ママへ 47年目の母からの卒業
昨年、父が亡くなった。大好きで大嫌いで、でも本当は大好きで
ニガテで距離をとって、でもいつも助けてもらって
自立したくてできなくて
父との間には本当に複雑な感情が入り混じっていた。そんな父が突然いなくなってしまった。
本当に突然に!
突然の入院から、たった3週間で、姉と私と孫たちに伝えたいことをすべて伝えて
現実的な大事なことも、伝えて
旅立ってしまった。
父の死をきっかけに、47年前私が8歳の時に亡くなった母とのことに、改めて向き合うようになった。父と過ごした年月に比べれは、本当に短かった母との時間。その凝縮された時間の中で、ギュッと私の中に詰め込まれた「“母の”常識」。母は私が2,3歳の幼い頃から鋭い指摘をする人だった。自分なりの鉄壁の正義感を持ってる人で、その「正義の剣」をよくふりかざす人だったように思う。母の意に沿わなければ、母が良しとしない私の思いや感想、母の常識に合わない行動などがあれば、失望の表情を浮かべられる。そして、ずっと前のことを引合いに出して長くて、いたたまれない気持ちにさせられるお説教が始まるのだった…。母はいつも「正義の人」で正しい人だった。いつも空想の世界に生きていた私には、それはちょっと堅苦しくて、しんどいことだった。
私は割と素直な子供だったし、色んなことに嬉しさを感じる性格だった、と思う😅
だけど、母にかかると私はダメな子供なんだ、と悲しい気持ちになるのだった。
母は、頭脳明晰で英語、ドイツ語もできたし、薬剤師と高校教師の免許も持っている人だった。お嬢さん育ちで、自分をしっかり持っていて、自信にあふれる人だったと思う。
母に叩かれたことなど1度もないし、怒られる時も「ママは、〇〇な子はキライです!」という感じで綺麗な言葉つがいだった。3歳頃の反抗期に外に出される、というのはあったけど😅
「そんな悪い子は出て行きなさい!」って庭に出されて鍵を閉められるという、昭和にはよくあったことだと思うけど。大泣きして謝ったけど、なかなか入れてもらえなかった記憶が😅
それでも、叩かれるようなことは1度もないのだけれど、母を思う時、なんだかちょっぴり胸が苦しくなるのはなぜだろう…
そういえば、平成時代に娘が生まれて、本当に聞かん坊で、1回庭に出したことがあったけど。3歳ぐらいだった娘は、かんしゃくを起こして、靴を脱いで窓に何度も投げつけてきた。窓が割れたら危ないし、お金もタイヘン👀 で、こっちがあっけなく降参し、部屋に入れた思い出がある。
そう考えても、私は育てやすい子供だったと思うんだけどなぁ。
小さい子供はたいてい「お母さん大好き」だと思う。そんな大好きなお母さんが亡くなったら泣きじゃくったり、悲しみに沈んだり、お母さんのことを大事に大事に思い続けると思う。
私は… 母を思う時、鼓動が早くなったり、呼吸が深くできなくなったり、なんだか苦しい感情になる。大人になって気づいたのだけれど。8歳の春、母が亡くなった時、私は涙が出なかった。母は病気の再発で入院してたけど、治るからねって父や祖父母に聞いてた。
そんなある日、学校の休み時間、先生に呼ばれた。小学校に迎えにきてくれる方がいて、学校を早退して母の病室にいった。いつの間にか眠ってしまって、夜遅くに母の病室で目が覚めた。病室の窓にまんまるな月が浮かんでいた。とても綺麗な白い月。先日、満月の記憶は本当だったのかな、と気になり、47年前のその日の月を調べたら、あの日の記憶通り満月だった。
目が覚めて、あっ、ここは病室だったんだと気づいた。ふと顔をあげると5歳上の姉が母のベッドの脇に立ち、ハンカチで目を押さえて声を出さずに泣いていた。中学生の多感な時期… 姉は私より色んなことをわかっていたのだと思う。母が本当は助からないのだということも…
母方の祖父母も泣いていた。何が起きたか分からず、きょとんとしていた8歳の私の肩に大きな手を置き、父が言った。「ママはね、仏様になったんよ。死んでしもうたんよ」父はあふれてきた涙をこらえようとしていた。
私は「えっ」と言ったと思う。心の中では「すぐ治るんじゃなかったの?仏様?みんなが泣いてる、亡くなったんだ…」目の前で起きていることが現実と思えなかった、というよりまるで実感が湧いて来なかった!
