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未来に向かって

    あらすじ 

    ​極度の人間関係のトラウマから、職場で常に「お面」を被って働く変わり者の事務員・比間野(ひまの)。誰とも群れず、無駄な私語を一切排して、自分は仕事のできない、会社の役に立つことができないと、毎日がホチキス留めの仕事。彼女は、部署内でも浮いた存在だった。

    しかし、お手伝いという形で応援に他部署へ。不器用ながらも部下を優しく見守る金田主任や、おしゃべりだけど温かい同僚たちとの「のほほん」とした交流を通じて、彼女の閉ざされた心は少しずつ溶け始め、ついに職場でお面を外す決意をする。

    そんな中、社内きってのチャラ男エリート営業マン・神崎が、素顔の比間野に一目惚れしたことから物語は急展開!

    彼らの絆が深まる中、他部署からの冷酷な嫌がらせや、金田主任への最大の試練がメニュー登録課を襲う。

    果たして比間野たちは部署のピンチを救えるのか?そして、ホチキス留めの比間野はどうなっていくのか――!?

    ​

    第1章:メニュー登録課へやってきた「お面女子」

    ​現在、ハラスメント研修があるくらい、会話は仕事の際は気を付けなければならない。

    パワーハラスメント、セクシャルハラスメント、エイジハラスメント他、沢山ある。

    俺は主任、金田勇気。ビューティーセレクトカンパニーで働いている47歳。おじさん。

    仕事熱心、問題が起きるのはもっての他。ハラスメントで絶対問題を起こしたくない、何が何でも。

    だからといってコミュニケーションを取らないのは業務上、いや、人としてどうかと思う。

    対策としては、日々勉強。本屋に行き、読書で学ぶ。読んだら、実践。

    相手に失礼がないか、指示を出し、皆が傷付かない、話しやすい、仕事をしやすい環境にするのが俺の仕事である。日々勉強。

    全ての仕事での会話は俺の脳が記憶の引き出しにキレイに整理整頓されている。今のところ何も問題ない毎日だった。皆、優秀だし、ミスもない、素晴らしい部下。

    ​なのに、他部署の料金システム課の阿部課長から、短期で応援社員として3カ月受け入れてくれないかと異動の相談があった。

    問題ありな社員らしい。

    私の上司の今田課長と料金システム課の阿部課長、そして私の3人で会議があった。

    ​阿部課長「こちらの女性です。」

    パソコンの社員データに写っているのは、ふくよかで、お世辞にも綺麗とは言えない、まるでお笑い芸人のような女性の写真だった。

    今田課長「異動を希望されてますか?」

    阿部課長「彼女自身が、こちらのメニュー登録課に異動願いを出しました。ただ問題がありまして。休憩にかなり行きます。仕事も遅いです。理解もしていないと思います」

    今田課長「それは困りますね。メニュー登録課の業務は社内で一番難しいのですが、大丈夫でしょうか?」

    阿部課長「だからこその提案なのですが、3カ月の応援という形はどうでしょうか?様子をみて3カ月後どうするか、考えませんか?」

    今田課長は営業経験が長く、人を見る目がある。少し考える仕草をした後、「わかりました。受け入れましょう」と言った。今田課長は争いごとが嫌いな平和主義者だが、何か思うところがあるような目。

    ​しかし、俺の心の中は穏やかじゃない。せっかく今まで問題なく業務は進んでたのに、問題ありな社員を受け入れる?サボり症なのか?簡単な仕事をひたすらさせるとかにするしかないのかな。ハラスメントの地雷を踏まないようにしつつ、どう対応するか……悩みが増えてしまった。

    ​異動日当日になった。

    阿部課長の隣に、あの問題あり社員がいた。……が、俺は我が目を疑った。

    お面をかぶっている。なぜだ。

    阿部課長「すみません。何回もお面は取りなさいと注意しても、取らなくてですね。……君はそうやって、いつも私を拒絶するんだ。ほら、早く取りなさい!」

    阿部課長の口調には、イライラしたトゲがある。

    問題あり社員「嫌です。」

    今田課長「まぁまぁ。そのままでよろしいですよ。」

    阿部課長「挨拶!」

    問題あり社員「料金システム課から来ました、比間野朝子と申します。一生懸命頑張ります。よろしくお願いいたします。」

    ​お面をしている。なぜだろう。顔を見られるのが嫌なんだろうか。暗いし、覇気はないし、どうする俺。

    比間野さんは今田課長とオリエンテーションに行った。

    その隙に、部下の村田がデスクにすっ飛んできた。村田は明るい良い子で、新しいメンバーに興味津々だ。

    村田「主任、比間野さんはどんな人なんですかね?」

    私「休憩が大好きな方みたいですよ。」

    村田「えー。仕事しないんですか?どうするんですか?」

    私「もうひたすら、簡単な仕事をしてもらおうかなと考えてまして、席も皆さんと離れた別室にしようかなと考えてます。休憩にいけないだけの仕事量にしようかなと考えてます。」

    村田「なんか、かわいそうですね。」

    確かにかわいそうだが、ハラスメント問題を起こさないためには、これが安全策だ。

    ​しばらくすると比間野さんと今田課長が帰ってきた。

    今田課長「比間野さんは月1で3回、俺と面談しましょう。」

    比間野「はい。」

    はい、しか言わない。暗い。

    そこへ村田が躊躇なく話しかけた。

    村田「私、同じ部署の村田です。よろしくね。比間野さん、ひまちゃんて呼んでいいかな?」

    比間野「はい。」

    村田「ひまちゃんは前の部署の料金システム課で、どんな仕事してたの?」

    比間野「紙をホチキスで留めてました。」

    村田「え!?紙をホチキスで留めるの?ひたすら留めるのかな?そんな仕事あるんだね。」

    ​そんな部署じゃない。料金システム課はパソコン業務のはずだ。ホチキス留めしかさせてもらえなかったのか?

    私「じゃあ早速、私が言ったことをパソコンに打ってもらえますか?」

    比間野「はい。」

    私「いつもお世話になっております。この度はお申込みありがとうございます。」

    比間野さんは固まりながら、人差し指一本一本で、ものすごくゆっくりキーボードを叩き始めた。ブラインドタッチどころではない。そこからですか。泣きたい、逃げ出したい、どうしよう。

    でも、ここで俺がイラついたらパワハラになりかねない。紳士的に、クールにいこう。

    私「ね、ゆっくり、ゆっくりいきましょう!」

    比間野「はい。」

    私「これからする仕事は村田さんが教育係として教えてください。わからないことや、何かあれば私にお願いします。」

    ​比間野さんは、阿部課長に「お前は何もできない無能だ」と言われ続け、自分はホチキス留めしかできないダメな人間なんだと思い込んでしまっているようだった。完全に自信を失っている。

    とりあえず、基礎知識を学んでもらおう。

    ​その後、今田課長に会議室へ呼び出された。

    今田課長「金田ちょっといいかな? 比間野さんなんだけどね、優しくしてほしいかな。」

    私「なぜですか?サボり症の比間野さんを甘やかしたら、更に休憩に行くと思います。」

    今田課長「俺は今までずっと営業をやってて、いろんな人を見てきたんだけどね。彼女みたいなタイプは褒めて伸ばすというか、優しく接した方が良いと思うんだ。悪い子じゃないよ、多分。俺の勘だけど、何か秘めてる気がするんだよね」

    ​味方である今田課長の言葉だ。正義感の強い俺としては、上司の指示には従う。

    確かに、育成ゲームでも育て方で違うキャラクターに進化する。接し方によっては良い変化をするかもしれない。厳しくしたら家出したり、言うことを聞かなくなったりするもんな。

    休憩も、あえて「行っていいよ」と言った方がいいのかもしれない。

    ​Aパターン(厳しくする)

    予想結果:余計に休憩に行き、更に私のことは嫌いになり、メンタルが壊れる。

    Bパターン(あえて休憩を推奨する)

    予想結果:休憩には行くが、安心感を持ってもらえる。

    ​よし、Bパターンで行こう。

    メニュー登録課へ戻り、比間野さんにBパターン作戦を決行した。

    私「比間野さん、休憩には行ってください。適度な休憩は大切です。仕事に集中するためにも、パソコン業務ですから目のためにも、休憩はとってください。」

    ​比間野「え!?いいんですか?ありがとうございます。」

    ​比間野さんは驚いたように声をあげ、そっとお面を外した。

    その瞬間、俺と村田は凍りついた。

    社員名簿のふくよかなお笑い芸人とは似ても似つかない、驚くほど美しい、綺麗な女性がそこにいた。

    私「比間野さん、お面とってくれて、ありがとうございます。社員証の写真と随分印象が違うようですが?」

    比間野「これは私なんです。……あの写真、阿部課長がわざと変な瞬間のものを登録したんです……」

    村田「ひまちゃんてすごーーい美人さん!女優さんみたい!なんでお面被ってたの?」

    ​比間野さんは消え入りそうな声で言った。

    比間野「私、昔から顔のせいで、勝手に『明るくてポジティブで、親しみやすい人』って勘違いされるんです。勝手に期待されて、でも本当の私は人見知りで、冷めてて、上手く喋れなくて。

    そうすると、みんな『生意気だ』とか『がっかりした』って、勝手に怒って嫌っていくんです……。阿部課長もそうでした。自分の思い通りに私が笑わないからって、どんどん怒るようになって……。

    だから、あの悪意ある写真のイメージのままで、お面を被っていれば、誰にも勝手な期待をされなくて済むから、その方が楽だったんです。」

    ​胸が締め付けられるような理由だった。容姿が良いからこその苦悩。そして、それを自分の独占欲通りにいかないからといじめた阿部課長の影。

    (ちなみに、職場で容姿を過剰に褒めるのもセクハラになりかねないので、俺は心の中で留めるが、村田がひたすら褒めてくれているので助かる)

    ​会う前から印象の悪かった比間野さん。でも、中身はただ傷ついた女性だった。美人だからって差別はしない。俺は平等に、そして彼女のありのままを受け入れると決めた。

    ​第2章:本屋での発見と、謎の「速読メモ」

    ​なんだかあっという間に、比間野さんの初日が終了した。

    彼女への接し方について、何か良いヒントはないだろうか?

    俺はハラスメントの専門書を読み漁っているが、彼女のケースはどれにも当てはまらない気がする。

    そうだ。本屋へ行こう。

    ​大好きな本屋へ。

    ああ、やっぱり本屋は落ち着くな。今はスマホで簡単に本が読める時代だけど、紙の匂いがする本屋には本屋の良さがある。

    おっ、『イケオジヘアカタログ』か、いいな、これ。ちょっと真似してみるか。

    お、『バズり料理レシピ』、これも気になるな。

    『最新イケメン写真集』……へえ、今はこういう中性的な顔立ちが人気なのか、なるほど。

    ――じゃなくて、本題の比間野さん対策を探しに来たんだった。意識を戻せ、俺。

    ​俺は医者じゃないから断定はできないが、彼女のあの独特な雰囲気は、普通の「内気な新人」とは何かが違うんだよな。うつ病? いや、そういう沈み方とも違うような。ADHD? それもちょっと違う気がする。

    そういえば、さっきの会話で「あまり同世代に理解されないから、シニアグループの人たちと一緒にいた」なんて言っていたな。それに、あの物静かな佇まいの奥にある、どこか全てを見通しているような違和感。

    ​いろんな心理学やビジネス書のコーナーを歩いていると、ふと『ギフテッドの正しい接し方』という本が目についた。

    ギフテッド? ああ、確か生まれつき突出した才能を持っている人のことだったか。頭が良すぎて周りに馴染めない、みたいな。

    ちょっと気になって、立ち読みをしてみた。

    ​本を開くと、そこには驚くような特徴が書かれていた。

    「年上やシニア層と仲良くする傾向がある」

    「こだわりが強い。プライドが高い」

    「精神的に幼い部分がある反面、冷めた視点を持つ」

    「興味のないことへの集中力は長続きしない(こまめな休憩が必要)」

    ​……休憩に行くのは、サボっているわけじゃない。集中力が一気に切れてしまうからなんだろうか。

    だとしたら、俺にできることは何だ?

