
霧の終着駅、あるいは始まりの栞
第一話:霧の駅舎と、春の追憶
根室本線の鈍行列車は、まるで呼吸を忘れたかのような静寂の中を走っていた。
窓の外を流れるのは、どこまでも続く牧草地と、初夏の湿り気を孕んだ淡い緑の海。時折、防風林の背後から霧が這い出し、列車のガラスに白い吐息のような模様を描いては消えていく。
座席のモケットに深く沈み込みながら、綴(つづり)は膝の上に置かれた古びた鞄を抱きしめていた。その中には、差出人不明の封筒が一つと、目的地を記さないまま、ただいくつかの駅名に古いインクで印が打たれた、不完全な鉄道路線図が入っている。
彼がこの旅に出たのは、自身の心の中に空いた「穴」を埋めるためだった。
記憶の縁が欠けている。幼い頃の自分の顔さえも思い出せない。鏡を見るたびに、そこに映る自分の瞳が、自分のものではない「誰か別の人間」の光を反射しているような、おぞましいズレを感じていた。
たとえば、右の頬にある小さな火傷の痕。いつ、どうしてついたものなのか、家族に尋ねても誰もが奇妙に言葉を濁した。まるで、誰かの人生の最も重要な数ページを故意に切り取られ、代わりに別の人間を貼り付けられたかのような居心地の悪さが、ずっと胸を刺している。この路線図と手紙は、そんな虚無の中に落ちていた、唯一の手がかりだった。
列車が軋んだ音を立て、緩やかに減速を始める。
車内放送が、誰の耳に届くでもなく小さな音量で次の駅名を告げた。綴はふらりと立ち上がり、重い木扉を押し開けてホームへと降り立った。
駅の空気は、湿り気を帯びた土と、遠い火の匂いが混ざり合っていた。駅名標はペンキが剥げ落ち、かろうじて読める程度の文字が、草むらの中に寂しげに突き刺さっている。
駅舎へ向かうためホームを歩いていると、改札の傍らに、ぽつりと小さな売店があることに気づいた。煤けたエプロンを纏った老婆が、帳場に座り、ただ静かに霧の向こうを見つめている。
周囲のすべてが灰色に煙る中で、なぜかその老婆の姿だけが、輪郭線が印刷されたばかりの絵画のように、不自然なほど鮮明な色彩を保ってそこにいた。
綴が前を通り過ぎようとした瞬間、老婆の細い指が、無造作に置かれていた一つの包み——『山峡の朝凪弁当』と記された経木のお弁当——を手に取った。
(山峡、なのに、朝凪……?)
山あいの駅だというのに、なぜ海の言葉が使われているのだろう。綴はその奇妙な言葉のねじれに、一瞬だけ思考を引っかけたが、老婆の言葉がそれを遮った。
「……あんた、これを探しているんだろう」
老婆の声は、風にさらされた枯れ葉のようにかすれていた。老婆は問いには答えず、ただじっと綴の手元にある路線図を視線で指し示した。
「春の匂いがするうちに、届けてあげておくれ」
その手は、枯れ木のように痩せていたが、受け取った瞬間、驚くほど熱い体温が伝わってきた。それは、この冷えた駅舎の中では異質なほど、生々しい生命の予感だった。老婆の瞳の奥には、まるで遠い過去の全てを見通しているような、静かな慈愛が宿っていた。
綴が深く一礼し、顔を上げた、その刹那だった。
ほんのひと吸い分の霧が二人の間を抜けたかと思うと、売店の明かりは消え、そこにはただ、何年も前に打ち捨てられたような、埃まみれの板張りのカウンターが残されているだけだった。老婆の姿は、最初からそこになかったかのように、白い霧の彼方へと完全に溶け失せていた。
しかし、綴は目を見開いた。
誰もいないはずの、分厚く埃が積もったカウンターの上に、たった今置かれたかのように、黒ずんだ古い十円硬貨が三枚、綺麗に並んで鈍い光を放っていたのだ。
綴はまだ、財布を開いてすらいない。それはまるで、彼がこの場所に到着するよりずっと前に、別の『誰か』が支払いを済ませていたという、不味気で、しかし決定的な物的な痕跡だった。
手元には、まだ確かな温もりを持つお弁当の重みが残されている。
駅舎の中は、板張りの床が湿気で少し波打ち、どこか遠い昔の石鹸の匂いが残っている。綴は吸い寄せられるようにベンチに座り、包みの紐を解いた。
箸でひと口、冷えた山菜飯を口に運ぶ。
瞬間に、舌の奥で「春」が爆ぜた。
山の雪解け水を吸い上げたフキノトウの微かな苦味。
そして、ニシンの脂が溶け出す瞬間の、どこか懐かしい甘辛い醤油の香り。
それは綴自身の記憶ではないはずなのに、その味を知っているかのように、胸の奥が熱く脈動を始める。
飯を飲み込んだ瞬間、駅舎の空気が、びりりと震えた。
ベンチに座っていたはずの綴の視界が、急激に色彩を変える。窓の外の霧が晴れ、灰色の景色が、鮮やかな黄金色の光に塗り替えられていく。
かつてこの駅が賑わっていた頃の、人々のざわめきが聞こえてきた。カチリ、カチリと鳴る列車の発車ベル。誰かの笑い声。そして、駅舎の柱に寄りかかるようにして、一人の少女が手紙を読んでいる姿があった。
少女が手にする封筒には、綴が今、鞄の中に抱えているものと同じ、古びた真鍮色のシーリングスタンプが押されている。
「……これが、始まりの断片」
綴は立ち上がり、少女に近づこうとした。しかし、彼が踏み出すごとに、床板が「ギシリ」と現実の音を立て、そのたびに少女の姿は霧のように輪郭を曖昧にしていく。
少女がふと、顔を上げた。
その瞳はまっすぐに綴の方を向いていた。しかし、彼女の視線は綴の身体を恐ろしいほど正確に透過し、彼の遥か後ろにある「いつか来るはずの誰か」をひたむきに見つめていた。彼女が見ているのは、綴のいる現在ではなく、まったく別の時代の光景なのだ。
