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スーフィーの教えから──「思考の命」について

    サ—シャ

    この文章は、私の世界観や哲学的な土台を理解していただくために、今後もたびたびリンクとして貼ることになると思います。

    かなり長い内容になってしまい申し訳ありませんが、どうしても省けない核心部分が多く、短くまとめることができませんでした。

    それでも関心を持ってくださる皆さま、本当にありがとうございます。

    この翻訳は5年前に最初に仕上げたものですが、いま改めて見直しと修正を加えながら公開しています。


    ーーー
    今日は、私が深く愛する哲学であるスーフィーの教えの一端をご紹介します。
    特に、ハザラト・イナヤト・ハーン師の教えからインスピレーションを受けています。

    ▶︎ スーフィズムとは(Wikipedia 日本語)
    https://ja.m.wikipedia.org/wiki/スーフィズム

    ▶︎ ハザラト・イナヤト・ハーン師(Wikipedia 英語)
    https://en.m.wikipedia.org/wiki/Inayat_Khan

    ーーー

    神とは、全能であり、全知であり、あらゆるものに染み渡る存在です。
    そしてその神は「生きているもの」──つまり命そのものであるため、「死」は本質的に存在しません。
    終わりというものは存在せず、すべての存在は断片として続いていく。
    命はただ姿を変えるだけで、消えることはないのです。

    思考、記憶、心に浮かぶ感情、そして一度だけ交わされた言葉や、ふとした行動さえも──
    そこには命が宿り、今なお続いています。
    人生の中で私たちが蒔いた「種」は、旅の途中で土に落ちていきます。
    その種が芽を出す様子は、私たちの目には見えませんが、確かに成長しています。
    土がそれを受け止め、水がそれを潤し、太陽と空気が育てていく。

    命とは「居場所」を持つもの。
    思考も、感情も、行動も、言葉も、
    一度この世界に生まれた瞬間から、世界の中で成長し、形を成していくのです。

    けれども、それは人間にとって分かりにくいものです。
    発した言葉はすぐに消え、行動は終わり、思い出も薄れていくように感じます。
    しかしそれは、ただ「形を変えた」だけなのです。
    変化とは、掴みきれないものではありますが、命の形そのものでもあります。

    私たちは何かを目にして、それが見えなくなったとき「もう無い」と思いがちです。
    けれどもそれはまだ「そこに在る」のです。
    そして静かに、自分自身の運行(うんこう)を続けています。
    すべてが命なのです。だからこそ「死」は無い。

    生と死、始まりと終わり──それらはすべて、宇宙における自動的な営みのひとつの側面にすぎません。
    宇宙のある側面は、私たちの中に「始まり」や「終わり」という概念を刻み込んでくるかのようです。

    鐘を打ったときの一瞬の響きが、いつまでも続いて消えないように、
    「聞こえていない」だけで、音はどこかに存在し続けているのです。
    前に進めばその音は聞こえないかもしれませんが、確かにそこにある。

    石を海に投げ込んだとき、水に広がる振動──
    私たちは目の前の波紋だけを見て、それがすべてだと思いがちですが、
    その波は、想像を遥かに超えて広がり続けていきます。

    それが命のかたち。思考の命、存在の波。

    私たちが「宇宙」と呼ぶものは、私たちの想像よりも遥かに微細で、繊細な存在です。
    もしそれを「海」と呼ぶなら、極限まで希薄な液体のよう。
    「土」と呼ぶなら、私たちが知っている土よりも、遥かに豊かで生命に満ちた土壌です。

    宇宙はすべてを受け取り、すべてを育て、愛情を注ぎ、成長を許してくれます。
    けれどもそれは、私たちの目にも耳にも見えず、聞こえないもの。

    しかし──
    その見えない知識は、私たちのあらゆる動きに関係している。
    胸に湧き上がる思いや考えに対して、私たちは本来、責任を持つ存在なのではないでしょうか?

    もし、自分の鼓動を、思考の方向性を理解し、
    それを言葉に表し、行動につなげる方法を知ることができたら──
    そして、自分自身の「雰囲気(気配)」を意識的に育てる道が見えたなら、
    人生のどんな瞬間も、決して「無力」などではないと分かるはずです。

    それは、あまりにも大きな責任です。
    まるで王が背負う責任よりも重いものかもしれない。

    けれども、誰もが自分自身の「王国」を持っています。
    その王国は、自分の責任にだけ支えられている。
    そしてその王国は、私たちが想像するどんな王国よりも、遥かに広く深いのです。

    このことは、先見と誠実さを持って行動するように──と、
    私たちに教えてくれる真理です。

    けれども、人間は常に毎瞬それを感じることができません。
    自分自身を知らなければ、人生の秘密にはたどり着けないのです。

    まるで町を彷徨う巨大な虎のように、私たちは彷徨い歩きます。
    自分が何をしているのか、
    その行いが良いのか悪いのか──知る術もなく。

    では、思考はどうやって「生きている」のでしょう?
    思考が生きているとしたら、どのように存在しているのでしょう?