    環境を良くすること。頭ごなしに否定しないこと。良いところを見つけて褒めること。

    要するに、彼女の特性を理解して味方になることだ。これなら、管理職である俺にだってできるかもしれない。

    俺はこの本をレジへ持っていき、家で一晩かけて読破した。

    ​本に書かれていた「ギフテッドへの接し方」の要約は、こうだ。

    ​業務の『意味』を最初に伝えること

    彼らは「これに何の意味があるのか」を常に考えてしまう。意味のない作業を嫌うため、単に『これをやれ』と指示するのではなく、先の先への展開やゴールを説明するべき。答えを先に知りたい傾向がある。

    ​指示を細かく縛らないこと

    とにかく飽き性な一面があるため、ルールを固定するとやる気をなくして動けなくなる。4つほどのパターンを提示するなど、自由な選択肢を与える。ゴールとルールさえ明確に決めたら、方法は本人におまかせするのが一番効果を発揮する。

    ​仕事に興味を持たせること

    単調な作業にはすぐに飽きるが、能力自体は極めて高い。本人のレベルに合わせて、あえて難易度の高い仕事や、AIを駆使するような頭を使う業務を任せると、驚くほどの集中力を見せる。

    ​カウンセラーのように対等に接すること。絶対に怒らないこと。

    彼らは勝手に遥か先まで思考を巡らせて、勝手に傷つき、自分を追い詰めて精神的に病んでしまうことがある。固定観念を捨てて、肯定してあげること。

    ​読み終えて、俺はうなった。

    「なるほど……。簡単な仕事を与えるのは、むしろ逆効果だったってことか」

    考えすぎて勝手に傷ついてしまうなんて、可哀想なことをさせていたかもしれない。

    もし比間野さんがギフテッドなのだとしたら、ホチキス留めのような単調作業ではなく、あえてメニュー登録課の難しい業務を最初から丸ごと任せた方が上手くいくのかもしれない。

    少し怖い賭けだが、やってみる価値はある。

    ​次の日。朝のミーティングが終わり、各自仕事を始める。

    よし、まずはさりげなく「勝手にギフテッド診断」をしてみよう。

    ​私「比間野さん、比間野さんは趣味とか何かありますか?」

    比間野「ないです。」

    私「映画とかは、あまり見ないんですか?」

    比間野「私、すごく飽き性で、集中力が持たないんです。映画館の椅子にじっと座っているのが苦手で。」

    ​ほら来た。本に書いてあった通り、キーワードの「飽き性」だ。やはりギフテッドの可能性は高い。

    ​比間野「あ、でも、映画なら『愛の扉〜その先にある世界〜』なら、一度だけ観たことがあります。」

    私「おお、あれですか!名作ですよね。特に終盤のあの激しいバトルシーン、大迫力でしたよね。」

    比間野「私、そのバトルシーンも、その後の告白のシーンも観てないんです。」

    私「え。途中で寝てしまったとかですか?」

    比間野「いえ、お手洗いに行っていました。映画は私を待ってくれないので、戻ってきたらもう終わっていました。」

    ​わざわざお金を払って映画館に行き、よりによって一番の名シーンでお手洗いに行く比間野さん。やはり只者ではない。しかし、ここで引いたり引いた目をしたりしてはハラスメント主任の名が廃る。クールに、紳士にいこう。

    ​私「その……内容が気になったりはしなかったんですか?」

    比間野「一緒に行った人が後から教えてくれました。まあ、わざわざ聞かなくても、前後の流れでだいたい予測はできますしね。所詮、誰かが作ったフィクション作品としか思っていませんから、結構冷めてるんです。だから、見逃してもあまり気にならないですね。」

    私「そうなんですか……」

    ​作品を観て、何かを感じたり感動したりするのが映画なんだよ、比間野さん。心の中でそう突っ込んだが、口には出さない。それにしても、一緒に行った人はさぞかし冷や汗をかいたことだろう。デートだったら相手の男は「つまらなかったのかな」と大ショックを受けているはずだ。

    でも、意外にもこちらの問いかけにはスラスラと自分の考えを話してくれるんだな。

    ​私「映画の話はこれくらいにして、仕事を始めましょうか。比間野さん、ちょっといいですか?」

    比間野「はい。」

    私「比間野さん、この3冊の資料を、まずは全部読んでみてください。ただ読むだけでいいですから。」

    ​俺は、会社のマニュアル、業務の基礎知識、そしてメニュー登録課の全仕事内容が書かれた分厚いファイルをドサッと手渡した。

    ギフテッドの頭脳がAIのようなものなら、最初に全てのデータをインプット(学習)させる方法がベストだと踏んだのだ。

    本に書いてあった通り、感情的にならず、まるで執事のように優しく、全肯定の姿勢で接する。もしギフテッドじゃなかったらその時また考えればいい。いや、さっきの映画の会話で俺は確信している。比間野さんはギフテッドだ。

    ​比間野「……本当に、読むだけでいいんですか?」

    私「ええ。もし途中でわからない言葉や、疑問に思うことがあれば、何でも私に聞いてくださいね。」

    比間野「わかりました。」

    ​比間野さんは分厚いマニュアルを前にしても特に嫌がる風でもなく、真剣な目でページをめくり始めた。俺だったら一日中マニュアルを読むなんて絶対に御免被りたいが、彼女は驚くほどの集中力で読み進めている。ただ、飽きてしまわないかだけが心配だ。

    ​そこへ、今田課長がやってきた。

    今田課長「比間野さん、30分くらい時間あるかい? 最初の面談をしよう。」

    比間野「はい。」

    ​比間野さんは、今田課長のことは嫌いではなさそうだ。面談室へ向かう足取りも軽い。今田課長は営業仕込みの聞き上手だからな。

    でも、さっき俺が話しかけた時もたくさん喋ってくれたし、「話しかけるなオーラ」は出ているものの、コミュニケーション自体を拒絶しているわけではないのかもしれない。

    しつこくすると嫌がられるだろうから、たまにこちらから適度な距離で気にかけよう。少しでも接し方を失敗したら、彼女が前の部署のように心を閉ざして、またサボり症だと言われてしまうかもしれない。絶対にこのメニュー登録課で、彼女の居場所を作ってみせる。

    ​こうして1週間、比間野さんにはひたすらマニュアルを読み込んでもらう勉強時間を与えた。

    その間、今田課長からは面談の内容をこっそり教えてもらった。

    前の部署の料金システム課では、比間野さんは常に1人で仕事をさせられていたらしい。周囲に相談することも許されず、全てを自己判断するしかなかった。

    しかも、比間野さんがやった仕事は誰も事前にチェックせず、間違いが起きた時だけ、最終チェックの段階で発覚して比間野さんだけが烈火のごとく怒られていたそうだ。

    チェック体制なしで新人に丸投げするなんて、組織の仕事としてどうなんだ、それは。

    ​今田課長「金田、俺は比間野さんに伝えたよ。『仕事っていうのはね、1人でするもんじゃないんだよ。わからなかったり困ったりしたことがあれば、1人で抱え込まないで、俺や金田に相談して一緒に解決していくんだよ。コミュニケーションが一番大事だからね。』ってね。」

    私「素晴らしいですね。コミュニケーションは本当に大切です。しかし、料金システム課の体制、比間野さんの話が本当ならかなりまずいんじゃないですか?」

    ​今田課長「うん、大問題だね。……実はね、阿部課長自身も、かなり精神的に追い詰められているんだよ。

    彼は以前の部署でもパワハラ騒ぎを何度も起こして異動を繰り返していてね。ある時、社内で行方不明になったことがあってさ、社員総出で探したら、ビルの屋上で1人で泣いていたそうなんだ。

    自分を制御できなくて人を傷つけては、後から『自分はこんなに苦労しているのに、なぜ誰も分かってくれないんだ。』って、被害者意識に逃げ込んでしまう。本当に、弱い人間なんだよ。

    だからこそ、自分より言い返せない立場の人間に執着して、支配することでしか、自分のプライドを保てないんだろうね。比間野さんは、その歪んだ感情の犠牲になってしまったんだ。」

    ​今田課長は静かにため息をついた。

    ​今田課長「ただ、本人は『いじめられた』とは一言も言わなかったし、俺もそれ以上深く聞くもんじゃないと思ったから聞いていない。

    でも、この1週間、彼女を近くで見ていただろう? 真面目にマニュアルを読み込んで、ノートにはびっしり何かを書き留めて、本当に一生懸命頑張っている。 金田もそれを見ていたはずだ。過去がどうあれ、今の、目の前にいる比間野さんを見てあげようじゃないか。」

    私「……そうですね。おっしゃる通りです。それに、時間は細かく計っていませんが、彼女は世間で言われているように何十分も休憩に行ってなんていません。スマホも持たずに席を立つので、目が疲れた時や、少し集中が切れた時に、自分なりのペースで頭を冷やしに行っているだけだと思います。」

    今田課長「よし、この3ヶ月で彼女がどう変わるか、俺は面談で、金田は実務のサポートで、最高の環境を作っていこう。比間野さんがここに来て良かったと思えるような、成長の道を作ってあげるんだ。」

    私「はい!」

    ​俺は胸を熱くしながら、メニュー登録課のオフィスへと戻った。

    すると、デスクに座っている比間野さんの後ろに、村田をはじめとした部署のメンバーが集まり、何やらざわついている。

    あぁ、やっぱり何かやらかしてしまったんだろうか。マニュアルを読み終えて、勝手に変なメールでも送ってしまったのか? クレーム対応の準備をしなければ、と身構える。

    ​私「どうしたんですか? 何かトラブルですか?」

    村田「主任! 違います、違うんです! ひまちゃん、ものすごいんです!」

    私「え? やはりパソコン操作の基礎を教えるべきでしたね、すみません、順序をすっ飛ばしてしまって……」

    村田「主任、だから違いますって! 速いんです。データ処理のスピードが、あり得ないくらい爆速なんです!」

    私「速い……?」

    ​俺は耳を疑った。比間野さんはパソコン操作が満足にできず、指一本でたどたどしく打っていたはずじゃなかったか?

    まさか、あの人差し指を高速連打しているのか……!?

