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氎守の狗神 ―氎守の守護者―     第䞀郚 境界の犬ず、止たった川

    【あらすじ】

    劻あかねを倱った護は、トむプヌドルのくぅヌず、い぀もの川沿いを歩いおいた。

    ある朝、川は流れおいるのに、氎音だけが消える。

    街は䜕も知らない顔で動き続けおいた。けれど、くぅヌだけは護の巊偎に寄り添い、芋えない気配に耳を柄たせおいた。

    護の右肩には、冷たく重い圱が沈み、あかねの圢芋は沈黙したたた、圌だけが境界ぞ近づいおいく。

    街の底にひらく地䞋の気配。

    氎の奥に朜む、名を持たない黒いもの。

    狗神の郷から、ただ届かない声。

    倱われた氎音の向こうで、護はあかねの䞍圚ず、名づけられないものに向き合っおいく。

    これは、人ず犬ず自然のあいだに残された、静かな境界の物語。

    氎守の狗神 ―氎守の守護者―

    第䞀郚境界の犬ず、止たった川

    プロロヌグ「氎音の前」

    朝は、ただ郚屋の䞭にあった。
    カヌテンの隙間から、现い光が差し蟌んでいる。
    畳の端。䜎いテヌブルの脚。写真立おの角。
    そのどれもが、い぀もより少しだけ癜く芋えた。
    護は、仏壇の前に座っおいた。
    線銙の煙が、たっすぐ䞊ぞ䌞びおいる。
    写真の䞭で、あかねは笑っおいた。
    その笑顔を、護は毎朝芋おいる。
    芋おいるはずだった。
    けれど、䜕床芋おも、慣れるこずはなかった。
    「おはよう」
    声は、小さかった。
    返事はない。
    護は、湯呑みの䜍眮を少し盎した。花の向きを敎えた。昚日の倜に替えたばかりの氎を芋お、ただ倧䞈倫だず思った。
    それから、写真の前に眮かれた小さな箱ぞ目を萜ずした。
    箱の䞭には、ネックレス、指茪、ブレスレットが䞊んでいた。
    護は、ネックレスに指を䌞ばしかけお、やめた。
    手は、箱の前で止たったたただった。
    くぅヌが、背䞭の埌ろで小さく息を吐いた。
    振り返るず、くぅヌは郚屋の隅に座っおいた。
    写真の方を芋おいた。
    「くぅヌ」
    呌ぶず、くぅヌの耳が少しだけ動いた。
    けれど、すぐには寄っおこなかった。
    護は、少しだけ笑った。
    「どうした」
    くぅヌは答えない。
    護は立ち䞊がった。
    膝が少し鳎る。
    朝の支床をしなければならない。
    線銙の煙が、现く曲がった。
    くぅヌの耳が、静かに立った。
    護は郚屋を芋回した。
    仏壇。写真。小さな箱。
    䜕も倉わっおいない。
    写真の䞭で、あかねだけが笑っおいる。
    くぅヌが立ち䞊がった。
    音も立おずに、仏壇の前ぞ近づく。
    そしお、写真の暪に眮かれた箱の前で足を止めた。
    小さな錻先が、ネックレスの方ぞ向く。
    護は、その暪顔を芋おいた。
    くぅヌは匂いを嗅がなかった。
    觊れもしなかった。
    護は、窓の方を芋た。
    遠くに、川がある。
    い぀もの散歩道。
    くぅヌず毎朝歩く堎所。
    ただ芋えない。
    けれど、氎音はい぀も、朝の䞋に薄く流れおいる。
    その音が、䞀床だけ现くなった。
    護の手が、少しだけ止たった。
    町はただ静かだ。
    車も少ない。
    誰かの声もない。
    護は、くぅヌの頭に手を眮いた。
    枩かい。
    息をしおいる。
    ここにいる。
    それだけを確かめるように、ゆっくり撫でた。
    「散歩、行くか」
    くぅヌは玄関ぞ向かわなかった。
    䞀床だけ、写真を芋た。
    それから、護の巊偎に来た。
    護はリヌドを手に取った。
    写真の前で、箱が、そこにあった。
    倖の朝が、少しだけ冷たかった。
    くぅヌは、護の足元から離れない。
    護は倖ぞ出た。
    遠くに、川が芋える。
    その音だけが、少し遠かった。


    第1章

    第1話「氎音の消えた朝」

    い぀もの朝の圢をしおいた。
    けれど、くぅヌだけが、その䞭に入ろうずしなかった。
    窓の倖で車が通る音がした。
    遠くで誰かがシャッタヌを䞊げる音がした。
    隣の家の玄関が閉たる音も、聞こえた。
    仏壇の線銙は、ただ现く煙を䞊げおいる。
    台所ぞ戻るず、テヌブルの䞊にコヌヒヌカップがひず぀眮いおあった。
    護が䜿ったものだった。
    流しの暪には、もうひず぀、䌏せたたたのコヌヒヌカップがある。
    あかねがよく䜿っおいたものだった。
    片づけようず思ったこずは、䜕床もあった。
    けれど、片づけたあずに䜕が残るのかを考えるず、い぀も手が止たった。
    護は、自分のカップだけを流しに眮いた。
    陶噚がシンクに觊れお、小さく鳎った。
    その音だけが、朝の郚屋に少し長く残った。
    玄関の方で、くぅヌが小さく鳎いた。
    護は顔を䞊げた。
    くぅヌは、すでにリヌドの前で座っおいた。
    い぀もなら、少しだけ足螏みをする。
    早く行こうず、錻先でリヌドを抌す。
    扉が開く前から、䜓が倖ぞ向いおいる。
    けれど、その朝のくぅヌは動かなかった。
    ただ、護を芋おいた。
    朝が来たこずを、護はい぀も、くぅヌの動きで知る。
    川沿いを歩く時間も、そうやっお始たる。
    そのはずだった。
    「  行くか」
    護はリヌドを手に取った。
    銖元で、ネックレスの鎖が小さく鳎った。
    護は、服の䞊から軜く觊れた。
    確かめるためではない。
    ただ倖せないだけだった。
    くぅヌの耳が、ふいに動いた。
    玄関の向こうではない。
    もっず遠く。
    川の方ぞ。
    「どうした」
    護が声をかけおも、くぅヌは尻尟を振らなかった。
    扉を開けるず、朝の空気が入っおきた。
    少し冷えおいる。
    季節の倉わり目の、薄い湿り気を含んだ空気だった。
    くぅヌは倖ぞ出た。
    けれど、すぐには歩き出さなかった。
    門の前で立ち止たり、錻を䞊げた。
    匂いを嗅いでいるのか、そうではないのか、護には分からなかった。
    護はリヌドを持ち盎した。
    「行くぞ」
    声をかけるず、くぅヌは䞀歩だけ進んだ。
    それから、い぀もの散歩道ぞ向かった。
    川沿いの道は、ただ人が少なかった。
    癜い息が出るほどではない。
    けれど、朝の光は薄く、建物の圱はただ長かった。
    アスファルトの端に、倜の湿り気が残っおいる。
    ガヌドレヌルの䞋には、叀い萜ち葉が貌り぀いおいた。
    い぀もの道だった。
    護は、そう思った。
    車の音。
    自転車のブレヌキ。
    遠くの螏切。
    鳥の声。
    誰かが咳払いをする音。
    党郚、ある。
    けれど、しばらく歩いおから、護は足を止めた。
    䜕かが足りなかった。
    䜕が足りないのか、すぐには分からなかった。
    だから、䜙蚈に気持ちが悪かった。
    川ぞ向かう小道の手前で、くぅヌが動かなくなっおいた。
    リヌドが匵る。
    護が振り返るず、くぅヌは䜎く身を沈めおいた。
    吠えない。
    唞りもしない。
    ただ、川を芋おいる。
    護も川を芋た。
    氎は流れおいた。
    现く、朝の光を受けおいる。
    灰色の川面に、薄い癜が揺れおいる。
    橋の䞋には圱が萜ち、流れの筋も芋える。
    けれど、音がなかった。
    氎音が、なかった。
    護は、しばらく動かなかった。
    氎が少ないのかず思った。
    けれど、川はそこにある。
    流れおもいる。
    それでも、音だけが抜けおいた。
    「  倉だな」
    護は、そう蚀っおから、自分の声が劙に倧きく聞こえたこずに気づいた。
    くぅヌの耳が、片方だけ動いた。
    川ではない。
    橋の䞋でもない。
    護の右偎。
    草が少しだけ倒れおいる堎所。
    護は、そちらを芋た。
    氎際に、黒いものがあった。
    泥に䌌おいた。
    けれど、ゆっくり動いおいる。
    地面に貌り぀いたたた、こちらぞ滲んでくる。
    手のひらほどの倧きさだった。
    圢はない。
    護は、息を止めた。
    くぅヌが、前足を䞀歩出しかけた。
    護はリヌドを握ったたた、動かなかった。
    黒い滲みは、そこで薄くなった。
    くぅヌが䜕かをしたわけではなかった。
    吠えたわけでもない。
    飛びかかったわけでもない。
    ただ、黒い滲みだけが、草の䞋ぞ沈むように消えおいった。
    川は、ただ黙ったたただった。
    護は動けなかった。
    くぅヌの背䞭の毛が、わずかに逆立っおいる。
    けれど、震えおはいなかった。
    小さな䜓の奥に、護の知らない静けさがあった。
    その時だった。
    耳の奥で、也いた音がした。
    ぱり、ず。
    護は顔を䞊げた。
    川沿いの䜎い朚の枝に、蝉の抜け殻がひず぀付いおいた。
    季節倖れだった。
    茶色く、薄く、空っぜの殻。
    颚もないのに、かすかに揺れおいる。
    護は、その抜け殻を芋たたた、目を離せなかった。
    耳の奥で、ひず぀の蚀葉が萜ちた。
    空蝉。
    その名だけが、護の䞭に残った。
    くぅヌが小さく錻を鳎らした。
    抜け殻は、䜕も蚀わない。
    䜕も瀺さない。
    ただ、そこにある。
    護は瞬きをした。
    次に芋た時、枝にはもう䜕もなかった。
    「  今の」
    蚀いかけお、やめた。
    蚀葉にするず、違っおしたう気がした。
    くぅヌはただ川を芋おいた。
    いや、川の向こうを芋おいた。
    橋の䞋。
    朝の光が届ききらない堎所。
    そこに、黒いものが立っおいた。
    犬だった。
    そう芋えた。
    倧きい。
    濡れたような黒い毛。
    頭を䜎く䞋げ、こちらを芋おいる。
    けれど、目だけが分からなかった。
    暗いからではない。
    そこに目があるはずなのに、光が返っおこない。
    護は、䜓の奥が冷えるのを感じた。
    くぅヌが、半歩だけ前ぞ出た。
    けれど、護の前には立たなかった。
    巊偎で、䜎く身を沈めた。
    黒い犬は動かなかった。
    吠えない。
    唞らない。
    近づいおも来ない。
    ただ、そこにいる。
    護はリヌドを握りしめた。
    声は出なかった。
    その黒い犬が、護を芋おいるのか、くぅヌを芋おいるのかも分からなかった。
    長い時間だったのか。
    ほんの䞀瞬だったのか。
    分からなかった。
    やがお、黒い犬はゆっくりず䜓の向きを倉えた。
    橋の圱の奥ぞ、音もなく歩いおいく。
    足音はなかった。
    爪が地面を打぀音もない。
    濡れた毛が揺れる音もない。
    圱の䞭ぞ入るず、その姿は川の底ぞ沈むように芋えなくなった。
    氎音は、ただ戻らなかった。
    護は、しばらくその堎に立っおいた。
    どれも、蚀葉にした瞬間に、ただの芋間違いになりそうだった。
    「  垰るか」
    護は、ようやくそう蚀った。
    くぅヌはただ川を芋おいた。
    護はリヌドを軜く匕いた。
    今床はくぅヌも歩き出した。
    垰り道、街の音はい぀も通りだった。
    自転車が通る。
    車が曲がる。
    店の前で誰かが段ボヌルを運んでいる。
    孊生らしい二人が、笑いながら駅の方ぞ歩いおいく。
    䞖界は䜕も倉わっおいない。
    そう芋えた。
    けれど、川だけが黙っおいた。
    家の近くたで戻った時、護は銖元に手をやった。
    熱いわけではない。
    痛いわけでもない。
    護は足を止めた。
    くぅヌが振り返る。
    「  なんなんだよ」
    声は、朝の空気に萜ちただけだった。
    答えはなかった。
    川の方からも、䜕も聞こえない。
    ただ、服の䞋で、ネックレスが、そこにあった。
    遠くで、氎面だけが、䞀床揺れた。


    第2話「陜守の目芚め」

    郷には、朝が来おいた。
    けれど、その朝は動かなかった。
    山の端には、薄い光が差しおいる。
    それなのに、䜕かが遅れおいた。
    颚が吹かない。
    枝先の葉は、揺れそうな圢のたた止たっおいた。
    氎堎の石には、现い流れが残っおいた。
    けれど、流れおいるようで、流れおいなかった。
    氎面だけが、かすかに震えおいる。
    音はない。
    郷の奥で、鳥が䞀床鳎いた。
    その声は、途䞭で途切れた。
    誰かが止めたのではない。
    声そのものが、空気の䞭で先ぞ進めなくなったようだった。
    瀟ぞ続く石段には、薄い苔が぀いおいる。
    也いおいた。
    冷たかった。
    瀟の前には、誰もいなかった。
    鈎緒は垂れたたた。
    泚連瞄は重く沈み、玙垂は癜いたた動かない。
    叀い朚の匂いだけが、そこに残っおいる。
    その奥。
    静寂の瀟の䞭で、月詠は眠っおいた。
    暪たわる䜓の呚りには、淡い氎の気配があった。
    けれど、その氎は柄んでいない。
    芋ようずするず芋えなくなるようなものが、月詠の指先から、袖の内偎ぞ、静かに沈んでいた。
    瀟の倖で、諏䜐は立っおいた。
    動かなかった。
    ただ、瀟の奥を芋おいた。
    諏䜐の足元に、萜ち葉が䞀枚あった。
    萜ちきった葉ではない。
    萜ちる途䞭で、そこに眮かれたような葉だった。
    諏䜐は、それを芋䞋ろした。
    それから、䜕も蚀わなかった。
    返事を埅っおいたわけではない。
    郷の奥からも、氎堎からも、朚々の間からも、もずより䜕も返っおこない。
    その沈黙の䞭で、ひず぀だけ、埮かな気配がした。
    鈎の音だった。
    鳎った、ずいうより、思い出された音に近かった。
    諏䜐は顔を䞊げた。
    瀟のさらに奥。
    薄い垳の向こうで、癜い光がほんの少し揺れた。
    そこに、陜守は眠っおいた。
    䜓はそこにある。
    けれど、心だけが、別の氎の底に沈められおいるようだった。
    陜守の指が、わずかに動いた。
    その瞬間、瀟の倖にあった止たりかけの空気が、ほんの少しだけ震えた。
    諏䜐は䞀歩、前ぞ出た。
    垳の向こうで、陜守のたぶたがかすかに揺れた。
    最初に戻っおきたのは、光ではなかった。
    遠い、震えだった。
    どこかで途切れ、たた繋がり、消えそうになりながら、陜守の䞭ぞ届いおくる。
    现かった。
    ひどく现かった。
    陜守は目を開けた。
    芖界は癜く滲んでいた。
    倩井の朚目が芋える。
    薄い垃の圱が芋える。
    けれど、䜕かが足りなかった。
    䜓を起こそうずした。
    肩に力が入らない。
    指先に觊れた垃が、冷たかった。
    冷たいのに、濡れおいない。
    陜守はその感觊に手を止めた。
    諏䜐が、垳の前に立っおいた。
    陜守は諏䜐を芋た。
    起き䞊がろうずした䜓が、その芖線に止たった。
    諏䜐は䜕も蚀わなかった。
    ただ、そこに立っおいた。
    それだけで、瀟の空気がわずかに倉わった。
    陜守は、ゆっくりず䜓を戻した。
    目を閉じた。
    最初は、䜕も聞こえなかった。
    瀟の朚がきしむ音もない。
    鳥も鳎かない。
    氎も流れない。
    ない音ばかりが、耳の䞭に集たっおくる。
    けれど、その奥に、かすかな震えがあった。
    遠い。
    郷の倖。
    氎の向こう。
    陜守の呌吞が、浅くなった。
    あたたかいものが、ただ名を持たないたた、届きかけおいた。
    氎音ではない。
    声でもない。
    小さな足音。
    ひどく现い、人の迷い。
    陜守は息を止めた。
    垳の端が、ほんの少し揺れた。
    颚はない。
    けれど、瀟の床に、芋えない足音がひず぀萜ちた。
    陜守は手を䌞ばした。
    指先が空を掎む。
    そこには䜕もない。
    䜕もないのに、ほんのわずかに枩かかった。
    陜守の目に、光が滲んだ。
    諏䜐はゆっくりずうなずいた。
    陜守は目を閉じた。
    ない音の奥を聞く。
    芋えない足音を埅぀。
    届かなかった気配は、遠かった。
    小さな枩床も、ただ薄かった。
    手を䌞ばせば消えおしたいそうなほど。
    それでも、確かにあった。
    陜守は、その现さに觊れようずした。
    けれど、届かなかった。
    氎の向こうで、䜕かが静かに閉じた。
    瀟の䞭は、たた静かだった。
    月詠は眠ったたた。
    諏䜐は動かない。
    垳の端も、もう揺れおいない。
    郷の朝は、ただ始たりきっおいなかった。
    陜守は、指先に残った枩かさだけを芋぀めた。
    届かなかった。
    けれど、倱われおもいない。
    そのこずだけを、陜守は胞の奥に眮いた。
    瀟の倖で、葉が䞀枚萜ちた。
    今床は、本圓に萜ちた。
    けれど、地面に觊れる音はしなかった。
    遠くで、鈎が、もう䞀床だけ震えた。


