メインコンテンツへスキップ
見出し画像

【恋愛小説部門】何も始まらなかった【note創作大賞2026】

    七尾書房 

    あらすじ

    北海道中標津の木工職人・七尾のもとに、東京から奈緒美が訪ねてきた。
    二十年前に作りかけた関係の続きを確認しに来たわけではない。ただ、ギターを受け取りに来た。それだけのはずだった。
    池袋のダーツバー。パフェ屋。ヒルトンホテルのデザートビュッフェ。鎌倉のパンケーキ。ルパン三世のオールナイト上映。遠距離の彼女。何度もデートして、それでも何も始まらなかった二十代の話を、二人は工房で二十年越しに話した。
    ギターは完成していた。メイプルとマホガニーの、二十年分が詰まったギター。


    第一章 電話の向こうの声

    ギターが完成したのは、六月の終わりだった。
    作業台の上に置いて、七尾は少し離れたところから見た。
    距離を取るのは、木工職人の習慣だ。
    完成した瞬間こそ一歩下がらないと、自分が作ったものではなく、自分が作りたかったものを見てしまう。

    メイプルトップに、マホガニーバック。ネックもマホガニーで、バインディングにアバロンを入れた。

    四ヶ月かけた。自分が作った中で、いちばん時間のかかった一本だった。
    急げる気がしなかった。ノミを動かすたびに、マホガニーの低い声とメイプルの明るい声が、一本の中で少しずつ混ざっていった。

    「できたよ。待たせたね」と七尾は電話した。

    「受け取りに行っていいの?」と奈緒美は言った。

    「来ていいよ」

    「来週の金曜に行く」

    「わかった」

    それだけだった。二十年ぶりに声を聞いたのに、話すことはそれだけだった。

    電話を切ってから、七尾は少し笑った。電話越しでも奈緒美の声の芯は変わっていなかった。腹から出ている声。楽器を体の中に持っている人間の声。二十年経っても、同じだった。

    会話のテンポも変わっていなかった。用件だけ言って、余計なことを言わない。それが奈緒美の流儀だった。
    挨拶もなく始まり、挨拶もなく終わる。その省略の仕方が、昔から七尾には心地よかった。

    弟子のアユムが「誰ですか?」と聞いた。

    「腐れ縁みたいな人かな」と七尾は言った。

    「珍しい感じですね。どんな人ですか?」

    七尾はギターを見た。アバロンのバインディングが、工房の蛍光灯を受けて白く光っていた。

    「うまく説明できない人」

    二十年かけても説明できなかった。言葉にならないものは、形にする。それが七尾のやり方だった。


    第二章 最初の会話

    最初に会ったのは、池袋のダーツバーだった。

    七尾が二十歳のとき。ギター職人の専門学校に通いながら、夜はダーツバーでバイトをしていた。

    昼間は学校で型通りの技術を学び、帰ってからアパートの六畳間で、学校では教わらないやり方を自分で試した。材料費がなかったから端材を拾ってきた。道具が足りなかったから工夫した。六畳間にはいつも木くずが散らかっていて、隣の部屋の人間から一度だけ壁を叩かれた。それでも止めなかった。

    木とギターに関わる仕事がしたい、という気持ちだけが当時の七尾を動かしていた。派手ではないが、消えない熱だった。

    奈緒美が初めてダーツバーに来たのは、木曜の夜だった。
    バンドの仲間と三人で来て、ダーツをして、よく飲んで、大声で笑っていた。

    最初に目に入ったのは、声だった。

    声が目に入る、というのはおかしな言い方だが、本当にそういう感覚だった。黒いショートカットの小柄な人間が、カウンターから一番遠いダーツの台の前に立って、投げるたびに大げさに声を上げていた。
    仲間の男二人より頭一つ分は背が低くて、でもその笑い声だけが、店の中で一番大きかった。
    腹から出ている声だった。鍛えた声というより、もともとそういう声を持って生まれてきた人間の声だった。

    七尾はカウンターの内側から、ダーツを投げる奈緒美を少しの間見ていた。ダーツが刺さるたびに悔しがったり、喜んだり。
    感情の振れ幅が大きかった。でも芝居がかっていなかった。

    こちらに向かってくる時、七尾は初めて奈緒美の顔を正面から見た。黒い目が大きくて、目が合うと少し笑う人間だとわかった。

    「ここ、何時まで開いてるの?」と奈緒美がカウンター越しに聞いた。

    「二時です」と七尾は言った。

    「毎週も来ていい?」

    「どうぞ」

    それが最初の会話だった。

    奈緒美は宣言通り毎週来た。
    木曜は必ず、金曜も来ることがあった。
    バンドの仲間と来る時もあったし、一人で来る時もあった。
    一人で来る時は、カウンターに座ってビールを飲みながら、七尾と話した。

    音楽の話。バンドの話。東京の話。最近観た映画の話。好きな食べ物の話。奈緒美はとにかくよく喋った。喋ることが息をするのと同じくらい自然な人間だった。沈黙が怖くて喋るのではなく、言いたいことが次から次へと出てくるから喋る。その違いは、聞いているとわかった。

    奈緒美の話を聞いていると、自分の中の雑音が少し静かになった。
    奈緒美がよく来るようになって一ヶ月ほど経った頃、バイト仲間の女の子が「奈緒美ちゃんってかわいいよね。短大時代、ミスコンに選ばれたことあるんだって」と教えてくれた。

    七尾はカウンターを拭きながら「そうか」と言った。なるほど、と思った。でも七尾が奈緒美に最初に感じたのは、その顔立ちよりも声の方だった。
    形より先に、音が届いた。それが奈緒美という人間の、七尾に対する最初の印象だった。その順番は、ずっと変わらなかった。

    「北海道に彼女がいるんだって?」と奈緒美が言ったのは、三ヶ月くらい経った頃だった。

    「どこで聞いたんだよ」

    「バイトの子に」

    「まあ、そうだよ」

    「遠距離、きつくないの?」

    「きついよ」七尾は正直に言った。「でも、好きだから」

    「好きなのに、なんで東京にいるの」

    「ギターを作る学校が、東京にしかなかったから」

    奈緒美は少し考えてから「かっこいいじゃん」と言った。

    褒めているのか呆れているのか、判別できない言い方だった。
    七尾はそのどちらでも構わなかった。どちらにしても、奈緒美が笑っていたから。笑っていれば、それで十分だと思っていた。その気持ちに、当時はまだ名前をつけていなかった。