お世話をしてくださった看護婦さんお二人が「ごめんね、何もしてあげられんで」と涙ぐまれたのを見て、看護婦さんはたくさんの人を見送っておられるし、家族ではないのに、泣いてくださってる、と子供心にそのことが心に焼き付いた。
母は、一生懸命お世話していただけたんだなって。
母が息を引き取った病室で、一粒の涙も流せなかった自分。その後、私は冷たい人間なのではないか、母に悪いことをしてしまったかも…と長い間苦しかった。その後、家に帰った時のこと、忘れられない。
布団に母を寝かせる父。枕の方角はこっち、と確認していたことも覚えている。泣いているのに人は冷静になるんだな。冷静に枕の方角を確認してる父を見て、余計にこれは全部夢なのではないか、と思ったりした。母の布団の周りに父、祖父母、姉、そして私が正座していた。私以外はみんな泣いていた。私は本当に実感がわかず、自分でもどこか人ごとのような、冷静なような気持ちに戸惑っていた。私は冷たい人間なのか?なぜ泣かないのか?
母は、私のママは、もう死んでしまったというのに!もう会えなくなるというのに!
自分で自分の気持ちがわからなくて、自分の心が怖いような居心地の悪さを感じていた。現実のことのように思えなかったことも本当のことだけど、私は母のことを好きではなかったのか?亡くなった母を前にして泣きじゃくったりもしない自分に戸惑った。悲しみがこみ上げるというより、この世界の外側から今の出来事を見ているような、どこかさめたようなそんな気持ちだったように思う。私はおかしいの?お母さんが亡くなったというのに。
母は、今回の入院の前に1年近く遠方の病院に入院していた。長い入院だった。それでも、病気を治すための入院で治ったら帰ってくるからね、と言われていた。そして、遠い県の病院だったから、入院中にお見舞いに連れていってもらったのは確か2回だった。1次的な入院だと聞いていたから、長期間母がいなくてと、悲壮感は感じなかった。母がいない状況に少しずつ慣れていたのかもしれない。無事に退院し家に帰ってきた母が再入院になった時も、1次的なことと何の疑いもなく信じていた。
だから、本当に母がいなくなっても眠ってるだけなのかも、って心のどこかで思ってしまったのかもしれない。
私と姉に何も言わずに旅立ってしまった母。手紙も残してくれた言葉もないままに。
もし、私なら子供たちに手紙を書くし、プレゼントも用意したり、10年分ぐらいのメッセージを残したいと思う。母は、亡くなることを知っていたのだろうか。再発後の入院の後半、母と何を話したのかな。記憶が飛んでいることに気づいた。
ずっと胸のうちにしまってきた気持ち。こんなことを思ってはいけないと思ったし、言えば批判され、冷たい人間と思われると思った。そして、何より母に悪いと思った。亡くなった人は永遠に美しい存在になる。亡くなった人に鞭打つようなことをいってはいけないのだ…と。
吐き出したくて、言えなくて、私の子供たちには話せたけど。何十年、誰にも言えなかった気持ち。私は母が大好きって心からは言えない。
母が嫌い、いや母のことが苦手だった。「ママ、大好き」って言えなくなっていた。
ずっと後、大人になって思い返してみると私は家でも空気を読むことに細心の注意を払っていた。母の表情が曇らないように…
母のことを思うとき、胸が苦しくなる。はじけるような楽しい気持ちを風船を針で突くように一瞬でしぼませる名人だっ母。それでも、母は正義の人である。いつも悪いのは私…という構図。