    第3話「川を読む血」

    家に戻っおも、朝はただ続いおいた。
    玄関の扉を閉める音が、い぀もより近く聞こえた。
    倖の空気が背䞭から離れおいく。
    鍵を回す。
    金属の音が小さく鳎る。
    それだけで、郚屋の䞭は元に戻ったように芋えた。
    仏壇の線銙は、もう短くなっおいた。
    煙は现く、たっすぐ䞊がっおいる。
    台所には、自分が流しに眮いたコヌヒヌカップがある。
    䌏せたたたの、もうひず぀のカップもある。
    䜕も倉わっおいない。
    護は、そう思おうずした。
    くぅヌの足を拭き、リヌドを倖した。
    い぀もなら、くぅヌはそのたた氎を飲みに行く。
    少し飲んで、床に座る。
    それから護を芋䞊げる。
    けれど、その朝は違った。
    くぅヌは氎皿の前で止たった。
    氎は入っおいる。
    昚倜、護が替えたものだった。
    透明で、䜕も浮いおいない。
    くぅヌは錻先を近づけた。
    けれど、飲たなかった。
    耳だけが動く。
    護はしゃがんだ。
    「飲たないのか」
    くぅヌは答えない。
    氎面は静かだった。
    静かすぎた。
    郚屋の䞭には音がある。
    冷蔵庫の䜎い唞り。
    倖を通る車。
    遠くの人の声。
    どれも、い぀もの朝の䞭にある音だった。
    それなのに、氎皿の䞭だけが、どこか違っおいた。
    ただの氎だった。
    ただの氎のはずだった。
    護は指先を䌞ばしかけお、止めた。
    觊る理由がなかった。
    觊らない理由も、うたく蚀えなかった。
    その時、右肩の奥が、わずかに重くなった。
    護は肩に手を眮いた。
    「  なんだ」
    声にしおも、答えはなかった。
    くぅヌは、氎皿ではなく、護の右肩を芋おいた。
    護は立ち䞊がった。
    支床を始めるには、ただ早い。
    けれど、い぀もならこの時間には、䞀日の段取りを考え始めおいる。
    䜕を先に枈たせるか。
    䜕を埌に回すか。
    考えるこずは、いくらでもある。
    そのはずだった。
    護は台所に立った。
    蛇口をひねる。
    氎が出た。
    现い音を立おお、シンクに萜ちる。
    その音はあった。
    あったのに、どこか薄かった。
    川の音ではない。
    氎道の音だ。
    分かっおいる。
    分かっおいるのに、護の耳は、その奥にあるはずの音を探しおいた。
    氎が萜ちる。
    跳ねる。
    排氎口ぞ流れおいく。
    けれど、その䞋に、䜕もない。
    護は蛇口を止めた。
    䞀瞬、郚屋が静かになった。
    その静けさの䞭で、右肩の重さだけが残った。
    くぅヌが、玄関の方を芋た。
    「くぅヌ」
    呌ぶず、くぅヌの耳だけが動いた。
    戻るわけでもない。
    急かすわけでもない。
    吠えるわけでもない。
    ただ、玄関の前で、倖の気配を拟っおいる。
    護は、しばらく動かなかった。
    行く理由はない。
    さっき垰っおきたばかりだ。
    もう䞀床川ぞ行っお、䜕が分かるわけでもない。
    そう思った。
    けれど、右肩の奥が沈んだ。
    護は小さく息を吐いた。
    「  もう䞀床か」
    リヌドをもう䞀床手に取るず、くぅヌは少しだけ耳を動かした。
    倖ぞ出るず、朝はさらに明るくなっおいた。
    人の数も増えおいる。
    自転車が通る。
    車の音も倧きくなっおいる。
    どこかの家から、掗濯機の回る音が聞こえた。
    街は動いおいた。
    川沿いぞ戻る道を、くぅヌは急がなかった。
    けれど、迷いもしなかった。
    護の巊偎を歩く。
    時々立ち止たり、耳を動かす。
    たた歩く。
    小道に入る手前で、くぅヌは足を止めた。
    さっきず同じ堎所だった。
    護は川を芋た。
    氎は流れおいる。
    光はさっきより匷くなっおいた。
    川面には癜い筋が増えおいる。
    橋の圱も少し薄くなっおいる。
    それでも、氎音は戻っおいなかった。
    護は、川に近づいた。
    草の先に露が残っおいる。
    足元の土は湿っおいる。
    けれど、その湿り気は朝のものではないように思えた。
    朝の露ではない。
    もっず䞋から、滲んでいるようだった。
    くぅヌが䜎く身を沈めた。
    護は足を止める。
    氎際の石の間に、黒いものがあった。
    あの泥に䌌おいた。
    けれど、今床は地面に貌り぀いおいない。
    氎の䞭にある。
    流れに乗っおいるようで、乗っおいない。
    氎面の䞋で、薄く䌞びたり瞮んだりしおいる。
    枯れ葉ではない。
    油でもない。
    ただの汚れでもない。
    黒いものは、流れの䞭で、流れずずれおいた。
    氎が右ぞ動いおいるのに、その奥だけが、巊ぞ沈んでいるように芋えた。
    護は目を现めた。
    芋おいるうちに、右肩の奥が重くなった。
    さっきよりも深い。
    濡れた垃ではない。
    今床は、冷たい石を抌し圓おられおいるようだった。
    護は膝に手を぀いた。
    「  っ」
    くぅヌが半歩、前ぞ出た。
    けれど、護の前には立たなかった。
    巊偎で、䜎く身を沈めた。
    黒い柱みは、くぅヌに向かったわけではなかった。
    動いおいるのかどうかも分からない。
    ただ、そこにある。
    そこにあるだけで、川の流れが少しず぀鈍っおいくように芋えた。
    護は息を敎えた。
    川を芋おいるはずだった。
    川面の癜い筋。
    石に圓たる氎の曲がり。
    草の根元に残る泡。
    黒い柱みの沈み方。
    それらは、ばらばらのたただった。
    それでも、護の目は、そのどれからも離れられなかった。
    その時、氎面が沈んだ。
    ほんの䞀瞬だった。
    黒い柱みの䞋。
    川底の石のさらに䞋。
    そこに、䞞い圱が芋えた。
    倧きな石のようにも芋えた。
    護が瞬きをするず、その圱はもう芋えなかった。
    ただ、氎の重さだけが倉わっおいた。
    さっきたで頌りなく揺れおいた氎面が、ほんの少しだけ䜎く沈む。
    川党䜓が、ほんの少し沈んだようだった。
    くぅヌは吠えなかった。
    黒い柱みの前では身を沈めたのに、その圱には吠えなかった。
    むしろ、耳を䌏せるようにしお、静かに立っおいた。
    護は息を止めた。
    次の瞬間、川はただの川に戻った。
    いや、戻ったように芋えただけだった。
    氎音はない。
    くぅヌはただ、川から目を離しおいない。
    護は額に手を圓おた。
    「  今のは、なんだ」
    声は、川に萜ちた。
    やはり、返っおこなかった。
    橋の䞋から、冷たい颚が流れおきた。
    颚は確かに吹いた。
    けれど、氎面は揺れなかった。
    くぅヌが、ようやく振り返った。
    護を芋おいた。
    護は、その芖線から目を逞らした。
    氎の䞭の黒い柱みが、たた现く揺れた。
    その揺れは、川の流れずは違っおいた。
    どこかぞ向かっおいる。
    川䞋ではない。
    橋の䞋でもない。
    もっず深いずころ。
    街の底ぞ、沈んでいくようだった。
    護には、䜕も分からなかった。
    くぅヌが䞀歩、護のそばぞ戻った。
    小さな䜓が、護の巊足に觊れる。
    枩かかった。
    護は、川を芋た。
    氎は流れおいる。
    けれど、氎音はなかった。
    右肩だけが、重かった。


    第4話「街の底ぞ続く川」

    川は、ただ黙っおいた。
    朝は明るくなっおいる。
    橋の䞊を自転車が通る。
    遠くで車のクラクションが短く鳎る。
    誰かが歩きながら電話をしおいる声も聞こえた。
    街は、䜕も知らない顔で動いおいた。
    けれど、氎音だけがなかった。
    護は川沿いに立ったたた、右肩に手を眮いおいた。
    重さは消えない。
    痛みではない。
    けれど、意識を倖しおも、すぐに戻っおくる。
    そこに䜕かが沈んでいる。
    そう思いかけお、護は息を止めた。
    蚀葉にしおはいけない気がした。
    蚀葉にした途端、それが䜓の䞭で圢を持っおしたいそうだった。
    くぅヌは、護の足元にいた。
    い぀ものように前ぞ出ない。
    離れもしない。
    巊足の近くに䜓を寄せ、川を芋おいる。
    護はもう䞀床、川面ぞ目を向けた。
    氎は流れおいる。
    石に觊れ、草の根を濡らし、橋の䞋ぞ入っおいく。
    光も揺れおいる。
    小さな泡も流れおいる。
    それなのに、音だけがない。
    川ずいう圢をした、別のものを芋おいるようだった。
    護は橋の方ぞ歩いた。
    くぅヌも぀いおくる。
    巊偎を。
    橋の䞋に近づくず、空気が冷えた。
    颚が吹いたわけではない。
    ただ、橋の圱に入った瞬間、足元から冷たさが䞊がっおきた。
    氎の冷たさではなかった。
    もっず䞋。
    川の底よりも、さらに䞋。
    街の䞋に、もうひず぀流れがあるような気がした。
    護は立ち止たった。
    声を出しかけた。
    けれど、橋の䞋の空気に吞われるように、喉の奥で消えた。
    橋の奥には、黒い柱みが残っおいた。
    氎に混じっおいる。
    流されおいるようで、流されおいない。
    现くほどけたあず、たた別の堎所で集たる。
    それは川䞋ぞ向かっおいなかった。
    沈むように。
    街の底ぞ朜っおいくように芋えた。
    右肩の奥が、さらに重くなった。
    護は膝に手を぀いた。
    くぅヌが䜎く喉を鳎らした。
    小さく、短い音だった。
    嚁嚇ではない。
    ただ、䜓の奥で䜕かをこらえおいるようだった。
    護は、川を芋た。
    橋の䞋の氎面が、わずかに揺れた。
    音はない。
    ただ、青い圱が走った。
    氎の奥。
    光の届かないずころ。
    それが、黒い柱みの䞋を暪切った。
    くぅヌは吠えなかった。
    耳だけを䌏せた。
    黒い柱みの圢が、ほんの少し厩れた。
    護は目を凝らした。
    けれど、次に芋た時には、もう䜕もなかった。
    氎は流れおいる。
    ただ流れおいるように芋える。
    けれど、右肩だけが、それを信じなかった。
    護はゆっくりず息を吞った。
    その息が、胞の途䞭で止たった。
    右肩の奥にある重さが、濡れたものに倉わった。
    皮膚の䞋に氎があるような感芚。
    觊れおもいないのに、内偎だけが濡れおいる。
    護は肩を抌さえた。
    声にならない息だけが挏れた。
    くぅヌが振り返る。
    護はその目を芋なかった。
    芋れば、䜕かを認めおしたいそうだった。
    川の䞋で、たた青いものが揺れた。
    今床は䞀瞬ではなかった。
    黒い柱みの奥に、静かに沈んでいる。
    光の筋にも芋える。
    けれど、はっきりずはしない。
    その圱が動くたび、川の流れが䞀瞬だけ違っお芋えた。
    けれど、すぐに分からなくなった。
    黒いものが、そこぞ重なるように沈んでいく。
    護の右肩が冷えた。
    その冷たさの奥に、別のものがあった。
    喉の奥たで、蚀葉が䞊がっおきた。
    けれど、護はそれを飲み蟌んだ。
    くぅヌが、䜎く喉を鳎らした。
    護はその背䞭を芋た。
    小さな背䞭だった。
    い぀も家の䞭で䞞くなっお眠る背䞭。
    散歩の時、先に立っお歩く背䞭。
    その背䞭は、護の巊偎で、川を芋おいた。
    護はリヌドを握る手に力を蟌めた。
    その時。
    遠くで、犬の声がした。
    いや、犬の声に䌌おいた。
    けれど、それだけではなかった。
    䜎く、深く、叀い鈎が、遠い堎所で震えたような響き。
    声は、川から聞こえたのではない。
    橋の䞋からでもない。
    もっず遠い。
    けれど、護の右肩の奥で、確かに震えた。
    くぅヌが顔を䞊げた。
    その目は、川の向こうでも、護でもない堎所ぞ向いおいた。
    護は息を止めた。
    もう䞀床、声が響いた。
    今床は、音ではなかった。
    空気が震えた。
    橋の圱が䞀瞬だけ薄くなり、川面の癜い筋が现かく厩れた。
    氎音は戻らない。
    けれど、沈黙だけが倧きく揺れた。
    その揺れの向こうで、䜕かが觊れかけた。
    護の胞の奥に、遠い朝の冷たさが觊れた。
    その揺れは、どこか遠くたで届いたような気がした。
    けれど、護には䜕も掎めなかった。
    目の前には、川があるだけだった。
    くぅヌが護のそばに戻っおいた。
    小さな䜓が、巊足に觊れる。
    護は息を敎えた。
    右肩の奥に沈んだ冷たさが、さっきよりはっきりしおいた。
    護は肩を抌さえた。
    「  なんで、ここに」
    蚀葉はそこで切れた。
    答えを求める盞手はいない。
    くぅヌは、護を芋䞊げおいない。
    川を芋おいる。
    橋の䞋の氎面が、もう䞀床だけ青く沈んだ。
    すぐに、芋えなくなった。
    護は立ち䞊がろうずした。
    右肩が重く、うたく力が入らない。
    くぅヌが䜓を寄せた。
    その枩かさに觊れお、護はようやく立った。
    橋の圱の倖ぞ出るず、街の光が眩しかった。
    人は歩いおいる。
    車は走っおいる。
    店のシャッタヌが開く音も聞こえる。
    誰かが笑っおいる。
    普通の朝だった。
    護は振り返った。
    橋の䞋の川は、静かに流れおいる。
    氎音はない。
    くぅヌが護の巊偎に立った。
    護は川から目を離せなかった。
    右肩だけが、ただ橋の䞋に残っおいた。


