
危地に立つ平和主義
あらすじ
ある私立大学の講師が痴漢容疑で逮捕された。冤罪を確信する弁護士の浅井が、事件の背景を調べ始めた。すると、世論誘導を働きかける国際的機関の存在が見えてきた。
札幌市郊外にある、北洋学院大学の、法学部3年の小島は、1限目の法学特殊講義が突然休講となったので、歩いて10分の距離にある下宿先に戻った。次の講義が3限からで、時間が空いたからである。
部屋に入ると、いつものクセでテレビをつける。すると、思わず「あっ」と声を出してしまった。
ワイドショーで、法学特殊講義を担当する、非常勤講師の下山広邦が痴漢行為で逮捕されたとのニュースが流れていたからである。食い入るように見ていると、本人の顔写真が時折大きく映し出される。
「間違いない、下山先生だ」
下山は独身で、女っ気はない。学生に対するセクハラの話も全く聞かないので、痴漢をするとは思えなかった。スマホに着信音が立て続けに入ってくる。みんな、おそらくテレビを見たのだろう。
「おい、テレビ見てるか、先生出てるぞ。だから休講になったんだよ」
「うん、見てるよ。信じられねえな」
「しかし、テレビでやってるところを見ると、こりゃ間違いねえな。真面目な顔して何やるか分かんねえもんだな。これで今日全部休講になんねえかな」
こいつは法学部にいて推定無罪という言葉を全く理解していないようである。まあ、地方の三流私大ならそんなものかもしれないが。
下山は、単位を取りやすいので人気があった。試験の成績が悪く、レポートによる救済措置を受けた者も多かった。小島は、飲み会の席でも下山をみたことがあったが、普段の講義等の様子とあわせて考えても、とても痴漢をするような感じには見えなかった。本件は冤罪ではないのか、と小島は、なんとなく思った。
しかし、ほかの学生にとっては、そんなことはどうでもいいのだろう。
「ああ、大学名まで出てるからな、ひょっとすると休講になるかもね」
小島は相手に調子を合わせた。
電話を切った後も、番組では繰り返し逮捕のニュースを続けている。下山自身、時折、夕方のニュース番組でコメンテーターをしていたので、ある程度有名だったからであろう。
その日は、残りの講義も全て休講となった。混乱を避けるためである。
法学特殊講義は、別の教員が行うこととなり、下山逮捕のことが何となく忘れられた約3か月後、下山に執行猶予付きの判決が出たとの報道がなされた。迷惑防止条例違反で懲役6月執行猶予3年である。かなり重いのではないか、と刑事法に興味がある小島は思った。
大学側では、すでに下山の免職処分を行っていた。下山の事件は、全国的なニュースにはならなかったものの、道内で仕事をするのは極めて困難な状況になった。
報道の2日後の夕方、浅井法律事務所に年配の女性が訪ねてきた。会社員出身の弁護士の浅井信弘は、アラフォーで司法試験に合格したものの、年齢的に弁護士事務所への就職が難しかったため、最初から独立していた。仕事は国選弁護しかなかったところ、珍しく法律相談の予約があったのである。
「こんにちは、さあ、どうぞこちらにかけてください」
その女性は無言で席についた。相談料をもらって領収書を渡す。
「どうされましたか。この後は予定がないので、30分過ぎても、これ以上お金はかかりませんので、落ち着いて話してください」
「私ね、下山です。知ってますか。あのニュースになってる」
「あっ、はい、下山さんの、あの、お母さんでしょうか」
「広邦はね、やってないんですよ。それが、あんなことになって。家にいやがらせに来る人までいるんですよ。それで、あの、控訴しようとしてるんですけど、広邦の知り合いの弁護士に頼んでも誰もやってくれないんですよ。忙しいとかいって。それで名簿の上から順番に連絡したら、あなたが出たんですよ」
「ああ、そうですか。それで、私に弁護の依頼に来られたんですか」
「広邦にはまだ話してないんですけど、やってもらえるんですか」
「第一審の弁護人には頼まないんですか。気に入らなければ控訴審からでも国選弁護人はつきますよ。もちろん私は引き受けることができますが、お金がかかりますよ。本人はどう考えているんですか」
「あの弁護士は信用できないって。会うたびに無罪は無理だ、って言われたそうです。元裁判官のジジイですよ。どっちの味方だか分かりゃしない」
浅井は、その弁護士が誰だかすぐに分かった。裁判所でよく見かける男である。確かにジジイだ。偉そうな態度をすることから、誰も依頼に行かないので、国選弁護ばかりしている男である。