姉は「あんたは、いつもヒイキされてる!いつもいい子ぶって!」と言っていたけれど。「いつも私がママに怒られるんよ!あんたは、おりこうでかわいいって言われてさ!私だって好きで上の子に生まれたわけじゃないんよ!」そんなふうに言っていたけど、それは違うよ。
私も鋭い言葉で刺されていたよ! 子供の頃の記憶をたどると心から無邪気に笑ったりできていなかったことに気づく。いつもどこかで母の表情をうかがっていた。姉が怒られないように。母に喜んでもらえるように。ヘンな子供と思われて、怖い感想を言われないようにと。
本当の心は、私はママのこと、心の底から大好き!ではなかったんだと思う。だから、亡くなった時、泣きじゃくったりできなかったのかもしれない、とある日思ったけれど、そんなことは誰にも言えなかった。
そうなった引き金になった出来事…
最初の入院は、私が小学校2年にあがる時だったと思う。数カ月ぶりにやっとお見舞いに行けることになった。父や、祖父母は新幹線で面会に行っていたけど、術後の経過もあったのか、姉と私は数カ月たってから連れて行ってもらった。この日、後々まで私を苦しめることになる忘れられないことが起きた。お見舞いに行ける、母に会える!😀 私は嬉しくてウキウキした気持ちだった。久しぶりにママにあったら、色んなこと話そう!なんて言ってくれるかな🎵 ママは会いに行ったらきっと喜んでくれる、と信じて疑わなかった。
私と姉はママの子供、ママは世界で1番私たちを好いてくれているはず😀 ママは喜んで歓迎してくれる!とびきりの笑顔で、両手を広げて抱きしめてくれるんだ!
母のこぼれる笑顔を思い浮かべて、新幹線の中でもごきげんだった! 早くママに会いたい🍀
母が入院している街についた。
新幹線から降りて、祖母がまずはデパートに連れて行ってくれた。「いとちゃんの大好きなものを1つ買ってあげるね😊それをママに見せようね🎵」
私は当時大好きだったアニメ「ペリーヌ物語」に出てくる犬のバロンのぬいぐるみがわかいくて、すぐに決めた! バロンは鼻先がプラスチック製で他の部分がボアのものと、少し大きくて全部がボア素材のものがあった。祖母はどっちでも好きな方を選んでいいよと言ってくれたけど、子供ながらに遠慮して、小さいほうにした。本当は、大きいほうが良かった気もしたけど、バロンを買ってもらえたことが嬉しくて、早く母に見せたかった。「わぁ、かわいいね!良かったね😊」と言ってくれると思っていた。母とこの嬉しさを共有したかった!早く✨
病院についた!
階段を上がって母の病室へ。姉は売店によっていたのか、祖母と私が先に病室に入った。何カ月ぶりの再会。私は「ママー😀」と満面の笑みで母のベッドにかけより、手を差し出した。母がベッドに体を起こし、両手を差し出してくれたのを見たから!私を歓迎して握手しようと手を差し出してくれたと思っから!私の手を母が握り返してくれるはずだった。でも… そうじゃなかった… 私が差し出した小さかった両手は、母にはらいのけられた。パンっと払われた。
握り返してくれることはなかった。母は祖母を見つめ「母さん」と呼びかけた。うつろな表情の母は、祖母の方に手を向けた。母の差し出された両手が求めていたのは私じゃなかったんだ。おばあちゃんだった。悲しいとか、ショックより、世界で1番愛されてると信じ、私と会えることを喜んでくれると疑わなかった自分が惨めで、かっこ悪くて。涙があふれそうになるのを必死でこらえて、何も気にしてないふりをした。ここで泣くのは、本当にもっと惨めな気がしたから。でも…すべて祖母に見透かされていた。祖母は、困ったような、私に同情してくれたような表情でこう言った。