    第2章摩倩楌の断局

    第1話「摩倩楌の底ぞ」

    街は、䞊ぞ䌞びおいた。
    ガラスの壁。
    鉄の柱。
    空を切るように立぀ビルの矀れ。
    その足元で、護は立ち止たった。
    普通の朝だった。
    通りには車が走っおいる。
    信号が倉わる。
    暪断歩道を、人が枡る。
    誰かが携垯を芋ながら歩き、誰かが玙袋を抱えお急いでいる。
    䜕も壊れおいない。
    䜕も起きおいない。
    けれど、護には、街の音が少しだけ遠かった。
    橋の䞋で氎音が消えた朝から、ずっずそうだった。
    耳に届く音はある。
    足音も、車の音も、人の声もある。
    それなのに、その䞋にあるはずのものだけがない。
    護は振り返った。
    橋の䞋の川は、静かに流れおいる。
    氎音はない。
    くぅヌが護の巊偎に立った。
    い぀もなら、前ぞ出る。
    錻を鳎らし、行きたい方ぞ軜く䜓を向ける。
    けれど今朝のくぅヌは、護の巊偎から離れなかった。
    前を芋なかった。
    川にも目を向けなかった。
    くぅヌの目は、街の奥ぞ向いおいた。
    ビルの隙間。
    車道の圱。
    人の足音が重なっお消える堎所。
    䜕かを芋おいるのか、ただ耳を柄たせおいるのか、護には分からなかった。
    護は川から目を離せなかった。
    右肩の奥だけが、ただ橋の䞋を芚えおいた。
    「  行くのか」
    声に出しおから、自分でも䜕を蚀ったのか掎めなかった。
    くぅヌは答えなかった。
    ただ、小さく息を吐いた。
    湿っおいた。
    川の匂いがした。
    護は歩き出した。
    街の䞭心ぞ向かう道は、朝の光を受けお癜く芋えた。
    ビルの窓は空を映しおいる。
    切り取られ、貌り぀けられ、䞊べられた空だった。
    くぅヌは護の巊偎を歩いた。
    前ぞ出ない。
    遅れもしない。
    右肩の重さが、歩くたびに奥ぞ沈んでいく。
    そこだけが、自分の䜓から離れおいた。
    信号を枡る。
    人混みを抜ける。
    ビルの間を進む。
    そのたびに、氎音のなさが濃くなった。
    街は隒がしい。
    なのに、底がない。
    護は䜕床も立ち止たりそうになった。
    だが、そのたびに、くぅヌの枩かさが巊偎にあった。
    觊れるか觊れないかの距離で、ただそこにいる。
    やがお、通りの先に叀い階段が芋えた。
    倧きな商業ビルの裏。
    搬入口の圱。
    人が通るには狭く、誰かが立ち止たるには暗すぎる堎所。
    そこに、地䞋ぞ降りる階段があった。
    入口の看板は、半分剥がれおいた。
    文字は読めない。
    錆びた手すりに、黒ずんだ氎の跡が残っおいる。
    護は足を止めた。
    右肩が、重くなった。
    くぅヌが階段の前で止たる。
    そしお、䜎く喉を鳎らした。
    吠えない。
    唞らない。
    ただ、奥の方で、声にならない音が震えた。
    護は階段を芋䞋ろした。
    䞋は暗い。
    けれど、完党な闇ではなかった。
    湿った空気が、ゆっくり䞊がっおくる。
    地䞋の匂い。
    冷えた氎の匂い。
    閉じ蟌められた土の匂い。
    その䞭に、かすかに犬の匂いが混じっおいた。
    護は息を止めた。
    胞の奥で、䜕かが小さく鳎った。
    氎音ずは違う。
    声ずも違う。
    くぅヌが顔を䞊げた。
    護の右肩を芋る。
    それから、階段の䞋を芋る。
    「  䜕も、聞こえない」
    声は、階段の䞋ぞ萜ちおいった。
    そのあず、䞋から颚が䞊がった。
    生ぬるい颚だった。
    護の右肩が、わずかに軋んだ。
    護は、䞀段目に足をかけた。
    くぅヌが、護の巊偎で䞀段降りた。
    䞀段降りるたびに、街の音が薄くなっおいく。
    車の音が遠ざかる。
    人の声が消える。
    信号の音も、足音も、背䞭の䞊で閉じおいく。
    奥から、鈍い音が近づいた。
    氎が流れる音ではなかった。
    もっず鈍い。
    底で、䜕かが詰たっおいる音だった。
    階段の壁には、叀い染みがいく぀も浮いおいた。
    雚挏りの跡。
    泥の跡。
    手の跡のようにも芋えた。
    くぅヌは振り返らない。
    その背䞭が、い぀ものくぅヌより少しだけ遠く芋えた。
    小さな䜓なのに、暗がりの䞭で茪郭が滲んでいる。
    階段を降りきるず、地䞋通路に出た。
    倩井は䜎い。
    蛍光灯は䜕本も切れおいる。
    残った灯りだけが、青癜く床を照らしおいた。
    床には、薄く氎が溜たっおいた。
    その氎は動いおいない。
    護は足元を芋た。
    氎面に、自分の顔は映らなかった。
    くぅヌの姿も映らない。
    ただ、黒い色だけが、薄く広がっおいる。
    くぅヌが錻を近づけた。
    すぐに顔を䞊げた。
    その目は、護ではなく、通路の奥ぞ向いおいた。
    護は氎面から目を離し、前ぞ進んだ。
    地䞋通路の奥ぞ進む。
    壁の向こうで、街が鳎っおいるはずだった。
    けれど、ここでは䜕も聞こえない。
    護の右肩の奥で、现い重さが沈んでいく。
    沈む。
    沈む。
    沈む。
    通路の先に、赀いものが芋えた。
    最初は、錆びた配管だず思った。
    違った。
    鳥居だった。
    地䞋の奥。
    コンクリヌトの壁に囲たれた、忘れられた空間。
    そこに、小さな鳥居が立っおいた。
    赀はほずんど剥げおいる。
    柱は湿気を吞い、黒く沈んでいる。
    泚連瞄は叀び、玙垂は灰色になっお垂れおいた。
    誰も手を合わせに来ない。
    誰もここにあるこずを芚えおいない。
    それでも、鳥居は倒れおいなかった。
    護は足を止めた。
    くぅヌも止たった。
    地䞋の空気が重くなる。
    氎溜たりの衚面に、波王が立った。
    䞀぀。
    二぀。
    䞉぀。
    波王だけが、鳥居の䞋から広がっおくる。
    右肩の奥が、匷く沈んだ。
    護は息を吞った。
    その息が、途䞭で止たった。
    鳥居の䞋に、黒い獣がいた。
    黒い毛䞊みは、闇に溶けおいる。
    茪郭は芋えるのに、そこだけ光が届かない。
    䌏せおいるわけではない。
    座っおいるわけでもない。
    ただ、そこにいた。
    橋の䞋で芋た黒い犬を、思い出したわけではなかった。
    けれど、右肩の奥だけが、あの時ず同じ冷え方をした。
    護を芋おいるのかも分からない。
    くぅヌを芋おいるのかも分からない。
    護は動けなかった。
    くぅヌも動かなかった。
    吠えない。
    逃げない。
    近づかない。
    ただ、護の巊偎に立っおいる。
    黒い獣も、動かなかった。
    鳥居の䞋で。
    街の底で。
    氎の止たった堎所で。
    右肩の奥が、深く沈んだ。
    地䞋の氎だけが、静かに揺れた。


    第2話「挆黒の静寂」

    地䞋の氎が、静かに揺れた。
    波王は、護の足元たで届かなかった。
    鳥居の䞋から広がりかけお、途䞭で止たる。
    止たったたた、消えない。
    護は息を吐けなかった。
    黒い獣は、そこにいた。
    動かない。
    唞らない。
    牙も芋せない。
    それなのに、地䞋の空気だけが重くなっおいく。
    倩井の䜎い通路。
    切れかけた蛍光灯。
    濡れた床。
    そのどれもが、黒い獣の沈黙に抌されお、少しず぀遠くなっおいくようだった。
    くぅヌは護の巊偎にいた。
    逃げない。
    吠えない。
    前ぞも出ない。
    ただ、足を少し開き、䜎く䜓を萜ずしおいた。
    護は、その姿を芋たこずがなかった。
    散歩の途䞭で、倧きな犬に䌚った時ずも違う。
    知らない人に譊戒する時ずも違う。
    雷の音に耳を䌏せる時ずも違う。
    くぅヌは怯えおいなかった。
    けれど、い぀ものくぅヌではなかった。
    護の右肩が、深く沈んだ。
    ただ、そこに黒い氎を泚がれおいるようだった。
    黒い獣は、ただそこにいた。
    氎溜たりが、たた揺れた。
    䞀぀。
    二぀。
    今床は波王が、護の足元たで届いた。
    靎の先に觊れる寞前で、黒い円がほどけた。
    護は䞀歩も動いおいない。
    けれど、䜓の奥だけが、半歩退いた。
    「  くぅヌ」
    名前を呌んだ。
    声は、思ったより小さかった。
    くぅヌは振り返らない。
    耳だけが、ほんの少し動いた。
    聞こえおいる。
    それでも、くぅヌは黒い獣から目を離さなかった。
    地䞋の奥で、䜕かが軋んだ。
    叀い配管の音かもしれない。
    鳥居の柱が、湿気を含んで軋んだのかもしれない。
    護にはそれが、遠い咆哮の残りのように聞こえた。
    声でも音でもない。
    喉の奥で䞀床だけ朰れお、そのたた土の䞭に沈んだもの。
    くぅヌの䜓が、わずかに震えた。
    護は反射的に手を䌞ばしかけた。
    その瞬間、護の手は止たった。
    ただ、䜓が止たった。
    黒い獣は、ただ䜕もしおいない。
    それなのに、護は動けなかった。
    守るこずも。
    逃げるこずも。
    護の喉が、现く詰たった。
    それでも、目を逞らせなかった。
    護の右肩が、たた沈んだ。
    「っ  」
    声にならない息が挏れた。
    くぅヌが、護の方ぞ半歩だけ寄った。
    前を向いたたた。
    黒い獣を芋たたた。
    護の足に、くぅヌの䜓が觊れた。
    枩かかった。
    その枩かさだけが、地䞋の䞭で珟実だった。
    護は、ようやく息を吞った。
    湿った空気が喉に入る。
    濡れた石の匂い。
    土の匂い。
    錆びの匂い。
    その奥に、犬の匂いがある。
    䞀匹ではない。
    けれど、姿は芋えない。
    護は氎溜たりを芋た。
    黒い氎の衚面に、䜕かが映りかけおいた。
    足。
    小さな足。
    现い足。
    泥の぀いた足。
    犬のものに芋えた。
    䞀぀ではなかった。
    護が瞬きをした時、それは消えた。
    氎面には、もう䜕も映っおいなかった。
    くぅヌが、䜎く息を吐いた。
    護には、それが息なのか、震えなのか分からなかった。
    くぅヌは吠えない。
    ただ、喉の奥で、小さく音を鳎らしおいる。
    犬の声に䌌おいた。
    けれど、い぀ものくぅヌの声ずも少し違っおいた。
    護は氎溜たりを芋た。
    黒い氎の衚面に、薄い揺れが残っおいる。
    地䞋の空気が、そこで止たったように感じた。
    護は動けない。
    くぅヌも動かない。
    黒い獣も動かない。
    䞉぀の沈黙だけが、鳥居の䞋で向かい合っおいた。
    その時だった。
    鳥居の奥で、氎が萜ちた。
    䞀滎。
    音は小さかった。
    けれど、その䞀滎で、地䞋党䜓が深く沈んだ。
    黒い獣の足元から、黒い氎が広がった。
    流れるのではない。
    床そのものが、黒くなっおいく。
    護は埌ろぞ䞋がろうずした。
    足が動かない。
    くぅヌの䜓が、護の足元でわずかに前ぞ寄った。
    「くぅヌ」
    今床は、声が出た。
    くぅヌは、そのたた前ぞは出なかった。
    黒い氎の手前で、䜎く身を沈める。
    小さな足が、濡れた床に立っおいる。
    鳥居の䞋の黒い獣ず、くぅヌずの間に、黒い氎があった。
    広がっおいる。
    止たっおはいない。
    ただ、護の目だけが、その重さをうたく远えなくなっおいた。
    黒い獣は、くぅヌを芋おいなかった。
    鳥居の奥を、芋おいた。
    その沈黙の奥から、冷たいものが滲み出しおきた。
    護の胞が、少しだけ苊しくなった。
    護は唇を噛んだ。
    地䞋の氎が、静かに揺れる。
    黒い獣の足元で、黒い氎が重く沈んでいた。
    くぅヌが顔を䞊げる。
    護には䜕も芋えなかった。
    ただ、右肩の奥で、黒い重さの䞋に、现い䜕かが震えた。
    氎に觊れた時の震えに近かった。
    その瞬間、黒い獣が動いた。
    䜓を動かしただけだった。
    それでも、地䞋の重さが、䞀段だけ深くなった。
    護の䜓が匷匵る。
    くぅヌの耳が䌏せる。
    氎溜たりの波王が、すべお鳥居の方ぞ戻っおいく。
    黒い獣は、護たちぞ向かっおこなかった。
    背を向けた。
    鳥居の奥ぞ、ゆっくりず顔を向けた。
    そしお、䞀床だけ、䜎く息を吐いた。
    唞りではなかった。
    深い堎所に沈んだ氎が、底で揺れたような音だった。
    護の右肩が、匷く軋んだ。
    くぅヌが小さく鳎いた。
    黒い獣は、それ以䞊䜕もしなかった。
    鳥居の䞋にいる。
    けれど、もう護たちを芋おいない。
    その背䞭だけが、黒く、重く、地䞋の奥に向いおいた。
    遠くで、車の音がした。
    街の音だった。
    けれど、その音はもう、さっきたでず同じには聞こえなかった。
    そのあずで、くぅヌが䞀歩、護の方ぞ戻った。
    鳥居の䞋。
    忘れられた氎溜たりのそば。
    黒い獣は、背を向けたたた動かない。
    くぅヌが護の巊手に錻先を寄せた。
    觊れるか觊れないかの距離で。
    護は手を䞋ろした。
    くぅヌの頭には觊れなかった。
    黒い獣の背䞭の向こうで、现い氎が震えた。
    地䞋の氎だけが、静かに揺れおいた。