その男は、一貫して否認している被告人に、「元裁判官の自分が言うんだから間違いない。認めた方が有利だし、すぐに出れる」といって、何度かトラブルになっている話は聞くが、警察や検察からしてみればありがたい存在なのかもしれない。
「全くやってもいないことなので、弁護士なしでも大丈夫だと思っていたみたいだけど、ひどい取調べのせいで、精神的にやられて仕方なく弁護士を頼んだんです。だって、一度も面会させてくれなかったんですよ。チンピラみたいな警察官が『今取調べしているって言ってんだろ。捜査権の侵害だ、早く帰れ』とか言うんですよ。本当に驚きましたよ。いつもは人権侵害だって警察に文句を付ける人たちも今回は何も言わないのはおかしいじゃない。それに懲役なんて重すぎるって聞いたんだけど」
確かに初犯の迷惑防止条例違反は罰金が多い。
「ちょっと待ってね、控訴どうするか今聞いてみるから」
年配の女性は器用にスマートフォンを使いこなしている。
この件は、どう転んでも勝てないような気がする。同期で刑事専門を目指していたヤツがいたが、そいつにでも頼んでみるか、と思案していると、
「あっ、ごめんなさい、もう弁護士決まっていたみたい。家でも寝込んであまり話もしてくれないのでこっちでも探してたんですよ」
「いえいえ、信用できる人がついて良かったですよ」
「ああ、ホントにごめんね、なんかちょっと楽になった」
「少しお待ちください、今甘いものとコーヒーをお持ちします」
コーヒーと、近所のショッピングモール内の銘店で買ってきたチョコレート菓子を出すと、
「あっ、ありがとう」
と言って口に放り込む。息子を取り巻く状況が前に進んだことと、甘いものを食べて落ち着いたのか、色々と話し始めた。
「私も、うちの人も大学を出てなかったせいで、どんなにがんばっても給料は安いし、あの人なんか昇進試験も受けさせてもらえなかったんですよ。それで一人息子の広邦には必ず進学するように言ってきたんです。同じことやっても給料が全然違うからって。そしたら、大学院に行って、大学の先生にまでなって、テレビにまで出るようになったんですよ。私ね、全部録画してあるんですよ」
「はい、見たことありますよ。夕方のニュース番組のコメンテーターですね。全然偉そうにしない、庶民の味方という感じですね」
「ええ、社会のために、よかれと思って言っていたみたいですけどね、でもね、それが気に入らないって言われたんだって。大学の偉い人に。誰かとは言いませんでしたけどね」
「へえ、そんな、人から気に食わない、と言われるようなことを言ってなかったと思うんですけどね。私はいいと思いますよ。あっ、ところで、家のほうに嫌がらせがあったということですけど、今は大丈夫ですか」
「ええ、ここ最近はね。ああ、でもね、昨日の夜なんですけどね、玄関に小さい荷物を持った人が立っていて宅配の人かと思ったんですけど、荷物ですかって聞くと、急に走り出して行ったんですよ。広邦に聞くと、荷物が届く予定はないって言うもんですからね、何かおかしい人だなって」
「ああ、それは心配ですね。何か制服でも着ていましたか、いつも来る人でしたか」
「いえ、私は、普段は実家の青森にいて、昨日マンションに行ったんですよ。だから誰かは分かりませんし、それに制服ではなかったですね。黒いジャンパーに帽子を、こう、何というか深くかぶっていましたね」
「ほお、息子さんは何か言ってましたか」
「いいえ、部屋間違えたんだろうって。でも急に走り出したんで、びっくりしましたよ。あっ、もうこんな時間、おじゃましてすみません」
「いえ、何か手伝えることがあったら、いつでも連絡してください」
「同じ弁護士でも全然ちがうものね、では失礼します」
それから1時間もしないうちに、その女性から連絡があった。かなり興奮している。
「あっ、あの下山です。さきほどの。いま広邦が、車にひかれそうになって」
「えっ、けがの具合は?」
「転んだだけだったんで大したことはないんですが。家から出てすぐのところなんですよ。狙っていたみたいで怖くて。先の見通しがついて、やっと外に出られるくらいになったのに」
「警察には連絡しましたか」
「いえ、偶然かもしれないし、警察が何かしてくれるとも思えないって言うもんだから。先生どうしたらいいですか」
「うん、知り合いにね、探偵になろうとしている者がいますので、外出時等に身辺の警護を頼んでみようと思うんですけど、お金はかかりますよ。もし、ほかにあてがあれば、そちらの方がいいでしょう」
しばらく沈黙があったが、
「分かりました。お願いします」
「それでは、お二人でこちらに来てもらえますか。タクシーならドアトゥードアなので安全です」
「えっ、今からですか」