交差しそうで、決して交わらない視線。その絶対的な断絶のなかに、少女がかつてこの場所で抱え続けた、途方もない孤独と、それが叶うと信じていた盲目的なまでの希望が透けて見えた。綴は、自分が彼女にとって「ここに存在しない透明な幽霊」でしかないことに、引き裂かれるような切なさを覚える。
彼女が手紙を閉じ、ベンチの上に一冊の小さな手帳を置いて立ち去ろうとした、その瞬間——。
パチン、という鋭い音が響いた。
光のレイヤーが剥がれ落ち、綴は元の静まり返った駅舎へと引き戻された。窓の外は再び深い霧に覆われている。少女のいた場所には、もう何もなかった。
ただ、木製のベンチの上に、一冊の小さな手帳が、先ほどまでそこで時を刻んでいたかのように、ぽつんと忘れられていた。
綴は震える手でその手帳を拾い上げた。
表紙には、殴り書きのような文字でこうあった。
『まだ、その春の匂いを覚えていますか。私は今、光の届かない場所で、あなたの名前を数えています。』
綴は手帳を鞄の底にしまい、鞄の中に残されたもう一つの手紙をそっと撫でた。
手帳に書かれた言葉と、手紙に記された言葉。その二つが重なったとき、綴の胸の中の「空洞」が、ほんの少しだけ埋まった気がした。
「手紙を届ける旅。それは、記憶を落とした場所へ、忘れ物を返しに行くことだったのか」
彼は駅舎を後にした。霧の向こうからは、次の列車の気配はまだない。しかし、綴の胸の中には、先ほど食べた山菜飯の苦味と、決して自分を見つめてはくれなかった少女の、あの透明な眼差しの残像が、確かな重みとして居座っていた。
カウンターの上の三枚の古銭は、いつの間にか消えていた。ただ、そこだけ埃が丸く払われた痕が、静かに霧に濡れている。
霧が、まるで彼の足跡を追うようにゆっくりと形を変え、次の駅へと続く線路を指し示している。
綴は、その白い道へと足を踏み入れた。あの老婆が遺した一瞬の温もりと、誰かの忘れていった過去の断片を抱えて。
旅はまだ、始まったばかりだ。
第二話:潮騒を鳴らす赤電話
列車はさらに深く、山あいの狭隘な不連続線へと分け入っていた。
車窓を覆う緑は、初夏の爽やかさを脱ぎ捨て、黒みを帯びた鬱蒼たる原生林へと姿を変えている。針葉樹の隙間から時折覗く岩肌は、気の遠くなるような歳月に削り取られた剥き出しの骨のようで、そこを縫うように走る根室本線のレールは、大地の巨大な傷口を辛うじて繋ぎ止める縫合糸のようだった。
綴は、ガタゴトと規則正しく震える座席の上で、自身の右頬にある火傷の痕に指先を触れていた。
滑らかな皮膚の途中で、唐突に現れる引き連れたような歪な感触。それをなぞるたび、彼の脳裏には「自分という存在の不確かさ」が、冷たい澱(おり)のように沈殿していく。
なぜ、この傷があるのか。なぜ、幼い頃のアルバムには、自分の顔だけが綺麗に切り抜かれた跡があるのか。
「お前は、あの子の分まで生きるんだよ」
かつて、祖母が病床でうわ言のように呟いたあの言葉の意味を、綴はまだ知らない。自分は誰の『代用品』として、この世界に生かされているのだろうか。
キィ、と耳を劈(つんざ)くような金属摩擦音が静寂を破った。
列車が速度を落とし、二つ目の印が打たれた駅――『木霊谷(こだまだに)駅』へと滑り込んでいく。
ホームに降り立つと、そこは昼なお暗い、深い緑の檻の底だった。
周囲を峻険な山々に囲まれ、風さえも逃げ場を失って淀んでいる。駅名標は完全に錆に覆われ、文字の形すら判別できない。ただ、その歪んだ鉄板の隅に「こだまだに」という掠れた平仮名だけが、虫の息のように残されていた。
耳を澄ますと、山の斜面を流れる沢水の音が、奇妙に反響して聞こえる。右から聞こえたはずの水の音が、左の岩肌に跳ね返り、背後の藪から囁き返す。この谷全体が、あらゆる音を閉じ込め、肥大化させる「声の器」のようだった。
駅舎は、木造の壁が完全に腐食し、傾いた屋根を這うように蔦(つた)が絡みついている。生者の気配など微塵もない、完全なる廃駅の佇まいだった。
綴が板張りの待合室へ足を踏み入れた、その時だった。
——ジリリリリリリン。
鼓膜を抉るような、重々しい金属の打鐘音が、狭い駅舎内に爆ぜた。
綴はびくりと肩を跳ね上げ、音のした方へと視線を向けた。
待合室の隅、蜘蛛の巣の張った木製の台座の上に、それはあった。
現代では見る影もなくなった、旧式の「赤電話」である。ダイヤル式の丸い盤面は埃にまみれ、塗装は無残に剥げ落ちている。しかし、その電話機は、確かに内部のベルを狂ったように震わせ、誰もいない空間に向かって絶叫していた。
しかもその音は、狭い駅舎の壁を叩き、すぐさま屋外の谷へと抜け、周囲の山々から「ジリリリリリン……リリリリン……リリン……」と、幾重にも重なる歪な木霊となって跳ね返ってきた。駅そのものが鳴り響いているかのような錯覚に、綴は眩暈を覚える。
この山奥の、すでに電気も通っていないはずの廃駅で、なぜ電話が鳴るのか。
不気味だった。引き返すべきだという理性の声よりも、胸の「空洞」が発する飢餓感が勝った。綴は磁石に吸い寄せられるように赤電話へと近づき、恐る恐る、冷え切ったベークライト製の受話器を持ち上げ、耳へと当てた。
「……もしもし」
綴の声は、やはり瞬時に壁に跳ね返り、「もしもし……もしもし……」と背後から自分に返ってきた。
そして、受話器の向こうから返ってきたのは、人間の声ではなかった。
——ザザァ、ザザァ……。
それは、猛烈な「潮騒」の音だった。