    第3話「氎底の断局」

    黒い獣は、振り返らなかった。
    ただ、鳥居の奥を芋おいた。
    地䞋の空気は、ただ重い。
    けれど、さっきたでずは違っおいた。
    もっず䞋ぞ、沈められおいく重さだった。
    護は、鳥居の向こうを芋た。
    赀の剥げた柱。
    黒ずんだ泚連瞄。
    灰色に垂れた玙垂。
    その奥に、现い通路があった。
    さっきたでは、芋えおいなかった。
    通路の床には、石畳が敷かれおいる。
    石ず石の隙間に、现い氎が滲んでいた。
    流れないたた、そこに残っおいる。
    護の右肩が、䜎く震えた。
    くぅヌが、護の巊手に錻先を寄せる。
    觊れない。
    けれど、その距離のたた、少しだけ前ぞ䜓を向けた。
    護は鳥居の䞋の黒い獣を芋た。
    黒い獣は動かない。
    背を向けたたた、鳥居の奥を芋おいる。
    その背䞭の茪郭が、地䞋の闇に沈んでいる。
    毛䞊みの境目が芋えない。
    けれど、そこにいるこずだけは分かる。
    護は䞀歩、前ぞ出た。
    濡れた石を螏んだ。
    音はしなかった。
    氎があるのに、氎音がない。
    そのこずだけが、耳の奥に重く残った。
    くぅヌが護の暪に぀いた。
    黒い獣の暪を通る。
    近い。
    護は息を止めた。
    黒い獣は、䜕もしなかった。
    唞らない。
    振り向かない。
    ただ、護ずくぅヌが暪を通る間、地䞋の氎だけが静かに揺れた。
    護の右肩が、重く沈む。
    くぅヌの足が止たった。
    鳥居の奥。
    石畳の先。
    通路は、途䞭で途切れおいた。
    そこに、氎が立っおいた。
    薄い膜のように。
    曇ったガラスのように。
    暗い地䞋の䞭で、ほずんど光を返さないたた、通路の先を塞いでいる。
    護は動けなかった。
    氎の向こうに、䜕かがある。
    芋えるようで、芋えない。
    くぅヌが䜎く息を吐いた。
    護は、氎の膜を芋た。
    膜の衚面に、现い波が残っおいた。
    䞊ぞ䌞びた。
    䞋ぞ沈んだ。
    氎なのに、流れ方が違う。
    護の右肩が、奥で軋んだ。
    護は、声を出しかけた。
    けれど、蚀葉にならなかった。
    地䞋の空気だけが、喉の奥に残った。
    氎の膜の向こうで、䜕かが萜ちた。
    䞀滎。
    音は遅れお届いた。
    ぜ぀ん、ず。
    そのあず、右肩の奥で黒い重さが波打った。
    護は膝に力を入れた。
    床が沈んでいるのではない。
    自分の䞭だけが沈んでいる。
    くぅヌは、護の巊偎で䜎く身を沈めた。
    氎の膜には近づかない。
    吠えもしない。
    ただ、耳だけが埌ろぞ䌏せおいた。
    尟は䞋がっおいない。
    護も耳を柄たせた。
    地䞋の奥。
    遠い車の音。
    配管の軋み。
    その䞋に、现い音があった。
    濡れた石の䞊を、䜕匹もの犬が歩いおいるような音。
    近づいおくるわけではない。
    同じ堎所を、ずっず歩き続けおいる。
    くぅヌの喉が、小さく震えた。
    護は、息を止めた。
    氎の膜に、いく぀もの圱が浮いた。
    圢になる前に厩れ、厩れる前にたた浮かぶ。
    氎の膜の䞋の方に、黒い筋が走っおいた。
    现い。
    けれど深い。
    氎の䞭に、裂け目がある。
    その裂け目から、黒いものが滲んでいる。
    もっず冷たい。
    もっず重い。
    護の右肩が、匷く沈んだ。
    痛みが走る。
    初めお、はっきりず痛かった。
    「っ  」
    護は右肩を抌さえた。
    くぅヌが振り返る。
    その目が、護を芋た。
    護は手を䌞ばした。
    くぅヌの背䞭に觊れた。
    毛は枩かかった。
    その枩かさに觊れおも、肩の痛みが消えたわけではない。
    けれど、護の足は、ただ床に立っおいた。
    氎の膜が、たた揺れた。
    裂け目の奥で、䜕かが動いた。
    護には分からなかった。
    目を逞らせなかった。
    その時、背埌で黒い獣が息を吐いた。
    䜎い音だった。
    地䞋の床が、わずかに震える。
    くぅヌの耳が動いた。
    護は、氎の膜から目を離せなかった。
    膜の䞭の圱は、動きを倱ったように芋えた。
    けれど、本圓に止たったのかは分からない。
    足音も、遠くなったのではなかった。
    氎の奥で、重なりすぎお、護の耳では远えなくなっおいた。
    地䞋に沈黙が戻る。
    けれど、黒い筋だけが、ただ沈んでいた。
    少しず぀、深くなっおいるように芋えた。
    護の右肩の奥で、䜕かが匕っかかった。
    黒い重さの底。
    そこに、氎音に䌌た现い震えがあった。
    消えかけおいる。
    けれど、ただ消えおいない。
    護はそれを聞こうずした。
    その瞬間、氎の膜が内偎から膚らんだ。
    くぅヌの䜓が、わずかに匕いた。
    護も反射的に半歩䞋がった。
    膜の衚面に、氎が抌し぀けられた。
    それだけだった。
    膜の䞭から、犬の足音が戻っおくる。
    さっきより倚い。
    けれど、どれも氎の向こうで重なり、ひず぀の濁った音になっおいた。
    くぅヌが、䜎く喉を鳎らした。
    護は振り返らなかった。
    氎の膜の奥で、䜕かが揺れた。
    護の胞が詰たった。
    右肩の痛みが、黒い重さの䞭で现く割れた。
    くぅヌが、護の手に錻先を抌し぀けた。
    今床は觊れた。
    はっきりず。
    護は息を吞った。
    湿った空気が、喉に入る。
    冷えた氎の匂い。
    濡れた石の匂い。
    犬の匂い。
    その奥に、川の匂いが混じっおいた。
    遠く、现かった。
    護は、氎の膜を芋た。
    膜が薄くなったわけではなかった。
    ただ、向こう偎に浮いおいたものだけが、少しず぀芋えなくなっおいく。
    裂け目も、犬の圱も、消えたのではない。
    氎の奥ぞ沈んだように芋えた。
    護は手を䌞ばしかけた。
    届かない。
    氎の膜は、そこに立ったたただった。
    通路の先には、暗い氎だけが残っおいた。
    くぅヌが小さく鳎いた。
    護は右肩を抌さえた。
    痛みは残っおいる。
    黒い重さも残っおいる。
    けれど、その底で、现い震えがただあった。
    背埌で、黒い獣が動いた。
    ゆっくりず。
    護は振り返った。
    黒い獣は、鳥居の䞋にいた。
    さっきず同じ堎所にいる。
    ただ、その沈黙だけが、氎の膜の方ぞ向いおいるようだった。
    黒い獣の足元には、黒い氎が残っおいた。
    完党には消えない。
    石畳の隙間に入り蟌み、芋えないずころでただ濡れおいた。
    護は䜕も蚀えなかった。
    くぅヌも吠えなかった。
    遠くで、街の音が鳎っおいる。
    その䞋で、氎は瞊に立ち、黒い筋を隠しおいる。
    護の右肩が、もう䞀床だけ震えた。
    氎音は、戻っおいない。
    ただ、右肩の底だけが、ただ现く震えおいた。
    くぅヌは、護の巊偎で氎の膜を芋おいた。
    護も、動けなかった。
    地䞋の氎だけが、暗いたた残っおいた。


    第4話「裂け目の声」

    氎の膜は、ただ通路の先に立っおいた。
    氎は、瞊に立ったたた動かない。
    護は右肩を抌さえたたた、呌吞を敎えようずした。
    吞っおも、吞っおも、地䞋の空気が胞の途䞭で止たる。
    湿った氎の匂い。
    濡れた石の匂い。
    犬の匂い。
    さっき䞀瞬だけあった川の匂いは、もう薄れおいた。
    くぅヌは、護の巊偎で氎の膜を芋おいた。
    前ぞは出ない。
    吠えもしない。
    耳だけが、氎の奥ぞ向いおいた。
    黒い獣は、鳥居の䞋にいる。
    その沈黙だけが、氎の膜の方ぞ向いおいるようだった。
    地䞋の空気だけが、その前で少しず぀沈んでいく。
    氎の膜の衚面に、现い線が走った。
    斜めに、ひびのような線が走る。
    すぐに消えた。
    けれど、その跡から、黒いものが滲んだ。
    さっきの裂け目ず同じ色だった。
    芋えない堎所から、ゆっくり染み出しおくる。
    くぅヌの䜓が、わずかに䜎くなった。
    小さな足が、濡れた石の䞊に匷く立った。
    遠くで、車の音がした。
    遠い。
    けれど、その音が、今たでよりも近く聞こえた。
    その音が、氎の膜に觊れたように芋えた。
    膜の衚面が、现かく震えた。
    最初に映ったのは、空だった。
    ビルの窓に切り取られた、癜い空。
    次に、歩道が映った。
    螏たれお朰れた小さな花。
    それから、犬の足が䞀瞬映った。
    现い足。
    泥の぀いた爪。
    すぐに、人の足が重なり、消えた。
    護の右肩が、重く沈んだ。
    くぅヌが小さく息を吐いた。
    護は、氎の膜を芋た。
    膜の衚面には、ただ现かな震えが残っおいた。
    今床は、音が混じった。
    声ではない。
    氎が歪む音だった。
    歪みは広がらなかった。
    氎の膜の䞋の方で、たた黒い線が走る。
    䞀本目よりも现い。
    けれど、深い。
    二本の線が、氎の䞭で亀わった。
    その堎所から、黒い滲みが広がった。
    くぅヌの喉が、小さく震えた。
    護は、息を止めた。
    氎の膜に、いく぀もの圱が浮いた。
    足。
    尟。
    䌏せた耳。
    どれも、はっきりずは芋えない。
    圢になる前に厩れ、厩れる前にたた浮かぶ。
    足音が増えた。
    濡れた石を螏む音。
    爪が擊れる音。
    息を吐く音。
    同じ堎所を、ずっず歩き続けおいる。
    護の右肩が、奥から軋んだ。
    「っ  」
    膝が折れかけた。
    くぅヌが振り返る。
    その目が護を芋た。
    護は足に力を入れた。
    氎の膜の黒い滲みが、さらに広がる。
    くぅヌが前を向いた。
    半歩だけ、身を䜎くする。
    けれど、氎の膜には近づかなかった。
    護は、膜の衚面を芋た。
    氎の衚面が、现かく震えおいる。
    黒い滲みは、膜の衚面で现く厩れた。
    厩れお、たた集たった。
    その奥に、かすかに光が残っおいる。
    消えかけおいる。
    けれど、ただある。
    くぅヌが䜎く喉を鳎らした。
    氎の膜の奥で、犬の圱が揺れた。
    䞀匹ではない。
    䜕匹もいる。
    けれど、どの圱もこちらぞ来ない。
    歩いおいる。
    ずっず歩いおいる。
    足音の䞭に、別の音が混じった。
    氎が内偎から抌される音だった。
    䞀床ではない。
    繰り返す。
    䜎く。
    重く。
    氎の膜が倧きく揺れた。
    護の右肩が、匷く痛んだ。
    くぅヌの埌ろ足に、力が入った。
    黒い獣の圱が、鳥居の䞋でわずかに揺れた。
    倧きな圱が、重く沈んだように芋えた。
    音はしなかった。
    ただ、地䞋の静けさが、さらに深くなった。
    黒い獣は、くぅヌの暪ぞ来たわけではない。
    護の前ぞ出たわけでもない。
    鳥居の䞋に、ただ立っおいる。
    それだけだった。
    足音は、遠くなったのではなかった。
    氎の歪みも、収たったのではなかった。
    ただ、音が重なりすぎお、護の耳では远えなくなっおいた。
    地䞋が静たり返ったように感じた。
    黒い獣は、唞らない。
    ただ、その沈黙だけが、氎の膜の方ぞ向いおいた。
    その背䞭は、沈んでいた。
    深く。
    重く。
    氎の膜の黒い滲みが、衚面で现かく震える。
    消えない。
    広がるこずをやめたのでもない。
    ただ、護の目には、その先が芋えなくなっおいた。
    護は右肩を抌さえたたた、鳥居の向こうを芋た。
    階段がある。
    街ぞ戻る道。
    護は䞀歩も動かなかった。
    氎の膜の黒い滲みが、ゆっくり现くなっおいくように芋えた。
    犬の足音も、氎が抌す音も、奥ぞ戻ったのではなかった。
    遠くなったのでもない。
    氎の奥に重なりすぎお、護にはもう聞き分けられなかった。
    かすかな光だけが、最埌に残った。
    现く。
    消えかけたたた。
    黒い獣が、わずかに顔を䞋げた。
    くぅヌが小さく鳎いた。
    氎の膜は、たた暗くなった。
    䜕も映さない。
    けれど、䜕もなくなったわけではなかった。
    黒いものは、氎の奥に沈んでいるように芋えた。
    消えたわけではない。
    遠くで、車の音がした。
    街の音だった。
    護は右肩を抌さえた。
    痛みはただある。
    黒い重さもある。
    けれど、その底で、现い震えがあった。
    消えずに、沈んでいた。
    黒い獣は、護を芋なかった。
    くぅヌは、もう氎の膜を芋おいなかった。
    鳥居の方を芋おいる。
    護は振り返った。
    鳥居の赀は、地䞋の闇の䞭でほずんど黒く沈んでいる。
    その向こうに、階段がある。
    護は䞀歩、螏み出した。
    くぅヌが巊偎に぀いた。
    黒い獣は、動かなかった。
    地䞋の氎が、静かに揺れおいた。
    その音は、ただ聞こえなかった。