「早めに手を打つほうがいいと思いますよ。昨日の、荷物を持って走り去った男や、家を出た途端に車にひかれそうになるとか、私は偶然じゃないような気がします」
「分かりました。今から行きます」
電話を切ると、浅井は、以前ある事件で関わった元タクシードライバーの井田に連絡をした。
浅井と井田は、ある事件がきっかけで反社会的集団に狙撃されたことがあり、そのときは、両名とも九死に一生を得た。その後、彼らには手段を選ばず反撃を行い、安全を確保した経緯がある。そのときの経験から、両名には暴力に対する耐性ができている。
「井田さん、浅井です。実は協力してもらいたいことがあるんですけど」
「ああ、もう連絡がもらえましたか。早かったですね。今失業保険の待機期間中で求職していることになっているんですけど、ヒマなんでね。やりますよ」
井田がまず事務所に到着した。念のため、顔を合わせないよう、別室で話が聞こえるようにして待機させた。次に、下山親子が入ってきた。さきほど相談した部屋で話を聞くこととした。落ち着かせるために、お茶とチョコレート菓子を出す。
「まず、通常、警備会社や探偵事務所に同様の依頼をするとこれくらいです」
浅井は、ノートパソコンの画面を見せた。母親の表情が曇る。
「この金額を請求するつもりはありません。金額については、解決の目途がついてからお話ししたいと思います。それから、心配でしょうが、お母さんは青森に戻られるようお願いします。私は、下山さんは、かなり危険な状況であると考えています。相手方にとって、お母さんの存在は計算外だったろうと思います。青森に戻るとなると、きっと彼らは何らかの方法で監視しているでしょうから、また行動を起こすでしょう。そこを押さえます。警察に通報しても下山さんのいうとおり、動いてくれないでしょう。そもそも下山さんを追い込んだ警察を信用できますか」
不満げな母親の様子を見て浅井がたずねる。
「いえ、分かりました。でも大丈夫ですか」
「それは誰も断言できないでしょう。しかし、奴らは、下山さんを刃物や銃で狙うようなことはしないでしょう。もしそうするなら、すでにやっています。そして、お母さんの安全のためにもお願いします」
親子は顔を見合わせて頷く。
「では、明日の朝にでも、名残惜しい感じを出しながら家を出てください。奴らに、出ていくところを見せる必要がありますので」
母親が頷くのを見ると、
「それでは、これから下山さんに事件のこと等事情をお聞きしたいと思いますので、お母さんは、隣の部屋でお待ちください」
「えっ、どうして」
「下山さんとお母さんの安全のためです。どうかお願いします。これができないなら引き受けることはできません」
母親は渋々部屋を出た。同席すれば、一々口をはさみ、話にならないことが予想されたためである。
「下山さん、今回の一連の出来事は不審な点が多いです。まず痴漢の冤罪です。警察の捜査は、お母さんから聞く限りでは、かなり強引で、やりすぎのような気がします。次に、処分の重さです。普通は罰金でしょう。そして、昨夜の荷物を持った不審者、今日の車でのケガ。さらに、誰も下山さんの弁護人になろうとしないところです。ここまで揃うと、何か、こうしなければならないような事情が捜査機関等にあるように思います」
下山は、ここまで言われると、何となくそんなような気がしてきた。
「そこで、条例違反の件は控訴審に任せるとして、まずは、身の安全を確保することです。誰が下山さんに危害を加えようとしているのかを探るために、逮捕時からのお話をお願いします」
「はい、その日は地下鉄で大学に向かっていました。すると、突然後ろの方から、『この人痴漢です』と大声がして、すぐに首と腕をつかまれて、扉近くまで押し付けられました。駅につくと、無理やり降ろされ、柱に押しつけられました」
「ちょっと待ってください。話を聞くと、痴漢と言われたのは駅に着く直前のように聞こえるのですが」
「はい、押さえつけられて、すぐに降りた記憶です」
「押し付けられた方の扉から降りたのですか」
「はい、そうです」
「大声を出した女性や、取り押さえた者の顏を見ましたか」
「いえ、まさか自分に対して言っているとは思いませんでしたし、後ろから突然首を掴まれたので、周りを見ることはできませんでした」
「すると、相手も見ずに痴漢したことになりますね。それから、大声の直後、ほとんど間を置かずに取り押さえられたように聞こえるのですが」
「はい、その通りです」
「取り押さえた者は、男ですか、一人だったでしょうか」
「顔は見ていませんが、男だったと思います。すごい力でしたから。多分二人で押さえていたように思います」
