忘却の奥にあるもの
僕は誰かの話を聞くのが好きだ。と言うよりも、聞くことに囚われている。
その過程で聞き手に回ることの居心地の良さと、中身のある話が僕を色付けているようで、好きなのだ。
バーカウンターで立っている時にふと思う。グラスを伝う水が、いつの間にか消えるみたいに、何かを残せない僕。
翻って彼らは何を残したかったんだろうかと、今さらながら問いかけたくなるのだ。
グラスの氷が溶ける音や、遠くを走る車の走行音に混じって、その人の口からこぼれ落ちる『生きた証』は雑踏に踏みつけられて消えるだろう。
強く生き、ここにいるぞと叫ぶように生きてきたあの人達は、忘却の奥に何を残していたんだろうかと、思わずにいられなかった。
グラスを拭き上げながら、思い出す彼らの顔は、普通の友人たちと違って、泣き、笑い、必死に生きている姿だ。
傷
このカウンターに並んで、一緒に仕事をしていた女の子がいた。
名前はまどか、年齢は初めて会った時のことを考えると、今は27歳だろう。
カウンターの内側で働くまどかは、社会人である僕にとって刺激が強かった。
あどけない顔立ち、それを紛らわせるような金髪。少しのアンニュイさが現実味を遠ざけていて、たまに空を見る視線が遠い。吹けば消えてしまう雲のような、気ままに旅をしてしまいそうな危うさが彼女の色だ。
装っている。これが最初に話した時に受けた印象だった。
まるで自分の傷を隠すように、溢れてくる闇に蓋をするように、かさぶたのような愛嬌で隠しているように、僕は見えた。
そんな彼女が働いているお店に足を運んでいると、コロナの第一波が到来した。
仕事の実入りが少ない事に嘆いていると、バーで働かないかと声をかけてもらえた。
興味のあった仕事ということ、お酒が好きなこともあって、僕は27歳でバーテンダーとなった。
するとまどかも後から働くことになり、期せずして、憧れの人と働くことになった。
いつものように下心丸出しなお客様を相手にして、お互いを労っていると、その日は特に疲れているように見えた。
僕はどうしても彼女の様子が気になった。殆ど完璧なように見える彼女が、なぜそんなにも疲れたのかと。
だから僕は酒を奢り、2人でカウンターに座ると、まるで自分の言葉を零すように話をしてくれた。
「私、今日来てた人と寝たんだ。」
想像してなかった訳じゃない。正直な所、そんなことだろうな、と考えてはいた。
元々彼女には良くない噂がついて回っている。枕営業。断り切れない。男好き。根も葉もない話を僕は信じないが、それらはきっと真実が伸ばした枝なのだ。
目の前に実ってしまっている果実がある。味を確かめずにはいられない。
「それが原因…じゃないよね?」
「うん…どうして、いつもこうなんだろうなってさ。虚無ってた。」
まどかは机に体を預け、顔を冷たいカウンターに押しつけている。机の冷たさで、酒の火照りを冷ましながら、僕の目を見る。
「わかる?毎回この人だって思いながら、抱かれても、愛を感じない私の気持ちが。」
唇を弾かせながら、幼い顔立ちから飛び出す社会性のない野蛮な言葉。
まどかはそれを自覚しながら、僕に受けとめることを強いている。
心の中でごめんな、わからないんだ、と謝りながら、洗いたてで銀色に光る灰皿を机に下ろした。
「なんでそうなったの。」
僕はタバコを咥えて火をつけていると、いつの間にかまどかもタバコを咥えている。だから火をつけてやった。
すると少しだけ煙を吐く。まるで考え事を煙に巻くみたいに。
「わかんない。」
「わかんないか。」
カウンターの内側まで伸びた左腕。夏だと言うのに黒い長袖のパーカーからチラリと覗く手首には、痛ましい切傷が並んでいる。
リストカットだ。初めて生々しい物を見た僕は、どうしても理解がなかった。
「最近も増えた?」
「ううん。しないようにしてる。そのために…。」
彼女は体を起こして、左腕の袖をめくる。現れたのは青色のアジサイ。カバーアップと呼ばれるリスカ痕を無くすためのタトゥーだ。
白い肌に映える青色のアジサイは、夥しい数のリスカ痕を艶やかに隠している。