    ​比間野「あの……主任。私、人に見られていると緊張して手が止まってしまうというか……。パソコンができないわけではないんです。

    今も、こうしてみんなに囲まれていると、上手くできなくなってしまいます。」

    ​俺が彼女の画面を覗き込むと、そこには驚異的な件数のメニュー登録データが、ミス一つなく正確に処理されていた。

    人差し指一本で打っていたのは、俺たちの前で緊張していたから。

    一人の状態なら、彼女はとてつもないスピードで業務をこなせる能力を持っていたのだ。

    普通じゃない。やはり、本物のギフテッドだ。

    ​私「比間野さん、すごいじゃないですか! 素晴らしい処理能力です。よし、皆さん、比間野さんが集中できるように、パソコン作業中は極力覗き込まないようにしましょう。静かに、温かく見守るのが我が部署のルールです!」

    村田「はーい! あ、でも主任、ひまちゃんが仕事するときに手元に置いているこのノート、何かすごいんです……」

    比間野「あっ、村田さん、それは言わないでください……!」

    ​比間野さんが慌ててノートを隠そうとした。

    そういえば、阿部課長からの『問題ありリスト』には、「人が一生懸命仕事を教えているにも関わらず、ノートに謎の落書きを描き始める。日本語でキレイにメモしなさいと注意したところ、へそを曲げて何も書かなくなった。理解力ゼロのダメ社員」と書いてあったな。

    落書き? 仕事中にインスピレーションが湧いて、アニメのキャラクターでも描いて現実逃避していたのだろうか。

    ​村田「ひまちゃん、そのノートの中身、何が書いてあるのか教えてほしいな。ダメ?」

    ​村田は本当にすごい。ハラスメントの境界線をひょいと飛び越えて、邪気のない笑顔でサラッと聞いてしまう。相手を詮索して勝手に思い込むより、こうして素直に本人に尋ねる方が、よっぽど風通しが良いのかもしれない。

    ​比間野「これは……その、私にしかわからない書き方なんですけど……」

    ​比間野さんは躊躇しながらも、見られたくなかったはずの「落書きノート」を、俺と村田にそっと開いて見せてくれた。

    それを見た俺は、思わず息を呑んだ。

    ノートには、日本語の文章ではなく、ぐるぐるとした幾何学的な螺旋や、ハート、星、ダイヤといった謎の記号が、規則性を持って美しく並んでいた。

    ​比間野「これ……昔、テレビのドキュメンタリー番組で見た『速読のプロ』のメモの取り方を真似して作った、私オリジナルの【速読暗号メモ】なんです。

    私は字が綺麗じゃないし、普通の日本語で細かくメモを取っていると、書くことだけに必死になって、相手の話を聞き逃してしまうんです。それに、後から見返したときにどれが重要なのか分からなくなったり、何度も同じことを質問するのも申し訳ないから……。

    だから、話を聞きながら、重要なキーワードを瞬時にこの記号に置き換えてメモしているんです。後で一人の時間にこれを見返せば、日本語の綺麗なマニュアルとして脳内で完璧に復元できるんです。 

    でも、前の部署では『仕事中に落書きをするな!』って阿部課長にものすごく叱られて……。無理やり日本語で書くように強要されてからは、覚えるのにすごく時間がかかるようになってしまいました……。」

    ​比間野さんは、申し訳なさそうに肩をすぼめた。

    ​話を聞いてみないと、本当のことなんて何もわからない。

    彼女はサボるためでも、反抗するためでもなく、人一倍「ちゃんと仕事を覚えたい、完璧にこなしたい」と願うからこそ、自分に最適なやり方を必死に編み出していたのだ。それを落書きだと決めつけ、彼女の可能性の翼をもぎ取っていたのは、他でもない前の部署の環境だった。

    ​私「比間野さん。」

    俺は彼女の目をまっすぐ見つめた。

    私「ハートだろうが、ダイヤだろうが、螺旋だろうが、好きなように書いてください。勉強の仕方に決まりなんてありません。最終的に仕事を覚えて正確にこなせれば、ノートに何を書こうがそれは比間野さんの自由です。素晴らしい工夫だと思いますよ。」

    ​比間野「……! 主任、ありがとうございます……!」

    ​彼女の声が、初めて嬉しそうに弾んだ。

    全然落書きなんかじゃない。彼女独自の素晴らしい才能の結晶だったんだ。

    ​村田「すごーい! ひまちゃん天才じゃん! 今、うちの部署ってキャンペーン企画が重なってて毎日みんな残業だったけど、ひまちゃんのおかげで今日は全員定時に帰れそうだね!」

    ​比間野さんは、前の部署で「無能」のレッテルを貼られていたが、メニュー登録課にとっては、これ以上ない最高に頼もしい戦力になってくれた。色々と誤解されがちだけど、こんなに純粋で一生懸命な部下を誇りに思う。

    ​ちなみに、我々が勤めているのは『ビューティーセレクトカンパニー』という会社だ。会員制の有料サイトを運営しており、トレンドの化粧品やスキンケア商品を会員限定で購入できる、今世間でかなり話題の企業である。

    システムは年代別のメニューに分かれており、会員条件は18歳以上だ。

    ​スタンダードメニュー(月額300円):流行を気にしない方向け。少し期間が過ぎた定番商品を網羅している。ただし、これにはアラフィフ向けやシニア向けのメニューは掲載されていない。

    ​ヤングメニュー(月額300円):20代をメインターゲットにしたトレンドメニュー。

    ​アラサーメニュー(月額500円):アラサー世代特有の肌悩みに合わせたメニュー。

    ​アラフォーメニュー(月額500円):アラフォー世代向けのケア商品。

    ​アラフィフメニュー(月額700円):本格的なエイジングケアが中心。

    ​敏感肌メニュー(月額300円):肌が弱い人に特化した、無添加などのケア商品。

    ​シニアメニュー(月額800円):60歳以上の方に特化した高級エイジングケアメニュー。

    ​メンズメニュー(月額500円):男性用の基礎化粧品やボディーソープ、体臭・口臭対策商品など。

    ​会員はどれか一つを登録してもいいし、複数、あるいは全メニューの登録も可能だ。

    弊社では、芸能人やインフルエンサーとコラボした期間限定のキャンペーン企画を頻繁に行っており、例えば「アラサーメニューキャンペーン」が始まると、それを目当てに新規入会やメニュー変更の申し込みが殺到する。

    (ちなみに、シニアメニューと敏感肌メニューだけはキャンペーンを行わない。そのため、たまに20代の会員が間違って『シニアメニュー』に申し込んでしまうケースがあり、その場合は「お間違えではないですか?」と確認の電話対応をするのが、俺たちの重要な仕事だ。稀におばあちゃんへのプレゼント用に登録する優しい会員もいるが)

    ​また、月1回、実際の商品をお試しできるリアルイベントも開催している。あえて「ヤングとアラサー」「アラサーとアラフォー」という風に、隣接する2つのメニュー合同で行うのがポイントだ。会員に「上の世代のメニューに変えようかな」と思わせる仕組みである。

    イベントは大盛況で、この日のために有給を取る会員もいるほどだ。

    その他にも、メイクレッスンやパーソナルカラー診断といったお悩み相談も実施しており、コンプレックスや悩みを抱える多くの女性から大好評を得ている。

    ​俺自身は、美に特化したキラキラした男ではない。ただの中年のおじさんだ。

    しかし、職場のほとんどは女性である。「あの主任、なんか臭い」「気持ち悪い」なんて思われてしまっては、業務に支障が出るどころか、スメルハラスメント(スメハラ)になりかねない。

    だから俺は、自社の『メンズメニュー』の有料会員になり、オリジナルのメンズボディーソープを愛用している。香りが良く、泡立ちも最高で、洗い上がりもサッパリするので非常にオススメだ。男性会員はまだまだ少ないので、もっとこの良さが広がればいいなと思っている。

    ​社名は『ビューティーセレクトカンパニー』とキラキラしているが、実は社内システムが非常に古く、エラーが起きやすいのが玉にキズだ。会員に自由度が高い分、メニュー変更の手動チェックが多く、メニュー登録課は毎日大忙しで残業が常態化していた。

    だが、比間野さんが来てくれたおかげで、これからは時間外勤務をしなくて済むかもしれない。残業代が減れば会社にとっても利益だ。

    最初の最悪な印象は何だったのだろう。俺たちの部署には、とんでもなく優秀な宝物がやってきたのかもしれない。

    ​第3章:エプソムソルトの提案と、それぞれの事情

    ​比間野さんがメニュー登録課に来て一ヶ月が経った。

    彼女が驚異的なスピードで手動チェックをこなしてくれるおかげで、毎日山積みだったキャンペーンの申し込み処理が、嘘みたいにサクサク片付いていく。

    おかげで、あれほど悩まされていた部署の残業が、今月はなんとほぼゼロ。みんな定時に笑顔で「お疲れ様でしたー!」と帰っていく。これには上司の今田課長も「金田、今月の残業代のコスト、ものすごく浮いたよ。比間野さん様様だねぇ」とホクホク顔だ。

    ​そんな二ヶ月目のある日、弊社で毎年恒例の『社員商品開発企画』の時期がやってきた。

    これは役職や部署に関係なく、「こういう商品があったらいいな」というアイデアを全社員から募集する企画だ。もし採用されて商品化が決まれば、発案した部署に賞金として2万円が入ることになっている。

    ​私「皆さん、今年も商品開発企画の時期になりました。何か業務の中で思いついたアイデアや、こんなのが欲しいというものがあれば、気軽に私まで提出してくださいね」

    ​メンバーに声をかけると、みんな「うーん、新しい化粧品なんてパッと思いつかないですよねえ」なんて言いながら自分の画面に向かっている。

    すると、いつも静かにキーボードを叩いている比間野さんが、おずおずと手を挙げた。

    ​比間野「あの……主任。私はメニュー登録課の、ただのお手伝いですけど、提案してもいいんでしょうか?」

    私「もちろんですとも!部署のメンバーなら誰でも大歓迎ですよ。何か思いつきましたか?」

    ​比間野「はい……。うちの会社って、いろんな世代向けのスキンケアはたくさんありますけど、お風呂で使うものは少ないなと思って。例えば、エプソムソルトの入浴剤を一ヶ月分、個別に小分けにした商品なんてどうでしょうか?」

    私「エプソムソルト、ですか。確かに最近、美容や健康に良いってよく聞きますね。」

    ​比間野「そうなんです。個別に分かれていれば、毎日手軽に使えますし、友達や親戚に『これ良いよ』ってプレゼントもしやすいかなって。

    それに、4種類の定番の香りにプラスして、オマケとして違う香りが1個だけ入っているんです。今月はなんの香りだろうって、ちょっとワクワクしませんか? 