    呼吸や体、心臓の鼓動を持たない考えが、どうして生きることができるのか?

    実は、すべての「考え」は、放たれた瞬間に生きるための「器(からだ)」を探しはじめるのです。
    それは、源から放たれた「呼吸」が、自分に適した器を探しに行くようなもの。

    思考は、まるで太陽のような「精神の光」から放たれた存在です。
    それが「生きもの」として形を取り、動きはじめる。

    スーフィーの教えでは、そうした存在を「ムワッカルィ」と呼びます。
    つまり、**イレメンタル(四大精霊)**のことです。

    ▶︎ 四大精霊(Wikipedia 日本語)
    https://ja.m.wikipedia.org/wiki/四大精霊

    彼ら(イレメンタル)は、「生きもの」として存在し、常にある目的のために動いています。
    そして──
    それらはすべて「人間の思考」によって生まれたものです。

    人間が怒り、欲望、憎しみを抱いたとき、
    その瞬間に放たれた言葉は、命を持ち、ある「目的」へと向かって進みます。

    たとえばそれは、自分のまわりに敵の軍隊を作り出すようなもの。
    ある思考は、他の思考よりも遥かに長く生き続けることがあり、
    それは「与えられた命の長さ」によって異なります。

    思考の「体の強さ」は、その人の知識の深さによっても変わってくるのです。

    かつて誰かが尋ねました──
    「イレメンタルって、どんな姿をしているんですか?」

    答えはこうです:

    「あなたの思考に似た姿をしています。」

    人間について思えば、その思考から生まれたイレメンタルは「人間の形」を。
    鳥を思えば「鳥の形」、
    動物を思えば「動物の形」。

    つまり、イレメンタルとは、あなたの思考が具現化した存在なのです。


    風が吹く。嵐が起こる。災害が訪れる。
    人はそれを「自然の自動的な働き」として受け止めがちです。

    けれど──それだけではありません。
    そこには人間の「強烈な感情」が関わっていることがあるのです。

    怒り、絶望、憎しみ、あるいは祈り、希望、歓喜。
    そうした感情の波が、宇宙の深層と共鳴し、
    やがて“命ある意志”として変化していきます。
    それはあたかも「電池」のように、風を、嵐を、大雨を、あるいは火山の噴火を活性化させる力となる。

    逆に、祝福や慈悲のために呼び寄せられた思考は──
    たとえば「恵みの雨」として、
    神の慈悲を他者へ届ける媒介となるのです。

    東洋では、雨は神の慈悲と見なされてきました。
    晴れ渡る空に差す太陽の光、
    春のやわらかな風、新鮮な空気、
    豊かな実り、美しい果実や花々。
    こうした自然の恵みは、
    天からの、あるいは地からの、目に見えぬ力の支配によってもたらされるものです。

    水は自然の循環によって空へと昇り、
    雲を形成し、やがて雨となって降り注ぐ。
    同じように、思考や感情、言葉や行為もまた、
    宇宙の構造の中で「自動的な働き」を生み出す。

    しかし、ここで重要なのは──
    それが「ただの自然現象」ではないということ。
    人間の思考と意志が、その背景にあるのです。

    つまり、人間の持つ「責任」は、他の生き物と比べて遥かに大きいのです。

    かつて、聖典『クルアーン(コーラン)』にこう書かれました:

    「我々は信託(アマーナ)を、天に、大地に、山に提示したが、
    それを担う勇気があった者はいなかった。
    しかし、人間はそれを引き受けた。」

    この「信託」こそが、私たちの責任なのです。

    それは、他者の前で果たす責任でもあり、
    自分が関わる仕事の中で果たす責任でもあり、
    日常の行動や趣味の中においても、
    そして何よりも──
    「創造そのものの前に立つ者」としての責任でもあります。

    あなたが今、何を想像しているのか?
    その想像が、創造の場において、
    より良き調和の形をもって世界に、地球に、宇宙に貢献するのか?