山深い谷の底にいるはずなのに、耳元で激しい波濤(はとう)が砕け、引き波が砂利を攫(さら)っていく、圧倒的な海の音が鳴り響いている。
山あいの駅で食べた『山峡の朝凪弁当』の、あの「朝凪」という不自然な言葉が、突如として立体的な音響となって綴の脳を揺さぶった。
驚くべきことに、その潮騒は受話器の中だけにとどまらなかった。
ザー、という波の音が、腐食した駅舎の木壁から、天井から、そして窓の外の峻険な山々から、「ザザァ……ザザァ……ザァ……」と、無数の波の木霊となって押し寄せてきたのだ。
まるで、この谷そのものが、かつてそこにあったかもしれない「海」の記憶を反響させているかのように。
『――ねえ、聞こえてる?』
その一瞬の隙を突くように、あの少女の声が滑り込んできた。
受話器から漏れる声は、酷くかすれ、まるで遠い異界から細い糸を伝って届いているかのように儚い。
『あの海が……全部、呑み込んでいくの。私の家も、線路も、あなたの名前さえも。だから、お願い。忘れないで。春の匂いが、まだそこに残っているうちに――』
その声すらも、瞬時に谷に伝播した。
「忘れないで……忘れないで……ないで……」
「そこに残っているうちに……いるうちに……うちに……」
無数の少女の声が、山びことなって綴の全方位から降り注ぐ。それは優しい懇願でありながら、同時に逃げ場のない呪縛のように綴の身体を縛り付けた。
その瞬間、駅舎の空気がびりりと爆縮した。
綴の足元から、現実の床板の感覚が消失する。
周囲の腐りかけた木壁が、目にも留らぬ速さで「再生」を始め、鮮やかなセピア色の光へと変貌していく。
気がつけば、窓の外を覆っていた鬱蒼たる原生林は消え去り、そこには地平線まで続く、どこまでも穏やかな「青い海」が広がっていた。山だったはずの場所が、完全に海へと塗り替えられている。
正式に、その窓辺に、彼女がいた。
潮風に髪を揺らしながら、赤電話の受話器を両手で必死に握りしめ、涙を流しているあの少女。
「君は……!」
綴はたまらず声を上げ、彼女の手を掴もうと手を伸ばした。
指先が彼女の肩に触れる直前、激しい拒絶の手応えが彼を襲った。彼の指は、まるで冷たい霧を端ぐように、少女の身体を虚しくすり抜けたのだ。
少女はまっすぐに前を見つめていた。その瞳は、受話器の向こう側にいる「誰か」への、狂おしいほどの愛着と絶望で満たされている。だが、やはりその視線は、目の前にいる綴の身体を完全に透過し、はるか遠くの虚空を見つめていた。
彼女の生きる時間(とき)と、綴の生きる時間。その間には、決して埋めることのできない、何十年という底知れない深淵が横たわっている。綴は、どれほど叫んでも彼女の鼓膜に届かない己の「無」を突きつけられ、胸を引き裂かれるような孤独に襲われた。
少女が、血を吐くような悲痛な声で、受話器に向かって『誰かの名前』を叫んだ。
しかし、その最も重要な名前の響きだけは、激しい潮騒の「ザザァ」という音と、それが壁に跳ね返った「ザザァ……ザザァ……」という幾重もの木霊の混濁に完全に掻き消され、綴の耳にはただの巨大な雑音の塊としてしか届かなかった。音を増幅するはずの木霊の谷が、名前だけを完璧に遮断したのだ。
——パチン。
世界が、ガラスが割れるように弾けた。
光のレイヤーが剥ぎ取られ、綴は元の、腐食した『木霊谷駅』の待合室へと叩きつけられた。窓の外には、再び重苦しい原生林の緑が戻り、沢水の音が「水の音……水の音……」と小さく木霊しながら冷酷に響いている。
受話器からは、もう何の音も聞こえない。ただの死んだプラスチックの塊が、彼の手に握られているだけだった。
綴は激しく息を荒げながら、受話器を黒い台座へと戻した。
その時、彼の掌に、ぬるりとした、現実の山の中では有り得ない「異物感」がまとわりついた。
手のひらを見た綴は、息を呑んだ。
彼の掌は、ぐっしょりと濡れていた。それは雨水でも、自身の冷や汗でもない。鼻を突く強烈な磯の香りと、まとわりつくような粘り気――それは、紛れもない「本物の海水」だった。
さらに、赤電話の錆びついた返却口のトレイを視線で追った綴は、凍りついた。
そこには、先ほどまでは確実に存在しなかったはずの、白く濁った「塩の結晶」が、小さな山のようになって、ぽつりと遺されていたのだ。
これは幻覚ではない。あの過去の記憶は、確かにこの現実を侵食し始めている。
震える手で鞄を開き、手に入れた小さな手帳を取り出す。
パラリとページがめくれ、先ほどまでは白紙だったはずの二ページ目に、まるでインクが内側から染み出すように、新たな文字が浮かび上がってきた。
『潮騒が満ちるたび、私はあなたを遠ざけてしまう。どうか、次の鐘が鳴る場所で、私の声を拾い集めて。』
綴は手帳を強く握りしめ、胸の火傷の痕をもう一度撫でた。
少女が電話の向こうで呼ぼうとしていた、木霊に消された名前。その響きこそが、自分の胸の「空洞」を埋めるための、最大の鍵であるという確信が、彼の内側で静かに炎を上げた。
「僕は、君の声を、僕の名前を探しに行く」
駅舎を出ると、霧はさらに深く、濃く、線路を包み込んでいた。
しかし、その霧の奥からは、微かに、本当に微かに、次の目的地を示すような、別の「音」――カン、カン、カン、という古い踏切の警報機の鐘のような音――が風に乗って聞こえ始めていた。
足元に残る塩の香りを引き連れて、綴は再び、誰もいない線路へと歩みを進めた。
過去の潮騒と、閉ざされた谷の木霊に、その背中を静かに押されながら。
旅はまだ、始まったばかりだ。
第三話:焦土に灯るシグナル