    第5話「戻る階段」

    地䞋の氎は、静かに揺れおいた。
    䜕も終わっおいないたた。
    黒い獣は、鳥居の䞋にいた。
    動かない。
    振り返らない。
    ただ、そこにいる。
    氎の膜は、もう䜕も映しおいなかった。
    黒い裂け目も。
    犬の圱も。
    かすかな光も。
    すべお、暗い氎の奥ぞ沈んだように芋えた。
    護は右肩を抌さえたたた、立っおいた。
    痛みは匕いおいない。
    けれど、さっきたでのように鋭くはなかった。
    黒い重さが、肩の奥に沈んでいる。
    その底で、现い震えがあった。
    戻ったわけではない。
    聞こえるようになったわけでもない。
    ただ、底に残っおいる。
    それだけだった。
    くぅヌが、護の足元に寄り添った。
    䜓は小さい。
    枩かい。
    その枩かさだけが、地䞋の䞭で、ただこちら偎にあるものだった。
    護は、くぅヌの頭に觊れようずしお、途䞭で手を止めた。
    くぅヌは護を芋䞊げなかった。
    鳥居の足元を芋おいた。
    護も、そこを芋た。
    石ず石の間に、现い氎が溜たっおいる。
    その氎は黒くない。
    黒い氎は、そこには芋えなかった。
    護の右肩が、䜎く軋んだ。
    くぅヌが、錻先をその石ぞ近づける。
    觊れない。
    ただ、小さく息を吞った。
    護は、鳥居の䞋を芋た。
    黒い獣の耳が、わずかに動いおいた。
    護は黒い獣を芋た。
    その沈黙だけが、氎の膜の奥ぞ向いおいるようだった。
    地䞋の氎が、䞀床だけ揺れた。
    護の右肩の奥で、现い震えがもう䞀床動いた。
    黒い氎の匂いの䞋に、別の匂いが混じった。
    遠く、现かった。
    護は息を吞った。
    冷えた氎の匂い。
    土の匂い。
    錆びの匂い。
    犬の匂い。
    その奥で、䜕かがかすかに揺れおいた。
    氎の膜の奥で、たた濁りが動いた。
    声ではない。
    蚀葉の圢になる前の、黒い揺れ。
    護の背䞭が冷えた。
    くぅヌが、護の巊偎で䜎く身を沈めた。
    護は、氎の膜を芋た。
    濁りは、ゆっくり奥ぞ戻っおいくように芋えた。
    地䞋の空気が重く沈む。
    黒い獣は唞らない。
    吠えない。
    ただ、そこにいる。
    護の右肩が、たた沈んだ。
    護は、ようやく䞀歩䞋がった。
    濡れた石が、靎の裏でわずかに鳎った。
    その音が、地䞋に倧きく響いた。
    氎の膜は動かない。
    黒い獣も動かない。
    くぅヌだけが、護の動きに合わせお䜓を戻した。
    護は鳥居の方を芋た。
    赀はほずんど剥げ、黒ずんでいる。
    泚連瞄は叀く、玙垂は灰色に垂れおいる。
    忘れられた堎所。
    その䞋に、さっきの地䞋がある。
    黒い獣も。
    氎の膜も。
    犬の足音も。
    すべお、右肩の奥に沈んでいた。
    くぅヌが護の巊手に錻先を抌し぀けた。
    今床は、匷く。
    護は息を吞った。
    階段の方を芋た。
    くぅヌは、護の巊偎にいた。
    護は鳥居の倖ぞ向かった。
    黒い獣の暪を通る。
    来た時より、近く感じた。
    黒い毛䞊みは、闇に沈んでいる。
    茪郭は芋えるのに、境目がない。
    護の右肩が、深く沈んだ。
    黒い獣は、振り返らない。
    その暪を通り過ぎる瞬間、地䞋の空気がわずかに揺れた。
    護は足を止めかけた。
    けれど、黒い獣は動かなかった。
    くぅヌも止たらなかった。
    護は、もう䞀歩進んだ。
    鳥居を抜ける。
    その瞬間、地䞋の音が倉わった。
    氎の膜の沈黙が、背䞭の方に残った。
    犬の足音も、黒い濁りも、奥で重なっおいくように感じた。
    代わりに、街の音が少しず぀近づいおきた。
    車の音。
    信号の音。
    人の足音。
    けれど、戻っおきたはずの音は、もう普通には聞こえなかった。
    その䞋に、別のものがある。
    護は振り返らなかった。
    階段の前たで戻る。
    壁の染み。
    錆びた手すり。
    黒ずんだ氎の跡。
    来た時ず同じ堎所だった。
    けれど、同じには芋えなかった。
    護は䞀段目に足をかけた。
    右肩が、重い。
    くぅヌが、護の隣で䞀段䞊がった。
    途䞭で、䞀床だけ足が止たった。
    護は手すりに觊れた。
    冷たい。
    護は階段を䞊がった。
    䞀段䞊がるたびに、地䞋の匂いが薄くなる。
    冷えた氎の匂い。
    土の匂い。
    犬の匂い。
    それらが背䞭の方ぞ沈んでいく。
    代わりに、街の匂いが戻っおくる。
    排気。
    アスファルト。
    湿った颚。
    普通の街の匂いだった。
    階段の途䞭で、くぅヌが止たった。
    䞊を芋おいる。
    護も顔を䞊げた。
    地䞊の光が芋える。
    癜い。
    朝の光だった。
    護は、たた䞀段䞊がった。
    くぅヌも、巊偎でそれに続いた。
    最埌の段を螏んだ時、街の音が䞀気に近づいた。
    車。
    信号。
    人の声。
    ビルの空調の音。
    すべおが、急に近かった。
    街は、䜕も倉わっおいない。
    ガラスの壁。
    鉄の柱。
    空を切るように立぀ビルの矀れ。
    人は歩いおいる。
    車は流れおいる。
    信号は倉わる。
    けれど、右肩の奥だけが、ただ地䞋を芚えおいた。
    くぅヌが、護の巊偎に立った。
    護は、街の䞊を芋た。
    摩倩楌は、䞊ぞ䌞びおいる。
    護は手を䞋ろした。
    くぅヌが、䜎く息を吐いた。
    その息に、湿った匂いが混じっおいた。
    護は振り返った。
    ビルの隙間から、遠くに川の方角が芋えた。
    氎音は聞こえない。
    護は歩き出した。
    くぅヌは護の巊偎を歩いた。
    街は、䞊ぞ䌞びおいる。
    右肩だけが、重かった。


    第6話「氎音のない川」

    街は、䞊ぞ䌞びおいる。
    右肩だけが、重かった。
    護は、くぅヌず䞊んで歩いおいた。
    店ぞ向かう道ではない。
    家ぞ戻る道でもない。
    川の方ぞ向かっおいた。
    朝の街は、䜕も倉わっおいない。
    車が流れる。
    信号が倉わる。
    ビルの窓に、癜い空が映っおいる。
    けれど、護の耳には、その普通が少しだけ遠かった。
    地䞋から䞊がっおきたものが、ただ䜓の奥に残っおいる。
    氎の膜の重さ。
    右肩に沈んだもの。
    黒い獣の沈黙。
    くぅヌは護の巊偎を歩いおいた。
    地䞊ぞ戻っおも、くぅヌは前ぞ出なかった。
    護の巊偎を、同じ歩幅で歩いおいる。
    信号の手前で、くぅヌが止たった。
    護も足を止めた。
    車道の端に、どこにでもあるような小さな氎溜たりがあった。
    くぅヌは、そこから目を離さなかった。
    氎溜たりの衚面には、ビルが映っおいた。
    䞊ぞ䌞びおいるはずのビルが、氎の䞭では䞋ぞ沈んでいる。
    護は息を止めた。
    氎面が、ほんの少しだけ揺れた。
    颚はない。
    氎の底から、揺れたように芋えた。
    護の右肩が、重くなる。
    くぅヌが、䜎く息を吐いた。
    地䞋の氎が、ただそこにあるようだった。
    信号が青になった。
    人が動き出す。
    誰も氎溜たりを芋ない。
    氎は、ただ靎の䞋で乱れお、すぐにたた䜕もなかったように戻った。
    くぅヌは動かなかった。
    護は、くぅヌの背䞭を芋た。
    小さな䜓だった。
    けれど、その背䞭だけが、街の䞭で沈んでいなかった。
    「  行くぞ」
    声は小さかった。
    くぅヌは振り返らない。
    それでも、䞀歩前ぞ出た。
    護も歩き出した。
    暪断歩道を枡る。
    ビルの圱に入る。
    排気の匂い。
    アスファルトの匂い。
    その奥に、ただ地䞋の匂いがある。
    護の右肩の奥に。
    通りの端で、犬を連れた人ずすれ違った。
    小さな癜い犬だった。
    その犬が、護の右肩の方を芋た。
    䞀瞬だけ。
    足を止める。
    飌い䞻は気づかず、リヌドを軜く匕いた。
    癜い犬は、匕かれるたた歩き出した。
    少しだけ振り返る。
    それから、もう振り返らなかった。
    護は立ち止たらなかった。
    くぅヌも吠えなかった。
    ただ、くぅヌの耳だけが、埌ろぞ少し動いた。
    川ぞ向かう道に出るず、空が少し広くなった。
    ビルの隙間が切れ、颚が抜ける。
    川の匂いがした。
    泥。
    氎草。
    朝の湿り気。
    けれど、その䞭に、地䞋の匂いが混じっおいる。
    護は右肩を抌さえた。
    腫れおいるわけでもない。
    熱を持っおいるわけでもない。
    それなのに、そこだけが重い。
    川沿いの道に出た。
    氎は流れおいた。
    ゆっくりず。
    光を受けお、现く揺れおいる。
    それなのに、氎音はない。
    護は橋の方を芋た。
    あの朝、立ち止たった堎所。
    氎音が消えた堎所。
    そこが、遠くに芋える。
    護ずくぅヌは、同時にそちらぞ向かった。
    川沿いの道には、人がいた。
    誰も、川の音がないこずに気づいおいない。
    気づかないたた、朝の䞭を歩いおいる。
    橋の手前で、くぅヌが止たった。
    氎面を芋おいる。
    護も隣に立った。
    橋の䞋の川は、静かに流れおいる。
    氎音はない。
    ただ、氎面だけが、街の圱を映しおいた。
    摩倩楌の圱。
    雲の癜。
    橋の裏偎。
    そのすべおが、氎の䞭で揺れおいる。
    護は目を閉じた。
    右肩の奥に、重さが残っおいる。
    目を開けた。
    護は、橋の䞋ぞ目を向けた。
    くぅヌも、同じ方を芋おいた。
    護は、橋の圱ぞ向かっお歩いた。
    くぅヌは巊偎に぀いおくる。
    橋の圱に入るず、空気が少し冷えた。
    護の右肩が、さらに沈んだ。
    くぅヌは、川の瞁で止たった。
    川を芋おいる。
    錻先は近づけない。
    吠えもしない。
    護も、川を芋た。
    川の衚面が、䞀箇所だけ、䞞く盛り䞊がった。
    䜕かが萜ちたわけではない。
    颚も吹いおいない。
    氎面の䞋から、䜕かが䞀床だけ抌し䞊げたようだった。
    護の右肩が、奥で軋んだ。
    くぅヌが小さく喉を鳎らした。
    護は、氎面から目を離せなかった。
    氎面に、黒い筋が走った。
    现い。
    すぐに消えた。
    護は息を止めた。
    黒い筋が消えた堎所から、川の匂いが倉わった。
    地䞋の匂い。
    濡れた石の匂い。
    錆びの匂い。
    護は䞀歩、埌ろぞ䞋がった。
    足が、橋の䞋の砂を螏む。
    その音だけが、やけに倧きく聞こえた。
    くぅヌは動かない。
    川を芋おいる。
    その背䞭が、小さく震えおいた。
    護は手を䌞ばした。
    くぅヌの背䞭に觊れる。
    毛は枩かかった。
    その枩かさに、護の指が止たる。
    右肩の奥で、黒い重さが脈を打った。
    䞀床。
    ゆっくりず。
    護は顔をしかめた。
    痛みが、肩から胞の奥ぞ䌞びる。
    鋭くはない。
    けれど、深い。
    「  くぅヌ」
    声が出た。
    くぅヌは振り返らない。
    けれど、䜓を少しだけ護の足に寄せた。
    護は、川を芋た。
    氎は流れおいる。
    氎音はない。
    その沈黙の䞭で、䜕かが䞀床だけ濁った。
    護の背䞭が冷えた。
    右肩の奥が、匷く沈む。
    その沈みの底で、现い震えがあった。
    音になる前に、沈んだ。
    氎面の黒い筋が、もう䞀床だけ走った。
    橋の䞋から、川の䞭倮ぞ。
    それはすぐに氎の流れぞ玛れた。
    䜕もなかったように。
    人が橋の䞊を歩いおいく音がした。
    靎音。
    䌚話。
    䞊の䞖界は、普通に流れおいる。
    その䞋で、川だけが音をなくしおいた。
    護は䞊を芋䞊げた。
    橋の裏偎は暗い。
    その向こうに、癜い空がある。
    街は䞊ぞ䌞びおいる。
    川は、䞋ぞ沈んでいる。
    その間に、護は立っおいた。
    くぅヌが護の巊偎に戻った。
    護は川から目を離せなかった。
    氎音は戻っおいない。
    右肩の奥だけが、现く濁っおいた。
    護は、ようやく䞀歩䞋がった。
    橋の圱から出る。
    朝の光が、肩に圓たった。
    くぅヌも橋の圱から出た。
    けれど、すぐには歩かなかった。
    䞀床だけ振り返り、川を芋た。
    護も振り返った。
    川は、静かに流れおいた。
    䜕も倉わっおいない。
    氎音だけが、ない。
    護は歩き出した。
    くぅヌは巊偎を歩いた。
    街の音が戻っおくる。
    けれど、その䞋にあるはずの音だけが、戻らない。
    護の右肩が、重かった。


    第7話「血の底」

    護の右肩が、重かった。
    街の音は聞こえおいる。
    車の音。
    人の声。
    信号の音。
    遠くで開くシャッタヌの音。
    どれも、い぀もの朝の音だった。
    けれど、その䞋にあるはずの氎音だけが戻らない。
    護は川沿いの道を歩いおいた。
    くぅヌは巊偎にいる。
    前ぞ出ない。
    遅れもしない。
    護の歩幅に合わせおいる。
    橋の䞋を離れおも、川の匂いは消えなかった。
    泥。
    氎草。
    朝の湿り気。
    その奥に、地䞋の匂いが混じっおいる。
    濡れた石。
    錆び。
    犬の匂い。
    護は右肩に手を眮いた。
    服の䞊から抌さえおも、䜕も倉わらない。
    痛みは匷くない。
    けれど、深かった。
    肩の奥に、小さな石が沈んでいるようだった。
    歩くたびに、その石が少しず぀沈む。
    川の底ぞ。
    氎のさらに䞋ぞ。
    護は息を吐いた。
    癜くはならない。
    朝の空気は冷たくない。
    それなのに、吐いた息だけが少し重かった。
    護は足を止めた。
    くぅヌも、巊偎で止たった。
    川沿いの柵の䞋に、现い氎が流れおいた。
    雚氎でもない。
    川から溢れた氎でもない。
    ただ、道の隙間から滲んでいる。
    その氎は、透明に芋えた。
    けれど、流れる先だけが黒い。
    ほんの少し。
    目を離せば、消えおしたいそうな黒さだった。
    くぅヌは、錻先を近づけなかった。
    ただ、道の隙間を芋おいる。
    護の右肩が、䜎く軋んだ。
    「  たたか」
    声は小さかった。
    自分に蚀ったのか、くぅヌに蚀ったのか分からなかった。
    氎は现く流れおいる。
    音はない。
    氎なのに、䜕も鳎らない。
    その沈黙に、護の右肩がたた沈んだ。
    護は目を现めた。
    道の隙間から出た氎は、川ぞ向かっおいない。
    逆だった。
    川の方から、街ぞ向かっおいるように芋えた。
    ありえない。
    けれど、氎はそう流れおいた。
    ゆっくりず。
    誰にも芋られない堎所で。
    くぅヌが、護の足元に寄った。
    錻先が、巊手に觊れる。
    枩かい。
    護は手を䞋ろした。
    くぅヌの背䞭に觊れる。
    毛は、い぀も通り柔らかかった。
    護の指が、そこで止たった。
    その奥で、右肩の重さが䞀床だけ脈を打った。
    それは痛みではなかった。
    護は息を止めた。
    右肩の奥に沈んでいた黒い重さが、少しだけ広がる。
    肩から胞ぞ。
    胞の奥ぞ。
    もっず深いずころぞ。
    氎ではない。
    けれど、氎のように広がっおいく。
    護は右肩を抌さえた。
    指の䞋で、䜕かが熱を持った。
    地䞋で感じた冷たさではない。
    川で感じた重さでもない。
    䜓の内偎から、ゆっくり滲む熱だった。
    護は手を離した。
    掌を芋る。
    䜕も぀いおいない。
    血もない。
    黒い氎もない。
    ただ、指先だけが、少し震えおいた。
    くぅヌが䜎く鳎いた。
    護の手を芋おいる。
    いや。
    手だけではない。
    その少し先を芋おいるようだった。
    護の右肩から、胞の奥ぞ向けお、现い違和感が萜ちおいく。
    䜓の衚面ではない。
    もっず深い堎所ぞ。
    川沿いの道を、人が通り過ぎた。
    誰も護を芋ない。
    誰も、道の隙間の氎を芋ない。
    誰も、くぅヌの䜎い声に気づかない。
    普通の朝が、すぐ暪を通っおいく。
    くぅヌが、護の巊偎で立ち止たった。
    小さな䜓が、少しだけ䜎くなる。
    護は足を止めた。
    くぅヌは川を芋おいない。
    街の方も芋おいない。
    護を芋おいる。
    その目は、い぀ものくぅヌに近かった。
    けれど、少しだけ違っおいた。
    護は息を吞った。
    くぅヌが小さく鳎いた。
    ただ、そこにいる声だった。
    右肩の奥で、黒い重さがたた脈を打った。
    今床は、はっきりず痛かった。
    「っ  」
    護は膝を぀きかけた。
    くぅヌは、護の巊偎で動かなかった。
    護は、道の隙間を芋た。
    黒い氎が、现く揺れおいた。
    现い氎の衚面に、䜕かが映った。
    濡れた犬の足のようなものだった。
    橋の圱。
    黒い氎の揺れ。
    すぐに消えた。
    護の芖界が少しだけ暗くなる。
    耳の奥で、街の音が遠ざかる。
    代わりに、別の音が近づいた。
    濡れた石を螏む音。
    犬の足音。
    䞀匹ではない。
    䜕匹も。
    その足音の䞋に、现い震えがあった。
    音になる前に、濁っお沈む。
    護は右肩を抌さえたたた、くぅヌを芋た。
    くぅヌは、護の巊偎にいた。
    小さな䜓を䜎くしおいる。
    護の右肩の奥で、黒いものが、たた䞀段深く沈んだ。
    湿った空気が、喉に入る。
    川の匂い。
    地䞋の匂い。
    犬の匂い。
    その奥に、鉄の匂いがあった。
    護は䞀瞬、自分の手を芋た。
    血は出おいない。
    けれど、その匂いは消えなかった。
    右肩の奥から䞊がっおくる。
    䜓の内偎から。
    護は反射的に手を䌞ばした。
    「くぅヌ」
    声が出た。
    くぅヌは動かない。
    護の手が、くぅヌの背䞭に届く。
    毛は枩かかった。
    その瞬間、右肩の奥で䜕かが裂けるように痛んだ。
    音はなかった。
    ただ、黒い重さだけが、さらに奥ぞ沈んだ。
    護の指は、くぅヌの毛に觊れおいた。
    枩かい。
    けれど、黒い重さは消えない。
    消えないたた、護の奥ぞ沈んでいく。
    川でもなく。
    護の䞭ぞ。
    護は息を詰めた。
    右肩から胞の奥ぞ、黒いものが萜ちおいくようだった。
    ゆっくりず。
    重く。
    護の芖界の端で、川が揺れた。
    氎音はない。
    右肩の奥で、䜕かが现く脈を打っおいた。
    氎音にはならなかった。
    くぅヌが振り返った。
    護を芋䞊げる。
    その目は、い぀ものくぅヌに近かった。
    護は䜕も蚀えなかった。
    道の隙間の黒い氎は、それ以䞊広がっおいるのか、ただ圱に玛れおいるのか、護には分からなかった。
    護の右肩が、熱を持っおいた。
    熱い。
    けれど、痛みは深く沈んでいる。
    肩の奥。
    護は、ようやくくぅヌの䜓から手を離した。
    くぅヌは動かなかった。
    黒い氎は、道の隙間ぞ沈んでいくように芋えた。
    戻ったのではなかった。
    消えたのでもなかった。
    芋えないずころぞ入り蟌んだようだった。
    川沿いの道に、人の声が戻っおくる。
    自転車が通る。
    ベンチの近くで、誰かが笑う。
    橋の䞊を車が走る。
    護は立ち䞊がろうずした。
    足に力が入らない。
    くぅヌが、護の巊偎ぞ寄った。
    小さな䜓が、膝に觊れる。
    護はその枩かさを支えにしお、ゆっくり立った。
    右肩が重い。
    倖から乗っおいる重さではない。
    䞭に沈んだ重さ。
    護は川を芋た。
    氎は流れおいる。
    氎音はない。
    川の衚面は、䜕もなかったように朝の光を映しおいる。
    けれど、護の右肩の奥では、现い濁りが沈んでいた。
    くぅヌが川から目を離した。
    そしお、護を芋た。
    護はくぅヌを芋返した。
    䜕も蚀えない。
    それでも、くぅヌはそこにいた。
    護の巊偎に。
    護は歩き出した。
    くぅヌは巊偎を歩いおいる。
    川は流れおいる。
    氎音はない。
    右肩だけが、重かった。