    その問いに対する姿勢こそが、
    「自己の責任を知る」ということです。

    もしそれがまだ分からないのなら──
    あなたは、自らの存在目的をまだ知らぬのかもしれません。

    子どもは、最初は何も知らない。
    美しいもの、価値のあるものを──
    ただ好奇心や幻想のままに壊してしまうこともある。

    だが、人は成長する。
    自分の「責任」を少しずつ理解し始める。

    それこそが「大人になった」という気配だ。
    そして、そこから本当の命が始まる。
    その瞬間、魂は“ふたたび”生まれるのだ。

    魂が二度と生まれなければ、
    神の王国へと入ることはできない。
    その王国は、どこか遠くにあるのではない──
    それぞれの心の中に存在する。

    自分の責任を知らない者は、
    その王国を訪れることはないだろう。

    けれど、自らの責任を自覚したとき──
    魂は再び目覚め、
    その者は「覚醒した存在」となる。

    この思想は、サンスクリット語でも表現されている。
    神の創造主的存在は「ブラフマン」と呼ばれる。

    ブラフマン - Wikipedia

    この真理を理解したとき、
    私たちは気づくのだ──
    人生の一瞬一瞬が、内からも外からも創造的な働きを持っていると。

    人生には無駄なことなど一つもない。
    たとえどんなに辛く、どうしようもない状況でも──
    そこに鼓動があり、想いがあり、考えがある限り、
    魂は必ず「創造」へと向かう。

    サンスクリット語には、もう一つ大切な言葉がある。
    「ドゥヴィジャ(द्विज)=二度生まれた魂」

    この真理に気づいた瞬間、
    魂は新たに生まれ変わる。
    そして、人生の見え方が変わる。
    運命が変わる。
    行動が変わっていくのだ。

    もう一歩、深く進めよう。

    何もしなくても──
    魂は存在する。

    「この人は精神的な人だ」と思われても、
    実際に何をしているのか分からないこともある。

    私たちは右往左往して、
    常に忙しくしていないと何か意味がないと思いがちだ。

    だが、人が成長すれば、
    外からは何もしていないように見えても、
    内面でとても大きな仕事をしていることがあると気づける。

    「マジュズブ(Majzub)」という存在をご存知だろうか?
    社会では“聖なる愚者”と呼ばれ、時に狂人扱いされるが──
    東洋では彼らは尊敬されてきた。

    数百年前、カシミールにひとりのマジュズブが住んでいた。
    マハラージャから少しの土地をもらい、
    宮殿でも庭でも自由に歩ける許可を得ていた。

    ある庭には、小さな玩具のような大砲があった。
    マジュズブは、その大砲でよく遊んだ。
    南へ、北へ、あちこちへ向けて動かし、戦っているような振る舞いを見せた。

    そして戦いが終わると、満ち足りた表情を浮かべた。
    それを見たマハラージャは「戦争の準備をせよ」と命じた。
    実際、その後に戦が始まることがたびたびあった。
    彼が遊ぶたび、国は危機を免れたとも言われている。

    ある町にもマジュズブがいた。
    多くの人は彼を軽蔑し、避けた。
    だが、ある若者が勇気を出して近づいた。

    「何が欲しいのか?」とマジュズブは言った。
    若者は答えた。

    「訴訟の問題で困っています。お金もなくて、どうしたら…」

    マジュズブは言った。
    「その訴訟について話してごらん。嘘はつかずに」

    話を聞き終えた彼は、地面にこう書いた。
    「その訴えには根拠がない。棄却されるべきだ。」

    そして言った。
    「もういい。行きなさい。」

    若者が裁判に行くと──
    判事は、まさにその言葉と同じ判決を述べたのだった。

    これはどういう意味か?

    「神の王国に入りなさい」
    ──キリストの言葉そのものだ。

    それぞれの魂は、自分の内に神の王国を運んでいる。
    それに気づいた瞬間、
    人は目覚める。

    何をするか、しないか。
    すべてに意味がある。
    すべてに影響がある。
    何も、失われることはない。

    たとえ目に見えず、形にならなくても──
    精神において満たされているなら、それでよいのだ。

    見えない世界と見える世界の間には、常に繋がりがある。
    すべての層は重なり、互いに関係し合っている。

    物質の世界に顕現しなかったものは、
    別の層から投影されたというだけのこと。

    「まだ実現していない」と感じることがあっても──
    それは、ただ時間や状況の都合によるものでしかない。

    **

    だが──
    一度放たれた「考え」は、
    必ずどこかで現実となる。

    #スーフィー #イナヤト・ハン #哲学 #教え #叡智 #魂 #現実 #サーシャ

     
     
     
    ウクライナのサ—シャと申します。長くLINEに記録しておりました。戦争の痛みと魂の経験を、「ある軍医の日記」として少しずつ発表したいと思っております。

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