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ソファーの人は、書いている。#10|名前のあと

    終章|名前のあと


    名前を知ったからといって、急に何かが変わるわけじゃない。


    次の日、
    店はいつも通りうるさかった。
    液晶は光るし、無線は飛ぶし、補充も呼び出しも景品交換も、昨日までと同じように回っている。

    わたしも、いつも通りエプロンをつけて、島を歩いた。
    カウンターの中の位置も、声の出し方も、昨日までと同じだった。

    同じだったはずなのに、
    ひとつだけ違った。

    名前を知ってしまった。

    それだけのことが、
    思っていたより厄介だった。

    朝から何回か、勝手口のほうを見た。
    見たところで、来ているかどうかはまだわからない。
    でも、
    来るかもしれない、とは思っていた。
    そのくらいの期待は、もう止められなかった。

    昼を少し過ぎたころ、
    その人は入ってきた。

    来た、と思った。

    昨日までは、それで終わりだった。
    来た。
    いた。
    ソファーに座る。
    台へ行く。
    喫煙所へ向かう。
    そういう断片で見ていた。

    でも今日は、その人が店に入ってきた瞬間、頭の中で先に名前が動いた。

    声より先に、
    顔より先に、
    癖みたいに。

    それが、少しだけ困った。

    その人はいつも通りの顔をしていた。
    少しだけ気の抜けた歩き方で、店の空気をひとつ吸って、それから島のほうを見た。

    何も変わっていないように見える。

    見えるのに、
    こっちだけが変わっている。

    名前を知ってしまったせいで、
    その人の輪郭が前より少しだけ内側へ入ってくる。

    今までみたいに「あの人」で曖昧に置いておけない。
    それが、妙に落ち着かなかった。

    その日は打つ日だった。

    いつもの荒い台。
    でも、
    座るまでに少しだけ島を見ていた。
    その“少しだけ”まで、
    前より気づいてしまう。

    気づかなくていいのに、と思う。
    名前を知ったくらいで、観察の解像度まで上がるのは、だいぶよくない。

    紙カップの補充をしながら、
    カウンター越しに、
    一度だけ目が合った。

    合った、というほどでもない。
    向こうがたぶん、こっちを見た。
    そのくらいの一瞬だ。

    でも、そのあと少しして、その人はわずかに顎を引いた。

    あれはたぶん、会釈だった。

    今までは、あんなの見落としていたかもしれない。
    見落としていたか、ただの偶然で済ませていた。

    今日は、済ませられなかった。

    午後、景品交換が一段落したころ、その人がカウンターに来た。

    飲み物だった。
    コーヒーと、タバコ。
    それだけ。

    「これ、お願いしていい?」

    いつも通りの声。
    静かで、少しだけ力が抜けていて、
    でもちゃんと届く声。

    名前を知る前と、同じ声だ。

    同じなのに、少し違って聞こえる。

    カウンター越しにコーヒーとタバコを出しながら、こっちはいつも通りの顔をしていたつもりだった。
    つもりだったけど、
    たぶん少しだけ遅かった。

    その人が、
    コーヒーを受け取りながら言った。

    「今日、忙しい?」

    それだけだった。

    ほんとに、
    それだけだったのに、少し間が空く。

    「そこそこです」

    無難すぎる返事が出た。
    自分で出して、自分でちょっと嫌になる。

    そこそこって何、と思う。
    もっと他に言い方あるやろ、と遅れて思う。
    でも、
    遅れた時にはもうその人はコーヒーを持っていた。

    「そっか」

    その人は少しだけ笑った。

    そこで、ふと気づく。

    昨日までなら、
    この人が笑った、で終わっていた。
    今日は、その笑い方が
    “名前のある人の笑い方”になっている。

    そんなの、たいした違いじゃない。
    ほんとはそうだ。
    でも、
    こっちにとっては、そのたいしたことなさが前よりよっぽど面倒だった。

    タバコを渡す時、
    指先が少しだけ触れた。

    偶然だ。
    たぶん、ただの偶然。

    そのくらいの触れ方で何かになるなら、こっちはとっくにもっと駄目になっている。

    なのに、
    そのあとしばらく、カウンターの前に残った熱だけが妙に気になった。

    名前を知ったからだと思う。

    知らない人の指先は、
    たぶんそこまで残らない。
    でも、
    知ってしまったあとの指先は、
    少しだけ違う。

    そういうふうに、自分の中で勝手に意味を足していくのが、もうかなりよくなかった。

    夕方、喫煙所のベンチが空いていた。

    昨日までなら、そこにいないことばかり気になっていた。
    今日は違った。

    そこに、その人が座った時の形を思い出してしまう。

    左端に少し寄って。
    片足を少し投げ出して。
    煙を吐く時だけ、目線が遠くなる。

    そういう細かいことまで、
    名前と一緒に残っている。

    ベンチは空いているのに、
    空いて見えない。

    そこがまた、面倒だった。

    上がりが近づくころ、
    その人はまたカウンターに来た。

    今度は景品カードだった。
    勝ったのか負けたのか、相変わらずよくわからない顔をしている。
    でも、今日は少しだけ機嫌がいいようにも見えた。

    向こうがカードを差し出す。
    こっちが受け取る。
    端末を通す。
    景品を確認する。