「ママはきっと、身体かきつかったのね。おばあちゃんに手をさすってほしかったんでしょう」って。差し出した手を母に、はらいのけられた私を気遣ってくれた祖母の優しさが身に染みるとともに、あっ、見られちゃった…って気持ちもあった。バロンを買ってもらった喜びもしぼんでしまった。このことは、大人になってもずっと私を苦しめることになる。
私自身が成長して、だんだんわかってきたことは、「母さん」と母が祖母をすがるような甘えるような目で呼んだこと、それはきっと強い薬の副作用で意識が朦朧としてたんだと思う。きっと、母は小さい頃の自分に戻っていたんだと思う。だから、知らない子供が、ママーって寄ってきて、困惑したのかもしれない。強い薬のせい…
約50年前の痛みどめ
それが頭で理解出来るようになっても、子供だった私に刺さった感情は、なかなか抜けなかった。
母は、私のことを好きじゃないんだ。その日、それからどうなったのか、覚えていないけど、母に振り払われた手の感触と、惨めさ、私は母を喜ばせる存在ではなかったんだ!という悲しみが確かなこととして、胸に刻み込まれた出来事だった。
愛してくれなかった母。たった1度の出来事、しかも薬の副作用で意識が混濁していたであろう母に、酷いことを思ってしまったかもしれないけれど、当時の私はそう心の奥底で信じこんでしまっていた。たくさん可愛がって、大事にしてくれたこともあったというのに…。母と私とは感性が真逆だったり、私が求めた優しさではなかったかもしれないけれど。
話を母が亡くなって家に帰ってきた場面に戻そう。
1人だけ泣けない自分。こんなこと聞いたら、怒られるな。今思うことじゃないよね、でも、耐えられず父に聞いた。「みいちゃんが帰ってきてない。大丈夫かな」「何言っとるんか!自分の母親が死んだというのに、猫のことを気にするとは!」父に怒鳴られた。やっぱり怒られた。だけど、私は亡くなった母も気になったけれど、みいちゃんが外にでたまままだ帰ってきてないことも、ものすごく心配だった。白黒猫のみいちゃん。いつも一緒にいてくれた。学校から帰って母がいない時も、嫌なことがあった時も、みいちゃんがゴロンと大きな体を伸ばして私の隣に来てくれると、たちまち幸せな気持ちになれた。私には、みいちゃんは1番大切な存在だった。この夜のこと、忘れたいけどいつまでも覚えてる。それからしばらくして、みいちゃんはお出かけから帰ってきた。
だけど私が母にわだかまりを覚えたのは、もっと小さい頃だったかもしれない。思い出せる最初の記憶…
絵の上手い姉と比べて、私の描く絵がおかしい!と祖母や父に相談してるのを不安な気持ちで聞いていた私。多分2歳ぐらいの時。卵みたいな楕円形から直接棒のような手足が生えて、卵の中に目鼻口があるような人の絵。母は楽しくお絵かきしてる私から紙を取り上げて、「お姉ちゃんは、この年にはもっと上手にかいてたわ。この子は病気じゃないかしら」と本気で心配され、どこか悪いのかもしれない、どうしよう!と不安になった。もう少し大きくなって、3歳ぐらいの時には。私はドラマと現実の区別がつかない子供だった。父が好きな時代劇で人がバッサバッサ斬られるシーンをみて、本当に死んでしまったのならどうしよう!