「カバータトゥーをしてるんだ。最初はちょっとやっちゃったけど、今はしてないよ。」
「……。」
「どうしたの?」
言葉を並べられない僕を見て、まどかは困惑していた。何故なら、彼女の努力が僕の鼻の奥を突いていたからだ。
唇を少し丸めて、せっかちな涙を抑え込む。僕の感情が表情から溢れているのは、自分でもわかっているのに、止められない。
するとまどかは淡々と思い出を話してくれた。
「……私はきっと愛をこれからも感じられない。親から愛を教えてもらった事がないから、当然だよね。教えてもらえたのは性欲だけ。私ってなんなんだろうね…何者なんだろうね…。」
全てを言わない彼女の裏打ちを、僕は強く感じ取って、泣いてしまった。
親の愛を受けたという感覚は、僕にもない。だが頭を回せば愛されていたんだと思う節はある。
まどかはそれがないのだ。生きてきた20年余りの中で、小学生という大事な時期に愛を注がれたと言う思い出すらない。なんならレイプという虐待まで受けていた。幼い身体に刻まれた傷が、彼女の中で唯一確かなものなのだろう。
大人になれば、いやでも親が教えてくれなかった愛し方を探す事になるだろう。
それは海難に遭うようなものだ。大シケの黒い海の中を泳いでいると、セックスという簡単でわかりやすい陸地にしがみついた。
愛し方という形のない物を、彼女なりの解釈をすれば、最後に手に取ってしまうのはどうしてもセックスなのだ。
大人は愛していなくても、セックスができてしまう。より深みにハマっていく愛のロジカルに、彼女は迷い込んでいるのだ。
こうなると、相手からの愛も伝わらない。そして結局ぶつけられたわかりやすい性欲が、彼女の闇を深くしていく。
愛してくれているのかも分からないのに、セックスしてしまえば、結局自分を傷つけた父親とかわりがないのだから。
それをわかってしまったから、僕は泣いたのだ。
泣き止む様子がない、まどかは僕を抱きしめた。
「泣かないで。先輩でしょ。」
「……君が行き着く場所を見つけてやる事は、僕にできない。」
「うん。」
「見守るだけだ。見守ることだけしかできない。」「ありがとう。ありがとうね。」
僕はまどかの事が好きだった。だからといって、救ってやる自信もなかった。いつものように受け止めても救うことなんて、できはしない。
独りよがりな悔しさに嘆いて、彼女の優しさに甘えてるだけの時間が過ぎていく。
その後、まどかは浮気をした。
お客様と付き合えたという報告に周りが沸いいたのに、報告の2日後に発覚したそうだ。
浮気相手は上2階のマスターで、まどかの使っている自転車が家の周りで見つかった。
それ以降、界隈には姿を現さなくなった。
彼女の顔を思い浮かべながらグラスを吹いていると、カウンターから質問が飛んでくる。
「ねね、まどかちゃんってどこいったのよー?」
酒の場での自分の身を切らないゴシップは最高のツマミだ。
関係のない人間が噂話をほじ繰り返すのは日常茶飯事であり、プレイヤー達を鬱へと追いやる毒だ。だからいつものように僕は言う。
「どこに行ったんでしょうね。久しぶりに顔を見せてほしいもんですよ。」
「なんだい兄ちゃん。またくるみたいな言い方して。」
「来てほしいってだけですよ。」
笑って返す。嘘の隠し味は少しだけの本当。僕は本当にまどかとは会っていない。
けれどスマホを開くと、彼女がこっそり教えてくれたSNSのアカウントが今日も更新している。
この店よりもオーセンティックで女性オーナーのバー。恐らくバンド活動もしているのだろう。歌っている姿が元気そうだった。
だから僕は、安心して呟いた。
「…何者でもないと嘆いている君を、誰かがここにいるよ、愛しているよって認めてくれるよ。」
愛を知らないから、愛を探しているのだ。
だからきっと彼女はまた傷ついて、誰かに偏るのだろう。だが今度はきっと、支えてくれる人がいるのだから、上手く行くだろう。
毎日、踏み鳴らされる不透明な存在。まどかの叫びは今日も忘却に流されて、傷だけが僕の中で残っている。
バーの閉店はいつも空虚だ。誰もいないカウンターの外側が深海のようでいて、明かりがついていればより孤独を強調してくる。