    第3章血ず願いの継承

    第1話「持ち垰ったもの」

    川は、すぐそばを流れおいる。
    それなのに、護はその堎から動けずにいた。
    朝は来おいる。
    空は、薄く明るくなり始めおいた。
    遠くで車の音がする。
    どこかの家の雚戞が開く音も聞こえた。
    鳥の声もある。
    けれど、その䞋にあるはずの音だけがなかった。
    氎音。
    すぐそばを流れおいるのに、聞こえない。
    護は、ゆっくり右肩に目を向けた。
    服は也いおいた。
    傷もない。
    それでも、重かった。
    肩の奥に、冷えた氎を抌し蟌たれたような重さがあった。
    底だけが、熱かった。
    護は、息を吐いた。
    足元で、くぅヌが動いた。
    い぀もなら、くぅヌは少し前を歩く。
    護より半歩先に出お、䜕床も振り返る。
    けれど今は、護の巊偎にいた。
    巊足のそばに、ぎたりず寄っおいる。
    「くぅヌ」
    呌ぶず、顔を䞊げた。
    吠えなかった。
    尻尟も振らなかった。
    ただ、護の右肩を芋た。
    護の顔でも、手でも、リヌドでもなく。
    「  垰ろうか」
    くぅヌは、ただ右肩を芋おいた。
    護が䞀歩螏み出すず、ようやく、くぅヌも歩き出した。
    リヌドは緩んでいた。
    川沿いの道を、護ずくぅヌは歩いた。
    湿った草の匂い。
    橋の䞋の、冷えた圱。
    護の足は重かった。
    䞀歩進むたびに、右肩の奥で、重さが沈む。
    ただ、底ぞ底ぞず沈んでいく。
    くぅヌの足音だけが、そばにあった。
    小さな爪が、アスファルトを叩く。
    ずん。
    ずん。
    ずん。
    い぀もの音より、少し遅い。
    橋を過ぎたずころで、護は足を止めた。
    胞元に手が觊れた。
    ネックレス。
    服の䞋で、それは静かに沈んでいた。
    黙っおいた。
    護は、指を離した。
    そのたた巊手に目を萜ずす。
    指茪があった。
    い぀も通り、そこにある。
    巊手だけが、朝の空気より冷たい。
    護は、手を握り、すぐに開いた。
    くぅヌが、小さく錻を鳎らした。
    くぅヌは、ただ巊偎にいた。
    護は歩き出した。
    道の先で、町が起き始めおいる。
    自転車が䞀台、通り過ぎた。
    誰かの家から、味噌汁の匂いがした。
    背䞭が、ただ川のそばにあった。
    護は、振り返らなかった。
    くぅヌを芋た。
    護は巊手を䌞ばし、くぅヌの頭に觊れた。
    耳の付け根。
    小さな頭。
    指の䞋で動く、確かな䜓枩。
    護は、その枩床だけを確かめた。
    くぅヌは䜓を、ほんの少し寄せた。
    護は、䜕も蚀わなかった。
    それから、たた歩いた。
    川沿いの道を離れ、家ぞ向かう现い道に入る。
    川はもう芋えない。
    朝の町は、少しず぀明るくなっおいた。
    誰かが玄関を開ける音がした。
    右肩の重さだけがあった。
    護は鍵を取り出そうずしお、手を止めた。
    巊手が、冷たかった。
    くぅヌは、玄関の前で立ち止たっおいた。
    護の巊偎に立ったたた、扉ではなく、右肩を芋おいた。
    護は鍵を握った。
    金属の冷たさが、指に残った。
    ゆっくり息を吞った。
    朝は、ただ薄かった。


    第2話「巊手の枩床」

    家に戻った時、朝はただ薄かった。
    護は玄関の扉を開けたたた、すぐには䞭ぞ入れなかった。
    い぀もの家だった。
    傘立お。
    廊䞋の奥に差し蟌む、薄い朝の光。
    扉の内偎が、少し遠かった。
    くぅヌは、護の巊偎にいた。
    家の前たで来おも、離れない。
    先に入ろうずもしない。
    ただ、護の巊足に䜓を寄せたたた、じっずしおいる。
    玄関に入るず、くぅヌは䞀床だけ顔を䞊げた。
    護は靎を脱いだ。
    右肩が、少し遅れお぀いおくるようだった。
    そこだけが氎を含んだように重い。
    くぅヌの足を拭こうずしお、護はしゃがんだ。
    タオルを手に取る。
    右手が、少し遅れた。
    護は、い぀ものように前足を取ろうずした。
    護の右手が前足に觊れる寞前で、肩の奥が熱くなった。
    右手が、止たった。
    巊手にタオルを持ち替えた。
    巊手で、くぅヌの足を拭いた。
    前足ず埌ろ足。
    くぅヌはおずなしくしおいた。
    い぀もなら少しだけ䜓をよじる。
    けれど、今はされるたたになっおいた。
    護の巊手が離れおも、くぅヌは玄関に立ったたただった。
    護はタオルを畳んだ。
    右肩の奥の熱は、ただそこにあった。
    廊䞋を進む。
    くぅヌの足音が近い。
    ずん。
    ずん。
    ずん。
    居間に入るず、郚屋はただ静かだった。
    カヌテンの隙間から、现い光が差しおいる。
    あかねの写真が、い぀もの堎所にあった。
    護は、その前で足を止めた。
    「ただいた」
    声は、小さかった。
    返事はない。
    写真の䞭のあかねは、い぀ものように笑っおいる。
    くぅヌが、護の巊足に䜓を寄せた。
    護は、ゆっくり座った。
    右肩が重い。
    奥ぞ、萜ちおいく。
    護は、くぅヌの氎皿を芋た。
    昚日の倜に替えた氎だった。
    護は立ち䞊がり、新しい氎に替えた。
    蛇口から氎が萜ちる。
    现く、透明な音だった。
    川の音ではなかった。
    護は氎皿を床に眮いた。
    「飲むか」
    くぅヌは、氎皿の前たで来た。
    錻先を近づける。
    氎の匂いを嗅ぐ。
    護は息を止めた。
    くぅヌの錻先の氎面が、ほんの少し揺れた。
    護は、無意識に右肩を巊手で抌さえた。
    くぅヌは、ようやく氎を舐めた。
    ぎちゃ。
    ぎちゃ。
    くぅヌが顔を䞊げた。
    口元に、小さな氎滎が぀いおいた。
    護は右手を䌞ばしかけた。
    肩の底が、かすかに重くなった。
    手が止たった。
    少し間を眮いお、巊手を䌞ばした。
    くぅヌの口元に觊れる。
    氎滎を拭う。
    そのたた、顎の䞋を少しだけ撫でる。
    くぅヌは目を现めた。
    護は巊手を止めなかった。
    ゆっくり、くぅヌの銖元を撫でた。
    耳の埌ろ。
    背䞭のあたたかさ。
    右肩の奥で、重さが沈んでいる。
    護は、くぅヌの䜓枩を指先で確かめた。
    「お前には  」
    声が出かけお、止たった。
    くぅヌが顔を䞊げた。
    護は銖を振った。
    護は巊手で、くぅヌを撫で続けた。
    くぅヌは、護の膝のそばに座った。
    自分の䜓を眮く堎所。
    そこから動かなかった。
    護は、写真の方を芋た。
    あかねは笑っおいる。
    くぅヌが、小さく䜓を䞞めた。
    護は、巊手をくぅヌの背䞭に眮いた。
    右肩を、ほんの少しだけ埌ろぞ匕いた。
    くぅヌだけが、顔を䞊げた。
    今床は、右肩ではなかった。
    護の顔を芋おいた。
    護は、䜕も蚀わなかった。
    ただ、巊手でくぅヌの背䞭を撫でた。
    朝の光が、少しだけ郚屋に入っおきた。
    氎音は、ただ戻らなかった。


    第3話「䞉぀の沈黙」

    氎音は、ただ戻らなかった。
    朝の光は、少しず぀郚屋の䞭ぞ入っおきおいた。
    写真立おの角が、癜く浮かび始める。
    けれど、郚屋の底だけが暗かった。
    護は、畳の䞊に座っおいた。
    くぅヌは、膝の巊偎にいる。
    自分の䜓を眮いおいる。
    眠っおはいない。
    目を现くしおいるだけだった。
    耳だけが、護の右肩ぞ向いおいる。
    護は、巊手をくぅヌの背䞭に眮いおいた。
    右手は、膝の䞊にあった。
    動かしおいない。
    右手を動かすず、右肩の奥たで動きそうだった。
    そこには、黒いものの重さが沈んでいる。
    護は息を止めた。
    くぅヌが小さく息を吐いた。
    護は、胞元に目を萜ずした。
    ネックレスが、服の䞋にあった。
    あかねが残したもの。
    䜕床も、そこに指を眮いた。
    朝の前で。
    けれど今朝は、指先が服の䞊から觊れおも、静かなたただった。
    護は、服の䞭からネックレスを出した。
    现い鎖が、朝の光を少しだけ受けた。
    揺れた。
    すぐに止たった。
    䜕も語らなかった。
    護は、指を離した。
    胞元に戻った小さな重さが、い぀もより少し深かった。
    くぅヌが、護の巊膝に錻先を寄せた。
    護は巊手で、くぅヌの頭を撫でた。
    右肩の奥の重さは、ただそこにあった。
    くぅヌは逃げなかった。
    けれど、目だけを開けた。
    護は撫でる手を止めた。
    それから、巊手を芋た。
    指茪があった。
    い぀も通り、そこにある。
    護は、巊手を握った。
    指茪が、皮膚に觊れる。
    指先だけが、ただ誰かの手を探しおいた。
    笑いながら、䜕でもないように差し出しおきた手を思い出した。
    護は、すぐに目を䌏せた。
    握っおも、そこには䜕もなかった。
    護は、巊手を開いた。
    くぅヌが、少しだけ䜓を寄せた。
    護は、たた右手を芋た。
    右手銖に、ブレスレットがあった。
    昚日たでず同じものだった。
    手銖の脈が、ほどけないように现く打っおいた。
    護は、巊手を䌞ばした。
    觊れる寞前で、護の手が止たった。
    くぅヌの耳が、少しだけ動いた。
    護は、巊手を膝に戻した。
    ブレスレットは、手銖に残ったたた動かなかった。
    護は、右手銖を袖で隠した。
    隠しおも、感觊は消えなかった。
    くぅヌが、護の膝に顎を乗せた。
    小さくお、枩かい重さだった。
    護は、巊手でくぅヌの背䞭を撫でた。
    右肩の奥では、別の重さが沈んでいる。
    護は、ほんの少し䜓をずらした。
    くぅヌから右肩を離すように。
    くぅヌは顎を䞊げた。
    今床は、右肩ではなかった。
    護の顔を芋おいた。
    護は、䜕も蚀えなかった。
    くぅヌが、静かに立った。
    護の巊偎に、い぀もの距離で。
    護は、その小さな背䞭を芋た。
    「  くぅヌ」
    呌ぶず、くぅヌは振り返った。
    い぀もの目だった。
    護は、巊手を䌞ばした。
    くぅヌの背䞭に觊れる。
    枩かかった。
    その枩かさの䞭で、護はゆっくり息を吞った。
    胞元が、少し重かった。
    巊手が、少し重かった。
    右手銖が、少し重かった。
    どれも、黙っおいる。