「えっ、二人いたんですか。では、ほぼ同時に動いたことになりますね。何か声を掛け合っていたとか、そういうことはありませんでしたか」
「いえ、その者たちの声は聞いていません」
「二人の者が、合図もせず、同時に行動して、的確に相手を制圧したことになりますね」
「ええ、そうですね」
「どうも、通常では考えにくい状況ですね。車内は混んでいましたか」
「はい、すし詰めというほどではありせんでしたが、通勤通学の時間帯なので、座席は埋まっており、立っている人も多かったですね」
「その、取り押さえた者は裁判には来ていましたか」
「いえ、駅員が来たらすぐに立ち去ったようです。誰かも分からないので、証人には来ていません」
「女性とは知り合いのようでしたか」
「いえ、そんな感じではありませんでした」
「その者たちは、どんな格好をしていましたか。体格はどうでしたか」
「首を押さえられていたので、見たのは、駅員が来た後、早足で去っていく後ろ姿だけです。一人は、私と同じくらい、170センチ前後で、少し太っていました。もう一人は、それより背が高く、普通の体形です。二人とも暗い色の服を着て帽子をかぶっていました」
「荷物は持っていましたか」
「いえ、二人ともかばんは持っていなかったと思います。女性の方は、スーツだったと思います。顔はほとんど見ていません。背は160もないかもしれません」
「顔は見ていないんですか。証人で出廷したでしょう」
「裁判では、私との間に衝立を設置していましたので、こちらからは姿を見ることはできませんでした」
「えっ、衝立があったんですか」
「はい、毎日電車で近寄られ、痴漢されたので、顔を合わせたくないとのことでした。もちろん、そんなことはありませんし、その女性は知らない人です」
「弁護人は、下山さんの意向どおり弁護してくれましたか」
「一応、否認の方針でやってはくれましたが、認めれば略式になったかもしれないのに、と何度か言っていたので、真剣にはやっていないかもしれません」
「その弁護士は知っている人ですか。なかなか決まらなかったと聞いたのですが」
「いえ、大学の方で頼んだようです」
「お母さんが、面会できなかったと言っていたんですが、本当ですか」
「おそらく逮捕時と、勾留中、取調べの時間と重なって断られたことを言っているんでしょう。複数回あったので、そう思ったのかもしれません。実際、勾留中は朝から晩まで、大声で怒鳴りつけられましたよ。いまだにこんなことが行われているんですね。弁護士に言っても、『まあ、違法とまでは言えないんじゃなかろうか』とか言ってますんでね、日本の刑事司法の異常性がよく分かりましたよ」
ここに至って、浅井はチョコレートをつまんでお茶を飲んだ。下山もつられてチョコレートに手を出す。
「聞けば聞くほどおかしな点が多いと思います。下山さんは嵌められたような気がするのですが、何かトラブルに巻き込まれたようなことはありませんか。何でもいいです。こちらにとって些細なことでも、相手にとっては死活問題ということもありますから。コメンテーターでの発言はどうですか」
「一応、ディレクターの指図どおりに話してはいるんです。結構細かいところまで言われることがありますんでね。でも若い人に憲法を教えている以上、原理原則に触れるような指図に対しては無視して発言することはあります。元々年配の教授がコメンテーターをやっていたんですが、話が聞きづらいとの意見があったので、急遽、代わりに私が出て、問題がなかったために続けてきたという経緯があります」
「大学内での問題はありませんか」
「うちはワンマン体質が強いところなんですけど、痴漢の犯人にされた上、車でひかれるようなことはした覚えはありませんね」
「ほかに、最近出した本などで何か言われることはないですか」
「本は出してはいないですね。ブログはありますけど」
浅井は、ノートパソコンを持ってきて検索した。
「あっ、出ましたね。『下山広邦のブログ』ですか。『北洋学院大学で講師をしています』、結構更新されてますね、これから確認しようと思います。今日は遅くまでありがとうございました。これからタクシーで送ります」
いくつか下山に確認事項を伝えた後、母親を部屋に入れ、タクシーを呼んだ。そして、親子にあいさつをしている間に、井田を、先に下山の自宅マンションに向かわせた。
下山親子をマンションに送り届けた後、浅井と井田は、目立たないよう、互いに接触せず、周辺の様子を調べていた。予定の時間に二人は浅井の自宅兼事務所に戻った。
井田は、盗聴発見器を見せながら、
「あのマンションから盗聴器は見つからなった。どこかから見ているんだろう」
と、住宅地図を広げた。