なので締め作業は素早く終わらせる。さっさと片付けて、集金の計算の誤差に戸惑いながら、店を出る。
眩しい日差しに目を潰しながら、少しの疲れと大いなる酔いに足を絡ませて、僕はあるところに辿り着く。
もう誰も来ていないのだろう。忘れ去られ、苔すら纏わりついている灰色の鈍重で高そうな墓石。
だから僕は洗うことにした。
袖をまくり、バケツに水を入れる。春先の風の音が水の音を濁らせて、時間の経過を知らせてくれた。
「もう4年…最後に来たのは去年、だよな。」
しばらく来ていなかったのは言うに憚られる理由があったからだが、それまではここに毎日通っていた。
重苦しくなるバケツを持ち上げ、墓石に向かい合うと「立花」という名字が刻まれている。僕が知っている時の名前は佐藤だった。
嘘
僕には彼女が4人いた。その中で、一番最初に付き合っていたのは10歳上のお姉さんだった。
佐藤美代子と言う名前の先輩。年賀状のアルバイトで知り合ったのをきっかけに交際し、1年後に別れた。
理由は結婚したいから、残念ながら、若かった僕はそこまで考えていなかった。
それから僕は転職して、一人暮らしをはじめた。大阪は岸里玉出。西成に隣接してはいるが、静かで住みよい場所だ。
住んでからすぐに行きつけになった、ワンコイン海鮮丼屋さんでいつものように食事を待っていた。
すると自動ドアがスライドして、嗅いだことのある香水に目を向ける。日差しをバックに、長い黒髪と白いワンピースを着た女の人がこちらを見ている。
「◯◯くん……ふけちゃったね。」
たまたまだった。本当に前情報などなく、巡り合わせというだけで、美代子に会ってしまった。
彼女はベビーカーを押していて、傍らに4歳くらいの男の子を連れている。
ハッとした。年月も、思い当たる行為も全てがかみ合って冷や汗を垂らしていた。
「あ!違うから!これは今の旦那との子供!」
「あーー……そっかぁ……。」
情けないやら安心するやらで、情緒が荒れた。感情の荒波が引いていくと、浜辺に答えが書いてある。
「結婚……したのか。」
驚愕ではないがショックはそれなり。僕は食事を待つ間だけ、彼女と話すことにした。
僕と別れた後、1年足らずで結婚。最近夢であった子宝に恵まれ、幸せの渦中にあるのだという。
チェーン店という狭くて安っぽい空間で話を広げるが、僕はそれほど彼女の話に集中できていなかった。
何故なら目の隈、肌に見える小さく目立つ青痣の名残。何かしら疲れていることには間違いがない。
昔から溜め込み気質で、爆発すると手が付けられない彼女だ。きっと結婚生活も苦労しているのだろうと結論づけて、考えるのを辞めた。
そうでもしないと僕は彼女に深入りしてしまう。
「久しぶりに会えて嬉しいよ。ま、結婚大変だろうけど、頑張ってね。」
ご飯を掴み取って店を出た。自動ドアをくぐった所で、袖口が摘まれて、足を止めてしまう。
だめだ、振りほどけ、振り返るな。頭の中の言い訳を塗りつぶして這い上がる好奇心に負けて、僕は踵を返す。
美代子は泣きながら、レシートを差し出している。
「忘れ物よ……。」
「お、おう。」
レシートを裏返せば、電話番号が乱雑に書かれていた。
受け取って捨てればよかったのだ。何事もなかったかのように、破いて風に乗せてしまえば、二目と会うことはないだろう。
なのに僕は好奇心に抗えず、「忘却」に置いておく事を嫌がってしまった。
それから2ヶ月が経ったが、美代子とは日毎にメッセージのやり取りが増えていた。
最近では毎日途切れる事はなく、恋人だった人の知らない顔を見せつけられ、少しだけ歯がゆさを感じる日々を送っていた。
唯一、気になっているのは、文末の端で伝わってくる疲弊が気がかりだった。
まるで抑えつけているような言葉だ。いつもパツパツで張り裂けそうな言葉を、別の言葉に置き換えて、気づいてくれと主張していた。
だがそれが彼女の常套手段であることも知っている。
自分に何もないと勘違いしている彼女は、周りに「綺麗」、「可愛い」、「頭がいい」という褒め言葉を受け取らない。
謙遜などではなく、本当に無いと思っているからだ。