    第4話「鳎らないりん」

    どれも、黙っおいる。
    その沈黙の䞭で、朝だけが進んでいた。
    カヌテンの隙間から入る光が、さっきより少し倪くなっおいる。
    写真立おの䞭で、あかねは倉わらず笑っおいる。
    護は、その写真を芋おいた。
    目を離せなかった。
    くぅヌは、護の巊偎にいた。
    前ぞは行かない。
    ただ、護の巊足のそばに䜓を眮いおいる。
    護は、巊手を䞋ろした。
    くぅヌの背䞭に觊れる。
    枩かい。
    右肩の奥では、黒いものが沈んでいる。
    静かになっただけだった。
    護は、仏壇の方を芋た。
    い぀もの朝なら、りんを鳎らす。
    柄んだ音が、郚屋にひず぀萜ちる。
    その音を聞いおから、護は䞀日を始めおきた。
    けれど今朝は、手が䌞びなかった。
    護は、りんを芋おいた。
    䞞く、静かにそこにある。
    朝の光を少しだけ受けおいる。
    鳎らしおいないのに、耳の奥に、鳎らす前の静けさだけが残っおいた。
    その静けさの䞭で、くぅヌの耳が動いた。
    護は息を止めた。
    くぅヌは、仏壇を芋おいなかった。
    耳だけが、郚屋の隅ぞ向いおいた。
    朝の光が届く手前の、少し暗い堎所。
    吠えない。
    唞らない。
    ただ、耳だけが立っおいた。
    護は、くぅヌの耳の向きを远った。
    䜕も芋えない。
    空気の向きだけが、違っおいた。
    たっ。
    小さな音がした。
    護は、くぅヌを芋た。
    くぅヌは動いおいない。
    たっ。
    もう䞀床。
    くぅヌの足音ではなかった。
    護の喉が、わずかに詰たった。
    護は、声を出さなかった。
    くぅヌが、ゆっくり護を芋た。
    ただ、芋おいる。
    護は、巊手をくぅヌの背䞭に眮いたたた、もう䞀床、仏壇の方を芋た。
    そこから離れられなかった。
    護は、巊手を畳に぀き、ゆっくりたちあがった。
    仏壇の前ぞ進む。
    䞀歩。
    もう䞀歩。
    くぅヌの足音が、そばにある。
    ずん。
    ずん。
    ずん。
    その奥に、軜い音がひず぀混じった。
    護は足を止めた。
    くぅヌも止たった。
    郚屋の䞭は静かだった。
    護は、仏壇の前に座った。
    護は、りん棒に手を䌞ばしかけた。
    けれど、觊れなかった。
    写真の䞭で、あかねは笑っおいる。
    護は、巊手を䌞ばした。
    りん棒には觊れなかった。
    写真立おの前に眮いおある、小さな垃の端を敎えた。
    少しだけずれおいた花の向きを盎した。
    それだけだった。
    護は、手を合わせた。
    目を閉じる。
    暗くなる。
    その暗さの䞭で、氎音を探した。
    聞こえない。
    けれど、耳の底で、䞀床だけ、现いものが掠めた。
    氎音ではなかった。
    それよりも现く、也いおいた。
    次の瞬間には、もうなかった。
    代わりに、くぅヌの息がある。
    すぐそばで、现く、静かに続いおいる。
    護は、目を開けた。
    写真は倉わらない。
    くぅヌは護の巊偎に座っおいた。
    耳だけを前ぞ向けおいる。
    その先には、䜕もない。
    けれど、そこだけが少し遠く芋えた。
    護は、立ち䞊がった。
    くぅヌも立぀。
    護の巊偎にいる。
    護は、ゆっくり歩いた。
    郚屋の奥ぞ進む。
    䜎い棚の前で、足が止たった。
    そこには、叀い写真が眮いおあった。
    あかねず、くぅヌず、もう䞀匹。
    護は、その写真を芋た。
    小さな䜓。
    䜕も蚀わない目。
    護は、息を吞った。
    口が、少し開いた。
    声は出なかった。
    護は、写真に觊れなかった。
    ただ、芋おいた。
    くぅヌが、護の巊足に䜓を寄せた。
    護は、くぅヌを芋た。
    くぅヌは、護の顔を芋おいた。
    その目は、い぀ものくぅヌに近かった。
    護は、巊手を䌞ばした。
    くぅヌの背䞭に觊れる。
    枩かい。
    右肩の重さは、ただそこにある。
    けれど、くぅヌの枩かさも、そこにあった。
    護は、写真ぞ目を戻した。
    あかねは笑っおいる。
    小さな犬も、そこにいる。
    りんは、鳎っおいない。
    誰も、䜕も蚀わない。


    第5話「枡さない手」

    りんは、鳎らなかった。
    郚屋の䞭には、朝の光だけが増えおいた。
    あかねは写真の䞭で笑っおいる。
    くぅヌは、護の巊偎にいた。
    ほんの少し離れた堎所。
    それだけなのに、護の息は少しだけ浅くなった。
    くぅヌは、護の顔を芋おいた。
    護は、巊手をくぅヌの背䞭に眮いたたた、叀い写真を芋おいた。
    あかねず、くぅヌず、もう䞀匹。
    そこに写っおいる時間は、止たっおいる。
    護は、写真には觊れなかった。
    ただ、芋おいた。
    右肩の奥で、黒いものが沈んでいる。
    さっきより静かだった。
    護は、巊手をくぅヌの背䞭から離そうずした。
    そのずき、右肩の奥が熱を持った。
    氎が濁るような熱だった。
    護は、息を止めた。
    くぅヌの耳が動く。
    巊偎にいたくぅヌが、ゆっくり顔を䞊げた。
    護は、肩のあたりが少し冷えた気がした。
    護は、巊手に力を入れた。
    ただ、そこに眮いた手だけが、離れなかった。
    くぅヌは、そこにいた。
    逃げない。
    唞らない。
    ただ、護を芋おいる。
    その目が、肩のあたりから、護の顔ぞ移った。
    護は、右手に気づいた。
    い぀の間にか、膝の䞊で開きかけおいた。
    指先が、少し震えおいた。
    護は、その手を動かさなかった。
    護は、右手を握った。
    爪が、手のひらに食い蟌む。
    痛みがあった。
    その痛みで、護は息を吞った。
    護は、右手を胞元ぞ匕いた。
    くぅヌには、觊れなかった。
    巊手は、くぅヌの背䞭に残っおいる。
    枩かい。
    小さく、確かな䜓枩。
    護は、䜓をずらした。
    ほんの少し。
    巊手は離さなかった。
    右肩だけを、ほんの少し埌ろぞ匕いた。
    くぅヌが小さく息を吐いた。
    その息が、護の指に觊れた。
    護は、右手を握ったたた、膝の䞊に抌し぀けた。
    右肩が、重い。
    護は、息を吐いた。
    声は出なかった。
    くぅヌが、䞀歩だけ近づいた。
    巊偎から、護の巊膝に小さな䜓を寄せた。
    護の巊手の䞋にいた。
    護は、巊手でくぅヌの背䞭を撫でた。
    ゆっくり。
    背䞭のあたたかさ。
    護は、もう䞀床、右手を芋た。
    握ったたたの手。
    護は、右手を開かなかった。
    くぅヌが、護の顔を芋䞊げた。
    その目は、い぀ものくぅヌに近かった。
    護は、喉の奥で䜕かを飲み蟌んだ。
    「  枡さない」
    右肩の奥が、重く沈んだ。
    くぅヌは動かなかった。
    護の巊偎にいる。
    巊手の䞋にいる。
    護は、右手を握ったたた、巊手でくぅヌを撫でた。
    護の息は、少し乱れおいた。
    くぅヌが、錻先を護の巊手に抌し圓おた。
    小さな湿り気が、指に残った。
    護は、巊手を開いた。
    くぅヌの背䞭に、もう䞀床眮いた。
    枩かい。
    護は、目を閉じた。
    氎音を探した。
    聞こえない。
    川の音は、ただない。
    けれど、くぅヌの息があった。
    すぐ巊偎で、现く続いおいる。
    護は、その息を聞いた。
    右手は、ただ握ったたただった。
    護は、くぅヌの背䞭を撫で続けた。
    朝の光が、郚屋の奥たで届いおいた。
    氎音は、ただ戻らなかった。


    第6話「虹の橋ぞ続く境界」

    黒いものは、護の䞭に沈んでいた。
    右肩の奥に、ただある。
    護は、目を開けた。
    朝の光は、郚屋の奥たで届いおいた。
    あかねの写真。
    鳎らされなかった、りん。
    どれも、倉わっおいない。
    けれど、護の座っおいる堎所だけが、少し違っおいた。
    くぅヌは巊偎にいる。
    護の巊手の䞋に、小さな䜓を眮いおいる。
    それだけのこずだった。
    護は、巊手でくぅヌの背䞭を撫でた。
    くぅヌは目を现めおいる。
    眠っおはいない。
    耳だけが、ただ護の右肩ぞ向いおいる。
    護は右手を芋た。
    握ったたただった。
    手のひらに、爪の跡が残っおいる。
    そこに痛みがあった。
    その痛みだけが、右手をここに繋ぎずめおいた。
    護は、ゆっくり右手を開いた。
    くぅヌが顔を䞊げた。
    今床は、右肩ではなかった。
    護の顔を芋おいた。
    護は、䜕も蚀わなかった。
    巊手で、くぅヌの頭を撫でた。
    枩かい。
    護は、ゆっくり立ち䞊がった。
    くぅヌも立ち、護の巊偎に぀いた。
    護は、巊手でリヌドを取った。
    玄関ぞ向かう。
    廊䞋の光は、さっきより明るい。
    䜕も倉わっおいない家の䞭を、護はくぅヌず歩いた。
    玄関で靎を履く。
    くぅヌが護を芋た。
    護は、巊手でリヌドを持ち盎した。
    扉を開ける。
    朝の空気が入っおきた。
    倖は、明るくなっおいた。
    けれど、氎音はなかった。
    護は䞀床だけ、家の䞭を振り返った。
    鳎らされなかった静けさだけが、耳の奥に残っおいた。
    護は倖ぞ出た。
    くぅヌも出る。
    右肩が重い。
    くぅヌは巊偎を歩いおいる。
    その足音が、朝の道に萜ちる。
    ずん。
    ずん。
    ずん。
    小さな音だった。
    けれど、護はそれを聞いお歩いた。
    町は起きおいた。
    自転車のブレヌキが鳎る。
    誰かが玄関を閉める音がする。
    川の音だけがなかった。
    護は川の方ぞ歩いた。
    足はそちらぞ向いおいた。
    くぅヌは、ただそばを歩いた。
    護の巊手の䞋で、リヌドが緩く揺れおいる。
    橋が芋えおきた。
    い぀も、くぅヌが立ち止たっお川を芋䞋ろす橋。
    そこに近づくに぀れお、橋の方だけが、少し明るく芋えた。
    護は橋の手前で足を止めた。
    川は流れおいる。
    氎面は、朝の光を受けお動いおいる。
    けれど、音だけがなかった。
    ただ、耳の奥だけが、静けさに少し遅れおいた。
    護は、橋の欄干に巊手を眮いた。
    くぅヌは座った。
    護の足に、䜓を寄せる。
    護は川を芋た。
    氎は流れおいる。
    流れおいるのに、黙っおいる。
    右肩の奥で、黒いものが沈む。
    沈んだたた、消えない。
    くぅヌは、護の巊偎で川の方を向いおいた。
    護は、もう䞀床、川ぞ目を戻した。
    氎音はない。
    護は、小さく息を吐いた。
    くぅヌは、巊偎にいた。
    橋の䞋は、暗いたただった。
    氎音は、ただ戻らなかった。


    第4章虹の架け橋

    第1話「现い光」

    護は、くぅヌず䞊んで立った。
    橋の䞊だった。
    朝の光は、もう町の端たで届いおいた。
    道の向こうで車が䞀台、ゆっくりず角を曲がっおいく。遠くで自転車のブレヌキが鳎り、誰かが玄関を開ける音がした。
    い぀もの朝だった。
    けれど、川だけが違っおいた。
    川は、そこにある。氎も流れおいる。光も、氎面に萜ちおいる。
    それなのに、氎音がなかった。
    護は、欄干の向こうを芋䞋ろしおいた。
    くぅヌは、巊偎にいる。前ぞ出ない。埌ろぞ䞋がらない。
    ただ、護の足の暪に立ち、同じ堎所を芋おいた。
    右肩の奥に、黒いものがある。
    熱くはない。暎れおもいない。けれど、消えおはいない。
    護の呌吞を、少しだけ遅くする。
    護は、右手を動かさなかった。
    巊手を、ゆっくり䞋ろした。
    くぅヌの背に觊れる。
    くぅヌの䜓は、枩かかった。小さく息をしおいる。その息が、護の手に届いおいた。
    「  くぅヌ」
    名前を呌んでも、くぅヌは振り向かなかった。
    耳だけが動いた。
    護の目も、ただそこから離れなかった。
    橋の䞋に、光があった。
    氎面の光ずは、少し違っお芋えた。
    朝日が反射しただけにも芋えなかった。
    圱の底に、现く残っおいるものだった。
    糞のように现い。
    石ず石のあいだ、氎の流れから少し倖れた堎所。
    濡れた暗がりの奥に、それはあった。
    色が、なかった。
    それでも、暗がりには溶けなかった。
    護は、息を止めおいた。
    䜕かを考えようずしお、止たった。
    くぅヌの耳が、ほんの少しだけ動いた。
    護は、巊手でリヌドをゆっくり握り盎した。
    右手は動かなかった。
    銖元のネックレスが、肌に觊れおいた。
    指茪も、ブレスレットも、静かなたただった。
    護は、川を芋たたただった。
    颚が、橋の䞊を通った。
    護の髪を揺らし、くぅヌの耳の毛を揺らした。
    川面が動いた。波王ではなかった。光が、现く乱れただけだった。
    護は、欄干に近づいた。
    くぅヌも巊偎に䞊んだ。
    近づいおも、光は匷くならない。芋぀めおも、圢にならない。
    護は、橋の暪にある階段ぞ目を向けた。
    川蟺ぞ降りるための叀い階段。くぅヌずの散歩でも、䜕床も降りた。
    護は動かなかった。
    ただ、降りなかった。
    足元のアスファルトに、朝の光が薄く広がっおいる。
    町は、少しず぀目を芚たしおいた。その䞋で、川だけが黙っおいた。
    護は、巊手をくぅヌの背に眮いたたた、もう䞀床だけ息を吞った。
    氎の匂いがした。くぅヌの䜓が、ほんの少しだけ護の足に寄った。
    橋の䞋の光は、ただ现いたただった。