    第三章 デート、という名前のつかない時間

    奈緒美と二人で出かけたのは、何度もあった。

    デートという言葉を使わなかったのは、七尾に彼女がいたからだ。
    でも実態はデートに近かった。そのことに気づいていて、気づいていないふりをして、二人は色々な場所へ行った。

    奈緒美の中には、他人には見えない精密な地図があって、行きたい場所と行くべき人間が、その地図の上ではっきりと対応していた。

    七尾はその地図の中にいた。それだけのことだった。
    それだけのことが、二十年経っても、七尾の中に残っている。
    最初に二人で行ったのは、池袋のパフェ屋だった。奈緒美が「甘いもの好き?」と聞くので「嫌いじゃない」と答えたら、翌週には連れて行かれていた。
    カップルだらけの、星座をモチーフにした内装のお店で、季節のフルーツを使ったパフェが看板メニューだった。入口の扉を開けた瞬間に、バニラとイチゴの混ざった甘い匂いがした。
    七尾はすぐに帰りたくなったが、奈緒美がすでにカウンターに向かっていたので、仕方なくついていった。

    七尾はマンゴーのパフェを頼み、奈緒美はいちごのパフェを頼んだ。
    パフェを真剣に食べたのは初めてだった。上に生クリーム、下にアイスやコーンフレーク。どこから崩せばいいのか少し迷った。

    解体するような順番で食べるものなのか、上から素直に食べるものなのか、しばらく迷った。設計図のない家具を前にしたような気持ちだった。

    「どこから食べていいかわからない顔してる」と奈緒美が言った。

    「そりゃそうだろ」

    「上から食べればいいんだよ。難しく考えないの」

    「構造的に、上から食べると下が崩れないか?」

    「パフェに構造を求めないで」

    七尾は上から食べた。マンゴーが甘かった。思ったよりうまかった。甘さに強い芯があって、食べた後も舌の上に残った。

    「男の人とパフェ食べに来るの、初めてかも」と奈緒美は言った。

    「そうか」

    「普通、男の人ってパフェ屋に来たがらないでしょ」

    「別に嫌じゃないけど」

    「そういうとこだよね、七尾って」

    何がそういうとこなのかわからなかったが、奈緒美が楽しそうだったから、それでよかった。七尾はパフェを食べながら、奈緒美を少し観察した。いちごのパフェを、丁寧に、しかし迷わず食べていた。

    パフェ屋は二人の定番になった。

    バイトのシフトが合った日、奈緒美のバンド練習がない日、理由もなく時間ができた日。何かあると池袋のパフェ屋に行った。

    季節が変わるたびにメニューが変わるから、「新しいやつ出てるよ」と奈緒美からメールが来た。七尾は毎回違うものを頼み、奈緒美は毎回いちごに戻った。

    「いちごが一番うまいんだからしょうがない」と奈緒美は言った。

    「他のも食ってみればいいのに」

    「食べなくてもわかるの。いちごが一番だって」

    「それは食わず嫌いって言うんだよ」

    「食わず嫌いじゃない。いちご愛って言うの」

    七尾は笑った。
    奈緒美は、自分の結論で生きる人だった。

    新宿のヒルトンホテルのデザートビュッフェに行ったのは、奈緒美の誕生日の前後だった。「行きたいところがある」と言うので着いていったら、ホテルのロビーに立っていた。

    場違いだと思った。七尾はTシャツに穴だらけのジーンズ、奈緒美もTシャツにスカートだった。周りはきちんとした格好の人ばかりで、七尾は入口で一瞬立ち止まった。自分の傷だらけの手が急に恥ずかしくなった。

    「なんかまずかったか、ここ」と七尾は言った。

    「なんで?」

    「俺ら、浮いてる気がする」

    「気にしすぎ。こういうのは気持ちで食べるの」と奈緒美は言いながら、皿に五種類のケーキを乗せてきた。百五十センチの小柄な体で、大きな皿を両手で抱えて歩いてくる様子は、少し滑稽で、でも堂々としていた。

    「気持ちで食べる?」

    「おいしいって思い込んで食べると、全部おいしい」

    「それは理屈として破綻してないか」

    「破綻してないよ。実際おいしいんだから」

    七尾はチョコレートケーキを一切れ食べた。おいしかった。破綻していなかった。奈緒美が正しかった。

    奈緒美は、こういう場所にも飲み込まれなかった。気づけば空間の中心にいた。

    デザートビュッフェの後、二人で新宿の街を歩いて、適当なところで煙草に火をつけた。七尾はマルボロ、奈緒美はハイライト。

    ホテルを出ると急に街の雑音が戻ってきた。
    タクシーのクラクション、居酒屋の呼び込み、酔っ払いの笑い声。でも二人で歩いていると、その雑音が少し遠かった。雑音は消えていないのに、意識に届かない。奈緒美といる時間には、そういう遮音性があった。

    「七尾って甘いもの好きだよね、実は」と奈緒美が言った。

    「嫌いじゃないって言っただろ」

    「嫌いじゃないと好きは違うでしょ。七尾は好き寄りだよ」

    「まあ、好き寄りかもしれない」

    「素直に好きって言えばいいのに」

    「好きだよ。パフェも、ケーキも」

    奈緒美は「今の、なんかよかった」と笑った。何がよかったのか、七尾にはわからなかった。でも奈緒美が笑っているのを見て、七尾は急に、この夜がいつか終わることを考えた。

    今日が終われば、また一週間が始まる。バイトと学校と、北海道への遠距離電話。それは変わらない。でもこの瞬間だけは、その全部が遠くにあった。遠くにあって、でも消えてはいない。その感覚を、七尾は名前のないまま胸の中に置いておいた。