木霊谷駅の、あの不気味な潮騒の残響を耳の奥に引きずったまま、綴はただ一筋のレールを頼りに歩き続けていた。
いつしか鈍行列車は霧の彼方へと消え去り、今や彼自身の足だけが、次の目的地へと進む唯一の動力だった。枕木を踏みしめるたび、靴底から伝わるのは、現実のものとは思えないほど冷え切った鉄の感覚。周囲の霧はさらに濃度を増し、ほんの数歩先にあるはずの線路さえも白濁した闇へと融解させていく。
綴は、無意識のうちに右頬の火傷の痕を強く指先で押さえていた。
木霊谷駅で聞いた少女の叫び、そして手のひらに残った本物の海水の冷たさが、彼の肉体に妙な変調をもたらしていた。火傷の痕が、まるで心臓の鼓動と同期するように、ドク、ドクと内側から嫌な熱を持って疼いているのだ。
「お前は、あの子の分まで生きるんだよ」
脳裏で、かつて彼を育てた祖母の、枯れ果てた声がリフレインする。
アルバムから切り取られた幼い自分の顔。見覚えのない火傷。精度、この胸にぽっかりと空いた、底のない空洞。
もし自分という存在が、誰かの喪失を埋めるためだけに誂えられた『書き置き』のようなものだとしたら。本物の『綴』という人間は、すでにどこか別の場所で、決定的に損なわれてしまっているのではないか。そんな悍(おぞ)ましい思考が、足元から這い上がる霧のように彼を侵食していく。
その時、白い世界の奥深くから、あの音が聞こえてきた。
——カン、カン、カン、カン……。
鈍く、どこか湿った金属音が、霧の粒子を震わせて鼓膜に届く。
古い踏切の警報機だ。しかし、そのテンポは妙に不規則で、まるで死にかけた生き物が最後の脈を打っているかのように、遅くなったり、急に激しくなったりを繰り返している。
歩を進めると、霧のスクリーンを割り裂くようにして、一本の巨大な遮断機が姿を現した。
白と黒の縞模様はほとんど剥げ落ち、まるで巨大な怪物の骨のように線路を塞いで横たわっている。その傍らに佇むのは、駅というよりも、かつて列車の運行を管理していたであろう小さな木造の『灯鐘(とかね)信号所』だった。
周囲には駅舎もホームもない。ただ、下りっぱなしの遮断機と、狂ったように鳴り続ける警報機の赤いランプが、霧の中で二つ、血走った眼のように明滅しているだけだった。
列車が来る気配は、どこにもない。
綴は誘われるように、信号所の立て付けの悪い木扉を押し開けた。
中は畳二畳ほどの狭い空間だった。壁には埃にまみれた運行ダイヤの表が張り付いており、中央の机の上には、真鍮製の古びた石油ランタンがぽつんと置かれている。
ランタンの側には、燐寸(マッチ)を一箱。箱の表面は湿気でふやけていたが、中に残された最後の一本だけは、まるで今さっき誰かが入れたかのように、乾いた頭薬(とうやく)を上に向けて気高く直立していた。
なぜだか、そうしなければならないという強烈な強迫観念に駆られ、綴は燐寸(マッチ)を擦った。
シュッ、という短い摩擦音。
刹那、鼻腔を突いたのは、現代の化学薬品とは違う、強烈な「硫黄の匂い」だった。
その小さな火種をランタンの芯へと移した瞬間、世界は完全にその色を変えた。
ゴォ、と世界が鳴動した。
ランタンのガラスに灯った小さな炎が、爆発的に膨れ上がったかと思うと、信号所の壁一面に「黒い影」を投げかける。窓の外の霧が、一瞬にして真っ赤な『夕焼け』――いや、天を焦がすほどの『炎の照り返し』へと変貌していく。
耳を劈(つんざ)くのは、カン、カンという警報機の音だけではない。何かが激しく爆ぜ、崩落していく、圧倒的な火災の轟音だった。
「熱い――」
綴は自身の頬を押さえた。右頬の火傷の痕が、まるで今まさに火を押し付けられているかのように、激しい激痛を放ち始める。視界が真っ赤に染まる中、彼は信号所の窓から外を見た。
踏切の向こう側、燃え盛る夜の闇(それは木霊谷駅で見た「海」が、そのまま炎の海へと反転したかのようだった)の中に、彼女がいた。
あの少女だ。
彼女は、火の粉が舞い散る猛烈な熱風の中で、遮断機にしがみつくようにして、こちら側に向かって必死に手を伸ばしていた。その瞳からは、熱で蒸発しそうなほどの涙がとめどなく溢れ、彼女の持つ手紙の真鍮色のシーリングスタンプが、炎を反射して禍々しくギラギラと輝いている。
少女の唇が、狂ったように動いていた。
踏切の警報音と、すべてを焼き尽くす劫火(ごうか)の音に抗うように、彼女は喉を引き裂きながら、こちら側の世界に向かって『名前』を叫んでいる。
『――げて! 綴(つづり)!! 戻ってきちゃダメ、逃げて!!!』
綴の全身に、雷が落ちたような衝撃が走った。
聞こえた。確かに彼女は、自分の名前を呼んだ。
「僕を知っているのか……!? 君は、誰なんだ!」
綴は叫び、炎の渦へと飛び出そうと、信号所の扉を蹴破らんばかりに手をかけた。
しかし、遮断機の向こうにいる少女の瞳は、やはり、目の前で叫んでいる綴の姿を、悲しいほど正確に透過していた。
彼女の視線が射抜いているのは、綴の肉体ではない。彼の背後、炎に包まれた信号所の中にいるはずの、しかしここにはいない「誰か」――彼女が命を懸けてでも救おうとした、本当の『綴』という存在だった。
交差しそうで、決して交わらない視線。
少女が見つめている「綴」と、今ここにいる「僕」は、同じ名前を持ちながらも、完全に断絶された別の存在なのだ。その事実が、頬の火傷よりも深く、彼の魂を抉っていく。
彼女が愛し、絶望し、叫び続けている相手は、目の前にいる「代用品」の自分ではない。
その瞬間、少女の背後の炎が一際大きく爆ぜ、すべてを白光の中に呑み込んだ。