    毎日のお風呂が、ちょっとだけ特別になるような……そんな企画なんですけど、どうでしょうか。」

    ​比間野さんは、少し緊張したように自分のノートを握りしめていた。

    専門用語なんて一つもない。でも、「使う人がどんな気持ちになるか」を優しく想像した、すごく素敵で心のこもったアイデアだった。

    彼女は美容が大好きで、健康オタクな一面もあるから、こういう日常の「あったらいいな」に気づくのが本当に上手なんだろうな。

    ​私「比間野さん、それ、ものすごく良いアイデアですよ!小分けでプレゼントしやすいのも、オマケの香りが1個入っているワクワク感も、女性会員の心を絶対に掴むと思います。ぜひメニュー登録課の企画として、エントリーしましょう!」

    比間野「え……!ありがとうございます、主任。」

    ​比間野さんは、本当に嬉しそうに目を細めた。

    阿部課長の元にいた時は、アイデアを出しても「事務のくせに生意気だ」「目立とうとするな」と一蹴されてきたのかもしれない。でも、ここでは違う。良いものは良いと、ちゃんと評価されるべきだ。

    ​数日後、そのアイデアシートが上層部の目に留まり、なんと最終プレゼンまで進むことになった。

    審査会場の会議室に向かうと、今田課長の後ろに、なぜか他部署の審査員として料金システム課の阿部課長の姿もあった。

    比間野さんは、阿部課長を見た瞬間に体がこわばった。メニュー登録課ではもうずっとお面を外して、ありのままの綺麗な素顔で過ごしていた彼女だったが、かつての恐怖が蘇ったのだろう。デスクから持ってきていたお面を、自分を守る盾のようにサッと顔の前に掲げて身構えてしまった。かつての「無能だ」と責め立てられた恐怖が蘇ってしまったのだろう。

    俺は彼女の横に立ち、安心させるように声をかけた。

    ​私「大丈夫ですよ、比間野さん。いつも通り、あの素敵なアイデアを皆さんに伝えるだけでいいですからね。俺もついていますから。」

    比間野「……はい」

    ​比間野さんは前に進み、緊張で少し声を震わせながらも、一生懸命に「小分けのエプソムソルト入浴剤」の魅力を説明した。

    説明が終わると同時に、阿部課長が冷ややかな声をあげて手を挙げた。

    ​阿部課長「今田課長、メニュー登録課はいつから商品開発部になったんですか? 比間野さん、君は前の部署にいた時からそうだ。自分の本来の事務仕事もまともにできないくせに、こうやって目立つような真似ばかりしたがる。

    どうせどこかの雑誌の受け売りだろう? 管理もできない、能力もない人間が、適当な思いつきを並べて主任の金田さんを言いくるめたんじゃないか。周囲に迷惑をかけた反省が全く見られない!」

    ​会議室の空気がピキッと凍りつく。阿部課長は、自分の思い通りにならなかった比間野さんを、これ見よがしに傷つけようと躍起になっている。

    だが、その言葉を聞いて、俺の中の正義感が静かに、でも激しく燃え上がった。ハラスメントを恐れて黙っている場合じゃない。部下を守るのが、上司である俺の役目だ。

    ​俺はスッと立ち上がり、クールに、でもはっきりとした声で言った。

    ​私「阿部課長、言葉が過ぎます。彼女が『本来の仕事ができない』とおっしゃいましたが、それは大きな誤解です。比間野さんはメニュー登録課に来てから、誰よりも正確で、我が部署の過去最高のスピードで処理をこなしています。彼女の処理能力のおかげで、今月のメニュー登録課の残業代はほぼゼロになりました」

    阿部課長「な、なんだと……!?」

    ​私「このエプソムソルトの企画も、彼女が毎日、何千件もの『お客様のメニュー登録画面』をチェックする中で、『最近、敏感肌メニューやシニアメニューの会員様の間で、おうちでのリラックス需要が高まっている』という事実に気づき、そこから導き出したものです。

    ただの思いつきではありません。業務を誰よりも真面目に見ているからこその提案です。個人の感情で、この優れた企画を叩くような真似は、同じ管理職として見過ごせません。」

    ​阿部課長は顔を真っ赤にして絶句した。

    今田課長が後ろから「うん、金田主任の言う通りだね。非常に現実的で素晴らしい提案だよ」と深く頷き、審査員席からパラパラと拍手が湧き起こった。

    阿部課長は悔しそうに書類を掴むと、逃げるように会議室を去っていった。

    ​怒鳴り散らすことでしか自分を保てない男の後ろ姿は、かつて鬱になって屋上で泣いていたという話を思い出させ、なんだか少し小さく見えた。彼を許すことはできないが、どこか哀れな人間だな、とも思った。

    ​会議室を出ると、比間野さんが俺の前に立っていた。

    お面を外したその綺麗な顔に、初めて、じわっと涙が浮かんでいた。

    ​比間野「主任……ありがとうございました。私、前の部署でずっとダメ人間だって言われ続けて、自分にはホチキス留めしかできないんだって思い込んでいました。でも、主任が私の仕事を見てくれて、味方になってくれて、本当に嬉しかったです……」

    私「比間野さん、あなたは無能なんかじゃありません。立派な、メニュー登録課の大切な戦力です。自分に自信を持ってくださいね。」

    ​そう、何歳からでも、どんな場所からでも、やり直すことは可能なんだ。

    ​数週間後、なんと比間野さんの企画が「優勝」に選ばれた。

    2万円の賞金が出ることになり、俺は部署のみんなに冷凍庫から好きな味を選べるアイスを買ってきた。

    ​村田「やったぁーー!!ひまちゃん凄すぎる!私、チョコ味にしよーっと!」

    比間野「私はバニラがいいです」

    みんなでアイスを食べながら、比間野さんの快挙を喜び合った。

    ​その後、このエプソムソルト入浴剤は、一番手軽な『スタンダードメニュー』の目玉商品として実際に販売されることになった。

    すると、これがSNSで「個包装で可愛い」「オマケの香りが楽しい!」と大バズり。キャンペーン企画ではない定番商品がここまで売れるのは、弊社の歴史の中でも極めて異例のことだった。

    おめでとう、比間野さん。君はもう、ただホチキスを留めるだけの場所にはいないよ。


    ​第3.5章:バニラとラズベリーの、のほほんチョコ交換

    ​メニュー登録課での比間野さんのデータ処理スピードは相変わらず凄まじく、彼女がお面を外してクリーンな環境で働くようになってから、課の残業時間は目に見えて減っていった。

    そんなある日の休憩時間、オフィスである『流行』が巻き起こっていた。

    ​弊社、ビューティーセレクトカンパニーの通販サイトで今期大ヒットしている、有料会員限定のオリジナルアソートチョコレート。

    いちご味、抹茶味、ビター、ミルクなど、1種類につき5個の可愛いキューブチョコが入った限定パッケージなのだが、これを「1個ずつ他の味と交換して、全種類コンプリートする」という遊びが、部署内の女子たちの間で大流行していたのだ。

    ​村田「あ、ひまちゃん! 私のいちご味1個あげるから、ひまちゃんの抹茶味と交換して〜!」

    比間野「いいですよ。私はどの味も合理的においしいと思っていますので、交換に応じます。」

    村田「わーい、ありがと! これで全種類集まった〜!」

    ​楽しそうにチョコを交換し合う彼女たちの姿を、俺――金田は、自席のパーテーションの隙間から、じっと羨ましそうに見つめていた。

    ​(いいなぁ……。俺も、本当はみんなとチョコ交換したいなぁ……)

    ​おじさんだって、本当は甘いものが好きだし、限定のオリジナルチョコの味が気になって夜も眠れないくらいなのだ。

    だが、俺の中のハラスメント警戒アラートが、最大音量で脳内に鳴り響く。

    ​(待て、金田。アラフォーのおじさんが、若い女の子たちの輪に自分から『俺のチョコと交換してぇ〜』なんて混ざっていったらどうなる? 周囲に『おじさんのくせにキモい』と思われて精神的苦痛を与えたら、それは立派な『環境型セクシャルハラスメント』になりかねん……! ダメだ、ここは紳士として、ポーカーフェイスで仕事を続けるフリをするんだ……!)

    ​俺は泣く泣くチョコ交換を諦め、引き出しの奥にあるいつもの地味なタブレットを口に放り込もうとした。

    その時だった。

    ​デスクの前に、いつの間にか比間野さんが立っていた。

    お面をつけていない、すっきりと整った彼女の綺麗な素顔が、俺をじっと見つめている。

    ​比間野「金田主任。これを差し上げます」

    ​そう言って彼女が俺のデスクにコトッと置いたのは、オリジナルチョコの『バニラ味』だった。

    ​私「えっ……? 比間野さん、これは?」

    比間野「金田主任が、パーテーションの隙間から15分間で計38回、私たちのチョコ交換の様子を視線追跡(アイトラッキング)しているのに気づきました。

    目の動きの動線と、先ほどから引き出しを何度も開け閉めしている行動パターンから分析して、主任が『本当はみんなとチョコ交換がしたいけれど、

    ハラスメントを気にして声をかけられずに孤立している』という結論に達しました。ですので、私のバニラ味をトレードします。」

    ​私「な、ななな……何たる洞察力……!!」

    ​あまりの『先読み』の正確さに、俺は背中に冷や汗が流れた。完全に思考を見透かされている。

    しかし、キモいと拒絶されるどころか、彼女は俺の不器用な葛藤を察して、そっと救いの手を差し伸べてくれたのだ。

    ​比間野「安心してください。主任が甘いものがお好きなのは知っています。それに、上司と部下の円滑なコミュニケーションのための物品交換は、業務効率化の観点からも非常に合理的です。ハラスメントには当たりません。」

    ​私「比間野さん……! ありがとう。君のその優しい気遣い、本当に嬉しいよ。それじゃあ、俺からもこれをトレードさせてもらおう。」

    ​俺は、自分のデスクの秘密の引き出し(ハラスメント対策用のご褒美スイーツ入れ)から、大切に隠し持っていた特別な品を取り出した。

    ​私「これは、来月発売予定の『メンズメニュー限定・ラズベリービターチョコレート』の先行サンプルだ。甘さ控えめで、ラズベリーの酸味が仕事の集中力を高めてくれる。……よかったら、交換してくれ。」

    ​比間野さんは、その黒いシックなパッケージのラズベリーチョコを見た瞬間、パッと目を輝かせた。

    ​比間野「……! これは、メンズメニューしか閲覧・購入できない、一般未公開の超レア商品ですね。ラズベリーに含まれるポリフェノールは美容にも非常に良いです。主任、これ、本当に私と交換して良いのですか?」

    私「ああ、もちろんだ。バニラ味のトレード報酬としては、これでも足りないくらいさ。」

    ​比間野さんは、嬉しそうにラズベリーチョコを胸に抱きしめると、いつになく嬉しそうな、のほほんとした笑顔を浮かべた。

    ​すると、その様子を遠目で見ていた村田さんが、すっ飛んできた。

    ​村田「えええーーーっ!? ひまちゃん、ずるい!! 何それ、メンズ限定のラズベリーチョコ!? めっちゃカッコいいパッケージだし、そんなのサイトの有料閲覧ページでも見たことないよー!」

    比間野「主任から、バニラ味とのトレードでいただきました。非常にレアなビターテイストです。」

    ​村田「主任ーーー! ずるいです! 私も主任とチョコ交換したいです! 私のいちご味と、そのラズベリーチョコ交換してください!」

    女子社員A「あ、私も! 私の抹茶味あげるので、主任のメンズチョコ分けてください!」

    ​私「お、おい、みんな落ち着きなさい! ハラスメントではなく、これは正当な業務外トレードだな? よし、それなら私の持っているサンプルをみんなで等価交換しよう!」

    ​気づけば、俺のデスクの周りにはメニュー登録課のメンバー全員が集まり、みんなが笑顔で「主任、これと交換!」「次はビターね!」と、ワイワイ賑やかにチョコを突き出し合っていた。