    TV版ルパン三世のオールナイト上映会を観に行ったのは、秋だったと思う。池袋の映画館でオールナイトの特集上映をやっていて、奈緒美が「絶対行く」と言う時は、だいたい一人で行くつもりではなかった。

    「次元が一番かっこいい」と奈緒美は開演前にポップコーンを食べながら言った。

    「次元のクタクタな煙草いいよな」

    「七尾はルパン派?」

    「どっちかと言えば五ェ門だろ」

    「五ェ門! わかる気がする。職人っぽいもんね」

    「そういう理由?」

    「そういう理由。七尾は斬鉄剣で木を削るタイプ」

    意味はわからなかったが、奈緒美が満足そうならそれでよかった。

    オールナイトは長かった。最初の一本が終わり、二本目が始まり、深夜に差し掛かると館内の空気が少し変わった。笑い声が減って、静かな集中が生まれた。みんな、ここでしか観られないものを観ているという、共犯者のような連帯感があった。

    深夜三時を過ぎた頃、奈緒美は七尾の肩にもたれて眠っていた。最初は少しだけもたれていたのが、気づいたら完全に体重を預けていた。百五十センチの体が、七尾の肩に収まっていた。重さがあった。温かかった。

    七尾はスクリーンを見ていた。ルパンが何かを盗んで逃げていた。奈緒美の髪がシャンプーの匂いがした。柑橘系の、あっさりした匂い。
    黒いショートカットが、肩口で少し乱れていた。七尾はその重さと温かさと匂いを、意識しないようにしながら、意識していた。

    動かすべきではないと思った。でも本当は、この時間を終わらせたくなかっただけかもしれない。眠っている人間を起こすな、という道義と、このまま朝まで動かないでいたい、という欲望が、七尾の中で同じ結果を生んでいた。

    エンドロールが流れる頃、奈緒美は起きた。「寝てた?」と聞いた。「少し」と七尾は答えた。「ごめん」と奈緒美は言ったが、謝っている顔ではなかった。それで十分だった。

    それだけのことを、二十年経っても覚えている自分がいた。
    鎌倉に行ったのは、冬の晴れた日だった。

    奈緒美が「分厚いパンケーキが食べたい」と言い出して、鎌倉に有名な店があるという話になった。

    「池袋のパフェ屋じゃダメなのか」

    「パフェとパンケーキは別ジャンルだよ」

    「そうか」

    「そうだよ。パフェは日常、パンケーキは小旅行」

    七尾は奈緒美の分類法をいつも不思議に思っていたが、反論する気にはならなかった。

    奈緒美の中では、パフェとパンケーキはきっと別の場所にあった。

    鎌倉までは電車で一時間ちょっとだった。江ノ電に乗り換えた。車両が小さくて、窓が大きかった。海が近かった。冬の海は鈍い銀色で、人が少なくて、波だけが繰り返していた。満ちては引いて、引いては満ちて。飽きることなく、理由なく。奈緒美は窓から海を見て「海だ」と言った。驚きでも歓声でもなく、ただ確認するような言い方だった。

    海沿いを歩いた。
    冬の湘南は風が冷たかった。奈緒美はマフラーを首に巻き直しながら「寒い」と言ったが、歩くのを止めなかった。七尾は奈緒美の半歩後ろを歩いた。正面から風が来る時、少しだけ前に出て壁になった。百五十センチの体に当たる前に、少しでも風を受ける。

    奈緒美は何も言わなかった。七尾も、その意味を考えないことにした。考えれば、動かなければならなくなる。
    パンケーキの店は古い一軒家を改装したような場所で、焼き上がるまでに四十分かかると言われた。

    「四十分・・・」と七尾は言った。

    「待てるでしょ。七尾は待つの得意じゃん」

    「得意ってわけじゃないけど」

    「得意だよ。北海道の彼女をずっと待ってるんだから」

    その言い方に、少しだけ棘があるような気がした。棘というより、試しているような。でも奈緒美の顔を見ると、笑っていた。棘があるのか、ないのか、判断がつかない言い方を奈緒美はよくした。

    七尾はそのたびに、どちらとも取れるような答えを選んだ。どちらとも取れる答えを選ぶことで、どちらにも踏み込まないでいられた。

    四十分、二人は店の前の縁台に座って待った。冬の日差しが弱く当たっていた。光に温かさはほとんどなかったが、当たっていないよりはましだった。

    奈緒美は手袋をしたまま膝を抱えていた。会話はあまりなかった。

    でも、沈黙が苦ではなかった。
    奈緒美との沈黙は苦ではなかった。七尾はその時間に名前をつけなかった。つければ、扱わなければならなくなるからだ。

    40分待たされたパンケーキは確かに分厚かった。三段重ねで、メイプルシロップとバターが乗っていた。七尾は一口食べて「うまい」と言った。

    「でしょ?」

    「パフェとは確かに別ジャンルだ」

    「わかってくれた?」

    「わかった。ずっしりしてる」

    「そう。パフェはするするっと食べるけど、パンケーキはどっしりと食べるの」

    「食べ物の質感で分類してるのか」

    「当たり前じゃん」

    帰りの電車で、奈緒美は窓の外を見ながら「今日、楽しかったね」と言った。七尾は「楽しかったね」と答えた。楽しかった。それは本当のことだった。でも「楽しかった」という言葉では、今日のすべてが入りきらない気がした。

    パンケーキを四十分待った縁台の冷たさも、海が銀色だったことも、風の前に少し出た七尾の背中も。
    車窓から、また海が見えた。暗くなり始めていて、波の白さだけが浮いていた。打ち上げては消え、打ち上げては消える。その繰り返しに、七尾は目が離せなかった。

    「七尾って、なんで私と遊んでくれるの」と奈緒美が言ったのは、別の日のジャズバーだった。

    「なんでって」

    「彼女いるじゃん」

    「遊んでるだけだから」

    「遊んでるだけなら、なんで私と遊ぶの」

    七尾は答えられなかった。
    答えは自分でもわかっていた。奈緒美といると、時間が変な速さで過ぎていった。話が尽きなかった。帰りたくなかった。奈緒美が次に何を言うかを、知りたかった。それが何を意味するかも、わかっていた。