「下山さんは、プライベートで他人から恨まれるような感じはしなかった。だから、今回の一連の出来事の原因は、テレビでの発言か、ブログの可能性がある。もっとも、ブログについては、読まれていなければ可能性は低いけどね」
浅井は、ノートパソコンを見ながら話す。
「あっ、ブログ結構読まれているぞ。学生がメインかな。えーと、やはり憲法に関するものが多いな。『象徴天皇と国民主権』、『危地に立つ平和主義』、『空知太判決と目的効果基準』、『二重の基準論の有効性』、『包括的基本的人権』か。本当に学生が見てるのか。これは今回の件とは関係は薄そうだな」
「何を言っているのか全くわからん」
井田が正直な感想を言う。
「政治的なものもある。『社会の分断を望む者は誰か』、『アノミーと現代日本社会』か。この先生、社会学もやっていたのか。何だこりゃ。『武士の繁殖力』、『水戸黄門の放送を望む』か。ちょっと見てみるか」
「武士は、江戸中期以降は、武士の定義にもよるものの、人口の5パーセント未満であったと言われている。しかし、自分は武士の子孫という者は極めて多い。5パーセントどころじゃない。少なくとも半数以上の者が武士の子孫と言っている。先日もある集まりで、なぜか先祖の話題が出たが、そこにいた、ほぼ全員が武士の子孫だそうだ。これが代々の東京都民なら分からなくもない。江戸には旗本がいたのだから。しかし、そこにいた者で東京出身はいない。道民か地方出身者である。なぜこんな分かりやすい嘘をつくのか。思うに、親の愛情不足で、白髪が混じる歳になっても、自分を特別扱いしてもらいたいという意思があらわれているか、あるいは、武士に相当な繫殖力があったか、どちらかであろう」
所々、浅井が読み上げる。井田が鼻で笑う。次は、と言いながら浅井が読み上げる。
「時代劇が好きな者は多い。中でも一番人気は何といっても水戸黄門であろう。しかし、最近テレビドラマで全く見かけなくなった。そのせいで、普段使っているポータルサイトを開けば、必ず、『パワハラ上司に、社長の娘という身分を明かして反撃すると、そいつが左遷された』など、ニュース記事に交じって、妄想をマンガ化したものが多数現れる。また、ドラマの再放送では、警察幹部の身内の探偵が、身分がばれてペコペコされるという、時代錯誤を感じるものが繰り返し放送されている。リアリティに乏しく、筆者は全く面白味を感じないが、頻繁に目にするので一定の需要があるのだろう。この手のものの駆逐を望む筆者は、水戸黄門の再開を期待したい。本家本元が出れば、他はかすみ、目に入ることも少なくなるのではないか」
「この先生おもしろいな。多分学生には人気があるんじゃないか。おっと、こんなことしている場合じゃない。原因を探さなければ。政治的な内容のものが、それっぽい感じがするけど」
浅井が、続けて読み上げる。
「社会の分断で得をするのは、政治家、役人、巨大企業である。長年の不況、大きな格差、これを改善するどころか、さらに拡大しようとしていることが、ついに、社会に関心が乏しい者たちまで気付き始めたのである。『底辺職』などという言葉を用いて一部の職業をバカにして労働者間を分断し、また、学歴は、個人の努力の成果などと学歴差別を正当化し、進学できなかった者たちとの分断を図っている。見てみるといい、俳優でもお笑い芸人でも、みんな『〇〇大卒』と付けている。しかも2~3科目で入れる私大を書いて得意になっている。『難関』、『名門』(爆笑)だそうだ。しかし、ここまでやっても、国や企業のやり方に疑問を持つ者は増加し続けている。今支配層の手先が求めるのは、強固な支持者である。その支持者は、自分たちに批判的な、国民とは異なった考えを有する者でなければならない。そこで、移民、なのである。これが大々的に進めば、社会の分断が進み、国民が団結して政治改革を求めることを、できなくすることができる。ここで、外国人の『人権』というワードを用いるだろう、そうして、いわば、憲法を利用して、その基本原則である国民主権を骨抜きにすることができるのである」
「難しいのか、全くわからん」
井田が言うと、
「先生酒でも飲みながら書いたか。どうも、これでもなさそうだ」
浅井は、斜め読みで探し始めた。数回クリックすると、
「ん?これか、ひょっとして」
と声を出す。