——パチン。
鋭い破裂音と共に、光のレイヤーが剥ぎ取られる。
気がつけば、綴は冷え切った『灯鐘信号所』の床に、膝をついて倒れ込んでいた。
窓の外には、再び何事もなかったかのように、重苦しく冷たい灰色の霧が立ち込めている。踏切の警報機は完全に沈黙し、錆びついたアームが力なく垂れ下がっていた。
机の上のランタンは、芯が燃え尽きたわけでもないのに、冷たく消え果てている。
綴は荒い呼吸を整えながら、自身の右頬に手を当てた。そこにはもう、先ほどの猛烈な熱はない。ただの、いつもの冷たい古傷に戻っている。
しかし、立ち上がろうとして机に手を突いた瞬間、彼は自分の「指先」を見て息を呑んだ。
燐寸(マッチ)を擦ったはずの彼の右手の人差し指と親指の腹に、ぷっくりと、生々しい「火傷の水ぶくれ」ができていた。触れると、明らかな現実の痛みが走る。
さらに、彼が倒れ込んでいた板張りの床に目を落とすと、そこには、まるで今さっき激しい火災があったかのように、「黒い煤(すす)で汚れた、少女の小さな靴の跡」が、踏切の方へと向かって点々と焼き付いていた。
現実が、また一歩、彼を侵食している。過去の「熱」が、今や彼の肉体に直接の傷を刻みつけていた。
綴は震える指で鞄を開け、あの小さな手帳を取り出した。
煤のついた手でページをめくると、三ページ目の白紙の上に、まるで見えない炎で炙り出されたかのように、焦げ茶色の文字がじわりと浮かんできた。
『その火傷は、私たちが分かち合った光の痕。忘却の雪が降る前に、どうか最後の駅へ。』
手帳の文字をなぞりながら、綴は痛む指先を強く握りしめた。
少女が叫んだ「綴」という名前。それは幻影の中の彼であり、今の自分ではないかもしれない。それでも、自分の頬にあるこの傷と、彼女が叫んだ絶望には、間違いなく地続きの因果がある。
「僕は、君が呼んだ人間じゃないかもしれない。でも……この傷の理由を、君がそこにいる意味を、確かめなきゃならないんだ」
信号所を出ると、霧の向こうから、今度は「カン、カン」という音ではなく、かすかな「汽笛の音」が聞こえたような気がした。それは幻聴か、あるいは、彼を次の記憶へと誘う、真実の列車の合図か。
足元に残された少女の焦げ跡をなぞりように、綴は再び、白い線路の上を歩き始めた。
指先に、消えない熱の痛みを宿したまま。
第四話:色彩を亡くした冬の手編み
指先の水ぶくれが、歩く振動に合わせてズキズキと神経を苛んでいた。
信号所で負った現実の「火傷」。それが、ただの追体験ではないことを証明している。綴は、煤で汚れた手帳の三ページ目を頭の中で何度も反芻しながら、感覚の麻痺し始めた足を前に進めていた。
おかしなことが起きていた。
初夏の湿り気を孕んでいたはずの霧が、いつしか肌を刺すような乾いた冷気へと変質している。吐き出す息は白く凍りつき、睫毛の先がチリチリと引きつる。見上げれば、灰色の空から、ひらひらと結晶の塊が落ちてきていた。
雪だ。季節を完全に無視した、すべてを拒絶するような狂った白。
大気が急速に体温を失っていく中で、綴の右頬の火傷だけが、皮膚の裏側で炭火のように鈍い熱を放ち続けている。その熱さだけが、自分がまだ生きていることを辛うじて繋ぎ止める錨(いかり)だった。
「お前は、あの子の分まで生きるんだよ」
祖母の言葉が、雪の降る音に混ざって降ってくる。
少女が叫んだ「綴」という名前。そして、自分の頬の火傷。すべてのピースが、あまりにも残酷な一つの絵を形作り始めていた。
あの猛烈な火災の夜、少女が命を懸けて踏切の向こうへ逃がした「本物の綴」がいた。そして、自分はその生き残りの、記憶の縁を綺麗に削ぎ落とされた『抜け殻』、あるいは悲しみを覆い隠すために誂えられた『代用品』に過ぎないのではないか。
だとすれば、自分の中の「空洞」は当然だ。最初から、自分という人間の核は、あの炎の中に置いてきてしまったのだから。
感覚の消えかけた靴が、錆びついた転轍機(ポイント)を叩いた。
四つ目の印が打たれた場所――『白忘(しらわすれ)駅』。
そこは、世界の終わりをそのまま形にしたような駅だった。
プラットホームは数十センチの厚い雪に覆われ、駅名標は文字の掠れどころか、完全に氷の膜に包まれて鏡のようになっている。覗き込んでも、そこには輪郭のぼやけた、誰とも知れない男の顔が映るだけだった。
綴は、凍えきった身体を引きずるようにして、待合室の重い引き戸を引いた。
建付けの歪んだ戸は、悲鳴のような音を立てて開き、中から這い出してきたのは、現実の冬でも早々味わうことのない、骨まで凍てつかせる『死の静寂』だった。
板張りのベンチには、うっすらと雪が吹き込んでいた。
その白一色の世界の中で、そこだけが、奇妙に生々しい影を落としていた。
ベンチの端に、ぽつんと置かれた、編みかけの「白いマフラー」。
まだ毛糸玉と二本の竹串がつながったままの、酷く不器用で、編み目の不揃いなウールの塊。綴は誘われるように近づき、手袋を外した。火傷の水ぶくれがある右手で、その冷え切った白いウールに触れる。
触れた瞬間、視界から一切の「色彩」が没収された。
ごう、と吹雪の咆哮が、耳元で狂ったように鳴り響く。
待合室の窓ガラスが激しい風圧でガタガタと震え、世界は完全な「白」と「黒」の二色へと反転した。セピア色ですらない。すべての光が雪に反射して乱反射し、影だけが濃く墨のように沈む、光の死んだ世界。
その、色彩を亡くしたホームの端に、彼女が立っていた。
あの少女だ。