    この曖昧さの中に、七尾は一種の安定を感じていた。曖昧さは不誠実の別名だと知りながら、それでも曖昧さの中にいることを選んだ。

    「彼女のことが好きだから」と七尾は言った。
    「それは本当のことだよ。でも、奈緒美といる時間も、好きだ」

    「そういうこと、はっきり言う人なんだね」

    「どっちか嘘をつく方が、失礼だと思う」

    奈緒美はビールを飲んだ。「彼女に言ってるの?こういうこと」

    「言わない」

    「なんで?」

    「言う必要がないから。俺は何もしてないし」

    「何もしてない、ね」奈緒美は笑った。「まあ、そうだけど」

    その夜、終電を乗り過ごして、二人でタクシーで帰った。奈緒美の部屋の前まで送って、「またダーツバーで」と言って別れた。奈緒美の部屋には入らなかった。

    タクシーが走り出して、窓から奈緒美のアパートが消えた後、七尾はシートに背を預けた。運転手は何も言わなかった。夜の池袋が後ろへ流れていった。ネオンが流れ、交差点が流れ、コンビニが流れた。全部が後ろへ行って、消えた。

    部屋に入ろうとしなかったのか、機会がなかったのか、今でもよくわからない。わからないまま、二十年が経った。


    第四章 春の報告

    バンドのギタリストと付き合い始めたと聞いたのは、春だった。

    奈緒美が一人でダーツバーに来て、ビールを二杯飲んで、帰り際に言った。
    「ちょっと報告があって」

    「どした?」

    「バンドのギタリストと付き合うことになった」

    七尾はカウンターを拭いた。ダーツの矢を数えるように、一本ずつ丁寧に拭いた。視線を上げなかった。手を動かし続けることで、表情を管理しようとしていた。そういう時に限って、手の動きが滑らかになる。職人の体は正直ではない。

    「そうか」

    「七尾、何も言わないの?」

    「おめでとう」

    「それだけ?」

    「他に何を言えばいいんだよ」

    奈緒美は少し間を置いた。「もっと何か言うかと思った」

    「たとえば?」

    「わかんないけど」

    七尾は拭き終えたカウンターをまた拭いた。同じ場所を、もう一度。

    「奈緒美に好きな人ができてよかったよ。本当に」

    それは本当のことだった。でも本当のことが、いつも十分とは限らない。
    言葉は正しかった。でも胸の中では、言葉と別の何かが同時に動いていた。

    嫉妬とも落胆とも言い切れない重さが、手の中に残った。

    奈緒美が帰った後、閉店まで一人でカウンターに立って、七尾は色々なことを考えた。考えても意味がないことを、長い時間かけて考えた。

    池袋のパフェ屋のいちごのパフェ。ヒルトンホテルのデザートビュッフェで皿に五種類のケーキを乗せてきた奈緒美。鎌倉の分厚いパンケーキ。ルパン三世のオールナイトで肩にもたれて眠っていた奈緒美。シャンプーの匂い。肩に乗っていた黒いショートカット。暗くなった湘南の海。波の白さ。「今日、楽しかったね」という言葉。

    バンドのギタリスト。音と向き合う人間が、奈緒美の隣にいるのだと思った。

    三ヶ月後、奈緒美はバンドのギタリストと別れたと言った。

    「どうして?」と聞くと「合わなかった」とだけ言った。

    詳しくは教えてくれなかった。七尾も聞かなかった。

    また二人で出かけるようになった。
    前と同じように、何でもない時間を過ごした。パフェ屋にも行った。新しい季節のメニューが出ていて、奈緒美はまたいちごを頼んだ。七尾はそれを見て、正確に何かは言葉にならないが、少し安心した。変わらないものが、そこにあった。


    第五章 約束とも呼べないもの

    七尾が東京を出ることにしたのは、二十二歳のときだった。

    長野に行く。ギター工房で修業する。北海道の彼女とは、もう少しだけ物理的に近くなる。東京にいる理由が薄れていた。専門学校は卒業していた。ダーツバーのバイトは生活のためであって、それ以上のものではなかった。
    長野の工房に受け入れてもらえる話が決まったとき、七尾は迷わなかった。
    迷いはあったが、七尾はそれに名前をつけないまま決めた。

    奈緒美に話したのは、出発の一週間前だった。ダーツバーのラストオーダーが終わった後、閉店作業をしながら言った。道具を片付けながら、カウンターを拭きながら、なるべく自然に聞こえるように言った。

    「来月、長野に行く」

    奈緒美はカウンターの椅子に座ったまま、しばらく何も言わなかった。

    グラスの中の氷が少しずつ溶けていた。その音だけが、しばらく店の中にあった。

    「長野?」

    「有名なギター工房がある。そこで修業する」

    「北海道じゃなくて?」

    「まだ独立して北海道に戻る実力がない。もう少し学んでから帰る」

    奈緒美はビールのグラスを両手で包んだ。七尾はその手を見た。爪が短かった。楽器を弾く人間の爪だった。弦を押さえるために短く切られた爪。弾く人間の証。七尾は視線を別の方へ向けた。

    「そっか」

    「うん」

    「彼女とは?」

    「続いているよ。長野からなら、前より近い」

    「東京よりは、ね」

    「ああ」

    奈緒美は立ち上がった。立ち上がる前に一瞬だけ、何かを言いかけるような間があった。でも言葉は出てこなかった。

    「じゃあ、いつか七尾にギター作ってもらう」

    「いつかとか言う奴から依頼はこないよ。いつにするか決めろよ」

    奈緒美は笑った。「決めてないけど、絶対頼む」

    「わかった」

    その夜、奈緒美はバーを出る時に振り返らなかった。七尾も、追わなかった。扉が閉まって、奈緒美の足音が遠くなって、消えた。池袋の夜の音だけが残った。

    七尾は閉店作業を続けた。グラスを洗って、椅子を上げて、カウンターを拭いた。いつもと同じ順番でやった。手が覚えている順番で、体が動いた。

    でも、カウンターを拭きながら、七尾は思った。いつかというのは、約束ではない。でも奈緒美が「絶対頼む」と言う時は、本気だということを、三年間で学んでいた。
    その本気が、どれくらいの時間をかけて届くのかは、わからなかった。
    それが、二十年以上続く約束になった。