    ​おじさんのくせにキモいなんて思われるかも、という俺の不安は、比間野さんのたった一歩の優しさによって、一瞬で綺麗に消し去られた。

    口の中に広がったバニラチョコの甘さは、いつもより少しだけ優しくて、最高に温かい味がした。

    ​

    ​第4章:WEBモデルデビューと、チャラ男のガチ恋

    ​エプソムソルト入浴剤の大ヒットを受けて、会社はさらなるプロモーションに乗り出すことになった。

    ターゲット層を広げるため、公式サイトやSNSのWEB広告に力を入れるというのだ。

    ​ある日の午後、広報部の人間が血相を変えてメニュー登録課にやってきた。

    「金田主任! 予算の都合でプロのモデルが雇えなくて……社内で誰か、広告の静止画モデルをやってくれる若い女性はいませんか!?」

    ​俺は少し考えた。うちの部署は優秀だが、どちらかというと裏方気質のメンバーが多い。

    すると、ふと広報部の担当者が、黙々とパソコンに向かっている比間野さんを見て息を呑んだ。

    「あ、あの……そちらの彼女、ものすごくお綺麗ですね……! ぜひ、うちのWEBモデルをお願いできませんか!?」

    ​俺は慌てて間に入った。

    「いや、彼女は職人肌で、人前に出るようなタイプでは……」

    無理をさせてはいけない。前の部署で傷ついた彼女に、ストレスのかかることはさせたくなかった。

    ​しかし、比間野さんはキーボードから手を止め、意外なことを口にした。

    比間野「あの、動画じゃなくて、写真だけですか?」

    広報担当「はい! WEB用の静止画広告です。セリフも一切ありません。ただ、商品を持って微笑んでいただくか、少しクールな表情を作ってもらうだけで構いません!」

    比間野「……それなら、やります。」

    ​俺も村田も驚いて比間野さんを見た。

    ​私「比間野さん、無理しなくていいんですよ?」

    比間野「いえ……。私、昔から顔のせいで『明るくて喋りやすい人』って勝手に期待されて、勝手にがっかりされてきたじゃないですか。でも、声を出さなくていい【静止画】なら、本当の私の冷めた性格や、上手く喋れない不器用さが誰にもバレないですよね。ただの『広告モデル』というイメージのままでいられるなら……写真の中のほうが、私にとっては安心で、気が楽なんです」

    ​その言葉に、俺は少し胸が痛くなった。

    彼女が自分を守るために被っていた「お面」が、今度は「無言のモデル」という形に変わっただけなのかもしれない。だが、彼女が自分の意思で一歩を踏み出したのなら、上司として全力でサポートするだけだ。

    ​数日後、出来上がったWEB広告を見て、社内は騒然となった。

    そこに写っていたのは、どこからどう見ても『一流のトップモデル』だった。

    少し憂いを帯びた涼しげな瞳、透明感のある肌。余計な愛想笑いをしない、その凛とした静かな美しさは、見る者を強烈に惹きつけた。

    「この美しいモデルは誰だ!?」とSNSで話題になり、彼女の美貌につられてサイトの新規会員登録数が爆発的に伸びたのだ。まさに、黙っていれば一流モデル。

    ​当然、そんな彼女を社内の男たちが放っておくわけがなかった。

    ​「うぇーい! メニュー登録課の皆さん、お疲れサマ〜!」

    フロアに、やたらと明るくてチャラい声が響き渡った。

    営業部のエース、神崎だ。髪は明るいピンクブラウン色が混じったアッシュで、服装も会社の規定ギリギリの派手さ。まるでテレビに出ているお笑い芸人のようなテンションの男である。

    彼は営業成績が良いのをいいことに、社内の女の子たちに片っ端から声をかけることで有名な、いわゆる『チャラ男』だった。俺が最も警戒しているセクハラ予備軍の一人だ。

    ​神崎「いやー、ひまちゃん! WEB広告見たよ、マジでパネェくらい超絶可愛いっすね! 撮影お疲れ様会ってことで、今日の仕事終わり、俺と二人で話題のカフェ行かない? パンケーキご馳走するっしょ!」

    ​神崎は馴れ馴れしく比間野さんのデスクに近づき、ウインクを飛ばした。

    彼の目には、「俺みたいにイケてる男が優しく誘えば、事務の大人しい女の子なんてチョロい。適当に好きだと言えばすぐに落ちるだろう。」という、あからさまな下心が透けて見えていた。

    ​俺はハラスメント防止の観点から「神崎、仕事中に私語は……」と注意しようと立ち上がった。

    だが、それよりも早く、比間野さんが神崎を冷ややかな目で見上げた。

    ​比間野「行きません。」

    神崎「えっ? いやいや、遠慮しなくていいって! 俺のおごりだし!」

    比間野「遠慮ではなく、行く意味がわかりません。私はあなたに興味がありませんし、貴重なプライベートの時間を、なぜ親しくもないあなたとのパンケーキに消費しなければならないのでしょうか。費用対効果が合いません。それに、あなたの目には『適当に褒めれば落とせる』という浅はかな計算が見え透いています。不愉快ですので、私の視界に入らないでください。」

    ​……バッサリである。

    ギフテッド特有の、相手の思考の先を瞬時に読み取り、理詰めで切り捨てる冷徹な一撃。俺は心の中で「お見事!」と拍手喝采を送った。

    ​神崎は、今まで女の子にそんな冷たい態度を取られたことがなかったのだろう。完全にフリーズしていた。

    怒って帰るか、それとも捨て台詞でも吐くか。俺が神崎を追い返そうとしたその時だった。

    ​神崎「……っ!!」

    神崎の顔が、見る見るうちに真っ赤に染まっていった。

    ​神崎「な、なんだ今の……。俺の浅はかな下心を一瞬で見抜いて、一切媚びないあの冷たい瞳……。めっちゃくちゃカッコいい……!!」

    ​なんと、神崎は怒るどころか、両手で顔を覆って身悶えし始めたのだ。

    神崎「今まで俺にすり寄ってくる女の子ばっかだったのに、全く相手にされないなんて……! 嘘だろ、俺、マジでひまちゃんのこと好きになっちまったかもしれない……!!」

    ​私「……は?」

    俺と村田はポカンと口を開けた。

    なんと、遊び半分の「チョロい」という計算で近づいたチャラ男が、比間野さんの鉄壁のガードと本質を見抜く賢さに触れ、完全に【ガチ恋】モードに突入してしまったのだ。

    ​それからというもの、神崎は人が変わったようになった。

    「ひまちゃんに釣り合う、中身のある男になる!」と宣言し、チャラい言葉遣いを多少やめ、真面目にビジネス書を読み始めたのである。仕事の成績もさらに上がり、営業部からは感謝される始末だ。

    ​比間野さんは相変わらず「うるさいです、近寄らないでください」と冷たくあしらっているが、神崎は「その冷たさも最高っす!」と尻尾を振る大型犬のようになっている。

    我がメニュー登録課は、相変わらず騒がしくも、平和な日々を送っていた。

    比間野さんに、こんな風に笑える日常が訪れたことが、俺は何よりも嬉しかった。

    ​――しかし、そんな平穏な日々は、突然の『内示』によって終わりを告げることになる。

    ​第4.5章:困った時の応援要請と、冷徹な壁

    ​比間野さんがメニュー登録課の正式な一員となり、さらにWEB広告の静止画モデルとして社内外で大反響を呼んでから、課の雰囲気はこれ以上ないほど活気に満ちあふれていた。

    お面を完全に外した比間野さんの素顔には、時折のほほんとした柔らかい笑みが浮かぶようになり、村田さんたちともすっかり打ち解けている。

    ​だが、そんなある日の朝一番、メニュー登録課に前代未聞の緊急事態が発生した。

    ​有料会員限定サイトの大型キャンペーンが重なった影響で、通常なら1日最大600件ほどのデータ受け入れ数が、なんとその日に限って、朝イチだけで「1200件超え」という信じられない数字を叩き出したのだ。

    ​村田「し、主任……! データ受け入れの数字がバグってます! 処理しても処理しても、未処理のデータが画面に溢れかえってて……これ、今日中に全員で不眠不休でやっても絶対に終わりませんよぉ〜!」

    ​他のメンバーも、一斉に真っ青になって画面を見つめている。

    いくら比間野さんの処理スピードが神がかっているとはいえ、物理的な限界というものがある。

    ​だが、俺――金田は、ここで慌てるようなハラスメント主任ではない。

    こういう時のために、ビューティーセレクトカンパニーという組織は存在しているのだ。

    会社というのは、すべての部署が毎日一律で忙しいわけではない。業務の波を読み合い、困った時はお互いに助け合うのが、まっとうな企業文化というものだ。

    ​私「みんな、落ち着きなさい。これだけの量を我が部署だけで抱え込む必要はない。朝イチの今なら、まだ他部署に協力を仰ぐ余裕がある。他部署の今日の業務状況を確認して、応援を頼もう。」

    ​比間野「非常に合理的で、正しい危機管理(リスクマネジメント)判断だと思います。
    会社組織における余剰リソースの相互活用は、全体の利益に繋がります。」

    ​比間野さんも冷静に頷いてくれた。

    俺はすぐに立ち上がり、受話器を握って他部署の管理職たちに片っ端から相談の連絡を入れた。

    ​私「ああ、商品開発部の課長、おはようございます。メニュー登録課の金田です。実は本日、データの受け入れが通常の倍以上来てしまいまして……。そちら、今日は少しお手隙でしょうか? もしよろしければ、簡単な入力作業を300件ほど、応援としてお願いできないでしょうか……?」

    ​商品開発部課長『おー、金田さん! いつもメニュー登録課にはうちの新商品のデータ反映で無理聞いてもらってるからね! 今日はうち、午前中ちょっと手が空いてるからいいよ! 300件でも400件でも回してよ、みんなで手伝うからさ!』

    ​私「ありがとうございます……! 本当に助かります!」

    ​続いて、広報部や総務部にも連絡を入れると、どの部署の管理職も「いいよ!」「いつもお世話になってるから、困った時はお互い様だよ!」と、二つ返事で快く引き受けてくれた。

    これが、俺の愛する、クリーンで温かいこの会社の本来の姿だ。

    おかげで、残りの懸念点である「料金システムに関わる専門的なデータ入力300件」を残すのみとなった。

    ​この300件だけは、システムを直接管轄している専門部署にお願いするしかない。

    そう、阿部課長が率いる『料金システム課』だ。

    いつも他部署が忙しい時には、我がメニュー登録課が真っ先に「応援」として人員を出して手伝ってきたのだから、今回はあちらも手を貸してくれるはず――。

    ​そう信じて、俺は料金システム課へと向かい、阿部課長に直接頭を下げた。

    ​私「阿部課長、朝早くに恐縮です。実は本日、メニュー登録課に通常の倍以上のデータ受け入れが殺到しておりまして……。

    大変心苦しいのですが、料金システムの仕様が絡む入力作業300件分だけでも、本日、応援としてご協力いただけないでしょうか。

    もちろん、そちらが忙しい時は、次は我が課が全力で恩返しをさせていただきますので。」

    ​しかし、阿部課長は俺の言葉が終わるか終わらないかのうちに、フンと鼻で笑い、持っていたペンをデスクに放り投げた。

    ​阿部課長「断る。なんでうちの料金システム課が、お前たちメニュー登録課の、そんな単純な事務仕事の手伝いをしなきゃいけないんだ? そもそも、データが溢れたのはお前たちの処理能力が低いからだろう。」

    ​私「阿部課長、これは我が部署の能力の問題ではなく、突発的なシステムの受け入れ過多です。他部署の皆さんも、会社の危機だからと快く応援を引き受けてくださっています。どうか、同じ会社で働く仲間として、300件だけでも……」