自分には持ち合わせがない、だから相手に投げかける。気づいてくれと忍ばせて、甘えを引き出してくるのだ。
もし答えてしまったら、僕は人妻を好いてしまう気がしていた。
だから僕はこの2ヶ月間、気づいていないふりを続けている。
「ぁああ!!出てきてよぉおおお」
実家は閑静な住宅街の中に建つ団地。いつもの夜はたまに通り過ぎる車とバイク、バックコーラスの虫の音程度なのに、その日は人間の鳴き声が響いていた。
窓から顔を出すと、号泣している美代子がいて、俺は階段を滑り降りた。
美代子は子供も連れず、誰の目も気にせず泣いている。大粒の涙を拭ってやり、近場の人気のない公園に連れ出した。
街頭1つだけがテラスベンチに腰掛けて、座り込んだ。隠し事を発表するための壇上で、2人の声だけが響いている。
「どうしたの…。」
まだ子供のように泣きじゃくる美代子に優しく問い掛けたが、彼女は息を整えるのに必死だった。
まるで子供のように喉を鳴らせる。彼女の心は未だ見えない。
「落ち着いてからでいいから…」
「つ……つかれたぁ。」
きっと疲れたと言う言葉の含みは末広がりだ。まるでフグみたいに膨らむ意味に、今度は僕が泣いてしまいそうだ。
「あ、あのね……私は◯◯くんと結婚したかったの。」
「そっかそっか。」
「今の旦那は…私に優しくしてくれないし__________」
口から出した毒に疲れ、美代子は一人ベンチで横になっていた。
彼女の寝顔を見て思う。吐き出しきった言葉の全てに、意味合いなどなかった。
単に「過去の輝かしい時間」に憧れて、今の現状を受け止められない。結婚と子供と言う外面の良い責任感に押し潰れても、私はここにいると泣き叫んだだけなのだ。
私を見てよ。認めてよ。なんて思っているのだろう。
愛に見つけられても、愛を見つけるのは難しい。そうなると自分の居場所を見つけるのはさらに難しい。
何故ならもう彼女はどこに立っているのかすら見えていなくて、その場から抜け出せない。まるで氷の上で陸地に辿りつけない状態だ。
だから僕は彼女の頭を撫でながら、スマホを取り出す。
「……あ、もしもし。夜分遅くに」
旦那さんに電話をしたのだ。氷上の迷い子に手を出すのは僕じゃなくて、旦那さんなのだから。
程なくして、アルファードが横付けされた。車の下に青色のLED が取り付けられており、どんな化け物が降りてくるのかと怖がっていた。
だが降りてきたのはメガネをかけた痩せた男。彼は僕を殴るでもなく、割れ物のように優しく抱き上げた妻を車に乗せた。
「妻がすみません。」
「いえ…。」
電話口で僕との関係性を伝えているので、非常に気まずかったのを覚えている。
だがやるべき事をしているだけ、たったそれだけで、割には合っていないことを強く自認をしていた。
彼は僕に目も合わせず、背を向けたまま、言葉を並べる。まるで機械のような語り口に、少しだけ苛立った。
「妻は…最近になってよく泣く様になりました。それは僕の責任でもあります。」
「そのように悲観されないでください。みんな、自分の在り方に悩んで、辛くても形を変えて生きてますので…」
「………聞いていないのですね。」
旦那さんは溜めを作り、僕に向き直る。だが視線を合わせない。足元か腰辺りを見ながら、とても苦しそうに話す。
「原因は…僕の浮気です。」
息を忘れる程に、僕は思ってしまった。コイツもかと。
「行きつけのお店で知り合った女の子なんです。………僕は彼女の言いなりで、この車も、その子の趣味。騙されていた…とは言いませんが。」
胸倉でも掴んでやればよかったのか。頬を殴れば気が済むのか。
「旦那さん。みよ……立花さんは貴方のことに触れていませんでした。多分…ずっと自分の事を責めてます。」
邪念渦巻く頭の中を、腹からわき上がってくる怒りの矛先は旦那さんだけではない。
「許すことは…とても難しい。でも許される努力は永遠にできる。」
僕はそっと手を後ろに回して、拳が自壊する勢いで握り込んだ。
「そう……ですよね。」
節目になる旦那さんに、僕はポケットから名刺を取り出して渡した。彼は理解が及ばなくて、名刺を眺めていたので補足を入れる。