あの人たちは痛くないのか!家族もいるかもしれないけど、どんなに悲しいか、そして斬った方の人たちも大丈夫なのか!捕まってしまわないのかって、ものすごく心配になって母に「あの人たちは本当に死んでしまったの?斬った人たちも大丈夫なの?」と真剣に聞いていた。母は「あれはドラマだからね、お芝居なの。やってるふりね。だから大丈夫よ😊」と苦笑いして教えてくれた。でも迫真の演技である!毎回、心配でたまらなくなり、また同じ質問をしてしまったことがあった。案の定、母は少し苛立ち「お芝居だって言ったでしょう!」と言った。その日、仕事から帰ってきた父に「あの子はドラマと現実の区別がつかなくて。説明したのに、また聞いてきたの!頭がおかしいんじゃないかしら?」と言っていた。隣の部屋にいた私は自分は何か大変な病気なのかな、とすごく不安になったのを覚えている。そんなふうに母は、私を不安にさせる名人だった。父は「子供やからね😅そんなこと心配せんで大丈夫よ」と笑っていたけど。母は引き下がらなかった。
別の日に「やっぱりあの子はおかしい!いつもお姉ちゃんの後をついて歩いて1人じゃ何もできないの!大きくなったらどうなるのかしら!💦」私に聞こえるシチュエーションで言ってたのは、わざとなのか、悪気はなかったのか…
母のことを悪く言いたいわけではないけれど、すごく印象に残っている出来事。確か5歳ぐらいの頃、母がアイロンがけをしていて。私は隣に座って見ていた。母がちょっと用事を思いだし、別の部屋に行った。母が言った。「すぐ戻ってくるから、ここから動いちゃダメよ!アイロンが熱くて危ないからね!」
私は「はい」と言ったけど、母のすぐ、と私の思うすぐは違ったようで母がなかなか戻ってこないように感じて、退屈して部屋の中を歩き回ってしまった。半世紀前のアイロンは、熱いままむき出しで立てて置くしかなかった。だから、近づいたり、触るなんてもってのほかである。それは、十分にわかっていたのに、歩き回ってるうちにふくらはぎが立ててあるアイロンに触れてしまった! そんなに痛くも熱くも感じなかったので、黙っていようと思った。母が戻ってきても何も言わなかった。だけど、時間がたつとアイロンに触れたところが水ぶくれになってきてしまった。母に知られたら、どんなお説教をされるかわからないし、なんせ私は頭がおかしい子供と思われているのに、もっと心配されてしまう!隠さなきゃ。そうだ!ヤケドしたときは水で冷やせばいいんだったよね!自分で冷やしとこ!
こっそり水道の水で水ぶくれを冷やしていたら、母に見つかった!全部知られてしまった…
だから、動いちゃダメだって言ったでしょ!それをヤケドしたことを隠して!なんて子なの!とものすごく怒られた💦
そんなに痛くもないし、水ぶくれにさえならなかったらな、知られずにすんだのに…
その後、えっ???ということが起きた。父が帰ってきたら、母が玄関に走っていき“報告”を始める!「今日、大変だったのよ!いとちゃんが私の言いつけを聞かなくて!アイロンの周りを走って、ヤケドして!それで私に隠してたのよ!怒られるのが嫌だからって、もう何回も痛い、痛いって言って」と。
父は、まぁまぁ子供やからと苦笑いを浮かべていた。それを聞いていた5歳の私は「えっ?」と信じられない思いだった。私は、痛いとは一言も言ってなかったから。ヤケドしたのは始めてでびっくりはしたけど、思ったより痛くなくて、助かった!と思ったぐらいだったから!