    ​阿部課長「仲間? くだらん。うちはシステムを構築するエリート集団だ。お前たちのような、誰でもできるデータのチェック係とは格が違うんだよ。

    比間野みたいな、前の部署でホチキス留めしかできなかった無能を囲っているから、そんな風にすぐパンクするんだ。自分のケツは自分で拭け。

    おい神崎! 営業部の人間が何でこんなところにいるんだ、自分の部署に帰れ!」

    ​ちょうど営業の資料を持ってきた神崎が、阿部課長のその冷酷な言葉を聞いて、後ろで拳をぎゅっと握りしめて怒りに震えていた。

    だが、一番悔しいのは俺だ。自分のことならまだしも、必死に頑張っている我が課のメンバーや、せっかく前を向いた比間野さんのことまで「無能」と見下され、助け合いの精神を完全に踏みにじられたのだから。

    ​私「……分かりました。これ以上、あなたにお願いすることは何もありません。失礼します。」

    ​俺は静かに背を向け、メニュー登録課へと戻った。

    フロアに戻ると、比間野さんが俺の顔色を見て、すべてを察したように言った。

    ​比間野「……断られたのですね。阿部課長のあの性格と、過去の行動パターンから分析すれば、98%の確率で拒絶されることは予測できていました。

    主任、どうか気にしないでください。料金システム課がやらないと言うのなら、その300件、私がすべて引き受けます。私の脳内処理スピードを極限まで高めれば、今日中に終わらせることは不可能ではありません。」

    ​素顔の比間野さんは、俺やみんなを安心させるように、力強くそう言ってくれた。

    村田さんも「私もひまちゃんの手伝いする! 阿部課長なんか見返してやりましょう!」と息巻いている。

    ​私「みんな、ありがとう。……よし、それじゃあ全員で、このピンチを乗り越えよう!」

    ​メニュー登録課は一丸となり、他部署から届く「300件終わったよ!」「こっちも応援完了!」という温かいチャットに支えられながら、猛然とデータ処理を進めた。比間野さんの手元はもはや残像が見えるほどのスピードで、夕方にはあの1200件の山が、嘘のように綺麗に片付いていったのだ。

    ​――だが、物語はここでは終わらなかった。

    ​その日の終業間際、本社の内線電話がけたたましく鳴り響いた。

    相手は、全部署を統括している上層部の最高管理職、今田課長の上司である常務からだった。

    ​『金田主任、ちょっといいかね。今日の朝、全社的な緊急応援要請が出たと聞いたが……詳細を報告してくれないか。』

    ​実は、朝一番に俺が各部署に頭を下げて回っていた様子や、他部署が総出でメニュー登録課を助ける中で、

    阿部課長の料金システム課だけが「なんで手伝わなきゃいけないんだ」と文句を言って完全に無視していた事実が、

    他の優しい部署の課長たちの間で問題視され、そのまま上層部へと直接通報されていたのだ。

    ​さらに、営業部の神崎も「料金システム課の阿部課長、会社全体の利益を損なうような非協力的な態度を取ってました。マジであり得ないっす」と、営業部長経由で上にチクッてくれていたらしい。

    ​俺は事実をありのまま、感情を交えずに客観的に常務へ報告した。

    他部署がどれほど助けてくれたか、そして、料金システム課だけが明確に協力を拒否したことを。

    ​常務『……なるほど、状況は分かった。金田主任、急なトラブルの中、他部署と連携して完璧に業務を遂行してくれて感謝する。……阿部課長の件は、こちらでしかるべき対応をとる。』

    ​数分後。

    パーテーションの向こうにある廊下から、「ドタドタドタ!」という慌ただしい足音が聞こえてきた。

    見ると、阿部課長が顔を真っ青にし、脂汗をダラダラと流しながら、上層部の役員室へと呼び出されて走っていくところだった。

    ​役員室の重い扉の向こうからは、普段は温厚な常務の、地響きのような怒鳴り声がフロアまで漏れ聞こえてきた。

    ​「阿部課長!! 君は一体、組織を何だと思っているんだ! 他の部署が困っている時に文句を言って突っぱね、会社全体の業務を停滞させようとするなど、管理職失格だ! 

    メニュー登録課がいつも君の部署をどれだけ応援してくれていたか、分かっていないのか! 自分の目先のプライドだけで動く人間は、我が社のシステムを統括する資格はない!!」

    ​それは、これまでの阿部課長のすべてのハラスメントと冷酷さに対する、因果応報の『大目玉』だった。

    役員室から出てきた阿部課長は、完全に魂が抜けたような顔で、がっくりと肩を落としてトボトボと歩いていた。

    もう、かつてのように部下を見下して威張り散らすようなオーラは、微塵も残っていなかった。

    ​メニュー登録課のオフィスでは、村田さんが「よっしゃあーー!!」と小さくガッツポーズをし、比間野さんもウーロン茶を小さく一口飲むと、お面のない綺麗な顔で、フッと満足そうに、心底スッキリとした笑みを浮かべていた。

    ​会社は、冷酷な人間が勝つ場所じゃない。

    真面目に頑張る人が、みんなに助けられ、最後には必ず報われる場所なんだ。

    俺たちは、阿部課長の哀れな姿を見送りながら、本当の意味での『勝利』を確信し、今日一番の笑顔でお互いの健闘を称え合ったのだった。


    ​第5章:突然の異動内示と、残された時間

    ​チャラ男で有名、そんな神崎が大型犬のように懐き始め、比間野さんにも少しずつ笑顔が増えてきた平穏な日々は、ある日突然、突きつけられた一枚の辞令によって終わりを告げることになる。

    ​三ヶ月の応援期間も終わりに近づいた、ある日の夕方。

    俺は今田課長に、ぽつんと誰もいない会議室へと呼び出された。

    いつもなら「金田、ちょっといいかい?」とフランクに声をかけてくる今田課長の表情が、妙に硬い。俺の脳内のハラスメント警戒アラートが、静かに危険を察知して鳴り響いた。

    ​私「課長、何かトラブルでもありましたか? 敏感肌メニューの件で何か不手際でも……」

    今田課長「いや、違うんだ、金田。仕事の件じゃない。……これを見てほしい」

    ​差し出されたのは、人事部からの公式な内示書だった。

    そこには、私の名前の横に、信じられない文字が印字されていた。

    ​『メニュー登録課 主任 金田明則。次月一日付を以て、新規事業開発部へ異動を命ずる』

    ​私「え……新規事業、ですか? 俺が、ですか?」

    ​頭が真っ白になるとは、まさにこのことだった。

    俺はこのメニュー登録課の仕事に誇りを持っているし、何より、ハラスメントのない最高の環境をみんなで作り上げてきた自負がある。

    ようやく比間野さんの素晴らしい才能も開花して、課の体制が完璧に整ったこのタイミングで、なぜ俺が動かされなければならないんだ。

    ​今田課長「驚かせてすまない。だが、これは左遷とかそういうネガティブなものじゃないんだよ。むしろ逆だ。

    比間野さんが発案したあのエプソムソルト入浴剤、あれが今、経営陣の間でとてつもない評価を受けていてね。会社として、あのように日常のリアルな需要を捉えた新規事業を、本格的に立ち上げることになったんだ」

    私「それは……素晴らしいことですが、なぜ俺が。」

    ​今田課長「比間野さんをここまで育て上げ、その独自の能力を見抜いて適材適所に配置した君の『マネジメント能力』が、上層部に高く評価されたんだよ。

    新しい部署を引っ張っていくには、君のようにハラスメントに細心の注意を払い、部下の個性を100%活かせるクリーンで優秀なリーダーが必要なんだ。……上の人間は、君のこれまでの努力をちゃんと見ていたんだよ」

    ​味方である今田課長の言葉は、痛いくらいに有り難かった。

    評価されたことは素直に嬉しい。管理職として、これ以上の名誉はないかもしれない。

    しかし、俺の心の中はちぎれそうなくらいに複雑だった。

    ​私「ですが課長。比間野さんはどうなるんですか? 彼女の応援期間はあと少しで終わります。私がいなくなったら、彼女はまた前の部署に戻されてしまうんですか? あそこに戻ったら、彼女はまた阿部課長に潰されて、心を閉ざしてしまいます!」

    ​思わず声が大きくなった。ハラスメント主任としたことが、感情を剥き出しにして上司に詰め寄ってしまっている。

    今田課長は、そんな俺を宥めるように優しく微笑んだ。

    ​今田課長「安心してくれ、金田。比間野さんはもう、立派にこのメニュー登録課の正式な一員として籍を移す手続きを進めているよ。

    彼女のこれまでの処理件数と、エプソムソルトの功績を見れば、誰も文句は言えない。阿部課長だって、もう彼女に手を出すことはできないさ。君が彼女の居場所を、完全に守り切ったんだよ。」

    ​その言葉を聞いて、俺の肩からようやくストンと力が抜けた。

    よかった。比間野さんの居場所は、守られたんだ。彼女はもう、あの暗い箱の中でホチキスを留め続けるだけの存在じゃない。

    ​今田課長「内示が公表されるのは来週だ。それまでは、課のみんなには伏せておいてくれ。残された時間で、しっかり引き継ぎの準備を頼むよ。」

    私「……分かりました。」

    ​会議室を出て、自席へと戻る。

    オフィスでは、村田が「ひまちゃん、ここのデータはどうすればいいの?」と聞き、比間野さんが「そこはですね……」と、お面のない綺麗な横顔で、丁寧に、でも少し照れくさそうに教えている。その様子を、営業部の神崎が遠くから「今日もひまちゃんマジ尊いっす……」と目をハートにして見つめていた。

    ​俺が作った、俺の愛する、ハラスメントのない最高のメニュー登録課。

    この光景を特等席で見られるのも、あとわずか。

    比間野さんは、俺がいなくなることを知ったら、どんな顔をするだろうか。また「自分が原因だ」なんて、勝手に脳内で悪い先読みをして傷ついてしまわないだろうか。

    ​俺は彼女たちの姿を眩しく見つめながら、残された日々で、彼女に伝えられる全てのことを伝えようと、静かに心に誓った。

    第5.5章:チャラ男の仮面を脱いだエリートと、跳ね上がるグラフ

    ​金田主任への突然の異動内示という衝撃のその裏で。

    もう一人、この社内で誰よりも熱く、真面目に、そして必死に戦っている男がいた。

    営業部のエース――神崎だ。

    ​普段はピンクブラウンのアッシュヘアに軽い口調で、比間野さんの前では「ひまちゃんマジ尊い!」と鼻の下を伸ばしているチャラ男。だが、ひとたび営業部のデスクに座り、パソコンの前に向かった瞬間の神崎は、完全に別人の『エリート優良社員』の顔へと切り替わっていた。

    ​神崎「――ええ、御社のカリスマインフルエンサーの方に、アラサー&メンズメニューの合同リアルイベントのメインタイアップとして入っていただきたいんです。今回はただの宣伝じゃありません。

    我が社の天才プランナーが開発した、最高品質のエプソムソルトの魅力を、世の働く男性や女性に届けるためのプロジェクトなんです。

    データはここにすべて揃っています。御社のイメージアップにも絶対に繋がると確信しています。……ですから、どうか力を貸してください!」

    ​神崎は営業部の会議室で、大手の芸能事務所や大手メーカーの幹部を前に、普段のチャラさを微塵も感じさせない、低く落ち着いた声で理路整然とプレゼンを行っていた。

    ネクタイをきっちりと締め、鋭い眼差しで資料を指し示すその姿は、社内でも一目置かれるトップ営業マンそのものだった。

    ​彼がここまで死に物グルイで仕事に打ち込んでいる理由は、ただ一つ。

    比間野さんに、「本気でかっこいい、あなたに相応しい男」として認められたいからだった。

    自分の顔や口調だけで「チャラくて軽い男」と判断されてきた過去を、比間野さんのあの冷徹で真っ直ぐな瞳が見抜いてくれた。だからこそ、彼は自分のすべてを懸けて、彼女の作った最高の商品を世界に広めようと、夜遅くまでオフィスに残って数字と格闘し、泥臭く頭を下げ続けていたのだ。

