
鏡の迷路で、俺たちは迷子になった
七尾書房
あらすじ
ある日、4人は「比較の迷路」に迷い込んだ。
モチ、ナマ、シク、コツ。それぞれが異なる悩みを抱えて生きていた。誰かと比べて落ち込んだり、比べることで動けなくなったり、比べることをやめられなかったり。そんな4人を、見知らぬ声が迷路に招いた。
迷路には無数の鏡がある。鏡を見るたびに、自分ではない「もっとうまくやっている自分」が映る。
出口はどこか。出口に向かうには、何かを手放さなければならない。
序章 招待状
封筒は、朝起きたら枕元にあった。
差出人の名前はなかった。宛名には、それぞれの名前だけが書かれていた。
モチへ。ナマへ。シクへ。コツへ。
中身は一枚の紙だった。
あなたを、比較の迷路にご招待します。 入口は、いつもあなたが最も比べてしまう瞬間に開きます。 出口は、自分で見つけてください。
4人は、それぞれ別の瞬間に、迷路に入った。
モチは、SNSを開いた瞬間に。ナマは、同期の昇進を聞いた瞬間に。シクは、自分より整った部屋の写真を見た瞬間に。コツは、3年続けても報われない朝に。
そして気づいたら、4人は迷路の中心で出会っていた。
一 モチの鏡
モチは、とにかく飽きっぽかった。
何かを始めるのは得意だった。ランニング、料理、英語、筋トレ。始める瞬間の高揚感が好きだった。でも、3週間もすると手が止まる。続けている人の投稿を見るたびに、胸の中に何かが積もった。
「羨ましい」ではなく、もっと重いもの。
「あいつは続けられて、俺はなぜ続けられないんだろう」という問い。
迷路に入って最初に現れた鏡は、縦に長い、古びた金縁の鏡だった。覗き込むと、モチが映っていた。でも、鏡の中のモチは違った。毎朝走り続けているモチだった。腕が引き締まっていて、姿勢がよくて、目に光があった。
「俺も、ああなれるはずだった」
モチは呟いた。
声が響いた。迷路に声があった。
「なれるはずだった、とはどういう意味ですか」
「続けていれば、という意味です」
「続けなかったのはなぜですか」
「飽きたから」
「飽きることは、悪いことですか」
モチは黙った。飽きることは悪いことだ、とずっと思っていた。でも問われると、なぜ悪いのかがうまく言えなかった。
「鏡の中のあなたは、何を諦めましたか」
「え?」
「続けることを選んだ人間は、何かを諦めています。走り続けるために、他の何かをやらなかった。あなたが飽きて次のことを始めた時間に、彼は走っていた。あなたがその時間に、別のことをしていた可能性はありますか」
モチは考えた。
3週間で英語をやめた後、料理を始めた。料理を3週間でやめた後、今度はDTMを始めた。DTMで作った曲は、友達に「おもしろい」と言われた。DTMもそのうちやめたが、その時間に書いた日記が、今のモチの部屋にある。
続けなかった時間に、何も起きなかったわけではなかった。
「でも」とモチは言った。「続けた人の方が、すごいじゃないですか」
「すごいとは、どういう意味ですか」
「社会的な評価が高い、という意味です」
「あなたは社会的な評価のために生きていますか」
モチはまた黙った。
鏡の中のモチが、少し歪んで見えた。
二 ナマの鏡
ナマは、本が好きだった。
1日1冊読む習慣を、300日続けた。でも旅行から帰ってきた夜、疲れていて本を開けなかった。翌日も開けなかった。その翌日も。
3日経った時点で「もう終わりだ」と思った。
習慣が途切れた罪悪感は、想像以上に重かった。しかも、同じ頃に職場の同期が昇進した。同期はそんなに本を読んでいない。残業もそれほどしていない。でも、昇進した。
「読書って、意味があるんだろうか」
ナマは迷路の中で、横長の鏡の前に立っていた。
鏡の中には、ナマではない人間が映っていた。昇進した同期だった。スーツが似合っていて、姿勢がよくて、部下に何かを指示していた。
「俺の300日は、何だったんですか」とナマは鏡に聞いた。
声が答えた。「300日で、何が変わりましたか」
「わかりません。変わったかどうか、わからない」
「変わったかどうかわからないとき、人は『変わっていない』と判断しがちです。でも本当に変わっていないのでしょうか」
「……わかりません」