母は、なんでそんな事実と違うことを言うのだろう?私、1回も痛いなんて言ってないのに…
そう、父に言いたかったけれど、母の反撃を考えると何も言わないほうがいいような気がして悔しいけれど、飲み込んだ。胸がどきどきした。
なんで、こんなことばかり思いだすのかな。
いい思い出だってあるのにね。
何十年かたち、私の娘も大人になってこの気持ちを話した。娘は、病室で手を振り払われたのって、大したことじゃないじゃん😅もう、何十年も経ってるんだし、許してあげなよと笑っていた。
アイロンのことを話すと「それはさぁ、おばあさんは、おじいさんのことがすごく好きだったんじゃない?だから、自分の不注意で子供がヤケドしたってなるのがイヤだったんでしょ!仲のいい夫婦でいいことだよ!😀」と言っていた。あっ、そうか。確かに母は、父のことがすごく好きだったんだろうな😊
父が亡くなる少し前、娘に母に手を振り払われたこと、もう責める気はないんだけど、子供だった私にとってはきつかったな😅と言ったら
「うん、そうよね…それはキツイ。けどさ、お母さんはその時、自分は助からないかもしれないって思ってたんじゃない?結果的にいったん退院できたけど、その時は、そう思って死んでしまうなら大好きなおじいさんと離れなきゃならない…そう思ったら娘に優しくとか、余裕なかったんやと思う…いいやん!ママは、そんなおじいさん大好きなおばあさんから愛し合って生まれてきたんやから😀」と新説を言ってくれた。そうなのかな😊
確かに母は、父のこと大好きだったんだろうな。父も母のこと大事にしていたな。私が男なら、母との結婚は絶対にないけど😅
母のこと、母として大好き、って心から言うことはまだできないけど。でも女性として、かわいいなって思えるようになった。
母は、一生懸命、自分らしく生きた女性なんだろう!私が求めた本能的で、まっすぐな愛情とは違ったけれど、母なりの愛し方で姉と私に愛情を注いでくれたのだろう。
ずっとしまい込んでいた思い出と、母への気持ちを書くこと、迷いはすごくあったけど、なんだかすっきりした。
母が亡くなって長い年月が流れた。何かできないことがあるたびに、理由のない不安に襲われたとき、人生の岐路に立たされた時、母があんなことを言わなければ…幼い私に何度もあなたは何もできないダメ人間なんだって刷り込まないでくれていれば…
今頃、もっと楽しい人生が送れていたのに…と母を責めてしまっていた。だけど、もう本当に終わりにしたいと思う😀 たくさん自分の気持ちに向き合って
消化できた部分もたくさんある。気がつけば、母を思うとき、苦しさを伴わずに思い出と向き合うことが出来るようになったと思う。
ほとんど会うことはないけど、姉と話すとき誰かに似てる気がしてた… 最近わかった。母だ。話し方、考え方、物事への反応の仕方、母に似ているんだ。姉には自分の気持ちを伝えること、苦手だった。でも2年ぐらい前、帰省したとき冗談っぽく「私、ママのこと苦手だったんよねー😅」って言ったら、姉が涙をこらえるような表情で「それは、もういいでしょう!亡くなった人にそんなこと言わんであげて」と言われた。自分の本当の気持ちを打ち明けることができないって、しんどいものなんだなって思った。これ以上言うと私が悪者にされてしまいそう。母にも姉にも気をつかう自分がいた。
今日、ここに書くことが出来て本当に良かった!😊
あちらの世界で母は呆れているかな?いつか、会ったら怒られるかな😅
でも、いいや。前に進める気がする!
最後に。不思議なことがあった。
今年の母の命日の夜。2階にいたら、玄関をコンコンと優しくノックする音が聞こえた。鍵を持って出てない息子が帰ってきたんだな。夜だから、ピンポンじゃなくて、ノックしてるんだ。気がきく😊
2階のドアを開けて「はーい、今いくー」と言った。
2階で一緒にいた末息子が「?」みたいなキョトンとした顔をしてた。急いで階段を降りる途中も、もう一度はっきりとコンコンってノックの音が。「今いくよー」玄関には誰もいなかった。
玄関のすぐそばの部屋にいたもう1人の息子に「今ノックあったやん」って言うと「何言ってんの?何も音してないし」2階の末息子にも聞くと音はしなかったという。母の命日。母が訪ねて来てくれたんだと直感した。
そういえば、今年は47回忌。特別な回忌だと言う。(宗派などにもよるそうだけど)47回忌を過ぎると1人の仏様としてではなく、〇〇家の先祖というおまつりの仕方になるという記事を見つけた。この節目の夜に母が会いに来てくれたんだと思うと、優しい気持ちと感謝が湧き上がってくるのだった。
ママ、ありがとう!
これからは、自分の人生、自分の責任で楽しんで行くね😀
パパと仲良くしてるかな😊
ずっと仲良くね🩷
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