    いつもの流れ。
    その中の、ほんの一瞬だった。

    「なあ」

    その声で、
    手が少しだけ止まりそうになった。

    顔を上げる。

    「はい」

    いつも通り返したつもりだった。
    たぶん、少しだけ硬かった。

    その人は、こっちを見たまま言った。

    「店の中では、まだあの人なん?」

    息が止まる、というのは、ああいうのを言うんだと思った。

    何も言えなかった。
    言えるわけがなかった。

    だってその通りだった。

    名前を知っても、
    店の中ではまだ呼べない。

    呼んだら、一気に何かが変わってしまいそうで。
    変わってほしいのか、
    変わってほしくないのか、
    そのへんもまだちゃんとわからないまま。

    その沈黙を、その人は少しだけ面白がったみたいだった。

    「別に、無理に呼ばんでもいいけど」

    「……呼びにくいんで」

    やっと出たのが、それだった。

    何を今さら、と思う。
    昨日、自分で名前くらい教えてよと言ったくせに。

    でも、その人は笑わなかった。
    笑わずに、少しだけ頷いた。

    「まあ、わかる」

    その“わかる”が、
    妙にやさしくて困る。

    カウンターの上に景品カードを揃えながら、こっちはどうでもいいことを考えるふりをした。

    景品カードの向きとか。
    枚数とか。
    そういうどうでもいいことに逃げないと、顔が少しだけおかしくなりそうだった。

    「でも」

    その人が言う。

    また顔を上げる。

    「店の外なら、呼んでええよ」

    その言い方が、ずるいと思った。

    許すみたいに言う。
    でも、そのくせちゃんと境界は引く。
    店の中では駄目で、
    店の外ならいい、みたいな言い方をされると、急にその線の形ばかりが見えてくる。

    「なんですか、それ」

    やっとそれだけ言うと、その人は今度こそ少しだけ笑った。

    「そのままやけど」

    そう言って、景品を受け取る。
    それで終わりだった。

    終わりなのに、
    そのあとのほうがずっと長かった。

    店の中では呼べない。
    店の外なら呼んでいい。

    その条件だけが、変に残る。

    名前を知っただけで十分だったのに、呼び方にまで場所ができると、もう前みたいには放っておけなくなる。

    でも、不思議と嫌じゃなかった。

    たぶんそこで、いちばん揺れてしまう。

    上がりの時間になって、
    エプロンを外す。
    ロッカーを閉める。
    勝手口へ向かう。

    ドアを開けると、夜の空気は少しだけやわらかかった。

    ベンチに、その人がいた。

    座っているのを見た瞬間、
    頭の中で先に名前が動く。

    そのあとで、顔を見る。
    その順番が、
    もう元には戻らない気がした。

    向こうはこっちに気づくと、
    煙をひとつ吐いた。

    何も言わない。
    でも、
    空いているほうを少しだけ指で叩く。

    その左手には、やっぱり何もなかった。
    最初に見つけた空白が、
    今は、名前を置ける場所みたいに見えた。


    昨日と似ている。
    でも、少し違う。

    あの時は、名前を聞いた。
    今日は、もう知っている。

    知っているのに、
    呼ぶのはまだ少しだけ難しい。

    ベンチの前で一瞬だけ立ち止まる。
    その一瞬を、
    その人はたぶん見ていた。

    「……何」

    先にそう言われて、少しだけ腹が立つ。

    ほんとは、わかっているくせに。

    でも、
    その腹立ちがあるぶん、少しだけ言いやすくもなった。

    夜の空気をひとつ吸って、
    それから呼ぶ。

    名前を。

    ちゃんと呼んだつもりだった。

    でもその瞬間、
    ドアの向こうで無線が割れて、
    最後まで届いたかどうかはわからなかった。

    残ったのは、最初の音だけだった。

    「あ」

    たったそれだけのことなのに、
    喉のあたりが少し熱かった。

    その人は、一瞬だけ目を細めた。
    それから、少し遅れて笑った。

    その遅れだけが、あとに残った。
    でも、もう遅かった。

    名前を知る前と、知ったあとで変わるのは、相手じゃない。
    こっちの呼び方だ。

    声のあとに名前が残る。
    その名前を、口にしてしまう。
    それだけで、
    今まで見ていた距離の形まで少し変わる。

    ベンチの端に座る。
    隣じゃなくて、少しだけ間をあけて。
    その間が、たぶん今のちょうどいい長さだった。

    もう少し近くてもよかった気がしたけど、今日はまだそこまでしか行けなかった。

    煙が夜のほうへ上がっていく。
    店の中の音は、ドアの向こうで少し遠い。

    誰の顔も変わらない場所で、
    名前だけが少し近かった。


    少し前までは、ただの声だった。
    今は、その声のあとに、ちゃんと名前が残る。

    それで、
    前より少しだけ戻れなくなった。

    たぶん、少しだけ。

    わたしだけじゃなければ、いいのに。

    そんなことを思った自分が、
    いちばん面倒だった。

     
     
     
    掌縁堂|伏線点火文学。 猫と日常の端っこ。書いているのは、勝った人でも負けた人でもない。まだ終わっていないふりをしている人間の話です。 きなこ様&わらび王の猫エッセイ、ショートショート。 元放送部脚本担当。 TALESおすすめ5選へ選出。 ▶︎カクヨム始めようか検討中です。

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