彼女は、吹き付ける猛吹雪の中にたった一人、傘も差さずに佇んでいた。外套の肩には雪が分厚く積もり、睫毛も、髪の毛先も、すべてが白く凍りついている。
彼女の手には、あの真鍮色のシーリングスタンプが押された封筒が握られていたが、その真鍮の色さえも、今は完全な黒へと沈んでいた。
少女は、動かない。
まるで、その場所で誰かを待ち続けたまま、時間を止めて凍結してしまった彫像のようだった。彼女が編みかけていたマフラーは、まだ彼女の首に不完全に巻き付いており、その先が強風に煽られて激しく踊っている。
その時、白黒の世界の中で、唯一の『異常』が綴の目を射抜いた。
少女の首に巻かれたマフラーの、結び目の部分。そこだけが、網膜を焼き切るほどに鮮烈な、禍々しいまでの「赤」に染まっていたのだ。
それは毛糸の色ではない。彼女の唇の端から、あるいは喉の奥から溢れ出た、凍りつくような血の赤。白と黒しか存在しない絶望の世界で、その赤だけが、生きていることの執念のように毒々しく主張していた。
「君……! もういい、もう待たなくていい!」
綴は叫んだ。叫びながら、積雪を蹴立ててホームへと飛び出した。
彼女はもう、限界だった。このままでは、彼女の存在そのものが、この忘却の雪の中に完全に埋もれて消えてしまう。
しかし、綴がどれだけ足掻いても、彼が踏み出す一歩は、現実の雪の重みに足をとられ、少女との距離は一向に縮まらない。
少女はゆっくりと、顔を上げた。
その瞳は、やはりまっすぐに綴の方を向いていた。だが、その瞳に映っているのは、目の前で必死に手を伸ばしている綴ではない。
彼女の視線は、やはり綴の身体を完璧に透過し、列車が二度と来ることのない、遥か線路の彼方――自分を置いて去っていった『誰か』の幻影を、盲目的に、狂信的に追いかけ続けていた。
交差しそうで、決して交わらない視線。
自分が彼女にとって、この場に存在しない「透明な冬の風」でしかないという絶望が、綴の胸の空洞を凍りつかせる。彼女がその命を削り、血を吐きながら待ち続けているのは、今の自分ではない。あの日の、本物の彼なのだ。
少女の身体が、限界を迎えたように、不意に視界の端からサラサラと「白い雪の粒子」になって崩れ始めた。
彼女は崩壊していく間際、視線の交わらない虚空に向かって、酷く穏やかな、しかし決定的な笑みを浮かべ、唇を動かした。
『――待っててね』
その声は、受話器の潮騒よりも、信号所の爆音よりも静かに、しかし冷酷に綴の脳髄に突き刺さった。
——パチン。
鋭い凍裂音が響き、世界のレイヤーが剥ぎ取られる。
気がつけば、綴は『白忘駅』の、光の入らない待合室の床に、両手をついて突っ伏していた。
窓の外には、先ほどまでの大吹雪が嘘のように、再び重苦しい灰色の「霧」が淀んでいる。雪は一片も降っていない。
しかし、綴の身体は、芯からガタガタと震えが止まらなかった。
自身の衣服を見ると、肩や袖口に、現実の、決して溶けることのない「本物の霜」がびっしりと張り付き、白い花を咲かせている。
そして、ベンチの上を見た綴は、息を呑んだ。
そこには、先ほどまで編みかけだったはずの「白いマフラー」が、毛糸玉から切り離され、完全に完成した一本の長大な布となって、ぽつんと残されていたのだ。
不器用な編み目はそのままに。そして、そのマフラーの端には、幻影の中で見たあの「少女の生々しい血痕」が、赤黒い染みとなって、確かに現実に焼き付いている。
これは、彼女の遺品だ。
過去の記憶が、今や物質としての重みを持って、綴の生を完全に侵食し尽くそうとしている。
綴は、感覚の消えかけた手でマフラーを拾い上げ、自身の首へと巻いた。
恐ろしいほどの冷たさが首筋を襲うと同時に、なぜか胸の空洞が、狂おしいほどの切なさで満たされていく。
震える指で鞄を開き、あの手帳を取り出す。
四ページ目の白紙の上に、凍りついたインクがじわりと文字を結んでいく。
『これで、私の持っていた糸はすべてあなたに繋がった。霧の終着駅で、あなたが私の名前を呼んでくれるのを、ずっと、ずっと待っています。』
手帳の文字を見つめながら、綴は首元の血のついたマフラーを強く握りしめた。
少女は、次の駅で待っている。自分が代用品だろうが、抜け殻だろうが、もう関係なかった。このマフラーの冷たさと、右頬の火傷の熱さ、その両方を知ってしまった自分が、彼女の元へ行かなければならない。
「待っていてくれ。僕が、君の時間を動かしに行く」
駅舎を出ると、霧の向こうから、今度ははっきりと、大地を揺らすような「本物の列車の駆動音」が聞こえてきた。線路の先、霧の壁を割り裂いて、二つの凄まじい光の束が、綴の身体を照らし出す。
それは、彼を連れ去るための、最後の列車の合図だった。
綴は、その光の中へと、迷うことなく足を踏み出した。
旅は、いよいよ終着へと向かう。
第五話:霧の終着駅、あるいは始まりの栞
地鳴りのような駆動音と共に霧の壁を割り裂いて現れたのは、現在のどの路線図にも存在しない、漆黒の骸(むくろ)のような老朽気動車だった。
ヘッドライトの放つ二条の強烈な光束が、凍てついた綴の身体を白日の下に晒す。彼は吸い寄せられるように、軋みを上げて開いた錆びついた扉から、列車の割り当てられた闇へと足を踏み入れた。
車内には、誰一人として乗客はいなかった。
網棚には埃が薄く積もり、床板は列車の揺れに合わせて、まるで巨大な生き物の肋骨のように不気味な軋み声を上げている。窓の外は、ただ濃密な白一色の霧が流れるだけで、並行するはずの道路も、防風林の影も、一切の視覚情報が剥奪されていた。