    第六章 東京と長野

    長野に行ってからも、奈緒美とは時々連絡を取った。
    メールが主だった。当時はまだスマートフォンが普及する前で、携帯のメールを打つのが面倒だった。それでも、月に何度かはやり取りがあった。

    「池袋のパフェ屋、新メニュー出てた」と奈緒美からメールが来た。

    「何味?」と七尾は返した。

    「桃。でもいちごの方がおいしい」

    「食ったのか?」

    「食べなくてもわかるって言ったでしょ」

    七尾は長野の工房の休憩室で、そのメールを読んで少し笑った。
    長野の冬は長かった。工房の外は雪で、内側は木くずとレモンオイルと、先輩職人たちの体温で温かかった。集団生活の中では、一人になる時間が貴重だった。休憩室で一人でメールを打っている時間は、その日の中で最も静かな時間だった。

    そこに奈緒美からの、池袋のパフェ屋の話が届く。
    場所も時間も全く違うのに、その会話の質感だけは変わらなかった。
    距離は空間を変えるが、テンポは変えない。奈緒美との会話は、東京でも長野でも、同じリズムを持っていた。

    何度か、東京と長野を車で往復した。

    長野の工房の先輩から譲ってもらった古いワゴン車で、高速道路を三時間ほど走った。シートがくたびれていて、エアコンの効きが悪かった。
    ラジオをつけると途中から電波が悪くなって、音楽とノイズが混ざった。でも七尾はその車が嫌いではなかった。一人になれる三時間が、そこにあった。

    東京に用事があったわけではない。正確に言えば、用事を作って行った。
    道具屋に寄る、材料の産地を確認する、師匠の工房に顔を出す。
    そういう理由を先に考えてから、東京に向かった。

    奈緒美と会うのは、そのうちの何回かだった。毎回ではなかった。
    でも、東京に行くと連絡して、奈緒美の都合が合えば会った。
    池袋のパフェ屋に行ったこともあった。新宿を歩いたこともあった。
    長野の土産に野沢菜を持っていったら、「渋い」と笑われた。渋いと言いながら、全部食べていた。

    ある時、奈緒美を車で送ったことがあった。
    バンドの練習スタジオが渋谷にあって、その帰りに合流した。夜の九時過ぎに新宿で落ち合って、飯を食って、気づいたら終電がなくなっていた。奈緒美が「タクシー呼ぼうか」と言ったので、七尾は「送るよ」と言った。言ってから、少し後悔した。後悔したが、撤回しなかった。

    助手席に奈緒美が乗った。シートベルトを締める音がした。車内が、少し奈緒美のものになった。奈緒美の上着が助手席のヘッドレストにかかって、シャンプーの匂いがした。七尾はエンジンをかけた。

    「七尾って、車持ってるの知らなかった」と奈緒美は言った。

    「長野で譲ってもらった」

    「東京まで何時間?」

    「三時間くらい」

    「三時間かけて来たの?」

    「用事があったから」

    「用事って何?」

    「色々」

    奈緒美は窓の外を見た。東京の夜が流れていった。「色々ね」と言って、それ以上聞かなかった。

    七尾はハンドルを握りながら、奈緒美が聞かなかった理由を少し考えた。
    奈緒美には、三年以上見ていてもわからないところがあった。七尾はそれを欠落ではなく、余白だと思っていた。

    車内は静かだった。ラジオをつけようか、と思った。でも、つけなかった。理由はうまく言えなかった。

    「七尾って、運転してる時、静かだよね」

    「話すことがないから」

    「話すことがないんじゃなくて、話さなくていいと思ってるんでしょ」

    「どっちだろうね?」

    「どっちでもいいよ。静かなの、嫌いじゃないから」

    赤信号で止まった。赤い光が車内に差し込んできた。奈緒美の横顔が一瞬だけ赤く染まって、また元に戻った。眠そうな顔をしていたが、寝てはいなかった。目を細めて、窓の外の夜を見ていた。何を見ているのかはわからなかった。見ているものより、見ていない何かを考えているような顔だった。

    七尾は前を向いたまま、信号が変わるのを待った。
    奈緒美のアパートは、西荻窪の駅から歩いて七分くらいのところにあった。一度だけ来たことがあって、道は覚えていた。

    一度だけ来たことがある、という事実を、七尾は少し奇妙に思っていた。何度も出かけて、何度も送って、でも奈緒美の部屋に入ったことはなかった。そういう関係だった。

    アパートの前の細い道に入った。街灯が一本だけあって、その下に駐車スペースがあった。七尾は車を停めた。エンジンを切ろうとして、一瞬だけ手が止まった。

    切ればいい、と頭では思っていた。でも、エンジンを切ったら、この時間が終わる。終わること自体は構わなかった。構わなかったが、手が少し遅れた。その遅れが、一秒か二秒か、体感ではもっと長かった。

    エンジンを切った。

    「ありがとう」と奈緒美は言って、ドアを開けた。小柄な体が車の外に出た。夜の空気が少し入ってきた。マフラーを巻き直して、ドアを閉める前に「長野、遠いね」と言った。

    「まあね」

    「でも、来てくれてありがとう」

    「用事のついでだよ」

    奈緒美は笑った。「用事のついで、ね」

    ドアが閉まった。

    七尾はしばらくそこにいた。エンジンをかけなかった。奈緒美がアパートの入口に向かうのを、フロントガラス越しに見ていた。外套のポケットに手を入れて、少し俯いて歩いていた。街灯の下を通り過ぎて、暗い場所に入って、扉を開けて、消えた。

    七尾はそこからさらに少しの間、動かなかった。扉が閉まった後の、何もない玄関を見ていた。奈緒美がいなくなった後に残る空間を、確認するように。

    それからエンジンをかけた。

    三時間、一人で走った。ラジオをつけたが、途中から電波が悪くなった。音楽とノイズが混ざった。そのまま走り続けた。雑音の中に何かが聞こえる気がして、しばらく消さなかった。