「僕の得意技は聞くことです。いつでもこの店にいるので、旦那さんもよかったらガス抜きに来てください。」
「……いいんでしょうか。僕が言っても。」
「来るときはお二人でいらしてください。それか、一言伝えてから。」
僕は彼に会釈をして、直ぐ様に立ち去った。
美代子は僕を当て馬にしようとしたんだ。旦那さんの浮気が許せなくて、元カレという僕の気持ちを利用し、罰を与えようとしたのだ。
そんな理屈が通っていいはずがないし、僕の予想も当たっていたことになる。人間はとても度し難い。
帰宅すると足の疲れから、夜道を進む足取りに、怒りの重さが乗っていた事に気がついた。
1週間ほど経った頃、客足が遠のいた時間帯に見知らぬ電話番号から着信が鳴る。
「はい。」
「もしもし…立花ですが。」
電話口には美代子の旦那さんがいた。あの日と殆ど変わらぬ声音から、あーまた何か合ったんだと気を締めると、話の方向性は悪い方に傾いた。
「美代子が死にました。自殺です。」
やはりそこまで読めなかった。僕は彼女がぷかぷか浮いていて、余力があるのに助けを必死に呼んでいるのだと思っていた。
でも本当は、足首を闇が巻きついていたのだ。その闇が彼女を取り返しがつかない場所まで引き下ろした。
つまり僕は失敗したのだ。
「そうですか…。連絡ありがとうございます。」
「いえ。来づらいかもしれませんが、美代子は生前に友人達との縁を切っていました。もしご予定がありましたら葬式に参列頂けると幸いです。」
「え、いいえ。流石に…。」
「関係性を伺っております。妻の面子を保つためにも…どうか。」
美代子は計算高い女性だった。きっとこのゴールまで見積もり、友人関係を絶っていたのだろう。
僕は仕方なく了承し、参列した。
墓石に張り付く苔を、リズムよく動くブラシがこそぎ落としていく。夕暮れに沈む彼女の墓前に、花はない。
「……墓を残すから、面倒見ろって?調子よすぎだよ。」
立花さんは美代子の死後、すぐに再婚した。お相手は浮気相手だった人だ。
彼女はわかっていたのだ。全てをかなぐり捨ててまで愛そうとした人には、愛がなくなっていたと。
友達もいなくなってしまった。貴方だけだと、信じて進んだはずなのに、大事な家族は違う方向を見ていた。
孤独の末に飛び立とうとした。すればするほど苦しめるシガラミに足を取られて動けない。そんな折に僕とあってしまったのだ。
思い出したのは、比べる必要もないほどの輝かしい過去。
繰り返す幸せだった日々は、僕の中にもちゃんとある。
メッキが剥がれていくように、埃と苔が消えていく。まるで美代子がついてきた嘘だ。
「次からはちゃんと言えよ。」
忘却の彼方に、美代子の生きていた証が埋まっている。せめて僕だけは忘れずにここを訪れていこうと、青臭い気持ちが這い上がっていた。
今日もまた、カウンターに立つと脳裏には沢山の想いが残されている。
だがそんな事も知らずに、言葉がカウンターの向こうから跳んできた。
「いや〜〇〇がさぁ〜」
「彼氏くんはげんき?」
「あのおっさん…ほんとうるさい。」
雑踏と呼ばれる世界を、僕はとても冷たく感じる。彼ら彼女らが生活をするだけで音を立て、消されていく「何か」があるのだから。
かく言う僕だって残したい物がある。それが中身のない僕に残る、彼らの想いだ。
その想いはグラスを傾けて身体に入っていく、ウィスキーの煌びやかさじゃない。注がれて溶け始める氷にさえ役割があるが、それでもない。
誰にも必要とされず、嘆き、叫んで取り残されたその破片こそが、僕の中に宿っている想いだ。
目の前で、グラスの外側を伝って落ちていく一粒の水滴だ。僕はそれを大切に拭き上げて、グラスをお客様に手渡した。
「はい。ジョニーウォーカー。」
「ありがとな、兄ちゃん!」
笑顔で受け取るお客様は、零れ落ちた水滴の存在を知ることはない。喉に入ってくるウィスキーの豊潤さに支配されている。彼女たちの叫びも同じだ。
水滴を吸い込んだこのタオルのように、僕は人の気持ちを汲み取って歩いていこう。
きっとまた思い出す彼らを大切にしながら、忘却の奥から、綴っていくよ。