綴は、四つ目の駅で手に入れた「血痕の残る白いマフラー」を首元に深く巻き直し、右手の火傷の水ぶくれをそっと左手で包み込んだ。
列車が、一段と大きく車体を震わせ、急激に減速を始める。
プシュー、と湿った空気の抜ける音が響き、扉が開いた。車内放送は何も告げなかったが、綴には分かっていた。ここが、路線図に打たれた最後のインクの跡。彼が辿り着くべき『終霧(しゅむ)駅』だった。
ホームに降り立つと、そこには駅舎も、改札も、跨線橋(こせんきょう)もなかった。
ただ、一本の錆びついたレールが、巨大なコンクリート製の車止めにぶつかって唐突に途切れている。文字通り、線路の終わり。世界の果てだった。
その、行き止まりのレールの傍らに、ぽつりと置かれた木製のベンチ。
そこに、彼女が座っていた。
綴の五感を狂わせ、現実を侵食し続けたあの少女。
今の彼女は、これまでのすべての記憶の断片をその身に纏っていた。
彼女の指先からは微かに雪解け水とフキノトウの「春の匂い」が漂い、その耳元には世界の裏側から響くような「潮騒の木霊」が鳴り止まず、羽織った外套の裾にはあの焦土の「煤」がこびりつき、首元には、綴が今巻いているものと全く同じ、編みかけの「白いマフラー」が、首を絞めるように緩く巻き付いていた。
少女はゆっくりと、顔を上げた。
綴は、反射的に身構えた。また、あの恐ろしい「断絶」が訪れるのを恐れたのだ。彼女の美しい瞳が、自分の身体を透過し、自分の後ろにある幻影を見つめるあの絶対的な孤独に、もう耐えられそうになかったから。
しかし――違った。
少女の瞳が、まっすぐに綴の顔を捉えた。
その澄んだ瞳の奥に、今、ボロボロになりながらもそこに立ち尽くしている、右頬に火傷のある「現在の綴」の姿が、はっきりと、鮮明に映り込んでいたのだ。
交差しそうで交わらなかった視線が、何十年という歳月の深淵を飛び越えて、ついに、完全に噛み合った。
「……あ」
少女の唇から、小さな、しかし現実の質量を持った吐息が漏れた。彼女の瞳から、大粒の涙が溢れ落ち、それは地面に届く前に、光の粒子となって霧に溶けていく。
「やっと、見てくれた」
綴はかすれた声で呟いた。一歩、また一歩と、彼女に近づく。今度は床板の現実の音が彼を拒むことはなかった。彼は彼女の目の前まで進み、ベンチの前に膝をついた。
「君がずっと待っていたのは、僕の背後にいる誰かじゃない。……僕自身、だったんだね」
少女は小さく頷いた。彼女の手が、震えながら綴の右頬の火傷の痕へと伸ばされる。
その指先が皮膚に触れた瞬間、これまで綴を苦しめていたあの強烈な激痛が、嘘のように引いていき、代わりに胸が締め付けられるような切ない温もりが広がっていった。
——その温もりが、彼の魂の底に眠っていた「最後の記憶の扉」を乱暴にこじ開けた。
(この、驚くほど熱い、体温……)
それは、売店で老婆からお弁当を受け取った時の、あの「手の温もり」と完全に同一のものだった。そして、彼の脳裏に、あのお弁当の、あの歪なネーミングの本当の由来が、鮮烈な映像となって溢れ出してきた。
四方を険しい山に囲まれ、冬になれば深い雪に閉ざされるこの土地で、栞は一度も「海」を見たことがなかった。彼女は、学校の図書室から借りてきた古い図鑑の、色褪せた青い海のページを小さな指でなぞりながら、いつも綴にこう言っていたのだ。
『ねえ綴、山をいくつも越えた先にはね、地平線まで全部青い、大きな海があるんだって。朝になるとね、風が完全に止まって、鏡みたいに静かになる時間があるの。それをね、朝凪(あさなぎ)っていうんだよ。……いつか大きくなったら、この山を出て、二人でその海を見に行こうね』
『うん、約束だ。じゃあ、その旅に出る日の朝、一緒に食べる特別なお弁当を作ろう。名前は……『山峡の朝凪弁当』、だ』
それは、幼い二人が閉ざされた山の中で描き合った、未来へのささやかな切符だった。
山あいの駅のカウンターに置かれていた「三枚の古銭」は、二人がその海への旅費として、お菓子の空き缶に大切に貯めていた小遣いだったのだ。
山深い木霊谷駅を丸ごと飲み込んだあの凄まじい「潮騒」は、怪異などではなかった。綴に約束を思い出してほしいと願う、栞の、叶わなかった海への憧れと祈りが、何十年もの歳月を経て駅そのものを鳴り響かせていた、純粋な愛の残響だったのだ。
『お前は、あの子の分まで生きるんだよ』
祖母のあの言葉の、本当の意味が、今すべてのピースとなって繋がる。
あの炎の夜。灯鐘信号所が火の海に包まれたあの日、迫り来る炎の中から、栞は幼い綴を命懸けで踏切の向こう側へと突き飛ばした。
『逃げて、綴!』という叫びは、二人の「海への約束」を、綴だけでも生き残って叶えてほしいという、彼女の最後の願いだった。
ショックでその記憶を完全に喪失し、心を空っぽにしてしまった綴のために、周囲の大人たちは彼女に関する全ての記録を、アルバムの写真を、意図的に切り取って隠した。綴がその罪悪感と喪失感で、精神を焼き切られてしまわないように。
自分は、誰かの代用品なんかじゃない。
彼女の命を、彼女が見たかった海の青さを、その肉体に宿して生きることを許された、唯一の人間だったのだ。自分の中にあった底のない空洞は、彼女との約束を「忘れてしまっていたこと」そのものへの、魂の飢えだった。
「思い出したよ」
綴の目からも、温かい涙が溢れ、マフラーを濡らした。
「君の名前は――」
彼は、鞄の底からあの小さな手帳を取り出した。