    第七章 結婚式

    奈緒美が結婚すると聞いたのは、七尾が二十八の春だった。
    電話で聞いた。久しぶりの電話だった。
    長野と東京の間には、時間の積み重ねでできた薄い膜のようなものがあった。

    「結婚するんだ」と奈緒美は言った。

    電話越しでも、声の芯は変わっていなかった。でも、少しだけ別の質感があった。何かを決意した人間の声は、普段とは少し違う。緊張ではなく、覚悟の重さがある。それを七尾は聞き取った。聞き取りたくなかったが、聞き取ってしまった。

    「おめでとう」と七尾は言った。

    「結婚式、来てほしいんだけど」

    七尾は少し黙った。工房の窓の外に、長野の山が見えた。
    まだ雪が残っていた。頂上だけが白く、稜線が空に溶け込んでいた。
    その白さを見ながら、七尾は頭の中で何かを計算していた。

    行けるかどうかではなく、行くべきかどうかを。

    「行けない。ごめん」

    「仕事?」

    「うん」

    わかっていて、嘘をついた。

    仕事は調整できた。師匠に頼めば、日程を空けることはできた。
    でも、行けなかった。行く、という選択肢を、七尾はどうしても手に取れなかった。

    「そっか」と奈緒美は言った。少し間があった。「残念」

    「ごめんね」

    「いいよ。仕事なんだから」

    電話を切った。

    工房に、静寂が戻った。
    七尾は少しの間、窓の外の山を見ていた。白い頂上が、少しずつ青い空に溶けていった。

    奈緒美が結婚する。

    その事実を受け取りながら、七尾は彼女に対して誠実だったかどうかを、考えた。考えて、答えを出せなかった。出せないまま、工房で木を削り始めた。

    第八章 お互い、色々あった

    奈緒美が離婚したと知ったのは、それから二年後だった。

    共通の知人から聞いた。ダーツバー時代のバイト仲間が、たまたま七尾に連絡をくれた。
    「奈緒美ちゃん、離婚したらしいよ」と。電話越しの声は、噂を伝える人間の声だった。驚いているでも心配しているでもなく、ただ情報として言っている。

    七尾はそれを聞いて、ああ、と思った。それだけだった。

    電話を切ってから、七尾は工房の椅子に座って少しの間、考えた。

    なぜ離婚したのか、は知らなかった。でも七尾には、ぼんやりとした想像があった。

    奈緒美なら、合わないと思ったら続けないだろうと七尾は思った。

    奈緒美の「合わない」は、曖昧ではない。一度そう決めたら、覆らない。
    七尾はそういう奈緒美を三年間見ていたから、その判断の速度と確かさを知っていた。

    だとすれば、奈緒美は今頃、すでに前を向いているかもしれない。

    七尾は何も連絡しなかった。連絡すべきかどうか、考えた。考えて、やめた。

    離婚した直後に連絡するのは、何か別の意味を持ってしまう気がした。
    その意味を持っていいかどうか、今の七尾にはわからなかった。
    中標津の工房はまだ軌道に乗り切っていなかった。自分の生活の形が定まっていない人間が、他人の生活の変化に踏み込む権利があるのかどうか。そういうことを、七尾は考えた。結論は出なかったが、連絡はしなかった。

    結局、何もしないことが七尾のやり方だった。それは二十代の池袋から、何も変わっていなかった。

    半年ほど経って、奈緒美からメールが来た。

    「元気?」

    その三文字が届いた時、七尾は工房で椅子の脚を削っていた。
    スマホが光って、拾い上げて、読んだ。
    元気? たった三文字が、半年分の沈黙を割った。三文字でいい。

    それが奈緒美の流儀だった。

    「元気だよ。そっちは?」

    「まあまあ。色々あった」

    「聞いたよ」

    「誰から?」

    「ダーツバー時代の仲間から」

    「あー。みんな知ってるんだ」

    「大丈夫か?」

    「大丈夫。っていうか、すっきりした」

    七尾は返信を打った。「ならよかった」

    すっきりした。その言葉を読んで、七尾は思った。
    やはり、そうだったか、と。奈緒美がすっきりしたと言う時、その言葉に嘘はない。半年かけてたどり着いた言葉ではなく、おそらく離婚した直後から、この言葉はそこにあったのだろう。

    合わないと決めた瞬間から、すっきりへの道は始まっていた。
    そういう人間だった。

    七尾には、それが羨ましかった。
    曖昧さの中に住み続ける自分とは、違う生き方だった。

    どちらが正しいかは、わからなかった。でも、すっきりした、と言えることの強さは、七尾には確かにわかった。

    「七尾は? 彼女とは?」

    「別れた。三年前に」

    「知らなかった」

    「言ってなかったから」

    「お互い、色々あったね」

    「そうだね」

    七尾は少し間を置いてから言った。「彼女とは、なんとなく終わった」

    「なんとなく?」

    「どちらかが悪いわけでもなくて、喧嘩したわけでもなくて。ただ、続ける理由が薄れていった感じがして」

    「それって、なんとなくじゃないんじゃない?」

    「どういう意味?」

    「なんとなく終わるって言う時、たいていちゃんとした理由がある。でも言葉にするのが面倒か、言葉にしたくないかのどっちかだよ」

    七尾は何も返せなかった。

    奈緒美は「まあ、いいけど」と添えてきた。

    七尾は画面を見ながら、奈緒美の言っていることが正しいかもしれないと思った。なんとなく、ではなかった。続ける理由が薄れたのではなく、別のものの重さが、続ける理由を少しずつ押していた。

    でも「別のもの」に名前をつけることを、七尾はしなかった。
    しなかったまま、三年が経って、彼女との電話の頻度が下がり、会う回数が減り、ある日お互いが「そういうことかな」と言って、終わった。

    奈緒美に対する気持ちが原因だったのかどうか、七尾には今でもわからない。わからないまま、それを確かめる機会も、もうなかった。

    第九章 空港に迎えに行った

    奈緒美を迎えに、中標津空港へ行った。

    空港といっても小さな建物で、到着ロビーはほとんど待合室に近い。
    椅子が並んでいて、自動販売機があって、窓の外に滑走路が見えた。飛行機が降りてきて、タラップが出て、乗客が歩いてくる。そのまま外を歩いてくる。屋根がないから、風が直接当たる。北海道の六月はまだ少し肌寒かった。

