
春の光に溶けた、小さな命の話
水たまりの空
朝の光が、世界をやわらかく塗り直していた。
葉の縁で光が弾け、その一粒一粒が小さな太陽のように見えた。昨夜の雨が磨き上げた草の匂いが、どこからともなく立ち上っている。脚の先に伝わる草の弾力、そして翅の付け根に感じるかすかな空気の流れ——それだけで、今日という日が特別であることがわかった。
石の上に出ると、空が広かった。
水色と白が混ざり合う高いところに、光の粒が揺れている。下を向けば、足元の土が茶色と金色の模様を作り出し、その先に水が溜まっていた。大きな水たまりだった。空がそのなかに入り込んでいて、上を見ても下を見ても、同じ青が広がっていた。
母親の声を、ふと思い出した。
水は美しい。でも、水は飲み込む。
意味がわからないまま記憶していたその言葉が、いま初めて形を持った気がした。翅の付け根がかすかに震えた。それでも脚を進めた。石の縁まで来ると、水面に自分の姿が映った——丸い頭、橙色の背中に黒い斑点、細い六本の脚。
風が来たのは、そのときだった。
突風というほどではなかった。ただ、急いでいる風だった。翅が反射的に開いた瞬間、体が石から離れた。飛ぼうとしたのか、飛ばされたのか、自分でもわからなかった。
水面に触れた瞬間、冷たさが全身を貫いた。
上が、どこかわからなくなった。水の中に空があり、空の中に水があった。脚を動かした。動かし続けた。水は動くたびに形を変えて、つかもうとしても何もつかめなかった。翅が重くなっていく。光が遠くなっていく。
石の縁が見えた。遠かった。とても遠かった。
やがて脚が止まった。止まったのではなく、止まっていた。水面に橙色の丸いものが浮かんでいた。それが自分だと気づくのに、少し時間がかかった。
空が、きれいだった。
「ねえ見て、でっかい水たまりある」
「踏んでいい?」
「いいよいいよ、踏もう踏もう」
二つの長靴が、勢いよく水を割った。
水が空に散った。橙色のものが、どこかへ消えた。笑い声が遠ざかっていった。
水たまりはまた静かになり、春の空だけが、きれいだった。