    ​そして迎えた、新作エプソムソルトの先行発売&リアルイベント当日。

    ​メニュー登録課のオフィスでは、比間野さんと村田さんが、パソコンの画面をじっと見つめていた。

    画面に表示されているのは、イベント会場と連動している「リアルタイム有料会員登録数」および「特設ページ売上」のデータ管理画面だった。

    ​午前10時。イベントが開始された。

    ​村田「あ……! ひまちゃん、見て! グラフが動き出したよ!」

    ​画面の折れ線グラフが、カチッ、カチッと1分ごとに更新されていく。

    最初は緩やかだったその線が、午前11時、神崎が仕掛けたカリスマインフルエンサーによるSNS生配信タイアップが始まった瞬間、とんでもない角度で跳ね上がった。

    ​『現在の新規有料会員登録数:前日比 350%』

    『メンズ限定・フリージアエプソムソルト:用意された第1陣の在庫、15分で即完売』

    ​比間野「……! データの流入速度が、通常のサーバー許容値の限界近くまで達しています。凄い……。神崎さんが仰っていた『有料会員限定サイトの枠を飛び越える爆発的なアプローチ』とは、こういうことだったのですね……!」

    ​村田「キャーーー!! ひまちゃん、凄いよ! 売上メーターが真っ赤になってカンストしそうだよ!! 神崎くん、本当に大手の芸能会社を動かして、こんな物凄いイベントにしちゃったんだね! カッコ良すぎるよーー!!」

    ​村田さんは自分のことのように大号泣しながら、比間野さんの両手をギュッと握りしめてジャンプした。

    比間野さんも、いつもなら「業務中に騒がないでください」と言うところだが、今日ばかりは違った。その綺麗な素顔をいっぱいの喜びで輝かせ、村田さんと手を握り合わせたまま、のほほんとした、心からの幸せな笑顔を浮かべていた。

    ​比間野「はい……! 村田さん、本当に凄いです。私の計算を遥かに超える数値です。神崎さんは、口先だけのチャラ男なんかじゃありませんでした。彼は、仕事に対して誰よりも誠実で、一生懸命で……本当に、かっこいい人です」

    ​パソコンの画面上で、なおも右肩上がりに突き抜けていくグラフ。それは、比間野さんの才能と、金田主任の守った優しい環境、そして神崎の真面目で熱い努力が、最高の形で結実した瞬間だった。

    ​

    ​第6章:チャラ男の猛アタックと、主任のセクハラ防衛線

    ​内示が出てからの数日間、俺は引き継ぎの資料を作りながら、我がメニュー登録課の平和を守るために、これまで以上に神経を尖らせていた。

    なぜなら、営業部の神崎による比間野さんへのアタックが、日に日にエスカレートしていたからだ。

    ​神崎「お疲れサマ〜!ひまちゃん、今日のランチ、奮発してデパ地下の高級 抹茶チーズクッキー買ってきたんだけど、一緒に食べない? ほら、これマジで激ウマなやつだから!」

    比間野「……結構です。私は仕事中、集中力を高めるためにウーロン茶を飲むと決めていますので、甘いものは必要ありません。お引き取りください」

    神崎「ウーロン茶!ストイックなところもマジ尊い!じゃあ俺、次からウーロン茶2リットル抱えてクルーズ船予約して待ってるわ!」

    比間野「話が飛躍しすぎていて恐怖を感じます。業務に支障が出ますので、それ以上近づかないでください」

    ​相変わらずの鉄壁ガードである。比間野さんは一切ブレない。

    だが、神崎の勢いもバカにできなかった。「チョロい」と思って近づいた最初の頃とは完全に目が違っている。チャラい言葉遣いは相変わらずだが、彼女に少しでも認められたくて、営業の仕事もいつもの倍以上のスピードで終わらせて、このフロアに足を運んでいるのだ。

    ​しかし、ハラスメント主任である俺としては、これを見過ごすわけにはいかない。

    職場で特定の女性にしつこく声をかける行為は、相手が不快に感じた時点で『環境型セクシャルハラスメント』に該当する可能性がある。

    ​俺はスッと神崎と比間野さんの間に割って入った。

    ​私「神崎。比間野さんが明確に『近づかないでほしい』と拒絶の意思を示しているにも関わらず、過度なアプローチを継続することは、セクシャルハラスメント、あるいはストーカー行為とみなされかねんぞ。営業部のエースとしての立場を弁えなさい。」

    神崎「げっ、金田主任!ハラスメントの鬼だ……!」

    私「鬼ではない、主任だ。比間野さんが嫌がっているだろう。彼女はメニュー登録課の大切な戦力だ。業務の邪魔をするなら、営業部の部長に報告せざるを得ないが?」

    ​神崎「ち、違うんっすよ主任!俺、マジのガチでひまちゃんに惚れてるんっす!最初は、ちょっと可愛いからからかってやろうとか思ってたんっすけど、俺の汚い下心を一瞬で見抜いたあの冷たい瞳にゾッコンっていうか……。

    俺、ひまちゃんに相応しい男になるために、夜遊びもやめて、毎晩エプソムソルトのお風呂に入って自分を磨いてるんっすから!」

    私「……エプソムソルトだと?」

    ​思わぬところで比間野さんのヒット商品の名前が出てきて、俺は少し毒気を抜かれてしまった。

    神崎をチラリと見ると、確かに以前のような、女の子を値踏みするような下卑たオーラは消え失せ、必死で片思いに悶える一人の不器用な男の顔になっていた。

    ​比間野さんは、俺の後ろからそっと神崎を見て、ボソッと呟いた。

    ​比間野「……エプソムソルトは、お肌のバリア機能を高めて発汗を促すので、夜の入浴に使うのは健康面において非常に合理的だと思います。……まぁ、あなたが変わろうがどうしようが、私には関係のないことですけど」

    神崎「ひ、ひまちゃんが俺の入浴習慣を肯定してくれた……!?ツンデレのデレが来たーー!!主任、俺、もっと自分磨いて出直してくるっす!!」

    ​神崎は顔を真っ赤にして、嬉しそうに走り去っていった。

    嵐のような男だ。だが、彼の存在が、比間野さんの頑なだった心を少しずつ柔らかくほぐしているのも、また事実だった。以前の彼女なら、声をかけられただけで怯えてお面を被ってしまっていただろうに、今はこうして、自分の言葉で相手をあしらう余裕さえできている。

    ​村田「ふふ、ひまちゃん、なんだかんだ言って神崎くんの扱い上手だよねぇ。」

    比間野「上手というか、彼の思考パターンは単純なので、先が読みやすいだけです。……でも、前の部署にいた時みたいに、『喋り方が生意気だ』って怒られないのは、この部署の環境が優しいからだと思います。」

    ​比間野さんは、お面のない素顔で、静かに微笑んだ。

    その笑顔を見て、俺の胸にチクリと痛みが走る。

    この優しい環境を作った俺が、もうすぐここを去る。その事実を、彼女たちはまだ知らない。

    時計の針は、残酷なまでに進んでいく。

    ​第7章:涙の内示発表と、不穏な先読み

    ​そして、ついにその日がやってきてしまった。

    月の中旬、社内のホワイトボードに、次月の人事異動の内示が正式に張り出されたのだ。

    ​朝のミーティングの後、フロアのあちこちから「えっ!?」「嘘でしょう!?」という驚きの声が上がり始めた。

    メニュー登録課のデスクでも、内示の通知メールを見た村田が、ガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。

    ​村田「し、主任……!これ、本当なんですか!?新規事業開発部へ異動って……主任がいなくなっちゃうんですか!?」

    ​村田の大きな声に、課のみんなの視線が一斉に俺に集まる。

    比間野さんも、パソコンを叩いていた手をピタリと止め、大きく目を見開いて俺を見つめていた。

    ​私「……ああ、本当だ。来月の一日付で、私は新しく立ち上がる部署へ移ることになった。みんなには黙っていてすまなかった」

    ​村田「嫌です!そんなの絶対嫌です!主任がいないメニュー登録課なんて考えられません!誰が私たちのくだらない話を聞いてくれるんですか!誰がハラスメントから守ってくれるんですかぁーー!」

    ​村田はデスクに突っ伏して、子供のように大号泣し始めてしまった。他のメンバーも「主任、寂しすぎます……」「やっと今月、残業が減って部署がまとまってきたのに……」と、涙ぐんでいる。

    みんながこんなにも俺を必要としてくれていたんだと思うと、おじさんの涙腺も緩みそうになる。必死でクールを装いながら、俺はみんなを宥めた。

    ​私「村田さん、泣かないでください。私がいなくなっても、メニュー登録課の業務システムは完璧に整っています。今田課長もいますし、何より、みんなは本当に優秀な部下だ。

    私が別の部署に行っても、ここで培ったクリーンな環境は変わりません。……比間野さんも、正式にこの部署の所属になることが決まりましたから、何も心配はありませんよ」

    ​俺がそう言って比間野さんの方を振り返った時、俺は心臓がドクリと跳ねるのを感じた。

    ​比間野さんは、完全に顔を青ざめさせ、カタカタと小さく震えていた。

    その瞳には、深い絶望と、激しい自己嫌悪の色が浮かんでいる。

    ​比間野「……私の、せいだ」

    私「え? 比間野さん?」

    ​比間野「私のせいです……!私が、余計なエプソムソルトの企画なんて提案したから……! 私のせいで新しい事業が立ち上がることになって、その責任を取るために、主任がこの課から追い出されることになったんだ……!私がまた、周囲の環境を壊してしまった……!」

    ​激しい思い込み。ギフテッド特有の、点と点を頭の中で瞬時に繋ぎ合わせ、最悪の結末を導き出してしまう『悪い先読み』の暴走だった。

    彼女は自分の高い能力のせいで、過去に何度も周囲から孤立し、身に覚えのない恨みを買ってきたのだろう。だから今回も、「自分が目立ったせいで、恩人である金田主任の居場所を奪ってしまった」と、自分を激しく責め立てているのだ。

    ​比間野さんはデスクに置いてあったお面を引ったくるように掴むと、顔を覆い隠し、そのまま激しい足取りでオフィスを飛び出して行ってしまった。

    ​村田「ひまちゃん……!」

    私「……俺が行く。みんなは仕事を続けてくれ。」

    ​俺は引き留めるみんなの声を背に、彼女の後を追って廊下へ走り出た。

    ​第8章:最後の面談と、ありのままの翼

    ​比間野さんはお面を抱えたまま、フロアの奥にある誰もいない非常階段の踊り場まで走っていって、そこにうずくまっていた。

    かつて誰も味方がいなかった暗い料金システム課で、一人で耐えていた時のように、小さく体を丸めて震えている。

    ​私「比間野さん」

    ​俺が静かに声をかけると、彼女はビクッと肩を揺らし、お面を顔に押し当てたまま、くぐもった声で叫んだ。

    ​比間野「来ないでください……! 主任、本当にごめんなさい……。やっぱり私、ここにいるべきじゃなかったんです。

    私が余計なアイデアなんて出さなければ、主任が今の素晴らしいポジションを奪われることも、村田さんたちを泣かせることもなかったのに……! 