「ディレクターから、『ゲストで何とか財団の研究員が来るので、話を合わせてもらいたい。大学にも話がいっているからお願いします』との申出があった。いつものように軽く返事をしたが、テレビ局が気を遣う、その研究員がのたまうには、『日本は西側の先進国であり、アジアの大国である。したがって国際関係の安定に責任がある。国際協調主義の観点からも、いつまでも平和主義や、平和憲法などと責任から逃げ出すような言い訳をせず、積極的に周辺諸国の安全保障にも関わるべきである』と、ふんぞり返って同席者を見ながら言うもんだから、『集団的自衛権のことを言いたいのか分からないが、政府の見解は、憲法の許容する自衛権の範囲外なので認めないというのはご存じですよね』と返すと、ものすごい形相で睨みつけてきた。するとアナウンサーが、『まあ、日本に国際的な役割を求める声も上がっているということなんでしょうね。今日はありがとうございました』と言ってCMを入れてしまった。その研究員は、あいさつもせず、一直線にディレクターのところへ行き、何やらねじ込んでいる様子であった。ディレクターがペコペコ頭を下げ、研究員を送りだすためにスタジオを出て行った。何事もなかったように番組は終わったが、翌日、大学の偉い人にこっぴどく叱られてしまった。それ以来、番組には呼ばれなくなってしまった。調べたら、公益社団法人東アジア平和創出機構という団体で、与野党のあまり聞いたことのない議員の名前があった。その団体の目的は不明だが、研究員のいうとおりにすると、戦争当事国でもないのに武力を行使することとなり、日本が戦争に巻き込まれてしまう。こんな簡単なことが分からないわけがない。しかし、NATOが日本に事務所を構えたこと、政府が喜んでこれを受け入れていることなどを考えると、事態は思ったより深刻なのかも知れない。いま平和主義は危地に立たされている。私は、これについては徹底的に調べていこうと思う」
これだ。タイトルから憲法の論点に関するものかと思ったが全然違った。このブログの2週間後に痴漢の冤罪事件が起きている。
浅井がパソコン画面を井田に見せる。井田は斜め読みして、
「そうだろうな。大学やテレビ局に言うことを聞かせるということは、よほどの力か金が動いてるんだろう」
「やったのは、組織と関係のない下請けだろうが、一瞬で成人男性を制圧しているところを見ると、格闘技経験者だろうな。被害者役も雇われたやつだろう。やつらの目的は、痴漢で有罪になってもあきらめる様子のない下山さんを自殺に見せかけて殺すことだ。痴漢をして外に出られなくなり、精神的に追い込まれて自殺したというシナリオだろう。だから、銃や刃物を使わない。首を絞めるか飛び降りさせるかだ」
「でもどうやって調べるんだ」
「そうだな、明日にでも実行犯に聞いてみるか。ところで、やつらの監視場所は分かりそうか」
「おそらくこのホテルだ。高いところから見渡すとしたら、ここしかない。そして、このあたりは死角になると思う」
井田はタクシードライバーをしていたので、地理に明るい。
「では、準備するものは、」
浅井と井田は、念入りに打ち合わせを行った。
翌日午前、9時過ぎ、マンションの外まで下山親子が出てきて、少し話した後、母親はタクシーで帰途についた。
マンションから少し離れたところで、ジョギングを中断して少し休んでいる者がいた。
下山が家に入ってしばらくすると、上下紺色の作業服に帽子の男が、小さな荷物を持ってマンションに入って行った。直後に、ジョギングの休憩をしていた者が、マンションの裏手の方へ歩いていく。古いマンションで、防犯カメラもなければ、管理人もいない。ジョギングの男と、そのすぐ後にきたキャリーバッグを持った男が、裏口から、互いに少し距離を置いて入っていった。
荷物を持った男が、下山宅のドアノブを1分程度触るとドアが開き、静かに中に入って行く。すぐ後から、ジョギングとキャリーバッグの男が続いて中に入った。
二人の男が中に入ると、荷物を持った男が、ビクッと立ち止まり、振り向く。同時にキャリーバッグの男がバッグを置いて、音もなく駆け寄り、特殊警棒を荷物の男の頭部に振り下ろす。男は回避すべく反応したが、かわしきれずに、特殊警棒は荷物の男の側頭部をとらえ、「ゴッ」と音がして男はフラフラと倒れこんだ。倒れた男が頭部を押さえ、うずくまる。バッグの男は、倒れた男の頭部や背中、足をめった打ちにする。動かなくなると、二人の男は、倒れた男を後ろ手に縛り上げ、さるぐつわをかませ、頭から袋をかぶせた。その後、男をキャリーバッグに詰め込み、軽自動車のトランクに入れて走り出し、創成川通を北上した。
物音がしなくなったのを確認して、クローゼットの奥から、下山が出てきた。
軽自動車は、一時間弱走ると、舗装されていない場所に入っていった。倉庫のようなところで降りた3人は、中に入り、荷物の男を椅子に座らせて袋とさるぐつわを取り、腕を机の上に固定した。
「おい、お前、うちのカシラに何か用か」
バッグの男が低い声で聞く。
「えっ、何だよ、カシラって。知らねえよ」
