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《ショートショート》秘境

    隼(ハヤブサ)

    「温泉に行きてえなあ」

    パジャマを着た夫が、不意に言った。

    「なあ、お前もどうだ?ヒノキの香りなんか、最高だぞ」

    そう私に水を向ける。
    私は心の中でため息をついた。

    私は家から徒歩5分の実家に毎日通い、母の介護をしている。夫は「介護を手伝う」とも「家事をやる」とも言わず、それまでと同じように出勤し、飲み会に行き、休日は接待ゴルフをしているから、私の負担が増すばかりだ。


    一体、温泉に行く気力がどこにあるというのか。その間、母は誰が看るのか。


    「おい、この女優、整形しただろう。頬骨削ったんじゃないか」

    テレビを観ながらそう下卑た声で笑う夫に、私はもう、何も話すことはない。



    寝たきりでないとはいえ、転倒が元で車椅子生活になった母の入浴を介助するのは、本当に一仕事だ。
    清拭で済ませたい気持ちもなくはないが、風呂好きの母にそんなことは言い出せなかった。

    「今日はどれにする?」
    「うーん、ヒノキかな」

    昨夜の夫の発言に引っ張られたわけではないが、私はヒノキを選んだ。元々一番好きな入浴剤でもある。

    母は昔から入浴剤が好きで、常に何種類か買い置きしていた。私が介護に通うようになってからは、「せめてものお礼」と言って、私に毎日選ばせてくれる。「たまには好きなのを選べば?」と言っても、頑として譲らなかった。

    母を車椅子から立ち上がらせ、脱衣を手伝う。自分では手の届かない所を洗い、浴槽に入るのを介助する。入浴が終わったら全身を拭き、着衣を手伝って車椅子に座らせる。
    これを毎日繰り返すうちに慢性的な腰痛になり、常に腰の辺りがだるくなった。この分だと私の体も壊れないか心配だが、母の生きているうちに自分が要介護になるわけにはいかない。

    母の介助が終わってから、私も風呂に入る。
    家事と介護でくたくたの私にとって、この時間だけが唯一の癒やしだった。

    風呂場の扉を開け、ヒノキの香りを吸い込むと、自然に笑みがこぼれる。
    体を洗うのもそこそこに、浴槽へと全身を沈めた。

    なんて気持ちいいんだろう。
    思わず、深いため息が漏れる。

    「これしか勝たんのよ」

    これこそが、何にも勝る、私だけの温泉だ。







    今回のお題
    「これしか勝たんのよ」
    ・温泉
    ・パジャマ
    ・頬骨


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