「300日前のあなたと今のあなたを、同じ状況に置いたとして、同じ判断をしますか」
ナマは考えた。
300日前、上司に怒られた時、ナマはどう感じたか。その場で反論できなかった。家に帰って悔しくて眠れなかった。
今月、同じ状況があった。ナマは違う行動をした。相手の言っていることを一度受け取って、自分が変えられる部分と変えられない部分を分けて考えた。眠れない夜は来なかった。
本で読んだことが、無意識に入っていた。
「でも」とナマは言った。「昇進はできませんでした」
「昇進と読書は、同じ目標に向かっていましたか」
「……そう思っていましたが、もしかしたら違ったかもしれない」
「鏡の中の彼と、あなたは、何を目指していますか」
ナマは黙った。昇進を目指していると思っていた。でも本当は、昇進したい自分が目指しているものが何かを、ナマはまだ言葉にできていなかった。
鏡の中の同期が、少し遠くなった気がした。
三 シクの鏡
シクは、環境を整えることが好きだった。
整った部屋、整ったスケジュール、整った食事。すべてが完璧な状態でないと、動けなかった。逆に言えば、すべてが整った状態なら、完璧に動けるはずだった。
でも、そんな状態は来なかった。
引っ越しをした。新しい部屋は気に入っていたが、前の部屋で作り上げた「完璧な環境」がゼロになった。整えるのに3ヶ月かかると思ったら、何も始められなかった。
その間に、整っていない環境でも平気で進んでいく人たちの投稿が目に入った。
「なんで、あの人たちは、ああできるんだろう」
迷路の中でシクが見た鏡は、丸い鏡だった。
鏡の中には、散らかった部屋の中でパソコンを打ち続けているシクが映っていた。ゴミ袋が隅に置いてあって、段ボールが積み上がっていて、でも画面の中に何かを作っていた。
「あれは、俺じゃない」とシクは言った。
「なぜですか」
「俺は散らかった部屋では動けない」
「確かですか」
「確かです」
「では、今日この迷路に入ってから、あなたは何かを決めましたか」
シクは考えた。迷路は、整っていなかった。道が曲がっていて、床が凸凹していて、光の加減もばらばらだった。でも、シクはここまで歩いてきた。
「……歩いてきました」
「整っていない迷路を、あなたは歩けましたね」
「でも、それは特別な状況だから」
「すべての状況は、あなたにとって特別です」声は言った。「整っていないと動けないのではなく、整っていないことを理由に動かないことを選んでいるのかもしれません」
シクは、その言葉が嫌いだった。
でも、否定できなかった。
「俺は、いつになったら動けますか」
「今です」と声は言った。「いつも今です」
鏡の中の散らかった部屋が、少し近くなった気がした。
四 コツの鏡
コツは、続けることが得意だった。
3年間、毎朝日記を書いた。3年間、毎晩同じ時間に眠った。3年間、毎週同じ日に部屋を掃除した。コツにとって、続けることは苦ではなかった。体が覚えていた。
でも、3年間続けても、何も変わらなかった。
同期は年収が上がった。友人は結婚した。SNSを見ると、誰かが何かを達成していた。コツは毎日同じことをして、毎日同じ場所にいた。
「続けることに、意味はあるんだろうか」
迷路の中でコツが見た鏡は、ひび割れていた。
鏡の中には、コツが映っていた。でも、鏡の中のコツは笑っていた。何かが楽しいらしく、一人でふふっと笑っていた。
「あれは、なぜ笑っているんですか」とコツは聞いた。
「鏡の中のあなたに、聞いてみてください」
コツは鏡の前に近づいた。「なぜ笑っているんだ」
鏡の中のコツが振り向いた。「昨日の日記を読んでいた」
「日記を読んで、笑えるのか」
「3年前の自分が、今の悩みと同じことを書いていた」
「同じことを書いていたなら、何も変わっていないじゃないか」
「同じことを悩んでいるのに、3年前と今では、悩み方が違う」と鏡の中のコツは言った。「3年前は出口がないと思っていた。今は、出口がどこかにあると思っている。それだけ違う」
「それだけの違いで、笑えるのか」
「それだけで十分だ」
コツは黙って、ひび割れた鏡を見た。ひびは無数に入っていたが、映っている像は歪んでいなかった。