最終ページの白紙の上に、今、綴の涙がぽつりと落ちる。そこへ、彼の記憶の底から汲み上げられた、世界で最も大切な名前の響きが、鮮烈な黒いインクとなって一文字ずつ刻まれていく。
「君の名前は、栞(しおり)。僕の人生から切り離されてしまった、一番大切なページの代わりに、そこに挟まれていた、僕の――」
『――栞。』
名前が呼ばれた、その刹那だった。
世界を包んでいた重苦しい霧が、まるで巨大な幕が引き絞られるように、一気に、全方位へと晴れ渡っていった。
視界を埋め尽くしたのは、見たこともないほどに澄み切った、本物の初夏の陽光。どこまでも続く根室本線の緑の草原が、黄金色の光を浴びてキラキラと輝いている。
少女――栞は、満面の笑みを浮かべていた。
その身体は、もはや霧の幽霊でも、凍りついた彫像でもなかった。彼女はゆっくりと立ち上がり、綴の首元のマフラーに触れると、満足したように目を細めた。
「ありがとう、綴。やっと、私の名前を呼んでくれた。やっと、あの海への約束を、思い出しにきてくれたのね」
彼女の声は、もう潮騒にも、木霊にも、炎の轟音にも邪魔されることはなかった。真っ直ぐに、綴の心の空洞の一番深いところへと染み渡り、そこを完全に満たしていく。
「私はずっと、あなたの記憶の駅で待っていたの。でも、もう大丈夫。あなたの旅は、ここで終わり」
栞の身体が、足元からゆっくりと、初夏の眩しい光の中へと、白く透き通るようにして融けていく。それは消滅ではなく、ようやく正しい時間へと還っていく、美しい解放だった。
「生きなさい、綴。私の分まで、あの海の青さを、あなたの時間を、その手でしっかりと――」
最後の言葉が風に溶けるようにして消えた瞬間、カチリ、と世界の秒針が動くような音がした。
気がつけば、綴は陽の差し込む、誰もいない古いプラットホームのベンチの前に、一人で佇んでいた。
窓の外には、のどかな北海道の初夏の風景が、どこまでも優しく広がっている。不気味な霧も、狂った雪も、どこにもない。
綴は自身の衣服を見た。衣服についていた霜は消え去り、右手の人差し指の水ぶくれも、綺麗に引いていた。
ただ、彼の首元には、あの「不器用な編み目の白いマフラー」が、血痕のシミすらも消え失せた、驚くほど暖かく柔らかなウールの塊となって、確かに巻かれていた。
正式に、彼の手の中にある小さな手帳。
その全てのページには、彼がこの旅で出会ったもの、あるいは彼が取り戻した「栞」との記憶が、一文字の狂いもなく、美しい文字で完全に『綴られて』いた。
胸の空洞は、もうない。そこには、彼女という確かな重みと、生き続けることへの静かな覚悟が、満ち満ちていた。
遠くから、本物の列車の警笛が、のどかに響いてくる。それは彼を現実の、これからの未来へと運ぶための列車だった。
いや――その線路の遥か先には、いつか彼が辿り着くべき、あの静まり返った「朝凪の海」が待っているはずだ。
綴は右頬の火傷の痕を、今度は愛おしそうに人差し指でなぞり、深く、深く、初夏の澄んだ空気を吸い込んだ。
「行こう、栞」
手帳を鞄にしまい、白いマフラーを翻して、綴は歩き出した。
失った記憶をすべて拾い集め、己の名前を取り戻した青年は、もう二度と、振り返ることはない。
二人の約束を乗せた、本当の人生の旅が、今、ここから始まるのだ。
エピローグ:朝凪のページをめくって
本物の初夏の光が、世界を青く、緑に、優しく塗り替えていく。
綴を乗せた一両きりの鈍行列車は、ガタゴトと心地よいリズムを刻みながら、あの閉ざされた山峡を抜け出し、ひたすらに東へと走り続けていた。窓を開けると、流れ込んでくるのは木々の匂いと、微かな、本当に微かな塩の香り。
彼は座席の隣に、あの古い革装の手帳をそっと置いた。
全てのページが美しい文字で埋まったその手帳は、もう内側から怪異の文字を炙り出すことはない。ただ、彼の人生の失われていた時間を静かに証明するように、そこにある。
ふと見ると、手帳の隙間から、一枚の白紙の端が小さく覗いていた。
それは、まるで本の目印として挟まれた『栞』のようだった。
これから綴られるであろう彼の未来の、まだ何者にも染まっていない、真っ白なページ。
「……見ててね、栞」
綴は窓の外を見つめ、首元に巻かれた、驚くほど柔らかで温かいマフラーにそっと触れた。
そのウールの編み目には、もう血のシミも、凍てつく霜も残っていない。ただ、あの炎の夜に彼を突き飛ばした少女の、何十年もの間この駅で彼を待ち続けた老婆の、あの途方もないほどに熱い体温だけが、今も優しく彼の首筋を包み込んでいる。
列車が、大きくカーブを描いた。
遮るもののなくなった車窓の向こう側、視界のすべてを爆発させるようにして、真っ青な水平線が飛び込んできた。
地平線の彼方まで、どこまでも穏やかに、どこまでも透き通って広がる、本物の海。
朝の光を浴びたその水面は、波ひとつ立てず、まるで巨大な鏡のように静まり返っている。
二人があの遠い日に、図鑑のページをなぞりながら夢見た、約束の景色。
閉ざされた山峡を越えた先で、彼を待っていたのは、完璧な、美しい『朝凪(あさなぎ)』の海だった。
綴の胸の空洞は、もう痛まない。
そこには、潮騒の歌が、木霊の優しさが、焦土の灯火が、そして冬のぬくもりが、彼女の名前と共にしっかりと息づいている。
彼は微笑み、新しく始まる世界へ向かって、ゆっくりと目を細めた。
汽笛がひとつ、青い空へと吸い込まれていく。
まるで、長い、長い旅の終わりを告げるように。
そして、二人が交わした約束の、本当の始まりを祝福するように。