体を起こそうと身をよじりました。
    翡翠色の光は、気を失ったリリアの身体からゆっくりと消えていきます。

    激闘の爪痕を刻んだ戦場。
    そこに残った兵は、出兵した時の三分の一ほどでした。
    誰もが傷を負い、膝をつき、声もなく空を見上げています。
    魔物の影は、もうありません。
    瘴気の気配も、消えていました。
    ただ澄んだ風だけが、戦場を吹き抜けていきます。

     
     
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