「変わっていないと思っていたが、変わっていたのか」
「続けたから見えるようになったことが、ある」と声は言った。「変化は、続けた人にしか見えない形をしている場合があります」
コツは、迷路に入ってから初めて、少し息がしやすくなった気がした。
五 4人が出会った場所
鏡の前を離れた4人は、迷路の中で出会った。
広い広場のような場所だった。天井が高く、四方に鏡が並んでいた。でも、この場所の鏡には、何も映っていなかった。白く、曇っていた。
「ここは?」とモチが言った。
「中心だと思います」とナマが言った。
「出口はどこですか」とシクが聞いた。
声は答えなかった。
4人は、それぞれの鏡の前での出来事を話した。飽きることの話。300日の話。環境の話。3年間の話。
「みんな、比べてたんだな」とモチが言った。
「比べること自体は、悪くないんだと思う」とナマが言った。「何と比べるか、の問題かもしれない」
「俺は、整った環境の人と比べていた」とシクが言った。「でも、その人は整った環境の中で何を作っているかを、知らなかった」
「俺は、変化が見えやすい人と比べていた」とコツが言った。「でも、続けることで見える変化は、外からは見えにくい形をしているかもしれない」
4人はしばらく黙った。
「出口は、どうやって見つけるんだろう」とモチが言った。
声が、今日初めて聞いたより柔らかい調子で言った。
「出口は、比べるのをやめた瞬間に現れます。でも、比べるのをやめることは、難しい」
「難しいですね」とナマが言った。
「なぜ難しいですか」
「比べないようにしようとすると、比べることを意識してしまって、余計に比べるから」とコツが言った。
「正確です」と声は言った。「だから、比べるのをやめようとするのではなく、別のものを見るようにするのです」
「別のもの?」
「昨日の自分です」
六 出口
4人は、出口を見つけた。
広場の隅に、小さな扉があった。さっきまでなかった。扉には鏡がなかった。ただの、木の扉だった。
「これか」とシクが言った。
「比べるのをやめた瞬間に現れる、というのは本当だったんだな」とモチが言った。
4人は扉の前に立った。
「一つ聞いていいですか」とコツが声に向かって言った。
「どうぞ」
「迷路に招待した理由は何ですか」
声はしばらく沈黙した。
「比較の迷路は、あなたたちが自分で作ったものです。私はただ、名前をつけただけです」
4人は顔を見合わせた。
「自分で作った?」
「鏡は、あなたが見たいものを映します。誰かと比べたいと思うから、比べたい鏡が現れます。迷路も、あなたたちが比べ続けるほど、深くなります」
「出口も、自分で作ったということですか」とナマが聞いた。
「そうです。比べることをやめた瞬間に、出口が現れました。出口はいつも、あなたたちの中にありました」
モチが扉を開けた。
外は、朝だった。
それぞれの朝。それぞれの部屋。枕元に、封筒は残っていなかった。でも、窓から差し込む光は、迷路に入る前より少しだけ違って見えた気がした。
エピローグ
4人は別々の場所で目を覚まして、しばらくの間、天井を見ていた。
モチは、3週間で飽きた英語の教材を探した。捨てていなかった。また始めるかもしれない。始めないかもしれない。でも、探してみたくなった。
ナマは日記を開いた。300日目の記録があった。「今日は旅行から帰ってきた。疲れて本が読めなかった。明日また読もう」と書いてあった。
シクは、段ボールが一つだけ残っている部屋を見た。「これだけ片付けてから始めよう」と思っていたそれを、そのままにして、パソコンを開いた。
コツは日記を書いた。今日の日付と、「迷路から帰ってきた」という一行だけ。3年後、この一行を読んだ自分が笑うかもしれないと思いながら。
比べることは、まだやめていなかった。
でも、昨日より少しだけ、昨日の自分の方を見るようになっていた。
それだけのことが、朝を少し変えた。
著者プロフィール
七尾書房(ななおしょぼう)。北海道中標津在住の木工職人。七尾工房代表。Kindle出版「七尾書房」名義で100冊出版に挑戦中。「やる気スイッチはどこへ消えた?」「習慣はどこで壊れるのか?」に続く、モチ・ナマ・シク・コツシリーズ第3作。