    第2話「橋の䞋ぞ」

    橋の䞋の光は、ただ现いたただった。
    護は、動けずにいた。
    朝は、少しず぀明るくなっおいる。橋の䞊にも、道にも、家の壁にも、光が届いおいる。
    けれど、橋の䞋だけは違っおいた。
    くぅヌが、橋の䞋を芋おいた。
    小さな背䞭。少しだけ立った耳。動かない尻尟。
    護は、巊手でリヌドを握っおいた。
    右手は、ただ動かさない。
    右肩の奥に、黒いものがある。消えおいない。朝の光を济びおも、薄くならない。颚が通っおも、冷めない。
    ただ、深いずころにある。
    護は、ゆっくり息を吐いた。
    リヌドは緩んでいた。
    くぅヌは急がせなかった。
    護は、橋の䞋を芋た。
    そのたた、自分の足を出した。
    䞀歩。
    アスファルトの感觊が、靎の裏に残った。
    もう䞀歩。
    橋の暪にある階段は、叀かった。端に苔が残っおいる。コンクリヌトの角は、ずころどころ䞞く削れおいた。
    䜕床も降りたこずがある。
    くぅヌず歩いた。
    あかねがいた頃にも。
    けれど、その日は、同じ階段には芋えなかった。
    護は、最初の段に足をかけた。
    その瞬間、町の音が少し遠くなった。車の音も、自転車の音も、聞こえおいる。けれど、䞀枚だけ薄い垃を挟んだように、遠かった。
    くぅヌは巊偎にいる。
    護の足の動きに合わせお、䞀段降りおいた。
    護は、巊手に力を入れた。
    リヌドが、そこで止たった。
    くぅヌも止たった。
    護は、階段を降りた。
    䞀段。
    たた䞀段。
    橋の圱が、少しず぀近づいおくる。
    川の匂いが濃くなった。湿った石の匂い。草の匂い。
    けれど、氎音はしなかった。
    護は、足を止めた。耳を柄たせる。聞こえない。
    颚が、橋の䞋を抜けおいった。コンクリヌトの裏を撫でるように通り、川蟺の草を揺らした。くぅヌの耳の毛も、小さく揺れた。
    それでも、氎は黙っおいた。
    護は、くぅヌを芋た。
    くぅヌは、川を芋おいなかった。橋の䞋を芋おいた。
    階段の最埌の段に、護の足が觊れた。
    地面は、少し湿っおいた。朝の冷たさが、靎の裏から䞊がっおくる。
    橋の䞋は、思っおいたより暗かった。けれど、真っ暗ではない。䞊から萜ちる朝の光が、橋脚の端にかかっおいる。氎面にも、薄く癜い線が走っおいる。
    その奥に、现い光があった。
    近くなっおいるはずなのに、近づいた感じがしない。距離がうたく枬れなかった。
    護は、足を前に出そうずしお、止めた。くぅヌも止たった。リヌドは緩んでいる。
    銖元のネックレスは、冷たかった。指茪も、ブレスレットも、肌に觊れおいるだけだった。
    護は、橋の裏を芋䞊げた。
    灰色のコンクリヌト。叀い染み。雚の跡。い぀もの橋だった。
    けれど、橋の䞋に立぀ず、町の朝が少しだけ䞊にあった。
    護は、橋の䞊を振り返った。さっきたで立っおいた堎所が芋えた。欄干の向こうに、朝の光が乗っおいる。遠くはない。戻ろうず思えば、すぐ戻れる。
    それなのに、足は動かなかった。
    くぅヌが、護の巊足に䜓を寄せた。小さな枩かさが、膝の䞋に觊れる。
    護は、巊手を䞋ろした。くぅヌの背に觊れる。
    連れおいくのではない。
    眮いおいくのでもない。
    巊偎にいる小さな䜓ず、同じ方を芋る。
    それだけだった。
    蚀葉は出なかった。
    川蟺の草が、かすかに揺れた。
    くぅヌが、錻を鳎らした。小さな音だった。
    護は、もう䞀歩だけ進んだ。
    足元の石が、わずかに沈む。湿った土が、靎の瞁に぀いた。
    護は、息を吞った。
    氎の匂い。草の匂い。冷えた橋の匂い。
    くぅヌの耳が、ぎくりず動いた。
    それだけだった。
    右肩の奥が、少し重くなった。護は、右手を握らなかった。巊手で、くぅヌに觊れおいた。
    くぅヌの䜓が、護の足に寄ったたただった。
    護は、くぅヌず䞊んで、橋の䞋に立っおいた。


    第3話「戻らない氎音」

    護は、くぅヌず䞊んで、橋の䞋に立っおいた。
    町の朝は、頭の䞊にあった。
    橋の䞊を、車が通った。
    䜎い音が、コンクリヌトを䌝っお萜ちおくる。
    遠くで、人の声もした。
    自転車のベルも、小さく鳎った。
    けれど、足元の氎だけが鳎らなかった。
    護は、川を芋た。
    氎は、流れおいる。
    现く揺れおいる。
    光も、その䞊に萜ちおいる。
    それなのに、音がない。
    流れおいるものが、流れおいないように芋えた。
    くぅヌは、巊偎にいた。
    護の足に䜓を寄せたたた、動かなかった。
    護は、巊手を䞋ろした。
    くぅヌの背に觊れる。
    枩かい。
    右肩の奥には、黒いものがある。
    重さの向きが、倉わっおいた。
    沈むのではない。
    奥で、少し前ぞ寄っおいる。
    護は、右手を動かさなかった。
    巊手で、くぅヌに觊れたたた、川蟺ぞ䞀歩近づいた。
    足元の石が、かすかに動く。
    湿った土が、靎の裏に残る。
    い぀もの川蟺だった。
    䜕床も歩いた。
    䜕床も、くぅヌが匂いを嗅いだ。
    あかねず話しながら通った。
    そこにあったはずの音がないだけで、堎所の茪郭が少しず぀薄くなっおいた。
    護は、耳を柄たせた。
    氎の音だけが、抜けおいる。
    橋の䞊を歩く人の足音がした。
    その人は、立ち止たらなかった。
    氎音がない川の䞊を、い぀も通りに枡っおいった。
    くぅヌが、小さく錻を鳎らした。
    護は、くぅヌを芋た。
    「  垰るか」
    声に出しおから、護は動かなかった。
    垰れば、家がある。
    仏壇も、あかねの写真もある。
    けれど、足は動かなかった。
    くぅヌも動かなかった。
    リヌドは緩んでいる。
    匕いおいない。
    匕かれおもいない。
    ただ、二人の間に垂れおいる。
    護は、巊手に力を入れた。
    くぅヌの背の毛が、指の䞋で少し沈んだ。
    くぅヌだけを連れお垰る。
    それは、できる。
    けれど、川は黙ったたただった。
    護は、橋の䞋の现い光を芋た。
    光は、ただ现い。
    匷くもならない。
    圢にもならない。
    ただ、濡れた石の奥に残っおいる。
    護は、目を離せなかった。
    護は、息を吞った。
    氎の匂いがする。
    草の匂いがする。
    けれど、音がない。
    右肩の奥が、少し重くなった。
    護は、右肩をかばうように、少しだけ䜓を傟けた。
    くぅヌが、巊偎から錻先を護の手に抌し぀けた。
    護は、巊手でくぅヌに觊れた。
    声は出なかった。
    橋の䞊で、たた車が通った。
    音が萜ちおくる。
    川だけが、鳎らない。
    くぅヌの耳が、ぎくりず動いた。
    護は、橋の䞋を芋た。
    现い光は、さっきず同じ堎所にあった。
    氎音のない橋の䞋で、ただ现く残っおいた。
    護は、足を動かさなかった。
    くぅヌも動かない。
    氎は流れおいる。
    護は、もう䞀床耳を柄たせた。
    氎音だけが、聞こえなかった。


    第4話「虹の気配」

    氎音は戻らなかった。
    護は、くぅヌず䞊んでいた。
    橋の䞋だった。
    頭の䞊では、町の朝が動いおいる。
    車の音。
    人の声。
    遠くのベル。
    けれど、足元の氎だけは黙っおいた。
    護は、巊手でくぅヌに觊れおいた。
    くぅヌは動かない。
    護の巊偎にいる。
    䜓を寄せたたた、そこにいた。
    光は、さっきず同じ堎所にあった。
    濡れた石の奥。
    氎の流れから少し倖れた暗がり。
    现いたただった。
    匷くならない。
    護は、目を離せなかった。
    右肩の奥に、黒いものがある。
    重さの底だけが、静かに沈んでいた。
    護は、右手を動かさなかった。
    くぅヌが、小さく錻を鳎らした。
    護は、くぅヌを芋た。
    くぅヌは、動かなかった。
    護の巊偎で、䜓を寄せおいる。
    護は、息を吞った。
    氎の匂いがする。
    草の匂いがする。
    その奥に、別の匂いがあった。
    花でも土でも煙でもない。
    けれど、知らない匂いではなかった。
    胞の奥にだけ、薄く残る。
    くぅヌの耳が動いた。
    護は、光を芋た。
    现い光の端に、䜕かが滲んでいた。
    色に芋えた。
    そう蚀い切るには、薄すぎる。
    けれど、癜ではなかった。
    圱の䞭に、ほんの少しだけ、色になる前のものが残っおいた。
    護は、息を止めた。
    光のたわりだけが、かすかに震えおいるように芋えた。
    音ではない。
    颚でもない。
    ただ、空気の薄い揺れだった。
    くぅヌは、䞀歩も動かなかった。
    護は、巊手に力を入れた。
    くぅヌの背の毛が、指の䞋で少し沈む。
    「  くぅヌ」
    声は、小さかった。
    くぅヌは振り向かなかった。
    けれど、䜓を護の足に寄せた。
    護は、もう䞀床、现い光を芋た。
    色は、すぐには消えなかった。
    けれど、広がりもしない。
    ただ、现い光の瞁に、薄く残っおいる。
    護は、そこぞ足を出そうずしお、止めた。
    くぅヌも動かない。
    リヌドは、二人の間で緩んでいる。
    氎は、すぐ暪を流れおいた。
    けれど、鳎らない。
    右肩の重さは、ただそこにあった。
    護は、口を閉じた。
    橋の䞋を、颚が抜けた。
    草が揺れた。
    くぅヌの耳の毛が揺れた。
    護の服の裟も、少しだけ揺れた。
    それは、ただ圢にならなかった。
    くぅヌは、護の巊偎にいた。
    光の端には、薄いものが残っおいた。


    第5話「虹の架け橋」

    護は、くぅヌず䞊んで、现い光を芋おいた。
    橋の䞋だった。
    氎は流れおいる。
    けれど、氎音は、ただ戻らなかった。
    町の朝は、頭の䞊にある。
    車の音も、人の声も、遠くのベルも聞こえおいる。
    それなのに、足元の氎だけが黙っおいた。
    现い光の瞁に、色が残っおいた。
    薄く。
    ほどけるように。
    ただ、圢にはならない。
    護は、巊手でくぅヌに觊れおいた。
    くぅヌは、護の巊偎にいる。
    動かない。
    ただ、護の足に䜓を寄せおいた。
    右肩の奥には、黒いものが沈んでいた。
    重さは、もう肩だけのものではなかった。
    足の裏たで、届いおいた。
    護は、右手を動かさなかった。
    護は、息を吞った。
    氎の匂い。
    草の匂い。
    その奥に、あの匂いが、薄く残っおいた。
    くぅヌの耳が、わずかに動いた。
    護は、くぅヌを芋た。
    くぅヌの䜓が、護の足に寄っおいる。
    枩かい。
    现い光が、少し揺れた。
    そこにあった薄いものが、少しだけ濃く芋えた。
    癜ではなかった。
    濡れた石の奥で、薄い色が、わずかに曲がっお芋えた。
    護は、目を现めた。
    けれど、そこたでだった。
    くぅヌが、小さく錻を鳎らした。
    その音だけが、橋の䞋で聞こえた。
    護は、巊手に力を入れた。
    くぅヌの背の毛が、指の䞋で少し沈む。
    くぅヌは離れなかった。
    護の巊偎にいた。
    现い光の瞁が、もう少しだけ濃くなった。
    色は、橋の䞋に薄く滲んでいた。
    護は、足元を芋た。
    湿った土。
    小さな石。
    川蟺の草。
    䜕床も歩いた堎所。
    あかねず話しながら通った堎所。
    その同じ堎所の奥に、違う光があった。
    護は、足を止めたたた、それを芋おいた。
    くぅヌも動かない。
    リヌドは、二人の間で緩んでいる。
    现い光は、橋の䞋の暗がりに沿っおいた。
    氎面には觊れおいない。
    石にも觊れおいない。
    けれど、そこに残っおいるように芋えた。
    護の目には、䜕かの瞁に芋えた。
    そう蚀っおしたえば、厩れそうなほど现い。
    氎音のない川の暪に、现い色の瞁があった。
    護は、息を止めた。
    右肩の重さは、ただそこにあった。
    護は、川を芋た。
    流れおいる。
    芋えおいる。
    けれど、鳎らない。
    護は、巊手でくぅヌに觊れた。
    くぅヌの錻先が、護の手のひらに觊れた。
    護は、现い光を芋た。
    完成しおいない。
    向こう偎も芋えない。
    どこぞ続くのかも分からない。
    それでも、橋の䞋にあった。
    くぅヌの耳が、たた動いた。
    護は、现い光を芋た。
    護は、巊足を少しだけ前に出した。
    湿った土が、靎の裏で沈む。
    现い光は消えなかった。
    くぅヌも、䞀歩だけ進んだ。
    護より先には出ない。
    巊偎を離れない。
    護は、右手を䜿わなかった。
    巊手でリヌドを握り、くぅヌの背に觊れおいた。
    现い光の手前たで、護ずくぅヌは進んだ。
    護は、手前で止たった。
    くぅヌも止たった。
    リヌドは緩んでいる。
    二人の足元に、朝の光は届いおいない。
    それでも、现い光の瞁だけが薄く明るかった。


    終章「氎音の向こう」

    现い虹の瞁だけが、橋の䞋に残っおいた。
    護ずくぅヌは、その手前に立っおいた。
    氎は流れおいる。
    けれど、氎音は、ただ戻らなかった。
    橋の䞊では、町の朝が続いおいる。
    車の音。
    人の声。
    遠くのベル。
    どれも、聞こえおいる。
    けれど、その䞋で、川だけが黙っおいた。
    護は、巊手でくぅヌに觊れおいた。
    くぅヌは、護の巊偎にいる。
    前ぞ出ない。
    埌ろぞも䞋がらない。
    ただ、護の足に䜓を寄せおいた。
    右肩の奥には、黒いものが沈んでいる。
    深く。
    重いたた。
    けれど、護は、目を䌏せなかった。
    護は、右手を動かさなかった。
    銖元のネックレスは、冷たいたただった。
    指茪も、ブレスレットも、肌に觊れおいるだけだった。
    现い虹の瞁は、ただ消えなかった。
    现いたた。
    架かりきらないたた。
    橋の䞋の暗がりに、薄く残っおいる。
    護は、息を吞った。
    氎の匂いがした。
    草の匂いがした。
    その奥に、あの匂いが、薄く残っおいた。
    くぅヌの耳が動いた。
    護は、巊手に力を入れた。
    くぅヌの背の毛が、指の䞋で少し沈む。
    枩かい。
    虹は動かない。
    くぅヌが、護の足に䜓を寄せた。
    護は、现い虹を芋た。
    向こう偎は芋えない。
    どこぞ続くのかも分からない。
    分からないたた、そこにある。
    橋の䞋に。
    氎音のない川のそばに。
    護は、巊足を半歩だけ前ぞ出した。
    湿った土が、靎の裏で沈む。
    くぅヌも、少しだけ前ぞ出た。
    護より先には出ない。
    巊偎を離れない。
    リヌドは緩んでいる。
    现い虹の瞁は、二人の足元の少し先にあった。
    足元の冷たさだけが、少し違っおいた。
    右肩の重さは、ただそこにあった。
    護は、川を芋た。
    流れおいる。
    芋えおいる。
    けれど、鳎らない。
    護は、もう䞀床、虹を芋た。
    现い。
    それでも、消えおいない。
    架かりきっおはいない。
    けれど、途切れおもいない。
    くぅヌが、小さく錻を鳎らした。
    橋の䞋で、その音だけが聞こえた。
    護は、息を吐いた。
    蚀葉にはならなかった。
    くぅヌは離れなかった。
    護の巊偎にいた。
    现い虹の瞁は、ただ少し先にあった。
    護は、巊手でくぅヌの枩かさを確かめた。
    それから、现い虹の向こうを芋た。
    䜕も芋えなかった。
    護ずくぅヌは、䞊んだたた、虹の瞁の手前に立っおいた。
    氎は流れおいる。
    氎音は、ただ戻らなかった。
    その向こうに、现い光だけが残っおいた。

    #創䜜倧賞2026  
    #ファンタゞヌ小説郚門


     
     
    倕方の川に立぀ず、少しだけ䞖界の違和感を感じるこずがありたす。 20幎以䞊、小さな店を続けながら盞棒の犬ず暮らしおいたす。 か぀お倧切な人を芋送ったあずも、その気配は今も日垞に残っおいたす。 その感芚をたどるように、「氎守の狗神」を曞いおいたす。

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