    七尾は到着口の前に立って、出てくる人間を見ていた。

    観光客らしい家族連れが出てきた。スーツ姿のビジネスマンが出てきた。

    奈緒美が出てきたのは、それから少し経ってからだった。

    Tシャツとジーンズ、リュックひとつの小柄な人影があった。
    迷うことを恐れない人間は、たいてい迷わない。奈緒美はまっすぐに七尾を見つけ、少し笑った。

    二十年ぶりに見た奈緒美は、変わっていたが、変わっていなかった。
    百五十センチという背丈は変わらなかった。
    黒いショートカットも変わらなかった。ただ、目の周りに二十年分の出来事が静かに残っていた。

    駐車場まで歩き、七尾の車の助手席に奈緒美が乗った。シートベルトを締める音がした。車内が、少し奈緒美のものになった。シャンプーの匂いがした。
    二十年前の夜、西荻窪のアパートへ送った時と同じ匂いだった。
    「北海道、広いね」と窓の外を見ながら奈緒美が言った。 

    「道がまっすぐだからな」と七尾はハンドルを握ったまま答えた。 

    「あの時、東京から長野まで三時間かけて来てくれたよね」 

    「用事のついでにね」 

    奈緒美は笑った。あの夜の西荻窪と同じ笑い方だった。

    車は防風林の間を抜け、工房へ着いた。 扉を開けた奈緒美は、まず木の匂いを吸い込んだ。

    工房を見回して、壁に立てかけてあるキティちゃん柄のベースを発見した。

    「懐かしい! まだあるんだ」と言った。

    奈緒美のバンドのヘルプで、何度かステージでベースを弾いたことがあった。その時に使用していたベースだった。

    「毎日弾いてる」と七尾は言った。

    「信じられない」

    「なんで?」

    「そのベース、私の声と合わないから」

    昔と同じ会話だった。

    七尾は「そうか? いい音だけどな」とだけ言った。

    奈緒美は工房の中をゆっくり歩いた。壁にかかった工具、棚に並んだ木材のサンプル、作りかけの椅子の脚。指先で触れるように見ていた。触れることに意味がある人間の見方だった。

    「すごいね、ちゃんと工房になってる」

    「当たり前だろ」

    「当たり前じゃないよ。二十年前は、ダーツバーでバイトしてたんだから」

    「それはそうだけど」

    「パフェ屋に一緒に行ってた人が、こんな立派な工房持ってるんだもん」

    七尾は少し笑った。
    「パフェ屋は関係ないだろ」

    「関係あるよ。あの頃の七尾を知ってるから、余計にすごいと思う」

    あの頃の七尾。専門学校に通って、夜はバイトして、六畳の部屋で端材を削っていた二十歳の人間。何になるかわからないが、木とギターだけが確かだった人間。

    それとこの工房が、確かに一本の線でつながっている。
    奈緒美がそれを見てくれていることが、七尾には少し意外だった。自分では意識していない線を、時間を置いた他人の方がよく見える。

    奈緒美は机の上に置かれたメイプルトップのギターをしばらく見た。

    「これが私のギター?弾いていい?」と聞いた。

    七尾が「どうぞ」と言うと、ゆっくりと手を伸ばして、木目を指先でなぞった。

    ボーカリストの指だった。弦を押さえたことのある指だった。

    短く切られた爪。あの夜、カウンターのそばで見た、あの爪と同じだった。
    奈緒美はギターを手に取り、弦を軽く弾いた。

    マホガニーの低い響きが、工房に広がった。

    「これ、私の声に合うかも?」と笑った。

    七尾は作業台の端材を無意識に握っていた。ノミの柄が汗で滑る感覚を、二十年ぶりに思い出した。

    奈緒美は完成したばかりのギターを弾きながら、七尾を見た。
    何かを確認するような目だった。
    七尾は視線を逸らさなかった。言葉より先に、形で渡したかった。

    奈緒美はまた視線をギターに戻した。指がボディの縁をゆっくりとたどった。

    「バンドのギタリストと別れた後、また七尾と出かけてたじゃん?」

    「ああ」

    「あの頃、七尾のこと好きだったよ」

    工房の外で、風が通り過ぎた。道具が並んだ棚が、ほんのわずかに揺れた気がした。
    七尾は作業台の端を見た。木くずがいくつか落ちていた。「知ってた」

    「知ってたなら、なんで?」

    「彼女がいたから」

    「でも、何もしなかったじゃん。デートは何回もしたのに。パフェ屋も、鎌倉も、ルパンのオールナイトも。ヒルトンのデザートビュッフェだって」

    「何もしないのが、俺のやり方だった」

    言い訳ではなかった。本当にそうだった。始めることも、終わらせることも、七尾には重すぎた。だから、何もしないまま、その時間を大切にした。

    「結婚式も来なかったよね」

    七尾は黙った。

    「仕事じゃなかったでしょ、あれ」

    「ああ」

    「知ってたよ」

    「そうか」

    「でも怒ってないよ。来なくてよかったと思ってる。来てたら、もっとややこしくなってた」

    七尾は何も言わなかった。奈緒美は正しかった。
    来ていたら、七尾は何か余計なことを言っていたかもしれない。言わない方がよかったことを。それを二十年後に静かに言えるのが、奈緒美という人間だった。

    「離婚した時も、連絡くれなかったよね」

    「タイミングがわからなかった」

    「七尾らしい」
    奈緒美は少し笑った。「変な人だよね、昔から」

    「そうか」

    「今も変わってない」

    変わっていない、と言われることが、この場合は何を意味するのか。七尾には判断がつかなかった。でも奈緒美が笑っていたから、少なくとも悪いことではないのだと思った。

    工房の外で、六月の風が吹いていた。


    第十章 ちゃんと終わってるか

    その日の夜、七尾は奈緒美を近くの居酒屋に連れて行った。アユムも来た。三人で飲んだ。

    居酒屋は工房から歩いて十分くらいの、カウンターが六席しかない小さな店だった。七尾がたまに行く店で、主人は寡黙な人間だった。聞かれたことだけ答えて、余計なことを言わない。七尾はそういう店が好きだった。