バッグの男は、特殊警棒を出し、息が切れるまで殴り続けた。一息つくと、
「どうだ、思い出したか」
「いや、本当にカシラなんて知らないっす」
「じゃあ誰のうちに入ったんだよ」
「いや、それは」
バッグの男は、顔面の中心部を思い切り特殊警棒で殴り付けた。縛られた男は、声も出さずに首を前後に動かしている。赤黒い血が落ちてきた。
「思い出すまでやるぞ」
縛られた男は、ポタポタと落ちる血を気にしながら、うなずく仕草をする。
「思い出したか。じゃあ話せ。あっ、最初に言っておくが、これからは『知らない』ってのはナシにしろ。知らなくてもよく考えて答えろ。何も知らないヤツに用はねえ。あそこの海に捨ててくるから」
と、顎をしゃくる。
「おい、名前、住所、勤務先、電話番号を書け」
片腕を放してペンを持たせる。
「なにい、何だこりゃ、でたらめ書いてっと殺すぞ」
男は、特殊警棒からナイフに持ちかえていた。
「いや、本当です」
「おい、新田、北国伊藤企画ってのは何やってんだ」
「えっ、あのー、コンサルタントとか、金融とかです」
「なにい、やくざもんじゃねえのか」
「いえ、違います。株式会社です。まあ、あのー、元ヤクザの人もいますけど」
ナイフを見ながら答える。
「それで、さっきは誰のうちに入ったんだ」
「下山って大学の先生です」
「誰に頼まれた」
「社長です」
「入ってどうするつもりだったんだ」
「殺すように言われました」
「どうやって」
「首を絞めて、首つり自殺にみえるようにしろって。でも、本人も死にたいって言ってたみたいですし、警察も自殺にするから心配するなって言われたんです。それに、もう金ももらってしまったんで」
「いくら」
「100万です」
「死にたいとかは社長が言ってたのか」
「はい」
「社長は誰に頼まれたんだ」
「いや、それは、あの」
「殺しの話が出る前に誰かと話してんだろう、バカかお前、本当に殺すぞ」
「はっ、あっ、あの、ノグチという名前は最近よく聞きました」
「ノグチ?なにやってるヤツだ?」
「えっ、あの、先生とか、ギジチョーさんとか。すいません、そう話していることだけは覚えてます」
先生に理事長か。病院か、あるいは大学関係者か。ナイフの刃先を新田に向けながら浅井は考えていた。
新田の後方に立っている井田は、少し小さめのジョギングシューズを気にしながら、これで大体分かったな、しかし、この人本当に弁護士なんだろうか、まあ面白いから何でもいいや、と感心していた。浅井は、新田の頭を時折叩きながら何枚かの紙に、何かを書かせていた。
その日の夜、すすきのに行くために、新田を呼びつけた北国伊藤企画社長の伊藤は、下に車を用意しているとの新田の連絡に応じて、マンションから出てきた。新田が後部座席のドアを開けて中へ入れると、反対のドアを開けた男が、特殊警棒で伊藤の頭部を殴打した。新田も後部座席に座らせて車は、南区の方へ走り出し、小樽へ向かう山中へと入っていった。後ろには、軽自動車が少し離れてついてくる。
途中、細い山道らしきところに入ると、新田を助手席に移動させ、浅井が運転席から後部座席に入ってきた。
「おい、伊藤。北星竜企画の野村の使いのモンだ。お前、下山とかいうやつのマンションで何やってんだ。あそこうちのシマだろ」
「何だよ。ヤクザやめたんじゃなかったのかよ。最近野村の話きかねえな。肝臓がんにでもなったか。へへ」
浅井は、ナイフを取り出し、足に突き刺した。
「おお、こら、お前殺すぞ」
伊藤がすごんでみせると、浅井はニヤニヤ笑って、伊藤の足と腕を何度も突き刺し、最後に頬を突き刺した。
「おい、伊藤。おめえ家帰りてえか。俺なら帰りたいけどな」
伊藤がうなずく。
「今日はな、ちょっと聞きてえことがあって来てもらったんだよ。分かるだろ。うちのシマで何やってんだよ」
「あっ、あれは、ちょっと頼まれたんだよ。北洋学院大学の野口ってやつだよ。理事長の身内だよ」
「何頼まれたんだよ」
「野口が株か何かで大損こいたんだよ。そこに、何とかって財団が大学への寄付と株の穴埋めの話をもってきたんだとよ」
「ほお、いくらだよ」
「はっきりとは言わなかったけど何億って金だよ。それで何か、大学を挙げてそいつらに協力する約束したらしいんだけど、下山ってヤツが言うこと聞かねえって言うんだよ。テレビでべらべら下山がしゃべってるの聞かれて、約束が違う、このままだと金の話はナシだって言われたんで、俺んとこに頼みにきたわけだよ」
「誰に指示した」
「こいつだよ」
と言って、新田の方を向いて顎をしゃくる。
「ほかは?」
「いねえよ」
「まだ下山を殺してえか」
「いや、もういい」
「野口から金はいくらもらった」
