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銀狼物語 外伝:ソフィア編 第一話

私は、業火に焼かれていました。

死んでから、どれほどの時が過ぎたのかは分かりません。
炎は絶えることなく身体を焼き続け、逃げる場所も、終わりもありませんでした。

「苦しい……アルヴァン、助けて」

声は炎の中へ消えていきました。

――まだ、私が生きていた頃。

ソフィアは、森の奥にある小さな泉で沐浴をしていました。

澄んだ水に身体を沈めていると、泉の底に何かがあることに気づきました。
石でも、水草でもありません。
そこだけが黒く濁り、周囲の水から切り離されているように見えました。

「なんだろう」

ソフィアは息を止め、泉の底へ潜りました。

目を凝らすと、黒い染みのようなものが、水の底に広がっています。
指先で触れた瞬間、鋭い痛みが腕を走りました。

ソフィアは手を引き、水面へ顔を出し、触れた指先を見ました。
傷はありませんでしたが、皮膚の奥には痺れたような感覚が残っていました。

何か、触れてはいけないもののような気がしました。
胸の奥に生まれた不安は、泉を離れても消えませんでした。

町へ戻ると、道端にいた男がソフィアを見上げました。

「おう、ソフィア。相変わらずでかいな」

「うるさい!」

「おお、怖い怖い」

男は笑いながら離れていきました。

ソフィアは、普通の女性より頭一つ分ほど背が高く、胸や腰回りにも厚みがありました。
力も強く、その辺りの男では腕力でかないません。

人目を引く美しさも、女らしい身体つきも、ソフィアにとってはからかいの種でした。
そのたびに言い返し、誰にも頼らず生きてきました。

ソフィアの父と母は、彼女が十二歳の頃、事故で亡くなっていました。
それからは、誰にも頼らず、一人で暮らしています。

家へ戻ってからも、泉の底で見つけた黒いものが頭から離れませんでした。

数日後、森の別の場所でも同じ違和感を覚えました。
木の根元。
岩の割れ目。
人の通らない獣道の先。

一度気づいてからは、至るところに黒い気配が潜んでいることが分かるようになりました。

これほど多くあるなんて。

何か悪いことが起こる。

ソフィアは、そう感じました。

彼女の勘は、これまで何度も危険を知らせてきました。
父と母が事故に遭う前にも、胸騒ぎがありました。

けれど、あの時は、何が起きるのか分からないまま二人を失いました。

あの後悔を、もう繰り返したくありませんでした。

ソフィアは、王都へ向かうことを決めました。
占いや魔術に長けた者へ訴え、黒いものの正体を調べてもらう必要があると考えたのです。

王都へ向かう道中でも、何度も同じ違和感がありました。
街道沿いの森や川辺にも、黒い気配は潜んでいました。

泉だけではありません。
故郷の森だけでもありません。

王都へ近づくほど、ソフィアの不安は大きくなっていきました。

王都へ到着したソフィアは、星術院を訪ねました。

けれど、星術院の者へ話をするには、決められた手続きが必要だと言われました。
ソフィアは言われたとおりに書類をしたため、何度も窓口へ足を運びました。

ひと月後、ようやく会うことを許されたのは、星術院に勤める一人の男だけでした。

ソフィアは、泉で見つけたものや、王都へ来る途中で感じた気配について説明しました。

男は話を聞き終える前から、退屈そうに椅子へ背を預けていました。

「一人の世迷言で、星術院が動くわけがないだろう」

「何を言っている。そんな現実味のないことを、誰が信じるというのだ」

「でも、本当にあるのです。これは世界に何か災いをもたらすものです」

ソフィアは机へ両手をつき、男へ訴えました。

「今のうちに調べてください。お願いします」

男が右手を払うと、控えていた兵たちが進み出ました。

ソフィアは両腕をつかまれ、床を引きずられるように部屋から連れ出されました。
力ずくで振り払うことはできました。
けれど、ここで暴れれば、自分の訴えがますます信用されなくなります。

ソフィアは抵抗できないまま建物の外へ放り出され、石畳へ膝をつきました。

背後で扉が閉じられました。

それでも、諦めることはできませんでした。

その後も、ソフィアは何度も手紙を書きました。
星術院だけではなく、王に宛てた手紙も送りました。

けれど、身分も後ろ盾もないソフィアの手紙が、王のもとへ届くことはありませんでした。
その多くは、受付で処分されました。

誰に訴えても、黒いものを見たことがない者には信じてもらえません。

それならば、人ではなく、神へ訴えてみてはどうだろう。

ソフィアは、そう考えました。

けれど、神に訴えるといっても、何をすればよいのか分かりませんでした。

王都には、大地の女神を祀る新しい教団がありました。
ソフィアは、そこへ行けば女神へ願いを届ける方法が分かるかもしれないと考え、教団の門を訪ねました。

しかし、そこでも中へ入ることを許されませんでした。

門の前に立ち尽くしていると、一人の男が近づいてきました。

「あなたには、魔法を扱う者としての才能がありそうですね」

男はソフィアの姿を見上げ、親しげに笑いました。

「どうです。ここで修行をしてみては」

「その間に、あなたの知りたいことも分かるかもしれません」

このまま外にいても、何も始まりません。
教団へ入れば、大地の女神へ近づく方法を見つけられるかもしれません。

「でも、私は今、追い出されました」

「ふふ。それは任せてください。私には、入信する者を判断する権限がありますから」

男の言葉を信じ、ソフィアは教団へ入ることを決めました。

それからソフィアは、癒しの術や結界術、呪いを解く方法を学びました。

もともと力が強かっただけではありません。
一度教えられたことをすぐに身につけ、失敗すれば原因を確かめ、できるまで何度でも繰り返しました。

一年が過ぎる頃には、ソフィアは教団の中でも屈指の術者となっていました。

けれど、黒い違和感の正体は分からないままでした。

ある日、ソフィアは神殿の地下に保管されている古い書物を調べていました。

いつの時代に書かれたのか。
誰が残したものなのか。
表紙にも、奥付にも、手がかりはありません。

傷んだ頁を一枚ずつめくっていると、ある言葉に目が止まりました。

瘴気。

生き物や大地を蝕み、触れた者へ害を及ぼす黒い穢れ。
長い時間をかけて蓄積し、やがて災いを引き起こすもの。

記された内容を読み進めるほど、泉の底で見つけた黒いものと重なっていきました。

「あれは……瘴気だったの?」

名前も正体も分からなかった違和感が、初めて一つの言葉と結びつきました。

ソフィアが教団へ入ってから、すでに二年が過ぎていました。

術の腕は上がりました。
瘴気の名前も知ることができました。

けれど、その存在を感じ取れる者は、教団の中にもいませんでした。

自分にだけ見える。
自分にだけ感じられる。

そう気づいたソフィアは、教団へ訴えたところで、星術院と同じように退けられるのではないかと考えるようになりました。

それだけではありません。

この教団には、瘴気を調べる意思も、世界に広がる異変へ対処する意思もない。
二年間をここで過ごし、ソフィアはそのことを確信していました。

そして、どれほど祈り、心の中で訴え続けても、大地の女神がソフィアの前へ現れることはありませんでした。

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