    アユムが奈緒美に「どんな音楽をやってるんですか?」と聞いた。

    「椎名林檎好きだからね、小さいライブハウスでコピーやオリジナルやってます」と奈緒美は言った。

    「七尾さんと昔、バンドをやってたんですか?」

    「椎名林檎のコピーバンドを。七尾がベース。スタジオ代出すから弾いてって頼んだんだ」

    「七尾さん、その時からあの工房のベース弾いてたんですか?」

    奈緒美はビールを飲んだ。「私とは合わなかったけど、音はよかった。音作りが、職人っぽかった」

    七尾は黙って聞いていた。音作りが職人っぽかった、という評価を、二十年前に受けていたとは知らなかった。当時の奈緒美は、そういうことを言わなかった。今になって言う。二十年という時間は、言えなかったことを言える時間に変える。

    「七尾さんは当時、東京で何をしてたんですか?」とアユムが聞いた。

    「ダーツバーでバイトしてた。夜」

    「昼は?」

    「ギター作ってた」

    「すごい一本槍だ」

    「そうでもないよ」と七尾は言った。

    「当時は、他のことも色々あった」

    奈緒美がビールのグラスを置いた。「他のこと、って何?」

    「色々だよ」

    奈緒美は「色々ね」と言い、笑った。アユムは何も言わなかった。察しのいい弟子だった。

    「七尾さんって甘いもの好きなんですか?」とアユムが聞いた。カウンターに置かれたデザートのメニューを見て。

    「嫌いじゃないよ?」と七尾は言った。

    奈緒美が「好き寄りだよ」と言った。

    七尾は奈緒美を見た。奈緒美はビールを飲みながら笑っていた。

    少しだけ笑った。二十二年前と同じことを、奈緒美はまだ覚えているようだった。

    帰り道、奈緒美が「来てよかった」と言った。

    「ギターのためだろ」と七尾は言った。

    「ギターのためだけじゃない。ちょっと確認したかった」

    「何を」

    「ちゃんと終わってるかどうか」

    七尾は空を見た。六月の中標津の夜空は、星が多かった。東京では見えなかった星が、ここにはあった。長野でも見えたが、ここの方がもっと多かった。空気が違う。人工の光が少ない。人が少ない分、空が広い。星は変わっていないのに、見る場所によってこれだけ違う。

    「終わってたか?」と聞いた。

    奈緒美は少し間を置いてから「うん」と言った。

    「でも、悪い終わり方じゃなかった」

    「そうだね」

    「パフェ屋の思い出も、鎌倉のパンケーキも、ルパンのオールナイトも、全部ちゃんといい思い出になってる」

    「ヒルトンのデザートビュッフェは?」

    「あれは最高だった。あの時の七尾の場違いな顔、今でも覚えてる」

    七尾は少し笑った。

    「場違いだったのはお互い様だろ」

    「私は堂々としてたよ」

    「それは認める」

    奈緒美も笑った。夜の中標津の空の下で、二十年前の池袋と同じように、二人で笑っていた。場所が変わって、年が変わって、それでも笑い方は変わっていなかった。

    「またギター作ってよ。次は三年以内に来る」

    「わかった。今度は何を作る?」

    「まだ決めてない。来る前に考える」

    「パンケーキでも食いながら考えろよ」

    「鎌倉のあの店、まだあるかな?」

    「知らないよ、東京のことは」

    「調べとく」

    それだけで十分だった。


    第十一章 遠回りくらい、いい

    翌朝、七尾は奈緒美を中標津空港まで車で送った。 

    行きと同じ防風林の間のまっすぐな道を走りながら、二人はあまり話さなかった。でも、その沈黙は苦ではなかった。

    二十年前の縁台でパンケーキを待っていた時と同じ、心地よい沈黙だった。
    小さな出発口の前に車を停めた。 

    「じゃあ、また三年以内に」と奈緒美は助手席のドアを開けて言った。

    「気を付けて、またね」と七尾は答えた。 

    奈緒美は小さく手を振り、自動ドアの向こうへ消えていった。
    昔から変わらない、迷いのない歩き方だった。

    七尾は一人で車を走らせ、工房へ戻った。 夏の始まりの空気が、開け放した窓から流れてきた。 

    一週間後、七尾のInstagramのDMに、奈緒美からメッセージが来た。

    「ギター、音、めっちゃよかった。弾きやすいし。二十年分、ちゃんと入ってた」

    七尾は「よかった」と返した。

    「次は三年以内に行く。その時にテーマ決めてから連絡する」

    「わかった。待ってる」

    「七尾って、昔から待つのが上手だよね」

    七尾はしばらく考えた。待つことが上手、というのは褒め言葉なのか、それとも別の何かなのか。どちらとも取れる言い方を、奈緒美は二十年前からよくしていた。

    「上手じゃないけど、待つことが自然にできるだけだよ」と返した。

    「それを上手、というんだと思う」

    「あと、鎌倉のパンケーキ屋、まだあったよ」

    「そうか」と返した。

    「今度、三年以内に行く時、鎌倉も寄ろうかな」

    「北海道に来るのに鎌倉に寄るのは遠回りだろ」

    「遠回りくらい、いいじゃん」

    七尾はベースの弦を一本弾いた。
    工房に、その音だけが響いた。


    著者プロフィール
    七尾書房(ななおしょぼう)。北海道中標津在住の木工職人。七尾工房代表。「七尾とアユム」シリーズと同じ世界で描く、「七尾さん」の二十年前の物語。Kindle出版「七尾書房」名義で100冊出版に挑戦中。


     
     
    職人歴20年|ギター・家具・寄木細工を作って生きてます🪵 Kindle出版100冊挑戦中📖 ├ 寓話×自己啓発シリーズ ├ 木工房ノンフィクション小説 └ AI活用術シリーズ 収益・既読数など数字を全公開 「続けることで、うまくなる」を証明する