    私が高い能力(ギフテッド)なんて言われる変な性質を持っているせいで、いつも私の周りの大切な環境が壊れていくんです。

    阿部課長が言った通り、私は周りに迷惑をかけるだけの、ただの厄介者なんです……!」

    ​お面の下から、ポロポロと涙がこぼれ落ちて床にシミを作っていく。

    自分の先読みの能力が、誰よりも深く自分自身を傷つけてしまう。そのギフテッドの孤独と苦しみが、痛いくらいに伝わってきた。

    ​俺は彼女の前にゆっくりと歩み寄り、同じ目線になるようにその場にしゃがみ込んだ。そして、ハラスメント主任としてではなく、一人の人間として、これ以上ないくらい優しく、語りかけるように言った。

    ​私「比間野さん。いつものあなたらしくない、もの凄く精度の低い『先読み』ですね。それは大ハズレです」

    比間野「え……?」

    ​私「私の異動は、責任を取らされた左遷なんかじゃありません。その真逆、栄転です。あなたが素晴らしいエプソムソルトの企画を提案してくれたおかげで、会社は新しい事業を立ち上げることを決めた。

    そして、そのリーダーとして、あなたを見出して育てた私の手腕が必要だと、上層部が評価してくれたんです。つまり、私に新しいチャンスをくれたのは、他でもないあなたなんですよ。」

    ​比間野さんはお面を少しだけずらし、涙で濡れた瞳で俺を見た。

    ​私「前の部署で、あなたがどれほど酷いパワハラに遭い、誰にも理解されずに苦しんできたか、私は今田課長からすべて聞きました。でも、あなたは絶対に間違っていなかった。

    日本語のメモを強要されても、自分に最適なやり方を必死に模索して『速読暗号メモ』を編み出し、少しでも会社に貢献しようとしていた。

    そのあなたの努力と才能を、前の環境が活かせなかっただけなんです。組織の落ち度を、あなたが背負う必要なんてどこにもありません。」

    ​俺は静かに手を伸ばし、彼女が握りしめていたお面を、そっと優しく下ろさせた。

    そこには、もう誰の顔色もうかがう必要のない、ありのままで美しい、一人の女性の素顔があった。

    ​私「あなたはメニュー登録課に来て、自分の力で居場所を勝ち取ったんだ。残業をゼロにし、新しい大ヒット商品を生み出し、WEBモデルとして会社を救った。

    そして、あのチャラ男だった神崎の心まで入れ替えさせて、真面目な男に変えてしまった。これのどこが、周囲を壊す厄介者なんですか。

    あなたは周りの人たちを幸せにして、成長させる、最高の輝きを持った人だ。私は、あなたの上司になれたことを、心から誇りに思っています。」

    ​比間野「主任……っ……」

    ​比間野さんは、今度はもうお面で顔を隠すことなく、声をあげて涙を流した。

    ずっと誰かに言ってほしかった言葉。ずっと、ありのままの自分を認めてほしかった心の叫びが、涙となってすべて流れ出していくようだった。

    俺は彼女が泣き止むまで、静かに隣に寄り添い続けた。

    ​それから数日後。俺のメニュー登録課での最後の出勤日。

    デスクの引き継ぎをすべて終え、俺が荷物をまとめていると、部署のみんなが集まってきた。

    村田はまだ目が腫れていたが、「主任、新しい部署でもハラスメント撲滅、頑張ってくださいね!」と、手作りのメッセージ色紙を渡してくれた。

    ​そして、比間野さんが俺の前に立った。

    彼女の目はすっきりと澄んでいて、その手にはもう、あのプラスチックのお面は握られていなかった。

    ​比間野「金田主任、今まで本当にありがとうございました。主任が教えてくれた『信頼とは、仕事の姿勢』という言葉、私、一生忘れません。私はこれからもこのメニュー登録課で、ありのままの自分で、みんなと一緒に上を目指して頑張ります。……それと、これ」

    ​比間野さんが差し出してきたのは、綺麗にラッピングされた小さな小箱だった。

    ​比間野「これ、私が新しく提案した、来月発売の『メンズメニュー限定・エプソムソルト入浴剤』のサンプルです。オマケの香りは、主任が好きなフリージアの香りにしてみました。新しい部署で疲れたときは、これでお風呂に入って、ゆっくり休んでくださいね。」

    ​私「……ありがとう、比間野さん。喜んで使わせてもらうよ」

    ​彼女は、もう勝手に作られたイメージに怯える必要なんてない。自分の言葉で、自分の心で、人と繋がることができる。彼女の背中には、もう誰にももぎ取られることのない、素晴らしい才能という名の美しい翼が、確かに広がっていた。

    ​私「それじゃあ、みんな、お疲れ様でした! ハラスメントには、くれぐれも気をつけるように!」

    ​俺はいつものようにクールに、紳士らしくビシッとスーツの襟を正すと、愛するメニュー登録課のフロアを後にした。

    後ろからは、村田の「主任、イケオジーー!」という声と、なぜか営業部から駆けつけてきた神崎の「金田アニキ!ひまちゃんは俺が一生守るっす!」という的外れな叫び声、そして、それに「うるさいです、近寄らないでください」と冷たくあしらう比間野さんの、本当に楽しそうな笑い声が響いていた。

    ​自分の特性に悩み、傷つき、お面を被って生きてきた女性。

    そして、ハラスメントに怯えながらも、正義感を胸に部下を守り抜いた中年のおじさん。

    どんな場所からでも、誰と出会うかで、世界はいくらでも優しく変えていける。

    ​俺は胸いっぱいの充実感を抱きながら、新しい未来の扉を開けるために、一歩を踏み出した。

    ​(ビューティーセレクトカンパニー・メニュー登録課 物語 完)

    ​ 第9章(最終章):フリージアの香りと、新しい未来への翼

    ​金田主任が新規事業開発部へと異動してから、早いもので三ヶ月の月日が流れた。

    ​メニュー登録課のオフィスには、今日も変わらない平穏な空気が流れている。

    だけど、以前と決定的に違うことが二つあった。

    一つは、比間野さんがもうお面を完全に外し、その驚くほど綺麗な素顔で、課のエースとして堂々とみんなを引っ張っていること。

    そしてもう一つは――。

    ​「うぇーい! メニュー登録課の皆さん、お疲れサマーでーす!」

    フロアに入ってきたのは、営業部の神崎だった。

    相変わらずピンクブラウンのアッシュヘアでテンションは高いが、その手には分厚い営業資料と、比間野さんが大好きな冷たいウーロン茶が二本握られている。

    ​神崎「ひまちゃん、頼まれてた来月の『ヤング&アラサー合同リアルイベント』の進捗、マジで完璧にまとめてきたっすよ! 大手の芸能事務所と直談判して、今ティーンに絶大な人気があるカリスマインフルエンサーとのタイアップ枠、独占で勝ち取ってきたから! 

    これでひまちゃんの発案した『限定ホワイトティーエプソムソルト』、会員サイトの枠を飛び越えてサーバーが落ちるレベルで新規有料会員が殺到するの確定っすわ!」

    ​比間野「……ありがとうございます、神崎さん。相変わらず声が大きくてうるさいですが、今回の芸能事務所へのタイアップ交渉のスピードと費用対効果の算出は、非常に合理的で素晴らしいと思います。」

    ​神崎「えっ!? 今、ひまちゃんが俺のこと『素晴らしい』って褒めてくれた!? 嘘、マジで!? 俺、今日が命日でも悔いはないっす!!」

    ​比間野「大袈裟です。仕事の話をしていますので、早くデスクに戻ってください。……あ、でも、そのウーロン茶はいただきます。」

    ​比間野さんは少し照れくさそうに、神崎が差し出したウーロン茶を自分のデスクに置いた。

    神崎はそれだけで「よっしゃあーー!」とガッツポーズをして、嬉しそうに営業部へと走っていく。

    ​村田「ふふふ、ひまちゃん、なんだかんだ言って神崎くんのこと、ちゃんと認めてるよね。彼、ひまちゃんに振り向いてほしくて、夜遊びも全部やめて死に物狂いで営業の仕事頑張って、今や営業部のトップに登り詰めそうな勢いだもんね。」

    ​比間野「……認めざるを得ません。最初はただの軽薄なチャラ男だと思っていましたが、彼は私の本質を見てくれた。

    顔のせいで勝手に期待して勝手にがっかりしていく他の男たちとは違って、彼は私の冷めた性格も、不器用なところも、全部『そこがいい、マジ尊い』って笑って受け入れてくれますから。

    ……人間、変わろうと思えば、本当にあんなに変われるものなんですね。」

    ​比間野さんはウーロン茶のペットボトルを見つめながら、本当に優しく、愛おしそうに目を細めた。

    ホチキス留めしかできないと思い込んでいた傷だらけの女性は、もうどこにもいない。自分の足で立ち、自分を本気で愛してくれる人と、新しい未来を歩み始めていた。

    ​◇

    ​同じ頃、本社の最上階にある新規事業開発部。

    新部署の立ち上げで毎日大忙しの俺――金田は、一息つくために自分のデスクで、比間野さんから貰ったあの『フリージアのエプソムソルト』のパッケージを眺めていた。

    ​あの最終面談の日、彼女が泣きながらお面を外して、俺に感謝を伝えてくれたあの瞬間を、俺は今でも鮮明に覚えている。

    彼女と出会って、ハラスメントに怯えてばかりだった俺自身も、上司として、一人の人間として、大きく成長させてもらった。彼女との絆は、恋愛なんていう枠には収まらない、お互いの人生を救い合った最高の「恩師と部下」の証だ。

    ​今田課長「金田、ちょっといいかい?」

    ふらりと、元上司の今田課長が部署にやってきた。

    ​今田課長「比間野さんのエプソムソルト、来月のイベントの事前予約だけで、過去最高の数字を叩き出しているよ。神崎くんが芸能事務所を巻き込んで仕掛けたタイアップ営業が大成功してね。本当に、あの二人のコンビは最強だよ。君が蒔いた種が、こんなに大きな花を咲かせたんだねぇ。」

    ​私「今田課長……。ありがとうございます。でも、私は何もしていませんよ。彼女たちが、自分たちの力で環境を変え、前を向いて歩き出しただけです。」

    ​今田課長「いいや、君が最初に彼女を『ありのまま受け入れた』からだよ。

    どんな場所からでも、どんな年齢からでも、人は正しい理解者に出会えれば、何歳からでもやり直せる。君たちの物語が、それを証明してくれたじゃないか。」

    ​今田課長はそう言って、俺の肩をポンと叩いた。

    ​窓の外には、どこまでも広がる青い空が見える。

    かつて自分の殻に閉じこもり、お面を被って泣いていた女の子は、今、その美しい翼を広げて、誰よりも高い場所へと羽ばたいている。

    ​俺も、負けてはいられないな。

    俺はスーツの襟をビシッと正すと、新しい部署の仲間たちが待つミーティングルームへと、クールに、そして紳士的な笑顔で歩き出した。

    ​(ビューティーセレクトカンパニー・メニュー登録課 物語 完)

    #創作大賞2026
    #お仕事小説部門

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