「500万」
「野口とのやり取りはとってあるか」
「ああ。録音してある」
「よこせ」
「ああ」
「もう一個答えたら帰してやる。ああ、あといくらか出せよ。まあ200万でいいや。家にあるだろ。後もう、うちのシマに入るな」
「金は出す。分かった。何が知りたい」
「下山の痴漢の件、知ってるだろ。誰がやった」
「そいつは」
といいながら上を向くと、浅井がナイフをちらつかせたので急いで話す。
「いや、はっきり知ってるわけじゃねえんだ。野口がえらそうに言ってたのは、確か高校か何かの同級生で、自衛隊上がりの探偵にやらせたみてえだ。探偵っつったってマトモじゃねえ、俺んとこと似たようなことしてるみてえだな」
「女もか」
「ああ、そんなやつらばっかだ。そこは普通の客はいねえよ」
「名前は」
「いやあ、それは、確かどうだったかな、佐藤とか言ってたかな。すまねえが、本当にここまでしか知らねえんだ」
浅井は何枚かの紙にサインをさせた。
翌日、浅井は、A4サイズの封書を10通以上どこかに送付した。そして、下山に連絡を入れてもう安全である旨伝えた。
「浅井さんが捕まえたんですか」
「いいえ、野口に頼まれたらしいんですけど、反省して帰りましたよ」
「えっ、野口さんに」
「何か思い当たるところはありますか。最近株で大損したらしいんですけど」
「テレビ出演の件で厳しく言われたことがあります。ただ意見を言っただけで何であんなに怒るのか不思議でしたよ。言論の自由の重要性は知ってるはずなんですけどね。外国株を買った直後に暴落したらしいですよ。噂ですけどね」
「今回は実入りが少なかったな」
浅井は、伊藤から取った200万円のうち、井田に150万円手渡した。
「しかし、あそこは北星竜企画のシマなのか」
「それは知らないね。テキトーだよ。でもあいつビビッてたじゃん」
「俺たちが目出し帽というのもね。次から特殊メイクか何かでやってみるか」
「野村の顏とかでか」
「そりゃいいね。もう白骨化してるだろうから」
以前、二人を狙撃する指示を出した元暴力団北星竜企画社長の野村のことである。二人に反撃され、山中に捨てられた。
「下山さん、高裁で勝てるのか」
裁判は、ドラマでしか知らない井田がたずねる。
「難しいだろうね。だから、何とか裁判以外で名誉を回復すべく伊藤の動画や、新田と伊藤の供述書をマスコミ各社と警察等行政機関、北洋学院大学に送付しているが、特に目立った反応がないな」
「あの社団法人、何億もポンと出せるなんて、どんな団体なんだよ」
「おそらく背後に外国の機関がいるんだろう。外国の名前で憲法9条にいちゃもん付けるわけにいかないので、国内の手先を使っているんだろう」
「あの議員どもはスパイか」
「議員たちにその自覚はないかもね。バカだから。顔みたら分かるじゃん」
「しかし、どこの国が何の目的で」
「先生のブログにあった研究員の言いぐさだと、日本に武力を行使させて戦争当事国にさせたがっていることは分かる。それで、誰が、どこの国が得をするか」
「日本ではないね」
「そう、まず考えらえるのは軍需産業だが、戦争していなくても日本は多くの兵器を買っている。だから、この線は薄いかもしれない。研究員の狙いどおり日本が武力行使するとすれば、周辺国のなかで、どこになるか。吹けば飛ぶような小国ではない。かなり限られてくるし、NATOが日本に拠点を構えるとなると、真っ先に思いつくのはロシアの背後をつかせるというところだろう」
「日露戦争を狙ってるわけか」
「明治時代と同じような状況にしたいのかもしれない。しかし、研究員が具体的な国名を出さないところをみると、そうでないかもしれない。いずれにしろ、日本が戦争当事国として地域で孤立すれば、他の小さな国は、周辺の大国につくことによって、独立と安全が保障される。数億もの金を世論誘導につぎ込むということは、ある程度危機感を持った国だろう。かなり限定されるがな」
「あの大学と下山先生が出てたテレビ局は、もう金をもらっていたというわけか」
「多分ね。だからテレビ局は偏ったものがみられることがあるし、先生もそれに反応したのだろう」
「あの大学大丈夫か」
「つぶれるんじゃないか。理事長の身内があれだからな。それはそうと、失業保険もらい終わったら本当に探偵やるか。おれも離婚事件やって弁護士らしい仕事したいからな。浮気調査頼むよ」
「探偵か。面白そうだな。また何かあったら呼んでくれよ」
井田は、外に出て歩き出した。体が軽い。新しいことへの取組みで、若返っているような感覚を覚えた。
この小説はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。