
ソファーの人は、書いている。#6|この店で書く理由
第6話|この店で書く理由
書く場所なんて、どこでもいいのだと思っていた。
家でも。
喫茶店でも。
図書館でも。
静かで、明るくて、椅子と机があれば、たぶんそれで足りる。
少なくとも、パチスロ屋のソファーじゃなくてもいいはずだった。
でも、あの人は書く日になると、だいたいここにいる。
黒い手帳。
黒い万年筆。
その二つを鞄から出す手つきは、もう何度も見た。
見るたびに思う。
なんでここなんだろう。
この店は、静かじゃない。
明るすぎるし、うるさすぎる。
落ち着いて書くには、いちばん向いてなさそうな場所だった。
その日、あの人は打っていなかった。
ソファーに座って、手帳を開いていた。
万年筆の先だけが、小さく光って見える。
今日は書く日だな、と思う。
それがもう、前よりずっと早くわかるようになってしまっているのが、少し嫌だった。
その日は、店の空気も少しだけ鈍かった。
そういう日の店は、妙に疲れる。
なのに、あの人は、そういう日に限ってよく書いている気がした。
ただの気のせいかもしれない。
でも、気のせいで済ませるには、
もう少し見すぎていた。
カウンター前を通るついでに、
ソファーのほうを見た。
あの人は、書いていた。
手元だけが静かで、
周りだけがうるさい。
その切り分け方が、
いつ見ても変だった。
近くの台が当たって、
派手な音が鳴る。
無線で補充が飛ぶ。
玉箱の擦れる音がする。
それでも、あの人の手だけは同じ速さで動いていた。
なんか、腹が立った。
こんなところで書けるなら、どこでも書けるやろ、と思う。
思うのに、書けないからここなんだろうな、とも思う。
その両方が浮かんで、どっちも嫌だった。
しばらくして、テーブルを拭くふりをしながら近くを通った。
ほんとに、拭くところはあった。
でも、選ばなくていい場所を選んでいた気もする。
気づかれないように、気づかれても困らない顔をしながら近づく。
その時、あの人が顔を上げた。
「今日は書く日なんですね」
口から出てから、自分で少し驚いた。
そんな聞き方をするつもりじゃなかった。
あの人は、少しだけ目を細めた。
「見分けつくようになった?」
言い方が、ちょっとだけ面白くない。
「なんとなくです」
「こわ」
そう言って、少しだけ笑う。
こわいのはどっちだよ、と思う。
人の中に入ってきてるのは、たぶんそっちだ。
でも、そういうことは言わない。
テーブルの端を指で軽く押さえながら、わたしはそのまま立っていた。
用事は、もうない。
ないのに、まだそこにいる。
あの人は手帳を閉じなかった。
でも、書く手も止めたままだった。
「なんでここで書くんですか」
今度は、自分でもちゃんと聞こうと思って聞いた。
家でも、喫茶店でも、もっと静かな場所でもよさそうなのに。
そういう意味を、たぶん全部含んだ聞き方だった。
あの人は、すぐには答えなかった。
万年筆を指のあいだで一度だけ回して、
それからソファーの背に軽くもたれた。
「静かすぎると、逆に書けんことあるやろ」
「そういうもんですか」
「そういうもんの時もある」
その返し方が、ずるい。
答えたようで、半分しか答えていない。
でも、その半分のほうが少し残る。
「ここだと、外れがちゃんと外れの顔するし」
その一言で、少しだけ意味が変わった。
「当たりは当たりでうるさいし。
誰が機嫌よくて、誰が沈んでて、誰が帰ろうとしてるか、わりとすぐわかるやろ」
そこまで言って、
あの人は一度だけ店のほうを見た。
見るというより、聞くに近かった。
液晶の音。
無線。
人の歩く速さ。
メダルの流れる音。
そういうもの全部を、まとめて一回受け取るみたいに。
「ここ、人の顔がちゃんと変わるんよ」
それは、少しだけわかる気がした。
この店にいると、顔はすぐ変わる。
当たれば明るくなるし、飲まれれば口数が減る。
帰る前の顔は少し疲れているし、勝った人は、勝った人の持ち方で景品カードを持つ。
わたしたちは毎日それを見ている。
見ているはずなのに、そうやって言葉にされると、急に別の場所みたいに感じる。
「じゃあ、取材みたいなもんですか」
そう聞いたら、あの人は少しだけ笑った。
「そんな立派なもんじゃない」
「でも見てるんですよね」
「見てるね」
その認め方が、妙に素直だった。
素直すぎて、少し困る。
「じゃあ、わたしたちも見られてるってことですか」
言ってから、少しだけ遅かったと思った。
“わたしたち”なんて言い方で濁したけど、聞きたいことは別だった。
わたしも、入ってるのか。
そこを聞いてしまったに近い。
あの人は、すぐには答えなかった。
その沈黙が長く感じた。
店の奥で誰かが当たって、
音が一段高くなる。
無線で呼び出しが入る。
わたしの耳はそっちへ向かうのに、体だけはまだここにいる。
「そりゃ、入るやろ」
その答え方が、なんか少しだけ乱暴だった。
でも、乱暴なくせに、逃がしてくれない感じもあった。
「毎日あんだけ声聞いてたら」
そう言って、あの人は万年筆をテーブルに置いた。
「毎日?」
思わず聞き返す。
「ああ」
それだけだった。
それだけなのに、少しだけ息が止まる。
わたしは無線を持ち直した。
意味もなく、持ち直した。
「仕事戻ります」
言わなくてもいいことを言って、その場を離れようとする。
そうでもしないと、そのまま立ち尽くしそうだった。
「ああ」
あの人は、
それ以上引き止めなかった。
引き止めないくせに、
こっちだけ変なままで残す。
ずるいなと思う。
通路に戻って、呼び出しに返事をして、補充をして、景品を渡して、いつも通りに動く。
でも、いつも通りの顔が少しだけ難しかった。
毎日あんだけ声聞いてたら。
その一言だけが、やけに残る。
書く理由を聞いたはずなのに、最後に残ったのはそこだった。
店の光でも、外れの顔でもなく、自分の声のほうだった。
それが、妙に面倒だった。
上がり際、もう一度だけソファーのほうを見た。
あの人はまだ書いていた。
テーブルの上に、黒い手帳。
黒い万年筆。
周りは相変わらずうるさい。
誰かが出して、誰かが飲まれて、
誰かが帰る。
その全部の中で、
あの人だけが静かだった。
でも、静かに見えてるだけで、ほんとはいちばん聞いてるのかもしれないと思った。
この店で書く理由は、結局ぜんぶはわからなかった。
でも、最後に残ったのは別だった。
その一言のほうが、よっぽど困る。
理由の中に、自分まで少し入っていた気がしてしまうからだ。
そういうふうに、勝手に意味を足すのはよくない。
よくないのに、もう止まらない。
打つ日。
書く日。
着物の日。
セッターが同じ日。
そして、毎日あんだけ声を聞いている日。
そういうのが、少しずつ積もっていく。
気のせいで済ませれば、それまでの話だ。
でも、気のせいで済ませるには、
たぶんもう少しだけ遅かった。
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